塔のある街


 旅の途中で、ひとは多かれすくなかれ、おのれをうしなうことになる。ただしいこころ構えを知らなければ、それに気がつくことはない。気づく者は数すくなく、おのれ以上をうしなえる者はさらにずっとすくない。
 街の門をくぐるときの数秒間、そこでうつり変わるのは空間ではなく、なによりもにおいだ。どの都市にも、固有のにおいがある。大気の、街路の、花々の、そこで生きるひとびとの、出店で売られる特産物の、暮らしのはかなさしたたかさの、何のにおいともいいがたい、すべてが混然とからまり合った、その街のにおい。入り口が視界にはいったあたりで、おとずれる者を待ちきれないとばかりに漂いだすひどくせっかちなにおいもあれば、街なかをしばらく歩いてから遅れて鼻に寄ってくる、にぶい寝坊助のにおいもある。ひとが旅人に無関心でも、においはいつも変わらず、むかえることのよろこびをためらいなくあらわに伝えてくる。顔は見えなくともそれぞれちがった性格のわかる精霊のように。そのようにして、わたしたちはふたたび、ひとつの街につつまれることになった。
 季節は雪だった。ジャジャーの毛はあらあらしい寒さに感応して生え変わり、いつも残照を内に秘めているような赤褐色の、うすいところは翅っぽく透きとおり、厚くなったところは一層ふさふさとして陰を織るのだった。山脈と森にかこわれた平原から成るこの辺境で雪はおもうままに我が意を達し、どこからはいるにしても日々は険しかった。わたしたちも山の洞窟にとどまって荒天をしのいだり、途中の村で大熊を一頭丸ごとつかった毛皮の寝具をあがなったりして、どうにか道をつないできた。平原にはいってからの一週間ほどは、ただただ白さとのたたかいであり、足もとの白さと地平線下の白さのあいだになんのちがいも見つけることのできない広大さのなかで、時間と空間はがんじがらめの囚人として呼吸を投げ棄てつつあった。食事はおおかたこわばった乾燥肉と、死にきったキノコや薬草のたぐいを湯にもどし、半端に蘇ったそのいのちを糧とすることにたよるほかなかった。たしかに、食事ではなく食糧というべき栄養源だったが、ときにはたどりついた開拓村でウサギやカモのような鳥の肉を喰らえることもあったし、自分でも、こんな土地をなにくわぬ顔でうろついているそれらの小動物――寒さになにも感じなくなるよう進化したらしい、面のみならず全身の皮の厚いカエルもいた――をしとめて捌くことがあった。正気の選択とはとてもおもえない土地におのれをゆだねているにしてはあまりにも健気な、あるいはそれゆえにこそうつくしく健気な、動物たちの目はどれもそんなひかりをはなっており、その健気さに耐えられないわたしは、いつも真っ先にその目をナイフで潰すのだった。ひとびとの目にもおなじひかりがひそんでいた。開拓村といったのは、なにも近年あらたにできた村だということではない。ただ、この地にひとが住みついた歴史の果て以来、村人たちは、いまもなおずっと開拓をつづけているのと同義だったのだ。
 村で雇った橇の主人は、苦みのつよい煙草をくわえながら、「まあ、ひとが暮らすにしちゃあんまりととのった場所じゃあねえですわな」と言った。白さの裏返しとして天に一面むすぼれた、永劫的な青空のもとだった。
 じゃあなんで、ここに住んでるんです?
 「そりゃ、ご先祖様に聞きたいですね」
 にやっと口の端がゆがんだあと、カッカッカ、という笑い声がついてきた。その声が白さの彼岸までとどきそうなほど乾ききった大気はふるえる陽光にすべてを明け渡し、いまやきらめきの族と化した雪のひろがりは、漂いのぼる無数の微光で視界を幻惑にいろどって、その揺らぎが陽光のふるえと同調しきらない調和を踊りつづけていた。橇は意外なほどにひろく、ジャジャーを乗せてはこんでもらう余裕すらあったが、「そちらの犬っころちゃんも、いっしょに引いてくださるんで?」と主人がいうので、五頭の犬たちにならんで綱を身に巻き、走る時間もあった。「でっけえ、犬っころちゃんですなあ」と漏らしながら、主人はわっしわっしとジャジャーの首のあたりをなでる。たしかに、狼の記憶を濃くのこした五匹の端正なすがたとならぶと、それよりひと回り、もしかするとふた回りはおおきいかもしれないジャジャーのからだは、頑健な重量感をほこって見えた。なでられるがままにときおり、垂れた両耳をぱたん、ぱたん、と、かるくひらつかせてみせるそのあたまに、わたしは手を乗せた。相棒です、と告げると主人は、「そりゃあいい。幸福ですな」と、歌声のような神妙さを舌に乗せて、薄緑色の煙をぷわっと吐き出した。
 抽象的なまでに単純であるがゆえにある種の楽園とも目にうつる白の晴天と、あばれだした冷たさと風に空も地も一挙にうずまき衰弱する白の地獄とが、世界の振り出すダイスによって気まぐれに、会釈なしに交替するのがこの地の時間だった。吹雪けば、昼も夜もなく、あるのは視界を全方向に行き交う無数の斑点によって存在を詰問されているかのような、うすく青暗い闇だった。でも、視界がきこうときくまいと、果てまで雪しかないことはわかっているのだから、おなじことじゃないか? だが、そうではなかったのだ。「お客さんよお!」と、主人がふりかえりながら声を張り上げてきた。周囲にほかの音をゆるさない雪の苛烈な独裁欲にくわえて、防寒着であたまを覆い、耳も毛皮であたためているので、そうでもしないとことばが聞こえないのだ。
 わたしは氷の空気ができるだけ肌にふれないよう、慎重に耳当てをずらした。「あれが見えるかね?」
 なんです?
