2014/3/20, Thu.

 橋爪亮督『As We Breathe』は以前一度借りたのがいつだったのかもはや覚えていないけれど、そのころはちっともおもしろいと思わなかったはずが、今回きちんと聞いたわけではないが普通に楽しめるようにはなっていて自分の成長を感じつつ阿部公彦『小説的思考のススメ』を読んだ。文章の書き方が与える効果や印象を出発点にして作品を解読していく手つきは丁寧でそれなりに楽しめるけれど、どうにも心底からおもしろいと称賛できないのはやはり意味の掘り下げに向かっているからか。それからscope『太陽の塔』『野中の薔薇』と流しながら保坂のHPからエッセイをいくつか読んだが、こちらのほうがおもしろいあたり、自分はやはり保坂と相性がいいらしいし、小説論三部作をわりとはやい時点で読んでおいたのは僥倖だったのかもしれないという気もする。最初は「みすず」に連載されたエッセイを読んでいたが、カフカ『城』についての文章を発見して、これは三部作のなかにもあったような記憶もかすかにあったけれどもう一度読んで一時半をむかえた。リビングに上がって朝食を食べたのが十時ごろだったからたいして腹も減っていないのにカレーを二杯、押しこむようにして食べて、バルト『批評と真実』を読みはじめたが、足下の寒さからこたつに入ってしまったのが運のつきで、頭がしびれるような眠気に負けて四時過ぎまでうとうとした。読書をつづけて五時になり、薄暗くなって文字も読みにくくなってきたのでカーテンを閉めて食卓の上の電気だけをつけて、シャツにアイロンをかけてから部屋に戻り、ギターを弾いた。最近はなんだかんだでよくギターを触っていて、以前と比べて明確に感じるのは自分の音に対する注意が高まっているということで、それによってフレーズの組み立てがうまくなる、そういうこともないとは言えないけれど、結局は練習をしているわけではなくて適当に弾いているだけだから出てくるフレーズはすべて手癖みたいなもので、手癖を繰りかえしているうちに偶然その枠から外れることがあって、それはその一回では掴みきることはできなくてすぐに再現もできないけれど、そこで外に出たという記憶は脳だか指だか知らないがどこかに残っていて、弾いているとまた同じところで偶然コースを外れてそれを何回か繰りかえしているうちにフレーズが広がって新しいフレーズも手癖のうちに入っている、そういうことをつづけているとフレーズの幅自体は広がるけれどそれらを組み立てる力はまた別物なのでギターがうまくなったとは言えない。そろそろ風呂に入ろうかと洗面所のドアを開けるとちょうど母が帰ってきて、疲れた、と大げさに叫ぶが大げさに叫ぶくらいの気力はあるのだから元気なものだ。風呂から出て餃子を焼いて夕食にした。カレーを食べていると吐き気とはいえないものの咀嚼しているものをのどのほうから押すような満腹感があったがかまわず餃子もゆでたキャベツも食べていると胃の受け入れ体制がととのったらしい。テーブルの上には職業安定所の裏の店で買ったというパンたちが袋に入って置かれており、もう閉店前だからサービスしてくれたと母が差し出したそれはレーズンパンで、灰色と茶色が混ざった色の断面に無数の黒い粒が埋まっている様子はなにか虫の巣かあるいはその卵であるようなグロテスクさを感じた。ピザパンを取り出してレンジであたためた。
 小澤征爾Dvorak: Symphony No.9』がやはりいまのところクラシックでは一番好きで、それだからFritz Reinerが指揮の盤も昨日借りて、それと、同時に借りたGrateful Dead『Anthem of the Sun』のデータを記録したあとは落書きをしてから日記を書いた。