爽やかな空気の、晴れの朝だった。カラスが二匹、前夜のようにざらついた声音ではないが、やたらとかあかあと鳴き交わしているのをまどろみのなかで聞き、地震か何かの予兆ではないだろうなと迷信的に考えて、そしてまた寝付いた。起きなくてはと思いながらも身体が動かず、途中から、睡眠というものは人為でどうにかできるものではない、もう自然に任せようと緩やかな気持ちになって覚醒の訪れを待ち、意識がはっきりしたのは、ちょうど一〇時頃である。布団を横に剝いで携帯を取り、ごろごろしながら他人のブログを読んだあとに起きあがった。洗面所に行ってきてから、枕の上に座って瞑想をした。温もりが窓から入ってきて腕に触れるなか、一〇時二一分から三一分の一〇分間、その後居間に上がっていき、またも炒めたジャガイモをおかずにして、食事である。一一時過ぎに食器を洗って、風呂も洗ってから蕎麦茶を室に運び、前日の記録を付けた。それからすぐに、Miles Davis『Seven Steps To Heaven』を流して、ロラン・バルト/石井洋二郎訳『小説の準備』の書き抜きを始めた。この日の箇所は五ページほど、それを写すと既に正午を回って、半近くに差し掛かっていた。手の爪を切ることにして、ベッドの上にティッシュを一枚敷いて、Bill Evans Trio "All of You (take1)" をリピート再生させて指先を整えた。その後、腕立て伏せに腹筋をすると、音楽を止めて寝転がり、村尾誠一著『和歌文学大系25 竹乃里歌』を読みはじめた。膝で脹脛を刺激しながら読んで、一時半を迎えると起きあがり、上階に行った。制汗剤ペーパーで身体を拭いてから下階に戻り、仕事着に着替えてネクタイを締め、荷物をまとめると再度瞑想をした。六月ももう終わり近くなっても、鶯の声がたまに落ちる。近くではコオロギの一種か、物質的で味気ない、プロペラめいた回転性の虫の声が、機械仕掛けのそれのようにして定期的に立った。その向こうでは、川の響きやら無数に散らばる鳥の声やら、どこかで家を建てているらしい木槌の音やらが入り混じって、空気が流動的に賑わっている。目をあけると八分が経って一時五五分、時間をメモしてから上階に行き、おにぎりを一つ作り荷物に加えて、出発した。玄関から階段を下りて、郵便箱の前で晒された陽射しが、重い。郵便物を母親に渡してから日なたを歩きだし、街道まで行くとBlankey Jet City『Red Guitar and the Truth』を聞きはじめた。淀まずに爽やかなような雲がそれなりにあって、時折り陽は隠れるが、大方出ているあいだは裏通りにも光が行き渡って逃げ場がない。汗をかきながらそのなかを渡っていき、二時半頃、職場に着いた。奥の席に就いて水を飲み、コンピューターを取りだすと、前夜に書いたメールを読み返した。すると自然に推敲を始めてしまったので、日々の作文は後回しにして、おにぎりを食べながら文言を調整し、さらに一段落書き足して、三時二〇分あたりに、まあこれでいいかなというくらいのものになった。それから、生活の記述である。Egberto Gismonti『Solo』を流して前日のものを進め、四時直前に仕上がると、この日の記事にも入った。さっさと切りを付けて四時半、その頃には音楽はEject Project『UnRealTime』が掛かっていた。労働まで、残り一時間強である。その時間は、レヴィ=ストロース/川田順造訳『悲しき熱帯Ⅰ』の書き抜きに充てることにした。かたかたと打鍵しながら音楽をElis Regina『Elis Regina In London』に繋げると、このアルバムは以前聞いた時には何らの引っ掛かりも覚えず、そのまま長いあいだ放置していたのだが、この度は軽快で清涼な空気のなかに弦楽によって柔らかさも僅かに添えられているのが、非常に良いバランスを構成しているように聞き取られて、気分よくなりながら指を動かした。