 「ずっとあっちに、ちょこっと白いかたまりがあんのが見えるかね?」
 しめされた方向に視線を飛ばして目を凝らしたが、白さの入り混じったにごり闇のかなたに、ほかよりわずかに色のおおきく濃い斑点が、そういわれればあるかもしれない、そんな程度のものだった。
 ありゃ、ここらで《凍て闇の悪魔》って呼ばれてる雪虎でさあ、というのが主人のはなしで、ひとみから尻の穴まで真っ白なその猛獣は、太陽の下にすがたをあらわすことはほとんどなく、はげしい吹雪にまぎれて忍んできては、瞬速の一撃で獲物を裂き殺して喰らうのだといった。
 「あれに見つかったら厄介なことになっちまいますわ」
 そう言って犬笛を口にもっていった主人は、ひとには聞くことのできないその音で進路転換を命令し、橇はすみやかに減速しながら角度をおおきくたがえていった。うしろで身を低く休んでいたジャジャーが、一瞬だけぴくりと反応するのが背に伝わった。まとう空気の色を埋み火の穏和さから、警戒のそれへと変えたのだった。くちびるにはさんだままの犬笛をゆびで支えている主人の左手の甲には、藍色の入れ墨がえがかれていた。両の頬にも図形がきざまれているのに、晴天の下ですでに向かい合っていた。なにかの動物をもとにした象形的な記号とも、線と点のたわむれがたまたまそのかたちに落ち着いたともみえる身飾りの、色だけつうじ合わせの三種三様だった。
 雪原の端までたどりついたわたしたちは、奇観を目のあたりにすることとなった。都市があるのは平原のなかにさらに一段くぼんだ土地で、目のまえをすとんと落ちている崖はしかしながくはつづかず、まもなくゆるやかな斜面にながれ、大池のような雪のたまりがまだらに散らばる窪地の底をもうすこしだけ行ったところに、壁にかこまれた街をのぞめる。つくりかけで不意に飽きられた子どものパズルめいても見えるその街並みのなかほどから、塔というほかはない巨大な柱が周囲を圧して天へ抜け出し、そのまま際限もなく、どこまでも高くそびえ立って消えていくのだった。首をうしろに目いっぱい曲げれば、いまは青い空のみのいちまいとなった目のまえを、視線は塔とおなじく際限もなく、風の神よりもすばやく飛んでいき、釣りこまれていったさきで果てをうしなうと、じぶんがいまどこに立っているのか、その記憶も刹那刹那にうしなわれていく。想像は可能であるものが、想像力のほどよい甘さを裏切って現に屹立している、転覆の動揺が足から下腹へとのぼるいっとき、単純さをただ単純におし進めた結果として、つながるはずのないものとものとがつながってしまっている、ひそかに恍惚と手を組んだ罪深さすらを脳裏に垂らす景観だった。これを見たいというその一心だけで、あの白の世界をこえてくるひともいる。そのことがたしかな体感とともにうなずけた。すでに街のにおいははじまっていたのだ。
 宿はいくぶん外れの地区に取った。宿というよりは老夫婦が終の住まいとして余生をくつろぐような、ペンションをおもわせるたたずまいだったが、なかはひろく、敷地に野営の道具を置いてもらう余裕もゆうゆうとあり、そばには井戸がひらいていて、そこから引いたものなのかどうか、風呂すらあるということだった。ちかくは木立がしばらくつづく道で、二階の部屋の窓からもそれが見えた。溶けのこった雪の白さをほそ長いこずえのはしばしに溜めた暗緑色の木々はいま、暮れたひかりの金色をあつく受け、その衝突の散乱的なはげしさは、木が難破船めいてぎしぎしとかたむきはじめやしないかとおもえるほどだった。
 重装備を部屋におろしたわたしは、食事のまえに湯をもらうことにした。ジャジャーの足やからだを拭いてやるためだ。扉をくぐって廊下に出ると、となりの部屋のドアのまえに、待ち受けていたかのようなうごきのなさで、青っちろい顔の男が立ってこちらを向いていた。目の下が少々落ちくぼんで、頬も日陰の雪でこしらえたように血色がわるく、ただ顎だけは殻を剝かれた直後のゆでたまごのように妙に光沢をはなつ白さだった。「あたらしいお客さん?」と男は言った。
 ええ。
 「となりの部屋ってことでね、どうぞよろしく。どちらから来たんです?」
 山脈のほうを、浅いところを越えて。
 「そりゃあまた。もっとも、森も似たりよったりだ……時期がよければねえ、もっと雪がすくないんだけど。やっぱりあの塔を見に?」
 ええまあ。腰を据えられない性分でして、いろんなところを回ってるので……いちどは来たいとね、見てみたいとおもってましたよ。
 「そうでしょう」
 にやにやとした笑みをのこして、男は廊下をしばらくあるくと、足を止めてふりかえり、「案内しますよ、もしよかったら」と言った。手に持っていながら渡しわすれていた小包にいま気づいたような、同時に、もともとそれを言うことだけをねらいとしていたような口調だった。一階へと消えた男のあとを追って階段を下り、おかみさんに湯をもらってジャジャーの身をととのえてやると、じぶんも風呂で汗や汚れをながしてもどった。そろそろ食事の時だった。
 ジャジャーが食堂にはいることはだれからもまるで問題視されず、ことばいらずの当然として受け入れられた。おかみさんがひとりで切り盛りしている宿なので、配膳は滞在客のしごとでもあった。あつまってきた数人の客たちは、みなすでにながくをここで過ごしたようだった。皿をはこんでいるとき、からだのおおきな新顔におどろくとき、卓上の料理をならべなおすとき、椅子を引いて座るとき、足取りや声色や物腰のひとつひとつから、この建物にすっかりなじんだ者の習慣のにおいが、砂の地面を踏んだあとのようにかそけくもれ立つのだった。翼を閉ざしてまるまった巨鳥のすがたで暖炉のそばにうずくまったジャジャーは、肉や水をさきにあたえられ、すこしずつそれを食べているとなりでおさない宿の娘が興味津々にしゃがみこんでいた。配膳の間に、おかみさんがはなしかけてきた。
 「ずいぶんでっかいお相棒さんですねえ。お客さんはどちらから?」
 ええ、山脈の浅いところを、どうにか来ました。
 「あれまあ。もっと楽な、雪のすくない時期もあるんですよ? ながくはないけどね。でも、この季節に来たがるひとのほうが多いのかもしれませんねえ」
 なんともいいづらい旅路でしたね。
 「そうでしょう。途中の村には寄った?」
 ええ、あそこでウサギやカモの肉をたくさん食べさせてもらったんで、それで生き延びたようなもんですよ。
 「わたしの弟はあの村にいるんですよ。もしかしたら会ったかもしれませんね」
