2023/5/5, Fri.

  • ここさいきんはまったく文を書かず、本もたいして読まず、読み書きからはなれていた。やはり左手首が文字通りネックで、打鍵をすると体調に良くないので。Notionのまいにちの記事すら五月にはいってからはつくっていなかったくらいだ。日記の読みかえしなんかもしばらくしていない。
  • 四月終盤からの日々を要約しておくと、一七日の月曜日に出勤途中の電車で途中下車してしまい、それからしばらくは体調がだいぶよろしくなく、左半身がしびれたりしていたのだが、四月いっぱい勤務は休みにしてもらってひたすらだらだらしているあいだにまあたしょうはよくなってきた。しかし二五日の火曜日に薬がもうとぼしいからと医者に行こうとしたところが、(……)駅までは行ったのだけれど午後五時の駅や電車にひとはおおく、ホームで待っているあいだからそろそろ電車が来るとなると緊張がたかまったし、入線してきたのをみても動悸にやられて苦しいので乗れないことは明白、そこでその日は引き返して帰り、母親に電話をかけて、わるいがちかいうち車で来てもらって医者まで連れて行ってくれないかとたのんだ。それで二七日の午前に父親に来てもらって医者に行ってヤクを確保、その後実家にも寄ってから夕刻、こんどは母親に(……)駅付近まで送ってもらい、二九日にはまたおなじところで待ち合わせをして車で実家へ、翌三〇日には兄夫婦と子どもが来て、それからきのうまでは姪と甥の世話なり地元の祭りの手伝いなりで忙殺されていた。
  • 四月中はやる気が出ずマジでだらだらしまくっていたので本も読まず文も書けないとなるとやっぱりわりと生きる甲斐がないなあという感じだった。実家に行ってからはやることがたくさんあったのでそれにまぎれて生の甲斐がないとはおもわなかったが。子どもの世話はひじょうにたいへんだし祭りの役目のほうでもくたくたになって、ここ数日はひとりの時間というものがとぼしかったから、対人接触のキャパシティがかなり消耗させられた感があった。まえにも書いたが他者などとおおげさにいうまでもない、他人とは端的に疲労だ。それにしても子どもというのはこちらのおもいどおりにならない存在のさいたるもので、それをある程度コントロール可能な存在に変成させていくのが養育であり教育なのだろうけれど、よほどの忍耐力と献身の姿勢がなければかれらにつきあうことはできない。じぶんは親になるのは無理だなとあらためておもった。つねに他人とともにいなければならないというのが耐えられない。三日の夜に(……)さんとはなしたときに、まえに子孫を残す気はないって言ってたけど、と言われて、そんなこと言ってましたかと笑ったが、むべなるかなというところだ(まあ、「子どもを持つ気がない」と「子孫を残す気がない」だとその意味するところはたしょう違ってくるが)。
  • そういうわけで読み書きにやる気が出なかったり忙しかったりする近頃で、そろそろおれも駄目かな、じぶんの生の意義をうしなうかなとおもったが、いちおうきょうからまたはじめようかと。といっていまこうして打鍵していてもやはりからだにはまずいので、書くなら手書きでやるしかない。いぜんも記したとおり手帳だとちいさくて書きづらいのでもうノートに日記をつけるむかしながらの方式にして、ブログへの投稿はめんどうくさいのでやめようかと。写真を撮ってドライブにあげ、パソコンで落としてNotionに貼ることすらめんどうくさい。とにかく左手がネックなので、それをつかう活動(つまり打鍵とギターだが)はせず、まあ一年か三年か今後一生かわからないが文を書くならアナログで。書き抜きもやはり手書きでやろう。ただネット記事を読んでコピペするのは問題ないから、生存報告がてらそれくらいはブログに投稿しても良いかもしれない。余裕があれば一言日記を足すとか。この人工知能時代に時代錯誤きわまりないが、からだがそういう状態になってしまったのだからしかたがない。強いられた条件を武器へと変えるのが人間の叡智というものだ。アナログでやっているうちに打鍵しても問題ないからだにもどればまたキーボードで書くようにすればよいし、変わらなければそれまで。ともあれいちおうまだ読み書き、読むだけでなく書くほうもつづける気はあるらしい。ひとはじぶんの欲望によって書く、そしてわたしはまだ欲望し終えていないのだ、というわけだけれど、じぶんがほんとうに欲望し終えていないのかどうか、果たしてじぶんじしんで明確にわかるものだろうか?