そうして、五時四〇分頃まで書き抜きを進めると、荷物を片付けて労働に入った。退勤はいつも通り九時半、特段何らの感覚的な刺激も感じずに、綿を敷いたような曇天の下の夜道を行った。疲れがあった。帰宅すると手を洗って自室に下りて、服を脱ぐと、ベッドに仰向いた。湿っぽい汗でじっとりと濡れたシャツの背が、冷たかった。『竹乃里歌』をしばらく読みながら休んだあと、起き直って枕に尻を乗せ、瞑想を始めた。早くも眠気が湧くようで、不安定に頭が揺れて、がくりと前に傾いて倒れそうになったところで思わず目を開けると、七分が経っていた。やや短いがそれで終いとして、二二時二二分から二九分をノートにメモして、上に行った。巻物風になった鶏肉をおかずにして米を食べ、ピースの二人が出ているバラエティを眺め、一一時になるとニュースもちょっと見てから、皿を片付けて風呂に入った。出てきて、階段を下りながら携帯電話を灯すと、二三時四三分が表示された。室に帰るとコンピューターを点けて、知人へのメールをまた読み返し、文言の細部を最終的に調整したあと、送信した。既に零時を回っていた。それからインターネットをうろついていると、野崎歓と菊地成孔がボリス・ヴィアンについて話したトークの動画を見つけたので視聴していたが、いくらも見ないうちに突如として、インターネット接続が途切れたので、それならばそれでいいとコンピューターを閉じた。そしてベッドに移り、『竹乃里歌』の読書である。深夜一時から三時あたりまでの時間というのは、非常に静かで心落ち着くものである。両親も既に寝に入っていて家のなかには何の動きの気配もなく、ひらいた窓の外も同様、届くものがあるとしてもせいぜい川向うかどこか遠くから渡ってくる、輪郭を失って靄のように覚束ない響きばかりで、近くからは時折り父親の寝言めいたうめきが聞こえてはくるが、静寂を乱すほどのものは何もない。何ものにも妨害されずに二時前まで読書を続けたあと、用を足してきて、瞑想をした。二時六分まで座って消灯、容易で心地の良い寝付きだった。
4) 何性、真実
私たちは小説(ユートピア、ファンタスム、至高善)に、そしてこの講義の終わりに近づいている : 最後の移行(俳句から、小説への移行ではなくても、少なくとも現代のノタ[﹅2]への移行)は、最も重要である : それは真実[﹅2]に関係のある何かに関わっている → 「移行する」ためには、移行者たち[﹅5]が必要だ。ここでは二人の移行者を扱おう : ジョイスとプルーストである。
1) ジョイス : 何性〔1〕
(パトリック・モリエスによるメモ)、cf. エルマンによる伝記。(end175)
a) 伝記[﹅2] : 1900年から1903年まで(ジョイスは1882年生まれなのでだいたい20歳だった――彼は1922年に『ユリシーズ』を出版することになる――これはプルーストが死んだ年だ)、ジョイスは普通なら「散文詩」と呼ばれるであろうものを書いているが、彼はそう呼ぶことを望まず、エピファニー[﹅5] Épiphanies と呼びたがっていた ; これらのエピファニー[﹅5]がどうなったかはすぐ後で話そう。
b) 定義[﹅2]。エピファニー=神の顕現(phainô 「現れる」) ; ジョイスにおいてはそれが問題なのではない――確かにジョイスの経験は(イエズス会系の学校教育を受けたせいで)常に中世の神学や宗教哲学、とりわけ「鋭い刃のような論証によってもっとも偉大な哲学者である」トマス・アクィナス、及びドゥンス・スコトゥスと、意味論的な繋がりをもってはいたが。ジョイス的エピファニー=「事物の何性(Whatness)の突然の啓示」 → 俳句との類縁性は強調するまでもない : 私が「これだ[﹅3]」、「これだ[﹅3]」のティルトと呼んだもの(何性[﹅2] : 「ある存在を個別的に規定する諸条件の集合」)。あるいは : 「きわめて卑俗なものの魂がわれわれに輝いて見える瞬間」。あるいはさらに : 「突然の精神的顕現」(cf. 悟り)。
