三日の日曜は八時台に起きていった。居間にあがるとテレビは秋田県横手市をとりあげている。いぶりがっこをつくる老女のドキュメンタリーのようだった。ストーブのまえで屈伸したり腕をまわしたりしているうち、番組はもう終盤だった。音楽がながれはじめた。ピアノで弾き語る女声だった。まだまぶたの重いような起きぬけだったが、耳とあたまは反応した。音の高さをぴたりとあてきらない微妙なゆらぎがマイナスではなく特色となるタイプのうたいてだった。文句なくうたのうまいプロが排除してしまう素朴さがこわいろのなかにまるくひびいていた。メロディラインのところどころに、経過音かテンションノートか、この音、という一音がしこまれていた。なかなかいいなとおもった。中村佳穂をちょっとだけおもう瞬間もあった。じきにおぼえが生まれてきた。これ、空気公団じゃないか? とおもった。番組が終わってクレジットが画面右下にうつったので、ちょっとふみだして目を寄せると、寺尾紗穂 "魔法みたいに"とあった。いまWikipediaをみると、空気公団のひとではない。シュガー・ベイブのベースをやっていたひとが父親で、初期には尾崎翠の詩なんかに曲をつけていたとある。
 昼の『のど自慢』には花*花が出ていた。まだ現役だったのかとおもった。失礼だが。大阪府枚方市が会場だった。たぶんそっちのほうが出身で、関西で活動しているんじゃないか。この日の『のど自慢』でいちばんの発見は、生バンドによる演奏がなくなっているということだった。舞台上に楽器は鐘しかうつらない。音源はぜんぶ打ち込み再生ではないか。それはすこし残念だった。花*花は"あ〜よかった"という曲がむかしヒットして、ききおぼえがある。「ああ〜よかったな、あなたがいて〜」というやつだ。参加者中、このうたをうたうひとがいた。ながれだしたAメロのバックが、意外といいなとおもった。ミドルテンポのチャキチャキしたリズムで、地味だがスタジオミュージシャンが腕をみせてきっちり締めそうな、ピアノがもうすこしころがったりはねたりすればソウルの毛色がにじみそうなポップス、九〇年代のJ-POPというかんじだった。番組のさいごで花*花じしんが披露したが、サビよりA部のほうがいい。参加者中には中学生や高校生もおり、おばあちゃんが好きだった曲をとか、祖父にとか語っていて、おばあちゃんっ子、おじいちゃんっ子というのは意外とまだいるのかなとおもった。しかしもっと歳の行った二〇代の若者もそういうことを言っていたり、壮年でも老いた父にとか言っていたので、ずいぶんおおい、家族の強調はNHKの演出なのか? とおもった。
 『ダーウィンが来た!』という番組がある。毎週日曜日の午後七時からやっている。さまざまないきものの生態を紹介する、生物学的娯楽番組というところだ。父親はこれをみるのが好きだ。ここ数か月、母親は夕食のまえに風呂にはいるようになっている。さいしょはたいがい父親がはいるが、そのあとにつづけてはいったほうが沸かし直しがいらず、ガス代がそのぶんかからないという理屈だ。母親がさきに食事をはじめるときは、『ナニコレ珍百景』をうつすことがおおいようだ。父親は母親がとなりに来れば、こたつテーブル上、膳のむこうに横向きで立てたタブレットでじぶんのみたいものをみる。この日、風呂に行く母親に父親がそれをみないのかとかけると、あ、そうなの? と母親はかえした。父親はそうなのってと苦笑し、こちらもおもわず笑った。『ダーウィンが来た!』はまともにみてみればなかなかおもしろい。生態の多様性もさりながら、つぎつぎにうつりかわっていく世界各地の環境や植生、背景やいきもののいろあいの変転が目に興だ。日暮れたタイの靄がかったような風景とか、そこの川にいるという、泥土色の身のなかで尾びれのほうがあざやかに赤い小型のアロワナみたいな魚とか。この断片的な具体性の連続はもう小説ですわとおもいながらみていた。この日のテーマはなんだったのか理解していない。はじめのうちは鳴き声で求愛する鳥をやっていた。じきに声だけでなくうごきで求愛する鳥や虫をみせだした。そのなかでひとつ、印象深かったものがある。たしか沖縄のものだった気がする。なんとかいうカメムシで、このオスは葉っぱのうえでメスのまわりをぐるぐるまわりながらダンスのステップめいたうごきをみせる。それは振動によって求愛を伝えるのだと。だから葉っぱのうえでなければならない。振動で愛を伝えるというテーマがひっかかった。これは「五つの聖なる物語」のうち、第四の物語「おそろしきうみをたたえよひとら」につかえるかもしれないとおもった。夕食いぜん、部屋のベッドで屍になっているあいだにこの物語のことをかんがえていた。麻婆豆腐をつくっているあいだもいくらか思念がめぐっていた。『ダーウィンが来た!』をみているときにも、つかえるものを探すというよりは、小説のことを念頭に置きつつ、なにかが向こうから来るのを待っているようなあたまになっていた。第四の物語はばくぜんと古い時代を想定している。太鼓や打楽器の演奏、その振動によってあいてに愛をつたえるという結婚式の儀礼があるのはどうだろうか? 画面はそのうち、浜辺をうつした。オーストラリアではなかったか。さしてきれいなビーチではなく、砂のうえにはバーベキューのあとにのこった炭や煤の山のような、黒いなにかがしばしばひろくを占めていた。海藻らしいなとみた。ながれついてきてカラカラに乾燥したものだろうと。