2023/4/13, Thu.

 長い間女同士の行為は女と男の間の性行為を模倣している場合にのみセックスと見なされ、処罰の対象となりえた。性行為を特徴づけるのは男根 [ファルス] とされ、男根のないところにあるのは何らかの記号によって強調されることのないただの空白、見えない点、隙間、女性の生殖器と同じく埋めるべき穴にすぎなかった。
 この空白につけられた息の長い表題が「トリバーデ」である。これは西暦一世紀から十九世紀までの男性によって書かれた書物に徘徊する、男の役割を演ずる女の幻影で、異様に巨大化したクリトリスもしくは男根に似た補助具の助けを借りて他の女たちと交情した。私たちが知るかぎり、自らトリバーデと名乗った女性はいまだかつていない。

 私たちは知っている、言葉や記号の意味は変化するものだということを。長い間、並んで記された三つの点(…)は失われたもの、未知のものを指したが、いつしか口に出されなかったこと、言葉にしえないことをも表すようになり、削られたもの、省略されたものだけでなく、未決定のものをも示すようになった。こうして三つの点は、暗示されたことを最後まで考え、欠けているものを想像するよう促す記号となった。それは言葉にしえないことや黙殺されたこと、不快なことや卑猥なこと、有罪とされることや推測的なこと、そして省略の特別な一変種として、本源的な事柄を置き換える代替物である。

 また私たちは知っている、古代において省略を表す記号はアステリスクであったことを――その小(end131)さな星の印(*)が、文中のある箇所をそれに関連する欄外の注と結びつける役割を担うようになったのは中世のことである。セヴィリアのイシドールスは七世紀に著された『語源あるいは起源』の中で書いている。「星――印刷記号としての――は何かを省略した場合にその箇所に挿入される。この記号により、不在の物は明るく照らし出される」 今日この星は時として、一つの名詞になるべく多くの人とその性的アイデンティティを含ませるために使われる。省略から包含が、不在から存在が生じ、空白から豊かな意味が生まれる。

 そして私たちは知っている、「レスビアーズィン」すなわち「レスボス島の女たちのようにする」という動詞が、古代において「だれかを辱める」とか「堕落させる」ことを意味する語、レスボス島の女性たちが発明したと考えられていたフェラチオという性技を表す語であったことを。ロッテルダムエラスムスはまだその古代の格言集において、このギリシャ語をラテン語のフェラーレ、すなわち「吸う」と訳し、このようなコメントとともにこの項目を締めくくっている。「概念はまだ存在するが、こうした風習は私が思うにすでに根絶された」

 そのほんの少し後の十六世紀末、ブラントームはポルノ的小説『艶婦伝』の中で述べている。「この業 [わざ] に関してレスボスのサッフォーは良い教師であったと言われる。それを発明したのはサッフォーだという説さえある。以後レスボスの女性 [レスビアン] たちは熱心に彼女を見習い、今日までそれを実践している」 その後、空白は地理的な故郷に加えて、言語的な故郷をも持つことになった。もっともアムール・レスビアンという語は近代にいたるまで、年下の男性に対する女性の叶わぬ恋を表すものであったのだが。

 (ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、131~132; 「サッフォーの恋愛歌」)



