2016/6/22, Wed.

 この日も意識が戻ったのは一〇時台、そうしてやはり四五分になって定かな覚醒を得た。睡眠時間は七時間三〇分ほどである。布団を剝いでちょっとうごめいてから起き、洗面所に行って顔を洗うとともに、用を足した。そうしてきちんと瞑想の習慣を保つために室に帰り、一一時八分から一九分まで枕に腰を下ろした。張りのある鳥の声がいくつも響く、曇天だった。つい先ほどまで感じられた母親の気配がないと上階に行ってみると、買い物に出かけたらしい。前夜のアジフライを冷蔵庫から出し、汁物は菜っ葉と卵のスープの残りをよそって、あとはゆで卵を食卓に置いた。他人のブログを読みながらものを食べ、その後新聞もひらいて読んでから、食器を片付けて蕎麦茶とともに部屋に戻った。正午は過ぎていたのではないか。茶を飲みながら、前日に一応仕上げたメールの返信をこの日の記事にも写し、読み返して文言をいじり、さらにメールの送信欄に写してからもまた精査して細部を調整した。自分でも驚くほどに念入りに、思考の正確な表出を心がけて推敲したが、それは相手のためというよりは、文章として質の高いものにしたいという個人的な欲望の成せる業である。そうして一二時四五分にこれでいいなと送ってからも、まだ読み返している。どの道もう訂正できないのだからとブラウザを閉じて、風呂を洗いに行き、戻ってくるとベッドに転がって、レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』を顔の前に掲げた。一時半頃になると、服を仕事着に着替えて、歌を何曲か歌ってから荷物をまとめて階を上がった。ベランダの戸の前に吊るされているタオルに手をやったが、まだ湿っているので畳むのは諦めて、胡麻を振ったおにぎりを一つ作って鞄に加えると、マスクを一枚胸のポケットに入れて出発した。ちょうど二時だった。湿り気のある灰色掛かった空気だが、雨は降っていない。坂を上っていき、街道に出て渡ると、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』の二枚目を聞きはじめた。それで裏通りを行きながら、メールのなかの文言をまた頭のなかで復唱したり、こねくりまわしたりし、それをやめたあとは音楽に耳を傾けた。 "All of You (take2)" のベースソロを聞きながら駅前に着き、通りを渡るとちょうど職場の前で演奏が終わったので、イヤフォンを外して首に掛け、なかに入った。湿気が服の内に籠って暑かったが、奥の一席に就いているうちに和らいだ。コンピューターを出しはしたものの他人のブログを読みはじめ、そのうちに腹もうごめくので先に食事をすることにした。味のないおにぎりを頬張りながら引き続き携帯電話を覗きこんで、食べるとガムを口に放りこんで、三時前から書き物を始めた。二〇日の分は大方できていたので三時一七分に完成、たかが五四〇〇字に大した時間を掛けてしまったものだ。それから二一日の分に入って、音楽はDuke Ellingtonを順番に流して、『Live at the Blue Note』だったのがその次には『Duke Ellington & John Coltrane』である。それで一時間ほど掛けて、ガムをいくつも噛んでは捨てながら進めて、四時一五分に二一日の記事も仕上げて、前日の支出と収支を記録してからこの日の分に入った。『The Count Meets The Duke - First Time!』を繋げて進め、四時四三分に切りを付けた。一時間弱余して書き物の負債を返すことができたので非常に安堵し、残りの時間は読書に充てることにした。レヴィ=ストロース川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』である。イヤフォンを付けたまま、椅子を横に向けて脚を伸ばし、その上に本を置いて文字を追った。そうして一時間ほどして労働の始まりがやってきたので、荷物を片付けて働きはじめた。この日は一時限の楽な仕事で、八時前には退勤した。ぬるい空気の裏通りをたどっているあいだ、コオロギの声が離れた草むらから響いて、表通りを行く車の走行音に混じったが、それらは周縁に留まって静けさを乱さず、道には自分の靴音が鳴っていた。夜空は雲にくすんでいたはずで、月を見た記憶はない。帰宅すると、背を汗が濡らしていた。手を洗って下階に行き、服を脱ぐとベッドに身を投げだしたが、湿った肌着の冷たい感触が背とシーツのあいだに挟まれた。ちょっと休んでから、八時半から四〇分まで瞑想をし、それから食事を取りに部屋を出た。惣菜の天ぷらや鮭を温め、米には久しぶりに酢入りの納豆を掛けた。どうでもいいようなテレビ番組を散漫に眺めながら食べたあと、先日買ったあたりめを結局父親が食っていないと言うので、こちらが片付けてしまうことにした。マヨネーズを付けて、堅く乾いたイカの切れ端を噛み、顎を疲労させてから皿を洗い、風呂は母親が行ったので一旦室に戻った。音楽をまた耳に入れつつ、ロラン・バルト石井洋二郎訳『小説の準備』から一箇所書き抜きをした。また五ページもある場所である。