2014/6/4, Wed.

 おとといよりも涼しかったきのうよりもっと涼しかった。朝はゆうべの野菜炒めの残りと米で、納豆は食べなかった。茶を飲んでひと息ついてトイレに行くと時計が八時半だった。十二時までに書ければよかった。ここ数日古井由吉を読んでいたから、新しいふうに書く欲求がたまっていた。おさまりがつかなくて、頭に浮かぶ文章がもうそうなっていたから、一日だけやって解消することにした。日記は十一時に書き終わった。毎日ああいうふうに書くのは無理そうだった。
 ハムエッグを焼いて米にのせた。いつもどおりの食事で、十分もかからない。シシャモの残りが冷蔵庫にあったけれど、食べなかった。部屋にもどって古井由吉『蜩の声』を書きぬいた。Enrico Pieranunzi『Doorways』を流した。上にあがって、タオルだけ入れてたたんだ。空は雲に囲まれたなかに青の隙間が見えて、きのうは真っ白だったのに、今日のほうが陽ざしが弱かった。雲もその下の青も色がうすくて、あるのかないのかわからないような感じだった。雨が降るような気がした。
 風呂を沸かしているあいだにウルフの"Kew Gardens"をすこしだけ訳した。モニターの前にじっと座って文をつくっていたら、突然頭に電流が走ったような感触があって、くらりとした。動悸が静かにはやくなった。水を飲んだ。薬も飲んだ。モニターを見ているとくらくらしてくるから、閉じてベッドに寝転がって深呼吸をくりかえした。横になっていてもすこしくらくらしているようだった。こういうとき、まさか脳内出血とかではないかと考えるくせがついている。からだの状態の変化に集中した。頭は痛くないからちがったけれど、神経症だから不安だった。四十回くらい呼吸して、ゆっくり起きあがって、上にあがった。風呂に入ろうとして洗面所に入ったら、息がすこし苦しくなって、後頭部には熱はなくて冷たいまま焼けるような感じがあった。いったん部屋にもどって薬を追加して、覚悟を決めて風呂に入った。意外と大丈夫そうだった。下を向いてお湯をあてて頭を洗うとき、気絶するんじゃないかと思うことがあるけれど、実際にしたことは一度もない。時間がなかったからすぐに出た。
 スーツに着替えるとからだがだるかった。実際の手足と場所と感覚の場所がずれて震えているような感じがした。額はなんとなく熱かった。不安障害が発覚する前、半年くらいのあいだずっと微熱ぎみでふらふらしていたのを思いだした。だけど別にどうということはなかった。死ななくて、読んで書けて聞ければそれでいい、と思いながら電車に乗った。職場の駅で降りたけれど、まだ仕事の時間ではなかった。Bill Evansを聞いていたけれど、外の音を聞きたくなってイヤフォンを外した。何が聞こえるわけでもなくて、バスの音や高校生の声や鳥の鳴き声だけれど、空間が広くなった。汗をかきながら図書館分館に行った。踏み切りは閉まらなかったから、赤銅色のレールを見ながらすぐに抜けた。くすんだ白の図書館に入って、本を返した。中央図書館は机の上に置いてキーボードを叩けばいいだけだけれど、ここの分館はまだひとつずつバーコードを読みとっていた。母から預かったリクエストの紙を出した。角田光代のなんとかと書いてあった。書架に入って、迷わず『失われた時を求めて』の七巻を取った。『失われた時を求めて』の七巻以降は中央図書館では棚に出ていなくて、いちいちリクエストするのは面倒だった。カルペンティエールのなんとかいうやつと、ゾラの『パリ』も一瞬目についたけれど、今日借りるものは決まっていた。カウンターではおばさんが雑誌を借りるのにどうこう言っていて、受付の人は焦って、ぼけっと突っ立って壁とか給水器を見ているこっちを見て、もうひとりの受付の人に声をかけてくれた。借りると、中央のほうに本が入ってますね、と言った。知っていた。プルースト一冊で鞄が一気に重くなった。図書館を出るとまた暑くなった。
 駅にもどって、電車に乗って中央図書館に行くあいだ、Bob Dylanを聞いたけれど、集中して聞いたわけではなかった。駅を出るとはっきりしない空だった。均質な白の上を鳥が点々と黒くすべっていった。デパートのほうから苦悶のうめきのようなものを発しながら男の人が来た。ふくらんだビニール袋を指にかけていた。苛立たしそうに手を振って、どん、と一回足踏みしてから図書館のドアをくぐった。そのあとに続けて入った。苦悶の人はなにかの雑誌を読んでいた。カウンターは子どもたちで混んでいたから、先に文芸誌の棚を見た。「文學界」に柴崎友香が長めのやつを書いていて、適当にめくった。『ビリジアン』や『寝ても覚めても』と文章がちがったけれど、よくおぼえていない。CDも見たけれど、特に借りたいものはなかったから借りなかった。カウンターに人がいなくなったから、リクエストした蓮實重彦『魂の唯物論的な擁護のために』を受けとった。思ったよりも大きい本だった。それから上にあがって、新着図書を見たけれど目新しいものはなかった。古井由吉の『半自叙伝』が読みたくて、エッセイの棚を見たらなくて、小説の棚を見てもなかったから、機械で調べたら評論の棚にあった。他の本に埋もれて目立たずにさりげなくあった。古井由吉に文章が引っぱられてしまうから柴崎友香を読んで戻そうと思っていた。たくさんあるから迷ったけれど『ショートカット』にした。借りて、席に座って、借りたばかりの蓮實の対談集を読んだ。最初の高橋源一郎との対談まで読んだところで五時くらいになったから出た。駅のエスカレーターを下っていると電車が止まっているのが見えて、だけど降りた人たちの列が出来ていたから見送った。列の最後のほうに元生徒がいた。女子校が楽しすぎて、いまちょっと男嫌いになってます、と言ったから思わず笑った。
 四時間くらい働いた。薬をふたつずつ飲んだから時間がゆったりしていた。途中で頭が痛くなったから疲れた。
 電車で帰った。おじさんふたりだけが喋っていて、あとはみんな黙っていた。見事にみんな下を向いていて、目が下を見ているだけではなくて頭が前に傾いていた。横から見るとよくわかった。立っていてもそうだった。携帯をいじっているか寝ているか本を読んでいるか何もしていなかった。隣のおじさんはワンピースを読んでいた。スーツの上着を着ているのはたぶん自分だけだった。降りるとうすくて星の見えない空だった。
 夕食を取ってだらだらと過ごして、古井由吉『半自叙伝』を読んで、頭が痛かったから十二時過ぎには寝た。