  • 一年前からニュース。

(……)新聞一面からウクライナの報を追う。マリウポリ市長がAP通信とのインタビューで、市民の犠牲は二万人いじょうかと述べたという。通りでは遺体が絨毯のようになっているといい、ロシア軍は移動式の火葬設備で遺体を焼いているらしく、民間人殺害を隠蔽しようとしているとかんがえられると。プーチンは極東のほうで演説し、「特殊軍事作戦」の目的はウクライナ東部のロシア系住民の保護だという従来からの主張をあらためて述べ、軍事介入はやむをえない措置だったと正当化した。ちょうどテレビでもニュースでそのようすがうつされたが、欧米にそそのかされたウクライナ民族主義勢力との衝突はおそかれはやかれ起こっていたことである、欧米はロシア国民が危機のときに一致団結するつよさを理解していない、いくつかの分野では困難が生じるだろうが、われわれは乗り越え、やりとげることができる、みたいなことを言っていた。ベラルーシアレクサンドル・ルカシェンコも同行しており、欧米の制裁にかんして協議したもよう。あと、ブチャの市民虐殺についても、シリア内戦でも化学兵器がもちいられたといわれながらのちほど真実ではないと判明した、それとおなじ「フェイク」だと、「フェイク」という語を吐き出すようにつよく発音しながら述べていた。未確認ではあるものの、マリウポリでは化学兵器がつかわれたという報告もあるらしい。アゾフ海に面する製鉄所にウクライナ軍と「アゾフ大隊」という武装組織三〇〇〇人ほどがあつまっているらしく、そこが事実上最後の拠点とみなされているらしいのだが(ロシア国防省はここから市外に脱出しようとしたウクライナ軍の「残党」五〇人を殺害したと発表している)、そのアゾフ大隊のなかに化学兵器をもちいられたと被害を訴えるひとが三人くらいいるようす。テレビでも証言者がはなす映像がながれていた。しかし米国のジョン・カービー報道官やメディアはあくまで未確認の情報だと慎重な姿勢でいる。とはいえ親露派武装組織の長はマリウポリを攻略するのに化学部隊の導入を選択肢としてあげていたらしいから、つかっていてもおかしくはない(こんかいの件にかんしては、われわれはまったく化学兵器を使用していないと否定しているが)。

(……)新聞の二面をみるとロシアはマリウポリ攻略にこだわっているという記事があり、うえにもふれた「アゾフ大隊」というのは二〇一四年のクリミア侵攻を機につくられた民族主義団体らしく、ロシアはウクライナ民族主義者らをネオナチと言って同国の「非ナチ化」を主張しているから、アゾフ大隊が本拠地としているマリウポリを征服して組織を壊滅させればおおいに名目が立つわけだ。また、プーチンは五月九日の対独戦勝記念日に勝利宣言をすることをもくろんでいるとかんがえられており、要衝マリウポリをとればおおきな戦果として国内向けにアピールもできると。

  • 瞑想。

(……)風呂のなかでは瞑想じみて停まる。さいしょ窓を開けていたがそのうちに閉めると、換気扇のおとのひびきかたがかなり変わった。どこから落ちるしずくだったのか、そしてなにに落ちていたのか確認しなかったが、いっとき何個かつづいた滴音がしだいにたかさを変化させ、やや音楽的に、はっきりとした音程をもったことがあった。瞑想とはいまここの瞬間を観察しつづけそれに集中するおこないであると、たぶんだいたいどの流派であってもそういっているとおもう。それはもちろんただしいのだが、すわってじっとうごかずにいると、「いまここ」に集中していたはずがいつのまにかその「いまここ」をわすれてべつの、どこともいつともつかない「いまここ」にいる、ということがけっこうおこりうる。端的に、じぶんがいま瞑想をしている、じっとうごかずにいるということそのものをわすれて、ちょっと経ってからそのことに気づき、あ、いま瞑想してたのか、とおもいだす、ということがさいきんはある。ねむかったりして意識があまりさだかでないと夢未満のイメージ連鎖にまきこまれて現在をうしなうということがいぜんはよくあったが、それともまたちがい、意識はずっと明晰なのだ。それでいて目をあければそこにひろがっているはずの空間、そして目を閉じているあいだもきこえつづけているはずの聴覚的刺激をわすれていることがある。

