おとといの月曜日の夜はまいったというか、アパートにかえってきたのが一〇時ごろで、一時間くらいやすんでからほんのすこしだけなにかを食べて、風呂にはいってさっさと寝ようとおもっていたのだけれど、労働にくわえて、ひとがほぼいないとはいえひさしぶりに電車に乗り、そのあとそこそこかぜのさむい夜の街をあるいてきたからさすがにつかれていたようで、気づけばねむりに落ちており、一時になっていた。それでしょうがねえきょうはもうこのまま寝ようとおもったところが、まぶたがめちゃくちゃかゆい。まぶたを中心に目のまわりがカサカサして、ちょっとひりつく痛みも混ざったかゆさだったのだけれどとにかくかゆく、しかもまぶたということは目を閉じると露出するわけだから、とてもねむりに向かうことができない。あまりのかゆさにいらだちや怒りをかんじたのだけれど、ただそれらの感情も絶え間なくおそいつづけるかゆみに妨害されて前面に出てこないというか、いらだちはかんじるんだけどうまくいらいらすることができないみたいな、感情の生成すらを阻害するような拷問的なかゆさだった。それでおもいだしたのが、ケツの穴がかゆくなるやまいがあるでしょう。肛門なんとか症っていう、あのかゆくなるっていう意味の熟語いつも読めないんだけど、Mさんも京都時代に一時なっていたおぼえのあるやつで、あれもたぶんけっきょくはストレスだったんでしょうわからないけど。そのことをおもいだして、つまりじぶんの目のまわりの荒れとかかゆみというのも、花粉の影響もあるかもしれないが、けっきょくはストレスというか心身への負担がここに集約してあらわれているんだろうとおもっているので、いわば軽度のじんましんみたいなものだとおもっているので、これが転移して肛門とかまでかゆくなったらやばいぞとおそれたのだけれど、さいわいそうはならなかった。いまのところはケツの穴はかゆくない。この夜は濡らしたタオルを目から額のうえに置いてあおむけになり、くわえて手を下腹、いわゆる丹田があるといわれているあたりだけれど、そこに乗せて屍になっていたらだんだんかゆみがおさまってきて、なんとかねむることができた。屍になるときにへそや下腹や肋骨の下端、つまりみぞおちの両側ですね、それらのばしょに手を乗せると、ふつうに腕を横に伸べているよりリラックス度があがるということが経験的に観察されているのだけれど、じぶんはへそがかたくなりがちとはいえ、下腹に手を乗せたときがいちばん全身のほぐれのバランスがよくなるかもしれず、丹田っていうのはあれは観念的な存在だけれどなんらかの根拠はありますわ。
 ところでいま夜の九時三五分だけれど、うえのことを今朝おもいだしていたときにふと気づいたのが、もしかしてさいきんのじぶんのなかでケツの穴というのはなにかひとつのテーマというか、象徴的ななにかになっているのでは……? ということで、というのも、いま書いている「塔のある街」から、すくなくとも三つ目の「孤独のなかの神の祝福」までは、三篇ともケツの穴が出てくるのだ。「塔のある街」では序盤に、ひとみから尻の穴まで真っ白な雪虎というのが出てくる。「Black Is The Color of My True Love's Hair」はまだ書き出してすらいないのだけれど、この物語の主人公となる、忌み子であり同時に砂漠の王となる「彼」は、一五歳かそのくらいでラクダのケツの穴で童貞を捨てる予定だ。そして「孤独のなかの神の祝福」にかんしては、きのうしるしたように、この逆転世界でのセックスは「おんな」が「おとこ」の尻の穴に入れるほうがいいのかなあ、それとも「おとこ」が「おんな」の膣に入れさせてもらうほうがいいのかなあとかいういかがわしいことをまじめになやんでいるわけだ。
 ぜんぶアナルじゃないかと。しかもさいきんのじぶんはなぜだかわからないが、象徴的な意味解釈をする精神の機能が活気づいていて、それだから物語がおもいつくようになったのだけれど、なんにでも比喩をみてしまういかにも文学的な精神になっていてあまりよくないなあとおもうのだけれど、もっと散文的に現実をありのままにとらえて生きたいのだけれど、比喩体系をみきわめ分析するわけだからいわばメタフォリック・アナリストで、そんなじぶんがアナルの穴をアナライズするのもことわりのとうぜんといってもおかしくはない。メタフォリックとメタボリックは似ている。「メタフォリック・シンドローム」っていう単語、ぜったいだれか詩集のタイトルにしてるとおもうんだけど。それか耽美的なヴィジュアル系バンドのアルバムタイトルとかになってそう。