 というわけで、夕食がはじまった。食堂は宿の規模をかんがえると不釣り合いにひろく、もてあまされているのが一目瞭然だった。中央に通る長テーブルは、わたしたちでは暖炉にちかいその一角を埋めることしかできず、クロスも半分ほどまでしか引かれていなかった。どうかんがえても不要な椅子の多さだったが、「むかしはねえ、ここがいっぱいになって、席が足りないもんでお客さんの部屋から持ってこなきゃならないなんてこともありましたよ」とおかみさんは言った。しかし、客室の数をおもえば、すべての部屋に二人か三人連れを泊めたとしても、まだまだ余裕ののこる卓のながさだった。暖炉にほど近いあたりの壁には、細部まで精巧につくりこんだ一角獣の模造剝製が職人のたましいをやどして見事に息を止め、ほかにこれも目を寄せられる優美さの、けれどなにか無機質な情感を色と模様にたたえたようなタペストリーがながれおちていた。それらはまだしも調度品として食堂をいろどり活気づけていたが、テーブルがなまの身をさらしているほうでは、いったいこの空間をどう飾りどう埋めたらいいのか、そう嘆息が聞こえるようで、クロスなしの木目の上に、ないよりはというおもいの透ける花瓶が置かれて花びらを二、三、散らしていたり、壁のほうにも棚がとりあえずの風情で場をあたえられたり、遠景で塔をえがいたやや無造作な筆の絵が、周囲の空白をきわだたせるようにぽつんとかかったりしていた。
 一角獣のまえの席にはいつも、みじかい灰色髭を鼻下にととのえた、元軍人だという老人がついていた。兵士としてはあきらかに小柄なずんぐりとした老体は椅子と同化したように重たるくおさまり、じっさいなかば一体化しているかのように、午前でも午後でも夕食後でも、この席でコーヒーや酒を飲みつつ新聞や本に目を落としているそのすがたを見かけるのだった。宿ではなく、その椅子に泊まっているかのようだった。ほとんど口をひらかない、からだだけでなく舌のたいそう重い御仁で、女性客ふたりがはなしのながれに、ねえ、おじさまはどうおもいます? などと意見をもとめても、伏せていた目をあいてのほうにゆっくりふわっとあげてからまたおろし、そのたっぷりとした間をはさんでようやくぼそぼそと、口のうごきのとぼしさにしては不思議とよく通る声を発するのだった。あたかも、ことばをしゃべればしゃべるほど、それだけ他人を傷つけることになる、お嬢さん方はそれがわかっておらん、とでも言いたげなまなざしだった。年をとるうちにやさしさが褪色して憂いへと変わってしまった者の目つき、スープの皿を見つめていてもその下のテーブルを、床を、地中を、星の中心を見つめているような目つき、ひとことで言って、時空を超える目つきを捨てられない種の人間だった。兵士だったころはこことはちがう辺境地帯を守備する任についていたらしいが、それがどこの辺境なのかはだれも知らないようだった。食事中の会話を先導するのは、主に女性ふたりの役割だった。中年未満のいっぽうは、堅苦しくない、ふくらみのあって身につけやすそうなドレスを日々いろいろに着こなした婦人で、よくしゃべりよく笑ったが、合間にたびたび咳を漏らして、笑いに興が乗ってたかまるとだいたいいつも咳きこみに転じるのだった。もうひとりはまだ若い、セーターとスカートの似合うほっそりとした女性で、ナツメ色のつやめく髪やひとみとおなじく、頬の色もなかばそれに似たあかるさに照り、やはりよくしゃべりよく笑ったものの、こちらは笑い声を立てるさいに淡緑のハンカチで口をおさえるのがつねだった。他人に気兼ねせずにおもうさま笑いたいという、屈託のあるようなないような精神の編み出した技巧とみえた。砂糖菓子の散らばるようなふたりのはなやかさにあたっては、青っちろい顔をしたわたしの隣人はなにかの手違いで現世にもどってきてしまった幽霊でしかなかったが、不健康そうな眼窩のわりに意外にも、男はよくしゃべり、よく食べた。会話に口をさしこむときのことば遣いには教養の下地がみえかくれしたし、出された料理はすべて淡々と、一定のペースで平らげていき、顔の白さをいくぶん満足げにひからせるのだった。食事はおどろくほどに充実していた。雪の村で喰らったカモよりもすこしばかりおおきい鳥の丸焼きが、料理ではなく座った人間たちの中心のごとく、でんと鎮座し、スプーンをまわせばわずかな褐色を奥から浮かばせる素朴なスープは穀物と乳の甘みをほのかにつたえ、パンはおさない娘の頬よりやわらかく、サラダも野菜がとりどりに鮮明で、あげくに魚さえならんでいたのには驚愕した。村人たちの命脈をつないできただろう雪融けの小川はともかく、海になど手のとどくはずのないこの辺境に、いったいどこから魚が来るというのだろう? 酒は晴れた雪原の天と地を入り混ぜたような、銀青の淡さだった。皿のならび終えたその端から、コップふたつほどの間をはさんで、こちらはたしかにしつらえられた飾り花として、薄ガラスのちいさな瓶が楚々と立っていた。ごくひかえめな黄色の透ける、泡立つような花だった。初日の夕食の終わりまぎわ、婦人がわたしに旅のことを聞き、さまざまな土地の記憶を気楽にかたっていると、あいてはながく咳きこみだした。
 大丈夫ですか? 具合がお悪いのでは?
 「ええ、肺がすこし。それでここに来たんですよ」
 それは……おからだ、大切にしてください。
 「ありがとう。でも、熱があるっていうのも、元気な証拠でいいとおもいません?」
 ええ、生き生きとしていらっしゃるようにお見えします。
 そういうことでもないんですけれど、と婦人はわたしにではなく、口のなかに向かってつぶやきを漏らし、まもなく食堂を去っていった。キッチンで少女とともに食器をかたづけていたはずのおかみさんが、いつの間にかかたわらに立っていた。「あのひとは、肺がわるくなんてないんですよ」
 なんですって?
 「じぶんでそうおもいこんでいるだけなんです」
 でも、そうは見えませんでしたが……もうここにながくいるんですか?
 「いえ、二週間くらいですかね」
 おかみさんは、どうしてそのことを……
 「いえね、あのひとを連れてきた方がそう言ってらしたんですよ。なので、空気の澄んだところで静養させたいって。その方は、お仕事でどうしてももどらなきゃならないとかで、三日過ごして帰っちまいましたけどね。ところで、どうでした、食事のほうは?」
 ええ、とてもおいしかったです。こんなに豪勢だとはおもってませんでした。よくあつまりますね、食材が?