c) 出現の様態[﹅5] : 1) エピファニー[﹅5]は誰に現れるのか? 芸術家にだ : 芸術家の役割は、人々の中で、ある瞬間[﹅2]に、そこにいる[﹅5]ことである。(作家の美しくも奇妙な定義だ : 「そこにいる[﹅5]」こと、あたかも偶然によって選ばれたかのように ; ある種の「啓示」の魔術的な媒介者のようなもの、一種の精神的「レポーター」。――2) これらのエピファニー的瞬間[﹅2]とはどのようなものか?――美(end175)や、成功(アポロン的、ゲーテ的意味における)や、意味作用の過剰によっては定義できない → 偶発的で、目立たない瞬間、満ち足りた、情熱の瞬間でもありうるような瞬間か、あるいは卑俗で、不愉快な瞬間か : 身振りや話題の卑俗さ、不愉快な経験といったものは、ぜひとも斥けるべきことがらであり、「数行の短い会話に巧みに捉えられている」愚かさや鈍感さの例である。 3) ジョイス自身にたいする機能とは?――仕事の機能である : 彼の傾向を抒情性にとどめ、彼の文体を常により細心にする。 4) ジョイス的エピファニーの一例 :
古びた暗い窓の上方、狭い部屋の暖炉の火、外は夕闇。老女がせわしなく動きまわり、お茶をいれ[……]。遠くから彼女の声が聞こえる……
――メアリー・エレンなの?
――いえ、エライザ、ジムよ。
――おや、……おやまあ、ジムなの。
――なにか要るものはないかい? エライザ。
――メアリー・エレンかと思ったわ……メアリー・エレンかと思ったじゃないの、ジム。
d) これらのエピファニーはどうなったのか[﹅17]? 作品集がひとつある : A. O. シルヴァーマン刊、バッファロー大学、1956年 ; しかしこの作品集がジョイス自身によって構成されたものかどうかはわからない――というのも、これらのエピファニー[﹅5]についてのジョイスのはっきりした見解は次の通りであるからだ : 1904年、ジョイスはこれらの断章をそのまま利用することはあきらめて、『スティーヴン・ヒアロー』という小説の中にそれらを組み込むことにした ; つまり「これら個々の洞察の痙攣<痙攣[﹅2] spasme : この単語はティルトさせる : 俳句、悟り、偶景>を、いくつもの瞬間の組織された連鎖へと[﹅17]構成すること」(end176)をめざしたのであり、「そこで魂が生まれる」……「こうして短い作品の作者とはならず、彼<デーヴィンに語っている彼、ジョイス>はそれらを長い作品の中に無駄なく注ぎ込んだのである」。ここには、この講義を通して提起してきた――そして次の講義でも提起される問題の、正確な定式化がある。
エピファニーのこうしたジョイス的経験は、私にとって重要だ。それは似たような形式、つまり私が偶景[﹅2]と呼んでいるものの個人的探求にきわめてよくあてはまる : 『テクストの快楽』、『彼自身によるロラン・バルト』、『恋愛のディスクール・断章』、ある未完の文章(『モロッコにて』)、そして「ヌーヴェル・オプセルヴァトール」誌のクロニックなどで、この形式は断片的に試してきた ; ということはつまり、断続的に、しかし執拗に、私はその回りをうろついているということだ――したがってその困難さも魅力もよく味わっている。
俳句との親近性――もちろん、たとえ同じ「哲学」、あるいはむしろ同じ「宗教」ではなかったとしてもである(こちらは異教的、あちらは神学的というように) → 当然ながら、私がこれほど長く俳句に関わってきたのはもっぱら偶景[﹅2]との関係においてであった(出現する、上に[﹅2]落ちてくる)。