ここでは浜を行き交うちいさな鳥が紹介されて、その子はいかにもふわふわとした毛玉めいた丸さでかわいらしかった。親鳥はコヨーテなんかがあらわれると、砂のうえでバタバタうごきまわり、じぶんがおとりになって子をまもるという。バタバタダンスはともかくとしても、この鳥やコヨーテは浜辺の一員としてつかえるかもしれないなとおもった。浜犬もしくはハマイヌというのを出すのはどうだろう。ふたたびほそながくのびている黒いものたちがあらわれたので、あれ……と口をひらき、海藻? と父親に聞いてみた。確認のつもりだった。そうだよ、とかえった。海藻ってああやってながれつくの、海の底に生えてるわけでしょ、それが切れちゃって、と聞かずもがなをつづけると、どれにも肯定が来た。父親は利尻島のはなしを出した。太い昆布が海底にたくさん生えて、ジャングルみたいになっていると。これも海中の風景としてつかえるな、とおもった。はなしは切り替わった。どこの地域のことだかは父親もおぼえていなかった。ウニが異常繁殖してしまい、ああいう海藻をみんな食べてしまう。それで海が砂漠みたいになっちゃって、と来た。これだわ、とおもった。海が砂漠化する。これで第四の物語のおおきな背景、その発端が決まった。第二の物語では、砂漠を放浪するとちゅうで岩場にやすむ「彼」が、砂漠から海を想像するシーンを書く予定でいる。男女逆転の世界である第三の物語を経由して、それと対応するのが四つめにおける海の砂漠化という状況背景だ。はなしはつづいた。ウニが海藻を食べてしまうと、海藻じたいがとれなくなるのでまず困る。さらに、ウニにとっても食うものがなくなるので、餌がなくなって身が弱くなり、ウニの質もわるくなる。そもそもなぜウニが大量に増えたのか? それはなんでだったかな、わすれちゃったけど、まえにテレビでそういうことはみたねと父親は言った。これらをまるごとそのまま第四の物語の発端にできる。ウニが異常繁殖する。海藻がなくなってしまう。漁師が困る。じきにウニじたいも餌がなくなり、質がわるくなったり数が減ったりする。海が荒れる。原因がわからないのは、水神のたたりだということにされる。
 第三の物語「孤独のなかの神の祝福」は、「赤目」と「青目」というかたちで人種差別を盛りこむ。差別の遠因となったような起源的神話をかんがえるとも言った。夕食前に屍になっているあいだ、その神話は第三の物語じたいのなかには書きこまず、第四の物語がそうととれるような構成にするのがいいのでは? とおもっていた。ただ、そこで「赤目」と「青目」をあからさまにもういちど出すのはどうだろうという疑問がある。どちらかの民族だけがいて、なんらかの経緯があって二色に分かれるようになったという案もかんがえてはいた。しかしそれいじょう詰まらない。第三の物語をはさんだ逆転的対応をかんがえるならば、第二のはなしのテーマカラーは黒なのだから、第四のひとびとも黒髪黒目の民族にするのが妥当になる。日本人風のイメージになるかもしれない。ただ、第三のはなしはアメリカンな感じになるだろうから、そこをつなげるのがむずかしそうだ。第四のひとびとがどのように赤と青に分かれ、差別がはじまるのかという経緯もおもいついていない。ともあれ、第二の物語では、白髮の民のなかで黒髪黒目は忌み子とされる。それが「彼」であり「彼女」だ。忌み子はそのまま砂漠の王とされる。この構図を第四の物語に援用するなら、黒髪黒目の民のなかで、白髮白目の例外的な存在がいることになる。そういう風貌の男が水神のつかいとして何年かにいちどやってきて、里の女子をひとりえらんでまぐわい、そのちからで女子は白髮白目に変化し、水神の巫女とされるというのはどうだろうか。第二のはなしで「彼」と「彼女」は性交をしない。第四のはなしでは男女がまぐわうことになる。そこも対応する。この設定を採用したばあい、語り手はなんとなく、巫女となる女子の女友達である「わたし」になるような気がしている。
 逆転というテーマにそって五篇の対応をかんがえるなら、さいごの、「魔法使いのさびしい目つき」も、第一篇「塔のある街」となんらかのかたちで応じていなければならない。第五の物語はおそらく、山のうえの城砦都市を舞台とする。標高は高い。チベットやペルーなんかをイメージしている。三〇〇〇メートルいじょうになる。ここのひとびとは下界の民とずっとあらそいつづけており、山をのぼって襲撃してくるかれらを撃退しつづけている。そこで魔法使いになるための試練を受ける少年の手記という設定をかんがえていた。その試練が、山のうえからはるか地下に向かってずっともぐりつづけること、地下ダンジョンのようなものを最深部まで下りていくこと、というのはどうだろうか。あるいは、この少年はもう見習い魔法使いになっていて、城砦都市がついに陥落したさいにその秘密の抜け穴からひとり逃れ、ひたすら地下へと前進することになる。そっちのほうがいいかもしれない。そのさきで下界の民のすみかにたどりつくのかどうか、まじわりが起こるのかどうかはわからない。「塔のある街」にはこれでもかというほど雪と白を書きこんでしまった。ならばさいごの篇もそのラストで、少年はなにか白いものに出会う、もしくはたどりつかなければならないだろう。
 これらの構図的対応はあからさまであざとい。じぶんのなかでこの五篇はそういうものとして発想されているような気がする。