2023/4/1, Sat.

 紀元前二九〇〇年頃の第一エジプト王朝期に由来する一巻のパピルスの巻物が残されているが、保存状態が非常に悪いため今日まで開かれぬまま、その中にどんなメッセージが含まれているのか私たちは知ることができない。私は時々こんなふうに未来を想像してみる。今日のデータ記憶装置、奇妙なアルミの箱を前にして、後の世代の人々は途方に暮れて立ち尽くす。その内容はプラットフォームやプログラム言語、データフォーマット、再生装置の急速な世代交代のために単なる無意味なコードと化しており、しかも物体としては、インカの結縄 [キープ] の雄弁かつ沈黙した結び目や、もはや戦勝の碑なのかそれとも哀悼の碑なのか知る由もない謎めいた古代エジプトオベリスクと比べて、明らかに発散するオーラが少ない。
 永遠に保たれるものはないにせよ、他のものより長く存続するものはある。教会や寺院は宮殿より長持ちするし、文字の文化は複雑な記号体系を持たない文化よりも持続する。かつてホラズムの学者(end23)ビールーニーは、文字のことを時間と場所を通じて繁殖するものと呼んだが、文字とはそもそも初めから遺伝と並行して、および血縁とは無関係に情報を伝える体系であった。
 人は書くこと、読むことによって祖先を訪ね、従来の生物学的な遺伝に対して第二の、精神的な遺伝系統を対置することができる。
 もじ人類それ自体を、時おり提案されるように、世界を保存 [アーカイブ] し、宇宙の意識を保存する神の器官として理解しようとするなら、これまでに書かれ印刷された無数の書物は――当然ながら神自身およびその多数の流出 [エマナチオン] によって書かれた本を除いて――この無益な務めを履行し、すべての物の無限性をその身体の有限性の中に止揚しようとする試みとして現れる。
 あるいは私の想像力の乏しさによるのかもしれないが、私には依然として本こそあらゆるメディアの中でもっとも完璧なメディアのように思われる。ここ何世紀か使われてきた紙は、パピルスや羊皮紙や石や陶器と石英ほど長持ちするわけでもないし、もっとも多く印刷され、もっとも多くの言語に翻訳された書物である聖書ですら、完全な形で私たちのもとに届けられてはいないのであるが。それは後の何世代かの人間に受け継がれる機会を高める複製芸術 [マルティプル] であり、執筆され印刷されて以降の過去の時間の痕跡が一緒に書き込まれた、開かれたタイムカプセルである。そのタイムカプセルの中では、あるテクストのどの版も、それぞれ廃墟と似通っていなくもないユートピア的空間であることが明らかになる。そのユートピアにおいて死者たちは雄弁に語り、過去は甦り、文字は真実となり、時間は止揚される。もしかすると本は、一見身体を持たず、本からの遺産を要求し、あふれるほど膨大な量の情報を提供する新しいメディアに比べて多くの点で劣る、言葉の本来の意味で保守的なメディアであるかもしれない。だが、このメディアは文章、挿絵、造本が完全に溶け合い一体となった、まさにその身体の完結性ゆえに、他のいかなるメディアもなし得ないように、世界に秩序を与え、時には世界の代わりにさえなるものである。さまざまな宗教による死すべきものと不死のもの――すなわち身(end24)体と魂――への観念的な分割は、喪失を乗り越えるための、もっとも慰めになる方策の一つであるかもしれない。しかしながら運び手と内容の不可分性は私にとって、本を書くだけでなく、造本もしたいと考える理由である。
 すべての本と同じように、本書もまた、何ものかを生き延びさせたい、過ぎ去ったものを甦らせ、忘れられたものを呼び覚まし、言葉を失くしたものに語らせ、なおざりにされたものを追悼したいという願いによって原動力を得ている。書くことで取り戻せるものは何もないが、すべてを体験可能にすることはできる。かくしてこの本は探すことと見つけること、失うことと得ることの双方を等しく取り上げ、存在と不在の違いは、記憶があるかぎり、もしかすると周縁的なものかもしれないということを予感させる。