俳句、エピファニー、そして私が企てたような偶景の中には、意味をめぐる同じ問題系がある : それは直ちに意味するできごとであり(cf. ニーチェ、『権力への意志』 : 「いかなる「事実自体」もなく、或る事実がありうるためには、一つの意味がつねにまず置き入れられていなければならない[﹅40]」)、と同時に、一般的・体系的・教義的な意味へのいかなる意図もない → だからこそおそらく、言説[﹅2]〔一貫した論述〕の拒否、「しわ[プリ]」への折り返し[ルプリ](偶景[﹅2])、不連続の断章という形になるのだ――cf. ジョイスの伝記作者であるエルマンがエピファニー[﹅5]に(end177)ついて、またその現代小説との同質性について言っていること : その技法は「傲慢でありながら慎ましく、何も求めないことによって重要であろうと」している。俳句、エピファニー、偶景の避けがたい結果であり、かつそれらの特殊性[﹅3](何性!)及び困難さをなすもの、それは注釈ぬき[﹅4]という拘束である ; ジョイスについて言えば、(エピファニー)の技法は「作者が注釈を加えれば、それが邪魔になるような、鋭い描き方」を探求する → 極度の困難(あるいは勇気) : 決まった意味、ひとつの意味を与えないこと ; いっさいの注釈ぬきで、偶景の些細さが裸のままで露呈するのであり、些細さを保証するというのはほとんど英雄的なことである。(だから「クロニック」でも――なにしろ大週刊誌で、読者は50万人もいるのだから――私にはそれぞれの「偶景」に教訓[﹅2]を与えずに済ませることは不可能に思われた ; したがってこの観点からすれば失敗だったことになる → しかしまた、この経験は失敗に耐えること、失敗を理解することを教えてもくれた : 「勝利にも劣らぬ輝かしい敗北がある」) → もう一度 : 物語られた事実のすべてに解釈のアリバイを与えようとする、西洋の巨大な操作 : 司祭文明 ; 私たちは解釈するのであり、性急な[﹅3] courtes (急いで終わってしまう[﹅10] tourner court とか「お若い方、ちょっと急ぎすぎだね」といった意味での)言語表現形式には耐えられない。短い形式は、わが国では過剰に意味するものでなければならないのだ : 箴言しかり、抒情詩しかり → 俳句(あるいはその代替物)は、私たちには不可能である。
そこからおそらく、ジョイスの失敗が、そしてこの失敗の変形されたものが生まれるのだ : つまりエピファニーを小説に注ぎ込む[﹅4]こと、短いもの、性急なものの耐えがたさを、説話[レシ]の中に紛れさせること ; それは心を安らがせる、安心(end179)感を与えてくれる媒介であり、大きな意味(運命)を練り上げることである。Cf. さまざまな矛盾に耐えることを可能にする神話の弁証法的機能について、レヴィ=ストロースが言っていること。
(ロラン・バルト/石井洋二郎訳『ロラン・バルト講義集成3 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度 小説の準備』筑摩書房、二〇〇六年、174~179; 「結論」; 「移行」; 4) 何性、真実; 1979/3/10)
〔1〕 「何性」 quiddité とはスコラ哲学用語で、同じ種類の多数に共通するものとしてとらえられた本質。「通性原理」とも言う。個別的なものをいま、ここで個別的存在たらしめている「此性」 eccéité (「個性原理」とも言う)に対立する概念。
かつて航海者たちに恐れられていた赤道付近の無風帯に、私たちは近づきつつあった。両半球に固有の風が双方から来てこの地帯で止まり、何週間ものあいだ、船の帆は、それに生気を与える一吹きの風もないままに、垂れ下がっているのであった。空気があまりに不動なので、まるで海の直中にではなく、閉ざされた空間の中にいるようであった。暗い雲の均衡を危うくするような微風さえもなく、雲はただ重力にだけ感応して海面に向かって徐々に低下し、消えて行く。もし雲にもう少し活力があれば、雲は、曳きずっている下の端で、磨かれたような海面を掃いたことであろう。隠れている太陽の光線で間接的に照らされている海洋は、油のような単調な反映を(end110)示している。