  • 往路。

 (……)きょうはジャケットを着るとあつすぎることが目に見えていたので、ベストすがたでいくことに。今年はじめてである。荷物をととのえてうえにいき、出るまえに下着や寝間着類をたたんでソファの背に置いておいた。たたんでいるあいだ、暑さで室内の空気がちょっと息苦しいとすらかんじたが、空に薄雲がなじんでいるのでひかりを減退された西の太陽の熱が余計にこもり気味だったのかもしれない。
 三時一〇分ごろ出発。そとに出れば大気にうごきのないときがなく、風は無限の舞踏と化して、こずえはふるえのつらなりとしてただおとを生む。道脇にみえる一段したの土地の、水路に接したみじかい斜面にあれはハナダイコンかあかるいむらさきの花が群れて揺れ、坂道にはいれば同様にみぎがわにひらいた空間のさきでひとつしたのみちに立った木から、かわいたみどりの葉がおもしろいようにはがれこぼれている。暑かった。坂の終盤から木がなくなって陽射しを受け取る余地がひらくが、きょうは雲にけずられて日なたのいろもかげも淡いのに、粘りをわずかはらんだような、冬の陽にないあの熱が肌に寄ってきた。杉の木の脇を街道につづくみちで、風が厚くふくらんでまえから身をつらぬきすぎていくと、ワイシャツと肌着のしたの脇腹や胸がすずしさに濡れる。五分あるいただけで汗をかく陽気だった。
 きょうも道路工事はつづいているので街道と裏の交差部でとまり、交通整理員にとめられている車がなくなるまでしばらく待ってから北へわたった。整理員の服装をあらためてみると薄い黄緑色のジャンパーを着込んで手首のほうまでしっかりおおわれており、きょうの陽気ではだいぶ暑そうだし、夏場などあれではたおれるものも出るだろう、ヘルメットや蛍光テープを貼ったベストはまだしも、あのジャンパーはやめさせてやればいいのにとおもった。
 街道沿いの歩道を東へ。裏に折れて自転車に乗った小学生ふたりとすれちがいながら再度折れ、路地にはいって二軒目の庭にある桃紫のモクレンはもう仕舞いだが、きょうはそのおなじ家だったかどうか、ハナミズキが咲きだしていた。まんなかにみどりの豆を乗せたピンクの、ほとんど秋の紅葉のような、紅鮭のような赤の気配をわずかはらんだ花たちが、すきまをもうけず接し合って宙を埋め、極細のかたい棒の先端にとりつけられた模型の蝶のような無数のかたちがまとめて微風にふるえている。みち沿いの家々や線路のむこうにたかまっている丘はあらためてみればけむるような若緑が冬を越えた常緑の間におおく湧いてまだらもよう、ぜんたいとしてあかるくあざやかさを増していた。風はめぐる。ある箇所でのぞいた線路むこうにひとつは日に焼けた本のページのような黄褐色を葉にふくんだ立ち木がさらさらと揺れ、もうひとつには葱色の濃いみどりの葉叢に白いものをいくつものせた木があって、ヤマボウシかとおもったがうたがわしいし、花なのかどうか眼鏡がなければよくもわからない。
 (……)にあたるてまえの一軒にはサツマイモの皮をあかるく照らせたような、紅芋タルトのあれにちかいいろの花木が入り口にあり、郵便をうけとったかなにかで出ていた老人がその脇に立って背をみせており、服のうえにあるかなしかひかりとかげの交錯がうまれ、気のせいのごとくゆらいでいた。坂をわたってちょっとすすむと脇の駐車スペースに巨木がいっぽん立っていて、きのこ雲じみてもくもくとふくらむような常緑のこずえはとおるとしばしばひびきを降らせているが、このときも風におとを吐きつつ虫の産卵のように葉っぱをつぎつぎ大量に捨て、黄色く褪せた落ち葉があたりの地面に溜まったさまの、時ならずいくらか時季おくれの感があった。

  • 「読みかえし2」より。

Jess DiPierro Obert in Port-au-Prince, “‘Women’s bodies weaponized’: Haiti gangs use rape in spiraling violence”(2022/11/14, Mon.)(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/14/haiti-gangs-violence-women-rape(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/14/haiti-gangs-violence-women-rape))

1351

It was love at first sight for Madeline, who first met Baptiste at a church retreat in Haiti’s southern port town of Aux Cayes in 2002. As infatuated teenagers, they eventually wed and settled in the Caribbean country’s capital, Port-au-Prince.