 「まあねえ、こんな、世界の果てみたいなところでしょう? 食事くらいはたのしくないと、さ。」
 まったくそのとおりですね。
 「それに、果てってことは、最前線みたいなものなんですよ。なんに対してかは知りませんけど。だからいろんなものがあつまるんです、肉も、野菜も、魚も、ひとも」
 おかみさんも、べつの街からここへ?
 「さっきも言ったとおもいますけど、わたしの弟は平原の村にいるんですよ」
 前がけで手をぬぐいながらキッチンへともどりかけた途中で、おかみさんはもうひとこと、のこしていった。
 「テーブルでとなりにひとつ、空きがあったでしょう? お客さんがもうひとり、いるんですよ、テオドールっていう。あの子はねえ、なんていうのか……まあ学生ですかね。よく塔へ行ってるんですよ。いまは部屋にいるとおもうけど」
 その塔にたどりつくのに、幽霊男の案内がいるはずもなかった。無限の形象は中央広場からそびえていたし、そもそも街のどこにいようと、頭上にわずかな空のひらきさえあれば、その威容がみえないことなどありえなかったのだ。広場はおおきな噴水を中心に抱き、水の上では杖をたずさえたうすい着物の男がこころもち顎をひきあげた姿勢の石像と化して、罪のないハトどもはその肩、あたま、腕を居場所にくつろいでいた。この街をひらくのに功のあった英雄の像かとおもったが、周囲のひとびとにたずねてみると、平和をねがう巡礼のすえ、この地にたどりついてたおれ息絶えた聖人を記念したものだといった。では、あの塔は? 「この立派なひとも、塔をめざしてきたんじゃないですかね」「あそこになにかあるとおもったんじゃないかな」「街ができるよりまえからあったのかもしれないね」「じつは空に伸びてるのとおなじだけ、地下にも下りていってるっていいますよ、たんなるうわさですけどね」「てっぺんはだれも見たことがないんです。もちろん、そりゃそうです。でも、天国へ続く七つの階段があるっていわれてます、みんなけっこう、それを信じてます」「一階から六階までは図書館になってるんですよ、本の数は、そりゃもう、すごいですよ!」
 そのとおりだった。塔内は書列のかさなりに目の追いていかれるほどたかい書棚が円周壁のまえを埋め、フロアのどこにいても、どこを向いていても、無数の本のうちのどれかとかならず目を合わせることになった。出会いを避けるには焦点をはずしてぼやけた視野をつくりだすか、いっそまぶたを閉じてしまうしかなかったが、そうしてみても、おびただしい本たちの存在感が絶え間のない矢の放出としてからだに触れ、てんでばらばらの方向にすり抜けていく。しかしそうした叡智の責め苦に息ぐるしさをおぼえることがなかったのは、天井にちかいほうの壁が周囲一面、ちょうど一階のなかの第二層のように、おおきなガラス窓でできていたからだ。書棚のあいだにいくつか通された、はしごにちかいような階段をのぼると、壁からせり出すかたちでそこにも床があり、どんな人間の背丈もはるかにこえる大窓に接したその通路を行けば、広場を見下ろしながら、あるいはひとみを空におよがせながら、棚の頭上をぐるっとあるけるようになっているのだった。ここにもいくつか、足場をはさんですぐ下のそれよりはつつましいけれどやはり立派な書架が置かれ、通路の途中には腰をおろしてひろびろとしたあかるさとともに本に耽るためのひとり席もつくられていた。採光と展望をかねたこの窓のおかげで、書棚の重さからくる窒息感は中和され、フロアを行くひとびとのすがたにひかりがまつわってははなれるにつれて、かき混ぜられたあかるさのなかに消えていく。ここではそれもまた、カウンターとテーブル、棚と階段を行き来して立ちはたらく司書たちのしごとだったのだ。室の中央では小人ならば一都市分は住めるかという太さの巨大な心柱が床から天井をつらぬいて、それにからまった螺旋階段をせわしなく行き交う司書たちは、焦燥とともにアトリエをのぼりおりする芸術家めいた面持ちだった。わたしはカウンターで比較的おだやかな、むしろねむたげな顔をしているひとりに声をかけた。どこまでもつづく背表紙のならびに疲れきってじぶんから催眠されたようなまなざしだった。
 ここはずっと上にのぼっていけるんですか?
 「一般の方が立ち入れるのは、基本的に一階から六階の図書館部分までですね」
 それより上にはなにが?
 「役所がフロアを借りてつかってます。七階から一一階まで。といってもそこは職員専用というか、たんにしごとのために借りたもので、市民の方がおとずれることはまずないです。市庁本舎は広場の向こうのほうにありますから、行政関連の用事はそっちであつかっています。わざわざ七階分もここをのぼるようだと、たいへんでしょう?」
 借りて、ということは、だれかこの塔の所有者がいるんですか?