この反映は、インクの空が受け付けようとしない反映よりさらに明るく、空と水の輝きの強さの普通の関係を逆にしている。頭を逆さにしてみると、空と海が互いに入れ替わり、より本当らしい海の風景が現われる。様々な要素が慎ましく、灯りが仄かであるだけに、一層親近感を覚えさせられるこの水平線を横切って、幾つかのスコールが、海と雲の天井を隔てている見かけの高さをさらに減じている、短い混迷した柱になって、ものぐさそうにさ迷っている。これらの接近した二つの面のあいだを、私たちの船は、不安を帯びた或る種の性急さで滑って行ったが、それはまるで、刻まれている時に急き立てられながら、窒息を逃れようとしているかのようだった。時として、スコールの一つが近づき、その輪郭を崩して私たちの空間に侵入し、その湿った革紐で甲板を鞭打つのである。やがて船の反対側で、スコールは目に見えるその姿を再び取り戻すが、同時に、もはや鳴り響く音は聞えなくなる。一切の生命が海から姿を消していた。船首を襲う泡よりもさらに律動的な海豚の群れ――それは波の白い逃亡の、優雅な魁[さきがけ]だった――の黒い堅い波も、もはや見られなかった。水平線が、鯨などの吹き上げる潮で乱されることもなかった。それから先は、濃密な青色の海が、赤紫色と薔薇色の鸚鵡貝のような、華奢な膜質の帆をあげた小船隊で賑わうことも、まったくなかった。
(クロード・レヴィ=ストロース/川田順造訳『悲しき熱帯Ⅰ』中公クラシックス、二〇〇一年、110~111; 「8 無風帯」)
*
初めは、それまでの数週間の海の匂いが、もはや自由には巡回しなくなるように感じられて来る。匂いが、目に見えない一つの壁に突き当たるのである。このようにして動かなくなった海の匂いは、もはや注意を呼び起こすことを止め、私たちの注意は、違った性質の、しかしそれ以前のいかなる経験もその性質を規定することができないような匂いの方に向けられる。それは、植物界の大五元素とも言うべき温室の匂いと交互に混った森の微風である。その独特の清新さは非常に濃縮されたもので、嗅覚上の酩酊とでも言えばよいだろうか。あるいはそれは、様々な果実の芳香に浸されたひと続きの時間を、互いに区別しながら同時に融合させようとするかのようにアルペジオで弾いた、強力な和音の最後の音である。フモ・デ・ローロ、つまり、何メートルもの長さの紐にして捩ってある、発酵させたタバコの葉の蜜のように甘く黒い総[ふさ]の匂いを、ブラジル奥地のどこかの酒場[ボテキン]で吸い込んだ後で、腹を裂いたばかりのチリ唐辛子の中に思いきり鼻を埋めたことのある人だけが、この匂いを解ってくれるだろう。そしてまた、これらの同じ親から生まれた匂いの結び付きの中にあのアメリカを、数千年のあいだその秘密を独占していたアメリカを、再発見する人だけが解ってくれるのであろう。
(121; 「8 無風帯」)
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私がブラジルを引き払う時の、リオの最後の思い出は次のようなものだった。コルコヴァードの山腹にあるホテルに、私はアメリカ人の同僚を訪ねた。そこに行くには、倒壊物のあいだに、半ば車庫、半ば山頂の避難所といった恰好でざっと拵えてある、そして恭しく下僕が操縦しているケーブルカーを利用した。それは一種のリュナ・パークとでも言うべきものだった。こうしたすべてが、丘の上に到達するためにしつらえられており、不潔で石だらけの、しばしば垂直に近い斜面になっている空地に沿って引き上げられると、帝政時代の小さな邸がある。テーレアつまり平屋で、化粧漆喰[スタッコ]で飾り黄土[オーカー]を塗ってある。夕食をした見晴台は、セメントの建造物と荒屋[あばらや]と、ごみごみした市街との、不調和な混合を見下ろすテラスという恰好だった。それに加えて突き当りには、このちぐはぐな眺望の行き止りとして期待してもよさそうな工場の煙突の代りに熱帯の海が、明るく輝き、繻子のように艷やかで、怪異な月光を浮かべた海が、あるのだった。