With a growing family and unsteady work selling sodas and food staples, the couple could only afford to rent in Cité Soleil, a seaside shantytown where armed groups have turned streets into battlegrounds.

The gang violence became so intense in July that Madeline and Baptiste sent their six children away to a shelter for safety. Days later, the pair awoke in the middle of the night to find the neighbourhood in flames.

Grabbing what belongings they could, they fled towards Carrefour Lanmò, or the “Crossroads of Death” – an intersection frequented by armed groups. They made it through, Madeline recalled, but an armed gang stopped them afterwards and dragged them on to a side street.

Baptiste was pushed to the ground and beaten before a tyre was thrown around his neck and he was set on fire. His last words were: “Can’t you see that we are poor?”

Madeline was raped by more than a dozen gang members. After they were done, she was told to run, forcing her to abandon Baptiste’s body.

     *

Haitian women and children are not just being caught up in the country’s spiralling gang wars – they are increasingly being targeted for rapes, torture, kidnappings and killings by the 200 armed groups that now control 60% of the capital.

Their plight has been compounded by a lack of safe shelters or refuge. More than 96,000 people have been displaced by the gang violence, but neither the Haitian government nor the international community has mandated formal displacement sites – which have been set up during previous bouts of instability or disasters.

Dozens of women and girls have been raped at some of the 33 makeshift displacement camps, according to the Haiti-based Bureau des Avocats Internationaux (BAI), a legal group trying to assist some of the women who have been attacked.

     *

Armed groups have proliferated since the assassination of President Jovenel Moïse in July 2021, and despite the rampant violence, a political solution has yet to materialise. Haiti’s de facto leader, Ariel Henry, has called for foreign troops to intervene, but nearly 100 civil society groups want a “Haitian-led solution” and oppose a foreign intervention.

     *

With more than 60% of the population unemployed and nearly 77% living on less than $2 (£1.7) a day, much of the youth turn to gangs as a means of survival.

     *

Some of the alleged abuse was at the hands of local aid workers or government officials, according to Joseph, who said neither UN agencies nor the Haitian government were taking action to address the problem.

     *

Some victims and humanitarian workers said that some gang leaders use their authority to take the virginity of any young girl in their territory.

“Women’s bodies are weaponised,” said Rosy Auguste Ducena, programmes manager at the National Human Rights Network (RNDDH). “It’s a symptom of the trivialisation of rape.”

Rape was originally used as a weapon of control before Haiti gained independence in 1804, largely by colonial powers that enslaved the population and pillaged the land.

Since then, it was only recognised in Haiti as a crime after 2005, and although Moïse was set to adopt a raft of new measures that would have given women more protections – including the legalisation of abortion – no new changes can be adopted until elections.



George Monbiot, “Do we really care more about Van Gogh’s sunflowers than real ones?”(2022/10/19, Wed.)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/oct/19/van-gogh-sunflowers-just-stop-oil-tactics(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/oct/19/van-gogh-sunflowers-just-stop-oil-tactics))

1357

Writing for the Mail on Sunday, the home secretary, Suella Braverman, claimed: “There is widespread agreement that we need to protect our environment, but democracies reach decisions in a civilised manner.” Oh yes? So what are the democratic means of contesting the government’s decision to award more than 100 new licences to drill for oil and gas in the North Sea? Who gave the energy secretary, Jacob Rees-Mogg, a democratic mandate to break the government’s legal commitments under the Climate Change Act by instructing his officials to extract “every cubic inch of gas”?