 「それは便宜的にそう言っただけで、そういうひとはいません。市で所有しているわけでもないですね。まあ、たしょうの管理はしてますけども」
 ずっと上の階に住んでいるひとがいたりとか……
 「ないです、ないです」と、司書はすこし人なつっこい笑みをみせた。フロアはしずかで声もひびいたが、ひとつの静寂ではとてもすべてを覆うことができず、しずけさは多くのかたまりに分かれてじわりじわりところがっていた。そのひとつひとつのふくらみが互いにふれあい、干渉するために、声はそこでさしとめられ、吸収されてしまうようだった。「むかしは、天と世界の真理の探究のためにこの塔をつくった賢者が最上階に住んでいたけれど、あまりにたかくつくりすぎたのでおそろしくなり、発狂して地上にもどれなくなったと、そんなことを言うひともいました。でも、いまはだれも言っていない。ただのうわさ、つくりばなしでしょうから。うわさはうつり変わっていくものです」
 でも、むかしの記録がまったくのこっていないわけではないんでしょう? これだけ本があるんですから。
 「たしかにそうですね。あるにはあるんですが、なんというか……もしご関心がおありなら、お持ちしますけど? ただちょっと時間はかかりますね」
 いえ、そこまでは、けっこうです、ありがとうございました、と礼を言って出口に向かいだした背後から、司書は脈絡なく告げてきた。「二一階までは階というんですが、そこから上は単位が変わります。一雲、二雲とかぞえるようになるんですよ。人間の領分ではなく、雲の領域にはいったということで、敬意をこめた言い方だそうです。ご参考までに」
 ふりかえると、カウンターについた司書のはるか頭上、心柱と階段のまえをゆるやかな傾斜で横切って、大窓からさしこんだあかるさが幅広いひかりの道をつくっていた。そのなかを満たすほこりの群れは、海水に身をまかせるクラゲたちに似て、それぞれは自由気ままな方向へとあそびただよっていながらも、全体としてはひとつながりとなった複雑な回転のながれを生み出しているようにみえた。始点も終点も重力もわすれながら透きとおったうつわのなかをさまよいつづける、砂時計に閉じこめられた砂の平和をみるここちだった。
 塔を出ると、待っていたジャジャーとともにあるきだし、広場をひとめぐりした。大柄な犬のものめずらしさにはなしかけてくるひとや、こちらから声をかけたひとをあいてに、わたしは街での生活や、このあたりで語られている民話のような物語について聞き取りをした。はなしはやはり、塔や聖人についての言及に行きつくことがもっぱらだった。中央広場のあちこちでは、うまい下手はともかくも身にそなえた一芸でもってようやく飯を食っているような人種が客の入りをきそっていた。ボールの上でバランスを取りつつ、いくつもの小箱をかわるがわる放り投げては受け止めたり、からだを大仰に反らせながら額の上にかさねて立ててみせる大道芸人。台に乗って、噴水の聖人とおなじ姿勢にひたすら静止しつづけることでおひねりを待つ苦行の徒。画家なのか詩人なのかいまいちはっきりしないが、自作の絵画に詩の数節らしき文言を書きこんだり、あるいは別紙に書いたことばを添えたりして売っている芸術家志望。わたしもそれらのひとびととおなじ人種だった。噴水のちかくに場を得ると、たずさえていたヴァイオリンをケースから取り出し、かるく調律を確認してから奏でだしたのだ。純粋に演奏だけを披露することもあれば、こじんまりとしていながらうつくしく精密な、宇宙にもおとらず複雑な秩序を謎としてのみこんでいる木組みから、もとは動物の生の一部だった弓のひき出すねいろに合わせて、おとずれたさきの各地で収集した物語をなかばうたい、なかば語ってみせることもあった。旋律とことば、その交雑こそが、わたしの飯の種だったのだ。ジャジャーはおだやかに座っているだけでこのうえなく優秀な客引きとしての役をつとめたが、音楽にあわせてうごいたり鳴いてみせたりと、ときにみずから演者の舞台にあがることもあった。音が鳴っていないときでも、ジャジャーはそこにいるだけでつねにひとびとを惹きつけてみせた。はじめは噴水を目当てにぽてぽてとあるいていたはずのおさなごが、吸い寄せられるように視線と足の向きをすべらせ、数歩おくれて見まもっているおとなとともにこちらのほうへやってくる。おとなに触れられても、子どもに触れられても、ジャジャーは決していやな顔をせず、赤褐色のあたたかさを分け隔てなくひろげてみせるのだった。異郷でつかの間行き会うひとびととのふれあい、手による声による歓待を、どんなあいてからのものであれ鷹揚に受け入れてみせるジャジャーは、もしかしたらわたしよりもよほど旅を愛しているのかもしれなかった。ただし、まだ発語もややおぼつかないような年頃の子が、ういういしい好奇心で首輪をつかんで引っ張ってしまうようなことがある。そのさいにはわたしがやさしく注意しながら、その手をほどいてやる必要があった。首輪といってもこれはリードをつけるためのものではなく、旅先で懇意になった職人にこしらえてもらったひとしなで、純粋に装飾品としてジャジャーにあてがったものだった。無骨な焦茶色をしずめた革のめぐりの真ん中に、くりかえし練ってつやを消したような鈍いエメラルドの石がはめこまれた至極簡素な一品だった。
 路銀の足しもある程度あつまってそろそろ宿にかえろうかという日暮れ時、空にはジャジャーのからだのそれと似た淡い朱色ののこり火が、日常の裏側にかくれてふだんはみえない微生物の群落のごとくあらわれていた。わたしのとなりに座っていた埋み火の穏和さは、毛先がぴくりと一瞬ふるえたのをさかいにきっかけもなく緊張をはじめ、脚を地面に押しこむようにちからをこめて立ちながら、吠え声をはなつまでの準備にほかならないうなり声を歯のすきまからしぼりだした。旅の空の下、野犬や狼、悪意のある人間たちにかこまれたのを察知したときの、たしかな威嚇の姿勢だった。しかしこんな街なかで、いったいなにをそこまでにらむというのか? 相棒のとつぜんの変容に困惑し、おちつくようにと声をかけながら耳もとに顔を寄せると、ジャジャーはほんのすこしだけこちらの頬を押すようにして顔を寄せかえしてきた。視線がかたくひかれたさきは、中央広場からいくつも出ている道すじのうち、はんぶん裏路地という雰囲気のほそい一本のなかだった。異常なものはなにもなかった。ひとのあまりみえない通りの最奥に、そこを行くひとの服か持ち物か、水に濡れてふにゃふにゃとしぼみ形になりそこなったような、ピンク色のあいまいな四角形が浮かんでいたが、それに反応したともおもえなかった。
 宿にもどったわたしは、湯をもらうついでにおかみさんと立ち話をした。塔についてひとびとが語るさまざまなうわさのおもしろさを報告していると、おかみさんはあはははは、という調子で快活に笑った。
 「そうでしょう? あたしもひとつ、知ってますよ。この地方で降る雪は、ぜんぶ塔のてっぺんから生まれているんですよ。雪はずっととまらずに、いつも湧きつづけてる。塔の上空にははげしい風が吹いてるから、それに乗った雪はとおくに飛ばされて、だから平原のほうはあんなに真っ白なんですよ。こっちの街ではあんまり積もらないでしょ?」
 おもしろいですね。おかみさんは、それを信じているんですか?
 「さあねえ、どうだか知らないけどねえ。でも、この窪地はたしかに、まだ雪がすくない。だからここに街をつくれたんだとおもいますね、すくなくとも」
 いままで、塔をずっと上のほうまでのぼっていったひとってのはいないんですか?