 そして長年に及ぶ本書の執筆の間の、わずかな貴重な瞬間、消滅は不可避であるという考えと、書棚で埃にまみれてゆくこの本のイメージが私の目の前に浮かんだ。それはどちらも慰めであるように私には思われた。
 (ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、23~25; 「緒言」結び)



  • 一年前から。

この日は朝八時二〇分ごろに家を出て、帰宅したのが午後八時というわけで、一二時間をまるごとそとですごした。あいだに昼休憩はあり、移動の時間もあるから一二時間をすべてはたらいていたわけではないが、そんなに家のそとにいたのはひさしぶりのことである。これがいちにちだけで翌日は休みだったから耐えられるが、世にはまいにちこのような、朝早くに起きて飯を食ったり食わなかったりして家を発ち、夜まではたらいて帰ってくれば飯を食ってちょっと休んでもう寝て、よくじつまたおなじようないちにちをこなすという生活を生きているひともおおくいるのだろうから、この世界とこの社会はまったくとんでもないばしょだ。こちらはそのような生活をぜったいにやっていけない。精神を病んで自殺したりからだをこわしたりする自信がある。ところがそういうことに耐えられるというのがなぜだかわからないがいっぱしのにんげんの証明のようにおもわれて、そのことに誇りをいだいたり、その誇りを根拠としてそこに参入できない他人をみくだしたり糾弾したりするような風潮が、むかしにくらべればその拘束力はよほど弱まっただろうとしても、まだまだねづよくはびこっているのだから、そんな世で生きたくないといのちを儚むにんげんがおおく生じたとしてもまったくふしぎではない。たしかにしかたのないことではある。金をかせがなければ生きていけないという現実はあり、それを拒否するならば物質的な面での幸福はあまりみこまれないし、いろいろななにかを犠牲にしたり、だれかにおおきくたよったりして生きていかざるをえなくなる。資本主義の世でなければまたべつのしかたのない現実があるだろうし、あっただろう。だが、いずれにしてもそれらはたんなる現実や事実的な状態いじょうのものではなく、ぜったいてきな法ではない。現実がたんに現実であるということを法に転化してはならない。この社会がこの社会であるということにはもちろんなんらかの原因があり、ある程度までの必然性ももしかしたらあるかもしれないが、そこに理由はありはしない。

  • この土曜日は(……)くん・(……)くんとの読書会で通話した日。課題書は『フォークナー短編集』。ほんとうは(……)で会う予定だったが、せんじつ電車内で発作を来たしていらいからだもなんとなく不安定で、無事に行って帰って来られる自信がなかったので、オンラインにしてもらった。前回会ったさいに帰りが満員電車でけっこうやばかったということもはなすと、次回はふたりが(……)まで来てくれることに。かなり遠くなるとおもうのでそれもわるいが。ばしょは(……)のルノアールの予定。いぜんわれわれが毎度つどっていた(……)側のルノアールはもはやビルごとなくなってしまい、いま跡地がどうなっているのか通っていないからわからないがこれも諸行無常。(……)まで来てもらうのはわるいはわるいが、書店は充実しているので終わったあとに次回の本を決めるのにも都合が良いは良い。こちらとしてもあるいて行き帰りできるから運動にもなるし。次回の課題書は、オンラインにしてくれないかというメールを送ったさいの返信で(……)くんが大江健三郎が亡くなったところだし読んでみたいということで『万延元年のフットボール』を提案しており、こちらも(……)くんも異存はないので通話をするまえからそれに決まっていた。日にちは変わる可能性もあるがひとまず六月三日土曜日と設定。