Who voted for the investment zones that the prime minister, Liz Truss, has decreed, which will rip down planning laws and trash protected landscapes? Or any of the major policies she has sought to impose on us, after being elected by 81,000 Conservative members – 0.12% of the UK population? By what means is the “widespread agreement” about the need for environmental protection translated into action? What is “civilised” about placing the profits of fossil fuel companies above the survival of life on Earth?

In 2018, Theresa May’s government oversaw the erection of a statue of Millicent Fawcett in Parliament Square, which holds a banner saying “Courage calls to courage everywhere”, because a century is a safe distance from which to celebrate radical action. Since then, the Conservatives have introduced viciously repressive laws to stifle the voice of courage. Between the Police, Crime, Sentencing and Courts Act that the former home secretary Priti Patel rushed through parliament, and the public order bill over which Cruella Braverman presides, the government is carefully criminalising every effective means of protest in England and Wales, leaving us with nothing but authorised processions conducted in near silence and letters to our MPs, which are universally ignored by both media and legislators.

The public order bill is the kind of legislation you might expect to see in Russia, Iran or Egypt. Illegal protest is defined by the bill as acts causing “serious disruption to two or more individuals, or to an organisation”. Given that the Police Act redefined “serious disruption” to include noise, this means, in effect, all meaningful protest.

For locking or glueing yourself to another protester, or to the railings or any other object, you can be sentenced to 51 weeks in prison – in other words, twice the maximum sentence for common assault. Sitting in the road, or obstructing fracking machinery, pipelines and other oil and gas infrastructure, airports or printing presses (Rupert says thanks) can get you a year. For digging a tunnel as part of a protest, you can be sent down for three years.

Even more sinister are the “serious disruption prevention orders” in the bill. Anyone who has taken part in a protest in England or Wales in the previous five years, whether or not they have been convicted of an offence, can be served with a two-year order forbidding them from attending further protests. Like prisoners on probation, they may be required to report to “a particular person at a particular place at ... particular times on particular days”, “to remain at a particular place for particular periods” and to submit to wearing an electronic tag. They may not associate “with particular persons”, enter “particular areas” or use the internet to encourage other people to protest. If you break these terms, you face up to 51 weeks in prison. So much for “civilised” and “democratic”.



1358

  ものがなしい十一月

 ものがなしい十一月だった
 日ごとに空は暗くなり
 風が木の葉をもぎとっていた
 そのころ ぼくはドイツへ向って旅立った

 国境へ着いたとき ぼくは 胸が
 いちだんと激しく高鳴るのをおぼえた
 そればかりか おそらく目から涙が
 落ちかかっていたにちがいない

 そして ドイツ語を耳にしたとき
 ぼくは妙な気がした(end59)
 心臓がほんとうに気持ちよく
 血を流すとしか思えなかった

 ちいさな琴弾きの娘がうたっていた
 心をこめてうたっていた
 だが調子はずれの声で それでも
 娘の演奏に ぼくはとても感動した

 娘はうたった 恋と恋の悩みを
 献身と そして再会を
 苦しみがすべてなくなる
 あの天上のよりよい世界での

 娘はうたった この世の涙の谷を
 たちまち消え去るよろこびを
 魂が栄光をうけ
 永遠の歓喜に酔う彼岸を(end60)

 娘はうたった 古いあきらめの歌を
 あの天国の子守唄を
 民衆という大きな赤ん坊が泣きだすと
 眠りこませるあの歌を

 その節をぼくは知っている その文句をぼくは知っている
 作者の諸君もぼくは知っている
 そうだ かれらはこっそり酒を飲み
 おおっぴらには水を説教したのだ

 あたらしい歌 もっとすてきな歌を
 おお友よ ぼくはきみたちにつくってやろう
 ぼくらはこの地上でかならず
 天国をつくり出そう

 ぼくらは地上で幸福になろう
 もう飢えて悩むのをやめよう(end61)
 働き者の手が獲得したものを
 怠け者の腹に飽食させてはならない

 この下界には すべての人の子のために
 十分なパンができるのだ
 ばらもミルテも美も快楽も
 甘豌豆 [えんどう] もそのとおりだ

 そうだ 莢がはじけたとたんに
 甘豌豆は万人のものだ
 天国なんぞは
 天使や雀にまかせておこう

 死んでからぼくらに翼がはえるなら
 天上できみたちを訪ねよう
 そしてぼくらは ぼくらはいっしょに
 ありがたいタートやお菓子を食べよう(end62)