そんなに写さなくてもいいのではないかとも思いながら、しかしやはりロラン・バルトの声を少しでも自分のなかに取りこみたいような気持ちがあって、ともかくやろうと決めて打鍵し、BGMはDuke Ellingtonからそのまま一つ下の、Eagles『Desperado』に移行させ、腕立て伏せと腹筋をしてから風呂に行った。一〇時半過ぎだった。風呂を出てくると一一時、室に戻って他人のブログを読み、その後Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraに零時まで取り組んだ。尾骶骨の先がひどく痛んだ。ベッドに転がって身体を休めつつ、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯Ⅱ』を読み進めたが、じきに眠気に苛まれはじめた。今日は早いなと思いながら少々目を閉じて、一時になったところで歯磨きをするために起きあがった。口をゆすいだあと、二時まで読むつもりでまた本をひらいたが、甲斐なく意識を失って、気づけばその二時が目前だった。今日はもう駄目だなと判断して、用を足してきてから、瞑想もさぼって消灯した。



 1) メモ書きの日常的な実践
まずは簡単な話題から : 日常的な実践の問題である :
a) 「道具をそろえること[﹅9]」。なぜこれが問題なのか? メモ書き=ノタチオ[﹅4](行為としての)であるからだ、そしてノタチオ[﹅4]であるのは、現在の削り屑[﹅3]があなたの観察に、意識に飛び込んでくる[﹅7]がままに、これをとらえてやらなければならないからだ : 1) 削り屑[﹅3]? その通り : 私の個人的・内面的なスクープ[﹅4](スクープ[﹅4] scoop とは本来、スコップ、柄杓、スコップですくい上げる行為、全部さらうこと、投網であり、したがって〔ジャーナリズムで言う〕先駆け報道である) → 私にとって感覚に訴え、人生からじかに「全部さらい」たいと思う(ほんのささやかな)消息。2) 突然性 : cf. 悟り[﹅2]、カイロス[﹅4]〔絶好の機会〕、好機、一種の「ルポルタージュ」、大きな現実からではなく、私のささやかな個人的現実からじかに得られるもの : ノタチオ[﹅4]の欲動は予見不可能である。3) ノタチオ[﹅4]はしたがって、戸外[﹅2]活動である : 行なわれるのは私のテーブルにおいてではなく、街路で、カフェで、友人たちと、等々なのだ。
「手帖」 → 私はもうずいぶん古くから実践している : ノトゥラ[﹅4] notura 〔ちょっとしたメモ〕とノタ[﹅2] nota 〔ちゃんとした記録〕。頭に浮かんだ「アイデア」(どんな(end156)アイデアかはさしあたり措くとして)を思い出させてくれるような単語をとりあえずメモしておき(ノトゥラ[﹅4])、翌日自宅でそれをカードに書き写す(ノタ[﹅2]) → メモすべき現象 : 私は、たとえまったく省略した形であってもいいから何か符牒(ノトゥラ[﹅4])を残しておかないと、そのアイデアを忘れてしまう ; その代わりノタ[﹅2]にしておけば、アイデアの全体を、さらにはその形式(文)までもはっきり思い出すことができる → かなり眩暈がするような感覚だ : ある「アイデア」は、ほんの短い時間しか覚えていられなかったとしたら、それ以上の重要性を、必然性[﹅3]をもたないということになるのだろうか? それがいかなる結果ももたらすことなく無に帰することもありうるのだろうか? まさにこれこそが、エクリチュールの(少なくとも私のエクリチュールの!)贅沢さ[﹅3]の定義なのである。
ノタチオ[﹅4]のこうしたミクロ技法の些細さ[﹅3]を検閲したいとは思わない : 手帖、分厚くないもの(→ ポケットに入る? 現代の服装では上着を着なくなっている≠フロベールの手帖、横長で、黒いきれいなモールスキンの表紙 ; プルーストの手帖。夏は〔上着を着ないので〕メモは少なくなる!) → 万年筆 : ボールペン(すぐに書ける : キャップを外さなくていい) : 本当の(重みが乗った、筋肉を使った)エクリチュールではないが、別にかまわない。なぜなら、ノトゥラ[﹅4]はまだエクリチュールではないのだから(≠ノタ[﹅2]、あらためて書き写されたもの) → これらすべてが意味しているもの : 瞬時に手帖を取り出してしかるべきページを開くひとつながりの動作のイメージ、そしていつでも書く用意ができている書き手 : まるでギャングが拳銃を取り出すように[﹅18](cf. ペンカメラ[﹅5] : しかし大事なのは見せることではなく、文[﹅]を胚芽の状態で存在させることである ; cf. 後述箇所)
b) 時間の自由[﹅5]。どんな目的のためであれ、また(書物からではなく)人生からじかに――あるいは人生という書物、たとえば小説、エッセーなどからじかにメモをとるにせよ、ただメモする快楽だけのためにメモをとるにせよ、以下の(end157)ことをよく理解すべきである : ノタチオ[﹅4]の実践が達成され[﹅4]、これで満足だ、大いに享楽した、「十分に使った」という実感をもたらすためには、ひとつの条件が必要だ : 時間があること、たくさん時間があることである。