(141; 「9 グアナバラ」)
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この森林は、葉の茂みと幹とが作る対照において、フランスの森林とは異なっている。葉の茂みは、より暗く、その緑の色調は植物よりはむしろ鉱物を、それもエメラルドや橄欖石[かんらんせき]よりは硬玉や電気石[トルマリン]を想い起こさせる。これに対して、白色の、または灰色がかった幹は、模糊とした葉の集合を背景に骸骨のように姿を浮かび上がらせている。全体を展望するにはあまりに岩壁の近くにいたので、私はとりわけ細部を観察した。フランスのものよりも豊富な植物は、金属の中から切り取られたような茎や葉――それほど、それらの姿勢はしっかりと保たれており、意味に充(end147)ちたそれらの形は、時間の試練を逃れているように見える――を立てている。外から見るかぎり、この自然はフランスの自然とは異なる序列に属している。この自然は、目に見えている存在の仕方においても、その持続力においても、より高次の段階を示している。アンリ・ルソーの描いたエキゾチックな風景におけるように、ここでは自然を構成する様々な部分は、確乎とした物体がもつ、あの尊厳に達しているのである。
(147~148; 「10 南回帰線を越えて」)
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サントスからサン・パウロへの道路が横切る地域は、この国で最も古く開拓された地域である。それゆえ、そこは死滅した農業に捧げられた、考古学上の遺跡のように見える。かつては木の植えられていた丘や斜面は、粗い草の薄い覆いの下から、その骨格を覗かせている。ところどころに、コーヒーの木が植えられていたことを示す土の山が点々としているのが見分けられる。土の山は、草の生えた丘の胴から、萎びた乳房のように突き出している。谷間では、植物が再び土地を占める。しかしそこにあるのは、もはや原始林の高貴な建築ではない。カポエイラすなわち二次林が、脆弱な木の藪の連なりのように生え代わっている。時折、日本人移民の小屋が見えるが、彼らは古びた農法によって、土地の一画を再生させてそこに野菜畑を拓いているのである。
ヨーロッパ人の旅行者は、彼の伝統的な範疇のどれにも当てはまらないこの風景に狼狽する。われわれは人の手の加わっていない自然というものを知らない。われわれの風景は、明らかに人間に隷従している。時としてヨーロッパの風景は、われわれの目に野生のままのように見えることがある。しかし、本当にそうなのでは決してなく、ただ、人間と自然のあいだに取り交わされる交換が(森の場合にそうであるように)、より緩慢なリズムで為されているからなのである。(end151)あるいはまた、山の場合のように、提出された問題があまりに複雑なために、人間がそれに系統だった答えを与える代りに、何世紀ものあいだ、細かい数多くの行動によってそれに反応して来たからなのである。それらを要約した総括的な解答は、いまだかつて、はっきりと求められたことも、こうした形で考えられたこともなく、外見は元のままの自然の姿で人間の前に現われている。このような解答から、人々は、風景を真に野生のものと思い勝ちであるが、実際はそれらは、人間が無意識のうちに働きかけたり決めたりした一連の事柄の結果として生まれたものなのである。
ヨーロッパのどんなに粗野な風景でも、或る秩序を示していることは、プッサンが、比類なく巧みに描き出している通りである。山へ行って、荒涼とした斜面と森との対照に注意してみることだ。牧野の上の森の重なり方に、また方位や傾斜に応じて、どのような植物の要素が支配的になるかによって生ずるニュアンスの多様さに、心を留めてみるがいい。こうした肌理細やかな調和は、自然の自発的な表現であるどころか、風景と人間の共同作業の過程で長い時をかけて探し求められた協力に由来しているのだということを理解できるのは、アメリカへ旅行したことがある人だけであろう。人間は、彼が過去に行なった企ての痕跡を、素朴にも風景として賞賛しているのである。