 「聞きませんねえ」
 役所で調査したりとか……
 「それも聞かないねえ。お偉方はなにか知ってんのかもしれないけどね」
 一一階までは役所でつかっているそうですね。でも、門番が見張っているわけでもないでしょうし、過去にはだれかのぼったひとがいたんじゃないですか?
 「いたかもしれない。でも、はなしを聞かないってことは、もどってこなかったんじゃないですか」
 もどってこなかった?
 「雲にでもなっちまったんじゃないですか、のぼりすぎて」
 部屋にもどってジャジャーのからだを拭いているあいだ、わたしのあたまは塔をのぼりつづけるひとつの視界を想像していた。階の構造はおそらくずっとおなじだろう。天井ちかくの大窓からは、つねに空が見えつづけているだろう。あかるさはどの階をも平等に照らしだし、直下の街の広場はとうに見えなくなっているだろう。そこには空と雲と、塔しかない。雲は堅牢なガラス窓のそと、とおくにあったりちかくにあったり、神話の亀のように巨大だったり、妖精たちのつたえあう思念よりも淡かったりするだろう。窓のすぐそばに雲があれば、立ち止まって向き合うだろう。目は雲を慕い、手は雲をもとめ、肌は雲をあこがれるだろう。そのときからだはどのようにしてでも、目のまえの透明な障害をすり抜ける方法を見つけ出そうとするだろう……女とも男とも、ひとともつかないまぼろしの視界に、賢者の一語がかさなった。
 雪は頻々と降った。この街の生が、白さの底に押しひしがれた墓場の息づきとなることはなかった。雪はたいていの場合、夜のうちから降りはじめ、夜のうちには降り尽くし、明ければおおきなすばやい太陽が屋根の上や路上に積もった白さを溶かしだし、昼にならないころには土色の混ざったシャーベットや、靴にぶつかった拍子にくるくるとまわりながら路面をすべっていく氷の断片があたりに散らばった。街の空はよく晴れた。ほとばしる夏のあかるさがそのまま骨抜きに脱色されたような、肉感のなごりをとおくほのかにはこんでくるような、やわらかく冴えたひかりの一日があった。そのような日、太陽は、肌を灼き、汗を呼び起こしては蒸発させゆく強情な天の執念ではなく、細胞を細胞へと復帰させる由来不明の不思議な愛だった。神の観念をともなうことなく、信仰の対象となりうるものだった。まるで消えていったものの忘れがたみだとでもいうように、雲のない昼間のあけすけな青空に雪がまよい出ることもあった。広場のざわめきは一層あつくなり、子どもたちは大口をあけて降ってくるものを舌にとらえようとしたり、両手両足をいっぱいにひろげてぴょんぴょん跳ねたりしてみせた。よろこびと高揚の内出血にも似た、頬の赤さだった。しゃがみこんでゆびをつんつんさしだしながら地面をじっと見つめていたひとりの子が、後頭部を糸でひっぱられたかのようなゆるやかさで顔だけ空に向けてみせると、「てんしさまだ!」と叫んで立ち上がり、五指をひらききった片手をまっすぐ頭上にさしあげてみせた。この白さすべてがほんとうに天使のたましいだとするならば、やどるべきその身はいったいどこにあるのだろう? 塔の頂上からやすみなく雪が生まれているのだとすれば、地下の最奥からはなにが湧いているというのだろう? わたしは塔を見た。太陽になでられてたがいにきらめきを受け渡しながら宙を舞いまどう雪の向こうにみあげた塔は、おもってもいなかったほどにほそく、ほとんど典雅にすら映った。とうぜんのことだった。そのまわりをかこむのに何十人もの握手の鎖が必要な、その円周のひとめぐりについてくるものたちの変転が圧縮された旅の視界であるかのような、そんな法外な太さであっても、出し抜けに優美なほそらかさへと変化 [へんげ] してしまう、無限とはそうした距離のことだった。そのはじまりがわたしたちの住むこちらがわであるなどと、いったいだれが言い切れただろう? 雪の視点をやどせたならば、無限のかなたとは空のあちらがわのことではなく、わたしがいま座っているこの地上にほかならなかった。
 「詩人だねえ、きみは!」
 幽霊男とわたしはときどき、宿で夕食を取るかわりに酒場にくりだすようになっていた。ながくこの街にいるだけあって男は多くの通り、多くの店を熟知しており、ジャジャーを連れていっても疑問なく受け入れてくれる飲み食いの場をやすやすとえらびだした。あいもかわらず青っちろい顔は酒を飲んでも赤くはならず、ただたまごの白身の範囲が鼻のあたりまで拡大し、顎先は剝かれたうえでわざわざニスを塗りかさねられたおもむきとなった。
 「広場にうようよとたむろしているでしょう、絵描きなのか詩人なのかちっともわかりゃしない、じぶんをさだめきれない、半端な芸術家気取りのぼんくらが! あの連中にあなたのはなしを聞かせてやりたいですよ」
 するすると口から飛び出した快調な文句のあとに、「もっとも、ぼくも似たようなもんだ……」というおさまりのわるい独語が尾を引いた。わたしは苦笑した。ジャジャーは気のいい酔っ払いからもらったソーセージのたぐいや骨つき肉をもくもくとかじっていた。
 「あなたも詩を書いてみたらどうです?」
 わたしにその才はありませんよ。
 「でも、広場で物語をうたってるじゃないですか、ヴァイオリンを弾きながら」