それで通話だがそんなにおもいだせないしこまかく書く気力も湧かないし、またこちらが言ったことはいつもながらのはなしばかりでじぶんとして目新しさもないのでほぼ割愛しようかとおもう。おおきな話題としてひとつあったのは、(……)くんが(……)さんといっしょにさきほどドラえもんの映画を見てきたということで、かれは(……)は(……)駅のちかくに住んでおりあるいて行ける距離に映画館があるらしい。タイトルはいま検索してみると『映画ドラえもん のび太と空の理想郷 [ユートピア] 』というもので、(……)くんは『ドラえもん』ファンと言ってよいのだろうか、シリーズの映画を子どものときからいままでほぼすべて見てきているというのだが、そのなかでもこんかいはトップクラスによい作品だったという評価を述べた。おとなでも楽しめると。大河ドラマの脚本をつとめたひとが脚本を担当したという。すじはいつものメンバーが大空のどこだかにある理想郷的国に行くというわけでラピュタやんという感じだが、そこは一見ユートピア的な良い国で、ひとびともみんな道徳的に非の打ち所のないいいやつみたいな感じなのだけれど、じつはそれが洗脳装置みたいなもので人為的に「完璧」な人格にされているというまあ典型的なディストピアものと言えばそうだろう。ドラえもんメンバーも洗脳の影響を受けておのおのいいやつになっていくのだがのび太ひとりはその洗脳がうまく行かず、ジャイアンが理不尽な暴力をふるわなくなりスネ夫が嫌味を言わなくなるのに違和感をおぼえ、こんなかれらはかれらじゃないとなじめずにいて、まあなんやかんやあって国の真実があきらかになり支配者的なやつらとたたかうというわけだろうが、のび太だけ洗脳がうまくいかないというのはやっぱりそうなんだと、さすが落ちこぼれだなと笑った。テーマはおおきく言えば画一性と多様性の対立および全体主義批判ということになるはずで、時代をいかにも反映していると言ってよいのだろうし、つくるがわもとうぜんそれをかんがえたとおもうが、よくよくかんがえると意匠としてはわりと典型的なもののはずで、そういう典型的な設定や筋立てがアクチュアルなものとしてきわだつような世の中に時代や社会のほうがなってしまっていると言うほうが正確な気もする。思想的なメッセージはわかりやすく子どもでも楽しみながら理解できるようになっているけれど、それでいて押しつけがましくなっていない、イデオロギー色がそんなに前面に出てくる感じでもなく良いバランスだというのが(……)くんの評言だった。藤子・F・不二雄はもう亡くなっており、藤子不二雄Aもさくねん亡くなったが、『ドラえもん』の映画はむかしからけっこう社会派的というか、シリアスなテーマをあつかうことがいくらかあるらしく、とくに藤子・F・不二雄のほうだかが環境問題にたいする関心がつよかったようで、ノアの方舟みたいなタイトルの映画は全世界が水没してしまいかねない危機があつかわれているといい、九二年くらいの映画だといっていたとおもうのだがそれだけ聞くと地球温暖化や気候変動を先取りしているようにも聞こえる。
  • 通話は二時から七時か八時くらいまでだったとおもうが、さいごのほうではかなり疲労したというか、まえにもあったれいの喉や背中が詰まって胸の奥が閉ざされる感覚が生じていて、すこし難儀だった。
  • 通話いぜん、正午くらいにはそとをあるいていた。きのうづけの記事に書いたとおりいちにちいちどは外出してたしょうあるくようにしたいなというわけで、また図書館で借りている本を返さなければならないという事情もあったので(返却期限は前日だった)、(……)にある出張ブックポストまで返しに行こうと。それであるいたはいいがこの日はほとんど燦々とした晴天で、陽射しも厚く、あるいていてもかなり暑くて、熱中症までは行かないとしてもとちゅうでけっこうくらくら来るときがあってたいへんだった。やっぱり血の巡りがわるいのだろう。じぶんではそうおもっていなかったが、低血圧なのかもしれない。帰ってくるとちょっと休んでからシャワーを浴びて通話というながれだった。