アメリカの、人間が住みついている部分では、北アメリカでも南アメリカでも(アンデス高地(end152)地帯とメキシコと中央アメリカとは除いて。というのはこれらの地域では、人間の占拠がより稠密で持続的だった点で、ヨーロッパの状況に近いからである)、二つの自然のあいだにしか選択は残されていない。一つは、あれほど情け容赦なく馴化され、そのため田園であるよりはむしろ野外工場になった自然(私は、アンティール諸島の砂糖黍畑や「コーン・ベルト」の玉蜀黍畑などのことを思い浮かべているのだが)であり、もう一つは、いま私が考察している自然のように、それを略奪するのに十分な期間だけは人間が占拠していたが、しかし過激でない、しかも不断の共住関係が、自然を「風景」の段階にまで高めるには、その期間が不十分であったような自然である。サン・パウロの近郊で、また後にニューヨーク州で、コネティカット州で、さらにはロッキー山脈で、私は、われわれの自然よりは野性的な自然――なぜなら、人口はより少なく、したがってより少なくしか耕されていず、それでいて本当の新鮮さというものに欠けている、つまり少しも野蛮なのではなくて、ただ規格を外れている自然――に自分を慣らすことを学んだのである。
(151~153; 「10 南回帰線を越えて」)
*
サン・パウロでは、一月には、雨が「届かない」。雨は、周りを取り囲む湿気から生まれて来るのだが、すべてを湿潤にする水蒸気が、水性の真珠の形をとって姿を現わし濃密に落ちかかる(end160)が、霧の中を通って滑るうちに、その霧全体との親和力のために、まるで押し止められたようになってしまう。それは、ヨーロッパの雨のような線状の雨ではなく、湿っぽい空気の中を転落する無数の小さな水の玉が作る蒼ざめた煌めきであり、タピオカ入りの澄し汁の滝なのである。さらにまた、雨が止むのも、雲が過ぎ去った時ではなく、雨という穿刺[せんし]療法によって、或る場所の空気が過剰な湿気から十分に解放された時なのである。すると空が明らみ、ブロンドの雲の合間に、ひどく生気のない青色が見えるようになる。一方、アルプスで見るような奔流が、街路を横切って流れる。
(160~161; 「11 サン・パウロ」)
*
エジプトのあと、アラビア上空の飛行は、砂漠という唯ひとつの主題の一連の変奏を展開する。まず、崩壊した赤煉瓦の城に似た岩が、砂のオパール色の上に聳えている。その他には、水を集める代りに細かい枝にして散らしているウェド〔一時的に水の流れる河谷〕の、常識に逆らった水流が描き出す、水平になった樹木の――いやむしろ海藻か水晶の――形をした、入り組んだ図形がある。さらに遠くでは、大地は一匹の怪獣に踏み拉[しだ]かれたかのようだ。怪獣は、大地から汁を噴き出させようと猛り狂って踵で踏みつけ、挙句の果てに力尽きたのでもあろうか。
これらの砂は何と柔らかい色をしているのであろう! まるで肉の砂漠のようだ。あるいは、桃の皮、真珠母、生の魚肉。アカバでは、水は、恵みを与えるものであるにもかかわらず、冷酷な硬さを湛えた青を映し、一方で、難渋を重ねて生き延びて来たかのような岩塊は、玉虫色に溶けているのだった。
夕方近く、砂は徐々に靄の中に消えてゆく。だが天の砂である靄も、空の澄みきった青みどりに対抗して大地の側に寄り集まっているのである。砂漠は、うねりも起伏も失ってしまう。砂漠(end216)は、空より僅かに粘度の高い、薔薇色の、斉一[せいいつ]で巨大な塊である夕暮と混り合う。砂漠は自分自身と比べても索漠としたものになってしまった。少しずつ靄が力を増す。そしてもう何もなくなってしまう――夜のほかには。
(216~217; 「14 空飛ぶ絨毯」)