 あれはみんな教えてもらったものですからね。わたしが語れるのは、いつもだれかが教えてくれたはなしだけです。
 「そんなもんですかねえ」
 酒にもうひとくち手を出したあと、幽霊男はにやにやと表情を変えた。
 「それじゃあ、こんなはなしは聞きましたか。塔の地下には、天に向かってそびえてるのとおなじだけ、ながいながい、深い深い――塔が空をめざして立つものなら、その地下のほうは、なんと呼べばいいんですかね? ともかく、地下の空間がずっとつづいている。そして、この世界の反対側、星をはんぶんまわったところには、こことおなじような、空と地中の果てまでつづく巨大な塔がもうひとつある、と」
 冗談をまじめに言ってから、じぶんで先に笑ってしまおうというときの口調だった。
 幽霊男は案内人としてひどく優秀だった。ヴァイオリンの調整のため道案内をたのんだわたしを楽器屋につれていくあいだ、その足取りはあきらかな確信をおびながら、だれもが見過ごしてしまうような古い横道や、はいっていいのかもよくわからない店の裏手などをひょいひょい見出し、あえて遠回りしているともおもえないのに、来し方をとても記憶しようのない複雑微妙な経路をたどってみせるのだった。住み馴れた街でまようことができるのは、ひとつの稀有な才能だろう。ひとを自然に、こころよくまよわせることができるのは、もっと得がたい才覚だった。段上の道の下をつらぬいてくぐる短いトンネルのような一角にさしかかったとき、溶けのこった雪のかたまりが道端にわだかまっているのをわたしは見とめた。雪は暗がりのなかできらめきをうしなうことができず、表面をちらちらとまたたかせていた。通路を抜ければ、通りは水のかわりにひかりを満たした箱のようだった。ひらいた頭上に、塔のゆるがぬ立ちすがたが、眼球の上にきざみこまれた線条のごとくあらわれていた。現実を破り、非現実をも突破したさきで、ふたたび鋳なおされ据えつけられた現実のつよさ、常識はずれがそのまま日常をかたちづくっている二重の枠の内をながれるあくまで澄んだ生命の豊穣、それがこの街のにおいなのかもしれなかった。まえを行く男の背中は、さしこむひかりに押されただけでたおれてしまいそうなほどうすっぺらでありながら、まさしく幽霊的にたのもしかった。
 宿の井戸を借りてジャジャーに水浴びをさせてやれるほど、季節はあたたかくなっていた。水がぶるぶるとはじき散らされたあと、すべての毛先に氷の粒を貼りつけたように、ジャジャーのからだが丸ごときらめきをはこんでいるのをわたしは見た。おなじかがやきは、周囲の地面に散らされた水の、うす青いかげのなかにも生まれては消えた。目をつぶってヴァイオリンを奏でていると、「なにしてるの?」という声がそばから立った。井戸の縁に両肘をつき、顎から目の横までを覆うようにして顔をささえている、宿の娘がそこにいた。「おじちゃん、なにしてるの?」
 ヴァイオリンを練習してるのさ。
 「れんしゅう、ってなに?」
 鉢におさまりきらない球根のような顔だった。矛盾というものを知らないだろう年頃の純なひとみに、わたしはちょっとどぎまぎしてしまった。
 うまく弾けるように、がんばってるんだよ。
 「おじちゃんはがんばってるのね! なら、いいことあるよ! お兄ちゃんもそう言ってたもん」
 お兄ちゃんって?
 「《ゾウのお鼻》さんのこと!」
 ゾウのお鼻さん? ってだれだい?
 「だから、お顔が真っ白なお兄ちゃんのことだよ!」
 ああ、そうか。なんでゾウのお鼻なの?
 「だって、ゾウのお鼻みたいに、すっごく白くて、すっごくほそいでしょ?」
 この少女のなかで独特の連想があるらしい、とほほえましく感心したわたしは、ほかの客についてもたずねてみた。肺病婦人は《すなおな赤ちゃん》さん、ナツメ色のお嬢さんは《はじけた枝豆》さんというのだった。なら、あの老人は?
 「おじいちゃん? おじいちゃんは、おじいちゃんだよ」
 じゃあ、おかみさんはなんていうんだい?
 「おかみさん? おかみさんかあ。うーん……わかんない!」
 のこるはひとりだった。聞くまえに、少女のほうから言い出した。「テオドールさんはねえ、《お墓の穴掘り人》さん! テオドールさんったら、ひどいんだよ。わたしがおはなししにいったり、あそぼうとしても、いつも逃げちゃうんだから!」
 ぷりぷりとした調子で頬をふくらませた娘は、その風船を両手でぷしゅうとつぶしてみせると、やわらかなじぶんの顔をつまんで両側にひき伸ばし、それをまた両手でつぶすうごきをくりかえした。そうしながらも、目のかたちは不満のそれにかたむいていた。わたしはふたたび、ほほえましくおもった。このかわいらしいあそびが、この子の怒りの表現なのだ。まだ怒りという感情をほんとうには体験したことのないおさなさが、なにかのまねっこのようにして身につけた、いたいけなしぐさ。まなばれつつある感情は、なにかちいさなきっかけがあればすぐさま引っこみ、わすれられ、あとになってからまったくあらたなあざやかさとして、ふたたびあらわれるだろう。目のおおきすぎる台風のようなものだった。
 そのとき、呼び名をまだたずねていない滞在客がいることに、遅ればせながらわたしは気づいた。生まれて以来はじめておもいだした記憶の味が、かすかに鼻にただよった。
 わたしは?
