2014/5/30, Fri.

 五時に覚めてまどろんでいたらアラームが鳴った。七時を過ぎて起きた。父はまだいた。朝食を皿によそっていると、じゃあ行ってくるよ、と言って出ていった。つかれているような声だった。菜っ葉と目玉焼きがおかずで、菜っ葉はすこし苦かった。
 光が窓のかたちに切りとられてベッドに落ちた。空と似たうすい色のシーツは浅く波立って、布団はたたんでいないからぐちゃぐちゃだった。Andre Ceccarelli『Carte Blanche』を流した。昨日の日記を書いてもまだ九時前だった。だから油断して、だらだらしていたら十時だった。BBCNew York Timesの記事をすこしだけ読んで、古井由吉『鐘の渡り』を書きぬいた。音楽はAndre Ceccarelliを『Sweet People』、『3 Around the 4』と流した。前者はサックストリオで、後者はピアノトリオのThe Beatles集だった。意外と時間がかかって、十二時になった。窓を閉めていても暑くなかった。あけても風はおだやかで、涼しさが一気にすべりこんでくるわけでもなかった。正午の陽ざしが真上から落ちて近所の屋根を銀色に光らせた。空では雲が光みたいなすじになって、水色にうすくまぎれた。
 米と納豆とみそ汁の昼食をとって、リビングのソファで柄谷行人『反文学論』を読んだ。読むつもりも読まないつもりもなくて、ただいつの間にか読んでいた。一時半まで読んで、家事をすませた。風呂は入らないでシャワーにして、家を出るまでのあいだは何をしていたのか思いだせない。思いだした。ギターをおざなりに弾いていた。弾いていたら棚に積んである「群像」が目に入って、一冊ずつ表紙を見ていくと、二〇一一年十二月号に古井由吉松浦寿輝の対談があったから、弾きながらそれだけ読んだ。もしかしたら読んだのは風呂に入る前だったかもしれない。
 暑かった。西から照った陽ざしが肩や頭にたまった。脇のあたりに汗がにじむのがわかった。だけどふらふらしなかった。うしろに引き寄せられそうになる頭を腰がしっかりとどめていた。行く先の空は、ミルクを落としてなでて伸ばしたみたいに雲がさらさらと流れていた。駅のほうにまっすぐいかずに、図書館へ曲がった。踏み切りが閉まった。アパートの日かげに入って待った。小さい女の子は太陽を気にしないで踏み切りのそばで待った。そのうしろに日傘をさしたおばあさんが並んだ。電車が通ると、踏み切りのむこうにある図書館と踏み切りのこっち側の道が、くすんだ緑色の窓に包まれて重なって混ざったけれどまたすぐに分かれてしまった。窓ガラスはその先にあるものも映す鏡だった。急にあたりが暗くなった。西を見ると、蒸気みたいな巨大な雲がひとつだけふくれあがっていて、そのまわりの空はまったく濁りがなかった。図書館は特別整理期間で休館だった。小さい家みたいなブックポストにプルーストと『鐘の渡り』を入れた。貼ってある紙を見ると、中央図書館も二日まで休みだった。
 四時間くらい働いた。つかれた。
 夜道を歩いていたときのことはおぼえていない。たぶんなにかを考えていた。裏道を通ったから光が少なくて空がよく見えて、夜がきちんと澄んでいたから星も出ていた。八時だから夜空はそんなに沈んでいない気がした。またジンジャーエールを買って帰った。夕食を食べていると、父が帰ってきた。めずらしくはやかった。またすぐに歩きに行ってくる、と言って、母はやめたらいいのに、と言った。
 「好きにさせろよ」
 「まあ、お酒ばかり飲んでるから歩いたほうがいいね」
 「別に飲んでるからとかやせたいとかで歩くわけじゃない」
 家にいたくないんだってさ、と母に言うと父は吹きだした。ジャージに着替えて出ていった。『反文学論』を読みながら食べていたら、いつの間にか食べ終わっていた。夕食後なにをしていたか覚えていないけれど、風呂に入ってからはまた『反文学論』を読んでいて、日付が変わる前に読みきってしまった。驚いた。そんなつもりはなかった。ガムを食べるみたいに本を読んでいた。歯をみがいて布団に入ってからも古井由吉『蜩の声』をすこしだけ読んでから眠った。