 あたらしい歌 もっとすてきな歌
 それは笛やヴァイオリンのようにひびく
 贖罪歌 [ミゼレーレ] はおわり
 弔鐘は沈黙する

 処女オイローパは婚約する
 うつくしい自由の守護神と
 ふたりは抱きあってよこたわり
 はじめての接吻に酔う

 そこには坊主の祝福こそなけれ
 結婚が成立したことに変りはない
 花嫁 花婿 それから
 ふたりの未来の子供たち万歳

 結婚の寿歌 [ほぎうた] がぼくの歌だ
 もっとすてきな歌 あたらしい歌(end63)
 ぼくの心に
 最高の神聖な星があらわれる

 感激の星 その星の群れが燃えさかり
 炎の川となってながれ散る
 いま ぼくは驚くほど強くなった気がする
 ぼくは樫をへし折ることができそうだ

 ドイツの土地を踏んでから
 ぼくの全身に 魔の汁液が流れる
 巨人はふたたび母にふれたのだ
 そしてあたらしく力がわき出した

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、59~64; 「ものがなしい十一月」(Im traurigen Monat November......); 『ドイツ 冬物語』)



1359

  娘が天国のよろこびを

 娘が天国のよろこびを
 声をふるわせて歌い 弾いているあいだに
 ぼくのトランクは
 プロシャの税関吏どもにしらべられた

 何から何までかぎまわし
 シャツやズボンやハンカチまでいじりまわし
 やつらはレースや宝石をさがした
 それから発禁の本を

 馬鹿者め トランクのなかをさがすなんて
 そんなところに何も見つかりはしないぞ
 ぼくが旅に持って出た密輸品は
 頭のなかにしまってある(end65)

 そこにはレース [シュピッツェ] もしまってある
 ブリュッセルやメッヘルンのものより上等だ
 ぼくの諷刺 [シュピッツ] の荷を解こうものなら
 おまえらを突き刺し こきおろすだろう

 頭にぼくは宝石類をもっている
 未来の王位のダイヤモンドを
 あたらしい神の 偉大な未知の神の
 神殿の宝物を

 それに 本をたくさん頭のなかにもってきている
 おまえたちに はっきり言おう
 ぼくの頭は没収されたいろんな本の
 さえずりさわぐ鳥の巣だ(end66)

 そうだ サタンの文庫にも
 これより悪い本はありえない
 ホフマン・フォン・ファラースレーベンの
 本より危険な本ばかりだ

 ひとりの旅客がぼくのそばに立っていた
 ぼくに言った プロシャの関税同盟が
 偉大な税関の鎖が
 いま ぼくの目のまえにある と

 「関税同盟は」と その男は言った
 「わがドイツ国民の基礎となるでしょう
 それは四分五裂の祖国を
 むすびつけて一つにするでしょう

 それはそとの統一をわれわれに与えます
 いわゆる ものの統一を(end67)
 精神上の統一は検閲が与えてくれます
 真に思想上の統一は

 それは内の統一をわれわれに与えます
 思想や精神の統一を
 外も内も統一した
 統一ドイツがわれわれに必要です」

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、65~68; 「娘が天国のよろこびを」(Während die Kleine von Himmelslust......); 『ドイツ 冬物語』)