逆説的なこと : メモは時間をとらない、どこでもとれるし、いつでもとれると思われるかもしれない ; それは散歩、時間待ち、集まりなど、何か別の主たる活動に重ねて行なわれ、これを補うだけのことだと。ところが実際にやってみるとわかることだが、「アイデア」が浮かぶには自由な時間がなければならない。むずかしいことだ : というのも、絶えず手帖を取り出すためにわざわざ散歩してはいけないのであって(→ 不毛なこと)、腐植土のように時間の自由の重み[﹅2]が必要だからである。まさに浮遊する注意[﹅6]の典型だ : 注意に意識を向け[﹅5]ないこと、しかしながらあまり脇のことに激しく熱中もしないこと → その究極の形は、少しばかり空っぽな(自ら進んで空っぽにした)カフェテラス生活である → ある意味で、年金生活者の活動とも言える(フロベールゴンクール、ジッド) : たとえば、講義の準備をすること=ノタチオ[﹅4]の逆。
この逆説の論理 : ノタチオ[﹅4]に専念するような人は、結局ほかのあらゆるエクリチュールへの熱中を拒否するにいたるであろう(たとえその人がノタチオ[﹅4]を作品の準備と考えていたとしても) : 脇に逸れるがままにはならないこと[﹅16] → Nihil nisi propositum(*6)。
c) 私は時々、以下のことを確認する : しばらくのあいだメモをとらずに、手帖を取り出さずにいると、私は欲求不満に陥り、味気ない気持になる → ノタ(end158)チオ[﹅4]に戻る : 麻薬、避難所、心の安寧としての。ノタチオ[﹅4] : それは母性[﹅2]のようなものだ → 私は母親のもとに戻るようにしてノタチオ[﹅4]に戻って行く ; これはおそらく、ある種の教養(教育)の様態に従属した心理的構造である : 安心できる場所としての内面性[﹅3] ; cf. 内面性の「プロテスタント」的伝統とノタチオ[﹅4]の実践 : 自伝的日記(ジッド、アミエル)。歴史的断絶 : 北方ヨーロッパ(中世末期)、新しき信仰[﹅5] Devotio moderna の信奉者たち : ウィンデスハイムの共同生活修道士や修道参事会員たち → 教養ある俗人たち(実業中産階級) : 集団での典礼的礼拝の代わりに、個人的瞑想、神との直接的接触を置き換えること → 個人的読書の誕生 → ノタチオ[﹅4] : 媒介者(司祭あるいは慈善団体)の不在 : 思考する主体の、言葉を発する主体への直接的連結。
d) ここまで私はノタチオ[﹅4]について、それがありのまま[﹅5]の把捉であるかのように語ってきた。見られたもの、観察されたものと、書かれたものとの、瞬間的な一致であるかのように → しかし実際は、ノタチオ[﹅4]が事後的[﹅3]になされることがきわめて多い : ノタ[﹅2]は、その価値を証明するための一種の潜伏期を経た後で、それでもなお心ならずも戻ってくるもの、執拗に持続するものなのだ → 記憶が保存しなければならないもの、それは事物ではなく、事物の回帰である。というのも、この回帰はすでに何か形のようなもの――文のようなものをもっているのだから(cf. 後述箇所) → ノタ[﹅2]は「後知恵」という現象に少しばかり近い : 場違いなひらめき、遅ればせのひらめき。
e) ノタチオ[﹅4]については、持続性をためすための一次試験がある : 手帖からカードへ、ノトゥラ[﹅4]からノタ[﹅2]へ移行する時点だ → 書き写すという行為は、十分な強さのないものを評価しない : 書き写すだけの筋力が湧いてこないのだ、筋肉というのはそうするだけの価値があるかどうかを自問させるものであるから(end159) → おそらく、(複合的で完全な行為としての)エクリチュール[﹅7]は、筆写[﹅2](ノタ[﹅2])の時点で生まれるものだろう : エクリチュールと筆写[コピー]との、謎めいた関係 ; 価値の贈与としての筆写 : 「自分のために」書くことはできるが(新しき信仰[﹅5])、書き写すのはすでに誰かのためであり、外部とのコミュニケーションを、社会への参入を目指してのことである(そこから『ブヴァールとペキュシェ』の逆説的なインパクトが出てくる : 彼らはついに、自分のために[﹅6]筆写するようになるのだ ; 閉じられた環 : エクリチュールにたいする、最終的な嘲弄)。
 (ロラン・バルト石井洋二郎訳『ロラン・バルト講義集成3 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度 小説の準備』筑摩書房、二〇〇六年、156~160; 「結論」; 「移行」; 1) メモ書きの日常的な実践)

6 エクリチュールの作業から注意を逸らす数々の要請について手短に脱線した後で、ロラン・バルトはこのラテン語の銘句を自分の便箋に印刷したいと思ったと語っている。この言葉は「何もない、人から勧められるもの以外には」という意味であるように思われるが、実際には「何もない、私が自分自身でやってみようと思ったこと以外には」という意味なのだと、彼はコメントしている。