2014/2/24, Mon.

 正午を過ぎて起きるという救いがたい寝坊をした。もはや寝坊というより常態になりつつあるこの生活習慣をどうにかしなくてはならなかった。米、納豆、野菜炒め、豆腐を食して、Sinergy『Beware The Heavens』を流しながら二月二十二日の日記を書いた。二時半までかかった。それから風呂に入ったが、湯に包まれながら昨日のことを思いかえして、もう少し丁寧な言い方をすればよかったと反省した。Nさんに対してはそうだし、著書についても、文調に対する感情的な反発が先に来ていたことは否めず、少なくとも方法的には肯定的な捉え方もするべきだった。ただそう考えたあとでもあの書きぶりはどうなのかという疑問はやはり残って、何よりも著者が学問を標榜しながら挑発的な書き方をするのにほとんど生理的な嫌悪感とも言えるものを抱いたのだった。ポピュラリティを目指した本とはいえ、やたらと皮肉や煽りを入れたり、ひとつの文献だけをあげて(あるいはときには直接典拠も示さないで)通説だとか常識だとか断言するのが学問なのだろうかという違和感は払拭できなかった。
 それとは別に、この先どんどん他人から離れていっていつか一人になるのではないかという予感にとらわれて薄ら寒い思いをした。これから出会う人間のなかに、どのような書き方であっても、わずかであっても日記に書かれたくないと思う人はいるだろうし、こちらが日記を書いていることを知らない今の知り合いのなかにもそのたぐいの人がいるかもしれない、彼らが仮に日記の存在を知って自分のことは書かないでほしいと言ったときに、じゃあいいや、と躊躇なく関係を絶ってしまいそうな予感があって、少なくとも確実にそれ以前より疎遠にはなるはずで、結局それは他人を書くための材料としてしか見ていないということではないのか、と考えた。他人のことは書きづらい。このくらいは書いてもいいだろうと思ったことでも当人にとっては触れられたくないことであるかもしれない。そのあたりを考えるのも面倒だ。だから自分一人で完結することだったり、風景だったり、こちらとは何のかかわりもない通りすがりの匿名的な人間のことを書くほうが気が楽だし、そういう思考が意識的なり無意識になりあって少し前からは他人のことはあまり詳しく書かないようになったはずだった。
 新しいイヤフォンはコードが長いのが煩わしかった。Hank Mobley『Soul Station』を流してWynton Kellyの粒立ちのはっきりしたピアノを聞きながら駅を歩いた。都立高校受験当日で、泣いてもあがいてももう試験は終わってしまった。試験帰りに寄った生徒はみな口を揃えて落ちたわ、と嘆いた。明日から学年末テストがはじまるが、一、二年生はともかく、三年生の学年末試験などあってないようなもので、教室内は弛緩した空気に包まれていた。
 帰宅して麻婆白菜、米、豚汁、焼き鮭を食べて風呂に入ったあと、High Five『Split Kick』を久しぶりに流しながら今日のことをノートにメモし、それが終わるとVirginia Woolf "Kew Gardens"を流してシャドーイングをした。ギターをもてあそんだあとにAstor Piazzolla『The Central Park Concert』、The Style Council『Cafe Bleu』をBGMにして午前一時半までかけて二十三日の日記を書いた。