1360

  この岩の上に

 この岩の上にわれらは建てよう
 あたらしい教会を
 第三のあたらしい聖書の教会を
 悩みはもう済んだ

 われらを長いあいだ惑わしていた
 霊肉二元は亡 [ほろ] んだ
 おろかしい肉体の苛責は
 ついに終ってしまった

 聞えないのか 暗い海の神の声が
 無数の声で神は話しかける(end101)
 見えないのか われらの頭上の
 無数にかがやく神の光が

 聖なる神 神は光の中にもいる
 闇の中にもいる
 存在するすべてが神だ
 神はわれらの接吻の中にもいる

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、101~102; 「この岩の上に」(Auf diesem Felsen......); 『新詩集』)

  • この日はこもって、いや通話後にスーパーに出たんだったか? わすれたが、九時から(……)さんと通話して、そのためにほんのすこしだけだがUlyssesも訳した。通話にはひさしぶりに(……)くんもちょっと顔を出して短話。

 A cloud began to cover the sun slowly, wholly, shadowing the bay in deeper green. It lay beneath him, a bowl of bitter waters. Fergus’ song: I sang it alone in the house, holding down the long dark chords. Her door was open: she wanted to hear my music. Silent with awe and pity I went to her bedside. She was crying in her wretched bed. For those words, Stephen: love’s bitter mystery.
 Where now?
 Her secrets: old featherfans, tasselled dancecards, powdered with musk, a gaud of amber beads in her locked drawer. A birdcage hung in the sunny window of her house when she was a girl. She heard old Royce sing in the pantomime of Turko the Terrible and laughed with others when he sang:

I am the boy
That can enjoy
Invisibility.

 Phantasmal mirth, folded away: muskperfumed.

And no more turn aside and brood.

 Folded away in the memory of nature with her toys. Memories beset his brooding brain. Her glass of water from the kitchen tap when she had approached the sacrament. A cored apple, filled with brown sugar, roasting for her at the hob on a dark autumn evening. Her shapely fingernails reddened by the blood of squashed lice from the children’s shirts.



 雲が太陽をゆっくりと遮りだし、やがてすっかり覆ってしまうと、陰につつまれた湾はいっそう深い緑色をたたえた。それは彼の眼下にひろがっていた、苦い体液を溜めたボウルが。ファーガスの歌。家にいるとき、ひとりで歌ったものだ、暗く尾を引く情感を抑え気味にして。寝室のドアはひらいていた。母さんが歌を聞きたがったから。畏れと哀れみとで黙りこくったぼくはベッドの横に行った。むごたらしいベッドのなかで、母さんは泣いていた。あのことばのせいなんだよ、スティーヴン、愛のもたらす苦しき神秘っていう。
 いま、どこに?
 母さんが隠していたもの――古ぼけた羽根扇、麝香をふりかけた房飾りつきのダンスカード、安っぽい琥珀のネックレス、鍵をかけた引出しのなかにしまってあった。子ども時代に家の日当たりのいい窓辺に吊り下げていた鳥のかご。昔、お笑い劇の『王様ターコー、おそるべし』で、ロイスが歌うのを聞いたときには、ひとと一緒になって母さんは笑った。こんな歌――

 おれさまったら
 誰の目にも見えなくなるぜ
 透明人間、お楽しみさ

 幻の浮かれ騒ぎ、たたまれてしまった――麝香のかおりをほのめかせて。

 もう顔をそむけて思いわずらうことはない

 あのがらくたといっしょに、森羅万象の記憶のなかへたたみこまれてしまったのだ。思い悩むかれの脳裏に記憶の幾片かがつきまとってくる。聖体拝領が近くなると、台所の水道から汲んでいた一杯の水。芯をくり抜いて黒砂糖を詰めたリンゴ、暗い秋の晩に暖炉の横棚に置いて焼いてあげた。子供らのシャツのシラミをつぶして、その血で赤く染まったきれいな形の爪。


―――――

  • 日記読み: 2022/4/13, Wed.
  • 「読みかえし2」: 1351 - 1362