 ケツの穴で一個おもいだすのは、むかし冬場に、インフルエンザだったかノロウイルスだかわすれたがなにかの感染症にかかって高熱を出したときに、休日だったので救急診療センターみたいなところの夜間診療に行って、そこで座薬をいれられたことだ。座薬というものをじぶんの身に受け入れたのはそのときがはじめてだった。じぶんはケツの穴にものをいれられて快楽をかんじる性嗜好はすくなくともこれまではないから、座薬をいれられるときいてめちゃくちゃいやだなというか、むしろ恐怖したし、じっさい寝台のうえに横になって寝間着のズボンとパンツを脱いで尻を出し、薄手のゴム製手袋をたしか二重につけた看護師のゆびをつっこまれたときもふつうに痛かった。もし象徴的にかんがえるならばここでとうぜんじぶんはおかまをほられたということになるし、看護師は男性だったから同性愛的な性の儀礼を通過したとみることも不可能ではない。愛というか初対面のひとだったので、どちらかというと行きずりのセックスですけどね。いわばワン・ナイト・ファックということで、「ワン・ナイト・ファックネス」というタイトルで一篇つくれないかな。ファックとファンクは似ている……。
 「孤独のなかの神の祝福」についてはアイディアがいくらかすすんだが、いま書くのはめんどうくさい。ただひとつだけふれておくと、終わり方はおもいついた。それにつうずるながれもいくらかは。劇中歌である「ただようひかりの季節になれば」は二バージョンつくることにしよう。このうたはもともと先輩歌手が歌詞を書いたという設定のつもりでいたのだけれど、主人公が親友をまえにさいしょに砦でうたうときには、さいごを、「ただようひかりの季節になれば/わたしのうたもいらなくなるわ/わたしがそれまで耐えられたなら/愛してちょうだい 愛してちょうだい」にする。で、ラストで恐怖を克服してステージに復帰した主人公にもういちどこれをうたわせて、そのとき歌詞をちょっと変えたバージョンにし、そのさいごが「あなたがそれまで耐えられたなら/愛してあげる 愛してあげる」にする。だからもとは先輩歌手から借り受けたものだったこのうたを、主人公がじぶんのものにすることで復活と自己の引き受けみたいな変容を達成するという、まことにほれぼれするほどにわかりやすくてベタでスタンダードな象徴的やりくちになるわけだ。ほかにもそういうベタベタなしかけはかんがえていて、だからじぶんはここで漫画のシナリオをやることになる。おれは王道の、センチメンタルな、くさい物語をやるぞ。いまはなきガルシア=マルケスのたましいをこの身にまねきよせて宿すしかない。そのために日々屍になる修行を着実にやっていかないと。やっぱり死人も類は友を呼ぶだろうから。
 ところで二篇目の「Black Is The Color of My True Love's Hair」は砂漠の王の物語で、「王道」ということばも出てくる予定でいる。要はさっき書いたラクダのケツで童貞を捨てるのは邪道なわけで、こいつは性的には邪道を通過してから神殿に行くのだけれど、そこにいた先代王である「彼女」と恋愛っぽいかんじになる。ただ交合までいたる予定ではない。泉で彼女の裸体をみた彼は忌み子だったから女に免疫がないわけで、男根が勃起するみたいな、「男根」という仰々しいことばをつかってそういう場面を描写するつもりなのだけれど、ただ神殿の床にならんで寝るときには不思議と性欲がおちついてたがいの肉体の息遣いをかんじているだけで満足するみたいなロマンティックがとまらない場面もつくる予定で、そのへんで彼の男根は王道を通過することはなかったみたいなことを書きつけるつもりでいる。これだけしるすとわりとギャグだけれど、こういうのを「塔のある街」よりもかたくて密な文章で書く予定で、作中で読んでもギャグになるかもしれない。で、三番目の篇が、あからさまに性的なのはおいても、王道の物語になるということになったのは、二番目の篇のそういう要素がなにかしらじぶんの精神のなかでやっぱり影響したんだろうか?
