2014/4/2, Wed.

 途方もない寝坊をして正午を過ぎて起きた。母が一度部屋に起こしにきたのをねぼけた頭でむかえたがそこからふたたび眠りつづけた。重苦しい倦怠と空気がかすれたような息苦しさがあった。昨夜の回鍋肉が残っていて、それをどんぶりによそった米にのせて食べるあいだ、十一月初めの日記を読みかえした。話にならない駄文で、他人を書いているつもりで自分を書いていることに気づいていないのが恥ずかしく許しがたかった。この月の分は読む価値がないのではないかとすべて削除したくなったが、ともかくも読むだけは読むことにして消去するのは五日の分までにとどめた。
 Brad Mehldau Trio『Progression: The Art of the Trio Vol.5』を流しながら昨日の日記をつづった。途中風呂を洗い、洗濯物をとりこみ、ストーブの石油を補充した。薄曇りの日で寒くはないが、やや湿り気を含んだ風が吹き、もしかすると雨の予感もあった。梅の花は落ちきって白はかけらもなくなり、かわりに枝には朱色の粒が隙間なく並んでいた。隣家の柚子の木からはついに実がなくなっていることに気づいた。
 蓮實重彦『絶対文藝時評宣言』を読了はしたものの書きぬきに移れず怠惰に過ごし、五時を過ぎてようやく書きぬきはじめた。Istvan Kertesz & London Symphony Orchestraドヴォルザーク交響曲第八番と第九番をやっている音源を流した。モニターを眺めていると頭のなかになにかかたいものがうごめくような疲労を感じ、額をこすった。肩にしろ腰にしろ身体が凝り固まっている感触があった。プルーストを持ってリビングに上がり、カーテンを閉めた。フローリング床の上に座布団を一枚敷いて、その上に拳を立てて腕立て伏せの姿勢をとり、腕を曲げるのではなく腹や背中の筋肉を伸ばすようにして体を上下させた。プルーストを立ったまましばらく読んではまたそれをおこなった。そのうちに風呂がわいたので入浴をすませた。釜のなかには米があるにもかかわらず、煮込みうどんがどうしても食べたかったので冷蔵庫から乾麺を一束とり出した。大鍋に湯をわかしているあいだにキャベツを切った。ようやく沸騰した湯に円を描くように放りこんだ細い麺が泡のなかで踊るのを見て、それがうどんではなく素麺であることに気がついた。疲れているらしかった。もっとも素麺でもかまうことはなく、もう一束追加して二分ほどゆでてざるにあげ、小鍋にめんつゆを薄めて玉ねぎと一緒に煮込んだ。冷凍ハンバーグもレンジで解凍して食べていると母が帰宅した。
 腹は減っていて食べ物はうまくても食欲がともなわないような感覚は精神の恒常性がわずかに崩れていることのあらわれで、食事中から頭痛の気配もあった。薬を飲んで、今日はなるべくはやく寝ようと決めた。ケルテス指揮のドヴォルザーク交響曲第九番を流し、『失われた時を求めて』第四巻を読みすすめた。「新世界より」の豪壮な第四楽章がはじまったとき、本ではロベール・ド・サン=ルーが登場しはじめたところだった。キース・ヴァン・ドンゲンが淡いタッチで挿絵に描いたサン=ルーの服装はたしかに「柔軟なエレガンスを備えたもの」で、同じ色の空と海を背景に砂浜に立ったその姿のなかでとりわけジャケットの桜色が目についた。
 十時をむかえる前に音楽は終わり、本も閉じた。以前はこの時間になると日記を書きはじめたが、いまではその気も起こらず、下書きをもとに前日をふり返りながら記すことにも慣れた。三宅誰男『亜人』ボット化をすすめた。BGMはJack's Mannequin『Everything In Transit』を選んだ。ガムを一粒とっては口に運び、数分噛んで、口内を冷たくするミントの味に倦むと吐き出し、それでいて清涼感がおさまるとまたボトルのふたをあける、そんなことをくり返した。音楽が鳴りやんだのを機にこの日の作業も停止した。亜人が死体の顔を修復する場面にさしかかっていた。このあとに、一文が必然を持ってはまりきったこの小説のなかでもとりわけ完成された蟹の場面が来るのだ。
 十一時になるとさっさとPCを閉じて、歯を磨きながら磯﨑憲一郎『往古来今』をわずかに読んだ。ベッドに寝転んで、枕元にあったミシェル・レリス『幻のアフリカ』を読んでいると、母が部屋に来てやっぱり仕事やめたほうがいいかな、と言った。一年以上も前からとっととやめろと言っているのに、迷うそぶりを見せながらその実母の意思は(おそらくほとんど無意識的な不安とも言うべきものによって)凝り固まっており、こちらがなにをどう言ったところで結局彼女はその確信に立ち返ってそれを強化することにしかならないのだった。自己を対象化することを知らない人間にかける言葉などなかった。母が去ってまもなく電気を消して、『族長の秋』をぼそぼそとつぶやきながら眠りを待ったが、覚えているところまで暗唱しても一向に眠りがやってこず、空転しはじめた思考を断ち切るために呼吸を数えはじめた。中断をはさんで合わせて百ほど数えたころには意識を手放しかけていた。