 「おじちゃん? おじちゃんはねえ……」
 うーん、とかんがえこむひとの姿勢を取っていた少女の顔は、とつぜん、ぱっとあかるく様変わりした。長年どうしてもつかえなかった魔法の呪文をようやくものにできたときのはなやぎだった。
 「ひーみつー!」
 そう叫んできゃはきゃは笑った少女は身をひるがえし、ジャジャーのほうにちかづくと、きらめきのすくなくなったそのからだを見つめながら、「おなまえ、なんていうんですか?」と口にした。おしえると、「ジャジャーちゃん! ジャジャーちゃん!」とくりかえしながら、おおきなからだに抱きついたり、あたまや背中をなでてやったり、果ては背にまたがって、顔から腹までべたりとひらたく寄り添わせながら憩うのだった。それらすべてをいつもどおりの落ち着きでつつみこんでみせるジャジャーは、人間の親よりも親らしく見えた。
 ジャジャーはお腹をなでられるのが好きだった。そこだけうっすらと白さがのぞくからだの下側に手をすべらせると、いつものおだやかさとはうって変わって、仰向けの身をおもしろいようにくねらせて、ここちのよさそうな顔をするのだった。そのようにたわむれたり、汚れを拭いたりしてやっていたその夜、毛づくろいの最中に、首もとに毛の抜けた箇所があるのをわたしは見つけた。首のちょうど真後ろからすこしだけ左にずれた位置に、周囲の毛によって輪郭を乱されながらもぽっかりと、ちいさな楕円形の穴がひらいているのだった。地肌をさわっても、ジャジャーは痛そうにも痒そうにもしなかった。さいわい、ちょうど首輪の下に来る場所だった。
 路銀はあつまりつつあった。いつものように広場で商売をしたあとの帰り道、わたしたちは宿へとつづく木立の道をとおっていた。夕暮れの陽の金色は木々をきしませかねないほどにあつく、鎚の一撃めいて破砕的にこずえに収束していたが、おなじひかりはわたしたちの顔や肌にはあたたかく染みこみ、風景のなかへとまねき入れてくれるのだった。わたしがあるくと、ジャジャーはあるいた。ジャジャーがとまればわたしはとまり、ジャジャーがあるけばわたしはあるいた。となりを行く赤褐色のからだは金色に覆い尽くされて淡くひかり立ち、毛の先端はうつろなまばゆさとなった世界とのさかいのうちに希薄化していた。首輪の石のエメラルド色がひかりをのんでつやめいているのが、見ないでもわかった。
 宿のちかくまで来ると、入り口からひとの出てくるすがたが遠目にみえた。ローブのような服を着ているらしいそのひとかげは、ひろがりはじめたたそがれのなかで、ひときわ煤っぽい黒さだった。入ってきたわたしの顔をみるやいなや、おかみさんは、「いま、テオドールに会わなかった?」と言った。
 それらしいひとを見かけはしましたが。
 「お客さんのことをはなしたんだけど、それはぜひ、お会いしておはなしを聞いてみたいですね、なんて言ってんですよ。そのくせに、じぶんから会いに行こうとはぜったいにしないんだから。しょうがない子ですよ、まったく」
 夕食後、みなでテーブルにとどまってはなしをしている最中、ナツメ色のお嬢さんがながく咳きこんだ。視線を緩慢にあげた退役軍人は、向かいの顔をしばらくみてから、卓上におりたたんで置いてある新聞に目をもどした。「あら、大丈夫? わたしの咳がうつったのかしら。ごめんなさいね」 そう言うと肺病婦人は、いまは咳きこんでもいないのに、ハンカチで口もとを覆ってみせた。「いえ、寒さにちょっとやられただけだとおもいます。きょうはすこし、冷えましたから」 お嬢さんはこの街の出身ではないらしかった。文房具店と居酒屋のしごとを掛け持ちし、いずれ街を出るための資金をためているとのことだった。「生まれてすぐにうつってきたので、出身みたいなものですけどね。でも、いまはひとりになってしまったので」 やはりこほこほと咳が出るのでもう休むと椅子から立ったお嬢さんは、暖炉のそばにうずくまっていたジャジャーのからだにつまずきかけ、きゃっとちいさな声を漏らした。靴が雪を踏みしめるときに一瞬立つ音のような、甲高いけれど耳にさわらない声だった。「ごめんなさいね、ジャジャーちゃん」としゃがみながら謝ったお嬢さんは、その背をなでながら、つづけて二言三言、ぼそぼそと声をかけ、それから立ち上がると老人のうしろをとおって食堂を去っていった。元軍人はお嬢さんが室を出てから首をまわしてジャジャーのほうを見やり、さきほどよりもながくじっと見つめたあと、うつむき顔にもどるとともに、コーヒーのカップを口にはこんだ。その夜、ジャジャーの首の穴はふたつに増えていた。喉の下からすこしだけ左にずれた位置に、輪郭の乱されたちいさな楕円があらわれていた。
 「金はあつまったのかい」
 わたしと幽霊男はふたたび酒場にやってきていた。ええ、ぼちぼち、とこたえると、男はいつまでも青っちろい顔をにやにやとうごめかせた。「なら、そろそろ出発かな。たのしかったよ、いろいろとはなしを聞けて。ぼくもたまにはね、雲みたいに漂泊の旅に出て、各地をまわって、なんて夢想したりもするけどね、なかなかどうも」
 あなたもそうですけど、みなさん、ここで暮らしてだいぶながいみたいですね? あのご老人なんてとくに。
 「しばりつけられてんですよ、この土地にね。まるで先祖代々、ここで殺されたみたいに」
 そう吐いた顔は、食い物をわけてもらえない序列最底辺の悪鬼のような表情だったが、目だけはこの男が健康だったころにたたえていただろう凄味を一時、とりもどしていた。「もっとも、ぼくも似たようなもんだ」とつづいた声には、自嘲のざらつきが砂塵のようにからまっていた。
 テオドールさんはどうなんです?
 「テオドールか! あいつはしょうがないやつですよ。あんなに塔にご執心で、図書館でなにかの研究をしてるんだろうが、いったいなんなのか、まったく想像がつきませんね。まあ、まだ若いから」
 この男は何歳なんだろう、とわたしはおもった。グラスをあおった幽霊男は、それを置きながら喉を鳴らすとわたしの顔をまともに見据えた。時のながれに逆らうかのような緩慢さで、ふたつのひとみがつうっと真横にすべり、わたしのとなりを、そして斜めうしろの空間を見さだめた。
 「ところで、きみの相棒はどこにいったんだい?」
 幽霊男とともにわたしは広場への道をたどっていった。雪が降り出していた。ひとびとは寒風のなかで家路をいそぎ、あるいは暖をもとめてさまよっていたが、いずれにしてもその数はすくなかった。中央広場にひとかげはないようだった。刹那刹那に更新をくりかえす白さの点描にいろどられた夜闇のさき、塔の方角にうごきがみえた。
 「ジャジャー?」
 まっすぐ駆けてきたジャジャーは、口に首輪をくわえていた。それを受け取ると、わたしの顔をいちど見上げて、それからからだをすりつけるように足のまわりを一回転し、はげしく吐息を切らせながら一目散に走り出した。ぶつかりそうになった男の存在には、気づいていないかのようだった。入っていったのは、広場から出ている数ある通りのうちの一本だった。わたしは無言でそのすがたを見つめつづけ、男もまた黙りこくっていた。顔が、出された料理を平らげたときとおなじ白さに、一層白く照り映えていた。雪を吸ったかのようだった。
 翌朝、ジャジャーはなにごともなく帰ってきた。首もとの穴はなくなっていた。塔のてっぺんには、天国へ続く七つの階段があるという。その一段一段、ひと踏みひと踏みは、天使にとってのものであって、われわれにとっては塔そのものとおなじく、無限にたかい壁だろう。天と地を、あるいはこの星をつらぬいて宇宙と宇宙をつなぎわたすことも、わたしたちのわざではなく、天使たちのいとなみにちがいない。ジャジャーはもう、首輪をつけようとはしなかった。