 短篇でもうひとつかんがえているのはきのうもふれた「埋立て通りはきょうも快晴」というやつで、これはさびれた商店街みたいな、それこそ我が地元みたいなかんじだけれど、そこを舞台にしたふつうの現代物というかファンタジックな要素はないやつで、語り手は「わたし」もしくは「あたし」が一人称の女性で、二〇代後半か三〇歳くらい。ふつうくらいのレベルの大学で史学科にはいり、卒論で郷土史を書いたので地元の市役所の観光課につとめている。このひとは四分の一くらいギャルみたいなかんじの語り口もしくは造形にする予定で、高校生のときなんかははんぶんくらいギャルの友達とよくつるんでいた。その友達は、ギャルとかんがえたときにすぐ出てきたのがギャル曽根だったので、ソネコというなまえでいいや。なまえをかんがえるのがいちばんめんどくせえんだよな。大空みそねというなまえにすることにする。これはおばあちゃんがつけてくれたなまえで、漢字にすると美祖念で、うつくしく祖先を念じ、わすれずおもいをいたすというおばあちゃんのねがいがこめられたなまえで、おばあちゃんはわりと保守的なんですね。ただソネコの両親はさすがにこの字面はちょっと……とおもって、みそねというひらがなにすることにおちついた。ソネコじしんはおばあちゃんがつけてくれたそのなまえのひびきが好きでけっこう気に入っていたのだが、小学生のときに「味噌女」とか、「お味噌ちゃーん」とかからかわれていやになり、それにたいする反発でギャルになったということにしよう。ただそれはじぶんで積極的にえらんだスタイルではないので、モノホンのギャルたちのなかにはなじめず、だから中途半端なギャルで、アイデンティティはぶれており、たまにゴスロリとかにも手を出しそうになってしまう。主人公もしくは語り手の女性のなまえはかんがえていないのだけれど、出さなくてもいいかもしれない。そのかのじょは、なにものにもなれなかったといういぜんに、なにかになりたいというおもいが希薄だったひとで、ただいろいろなことにちょっとずつ違和感をおぼえ、いろいろなことにちょっとずつなじめないような一〇代を過ごしてきたひとで、駅の雑踏のなかで通行人につぎつぎ肘ですこしずつ押されて、すすむともなくすすんでいたら目のまえに電車の乗り口があって乗っちゃったみたいな、そういう生き方をしてきたひとで、この比喩そのまま小説内につかえるわ。そういうかのじょからしてみるとソネコはなりたいもの、というかなりたいかもしれないものがいくつかある時点ですこしうらやましくみえる。ふたりはよくチャリでブックオフにあそびに行っていたが、「わたし」はあまりブックオフは好きではなかった。このふたりがひとのぜんぜんいない、店も三つか四つくらいしかない、ガラガラのさびれたフードコートでただだべっているだけの場面を作中に入れたい。『フードコートで、また明日。』という漫画があって、それみたいなイメージなのだけれど、そこでしたみたいな表現法をためしたい。たぶんもうだれかやってるとおもうのだけれど。

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 みたいなかんじ。あと決めてるのは、話者の女性は大学時代に合コンで知り合った他大学の男とつきあっていたが、こいつがヌーヴェル・ヴァーグとかをみる似非シネフィルみたいなやつで、いっしょに見に行ったけどぜんぜん興味をもてなかった、知的に武装して臆病なじぶんをかくしているようにしかおもえなかった。そういうかんじでこの話者の女性がいろいろなことについてちょっとずつ、ちいさな批評的な違和感や文句みたいなものを表明していく、というのをひとつの線にしたい。物語の展開はまだなにもおもいついていない。とりあえず布団屋と着物屋と人形店は出そうかな。あと、家のなかではしゃべらないし、ひとといっしょにいるときもしゃべらないけど、そとでひとりでいて手に携帯をもってるときだけ、だれかとはなしているような独り言をしゃべりつづけるという少年を出す。この少年はたぶん話者の叔母の息子、すなわち話者のいとこで、話者の両親はたぶんもう死んでいる設定になるとおもう。あと、話者はこどものころ、じょうろで道に水の線を引いたり、路面がちょっとこわれているところに水をそそいでちいさな水たまりをつくり、その色をみるのが好きだった。はなしのラストはおとなになった話者が子どものころのこのあそびをくりかえして、水たまりの色がなんらかの象徴的な意味合いをもつ、という、これもまたじつにエンタメ小説的な終わり方になるとおもう。あとは「埋立て通り」の意味だな。