2016/7/17, Sun.

 覚めれば既に一一時一五分である。正式な就寝ではなかったが二時から寝たとして、久しぶりに九時間以上の長寝となった。それだけ寝たためか細胞に酸素が足りないかのように身が全体にこごっているので、布団を剝いでからもしばらくごろごろとし、起きると洗面所に行った。用を済ませて戻ると、瞑想である。一一時四六分から五三分、短めに行ってから上階に行った。玄関を出て郵便箱から新聞を取り、なかに戻ると冷蔵庫に収めておいたカレーの大鍋を取りだして、火に掛けながらトルコの反乱の続報を少し読んだ。クーデターはどうやら未遂に終わったらしい。ボスポラス大橋に陣取っていた反乱軍が鎮圧されたあと、戦車の上に乗り集まって手を掲げ、勝利に喜んでいる市民たちの姿が写されていたが、勇ましいものだ。前夜の夕刊にも、クーデター発生を受けてエルドアン大統領が、市民たちに外出せずに身の安全を守るよう促すのかと思いきやその逆で、外に出て反乱軍に対抗するように呼びかけたと書いてあるのを見て、すごいものだなと思ったものだった。長寝のせいか、首がひどく痛んだ。新聞を読みつつさすりさすり待って、カレーが温まるとよそって食べ、皿を空にするともう一杯、意外と多く作ってしまってこれでは今日の夜に食べ終わらないかもしれないと思いながらおかわりし、それも平らげると一時前だっただろうか。皿を洗うと、居間に吊るしたまま放置していた衣服類、母親のパジャマだったり、男連中の下着類だったりを畳んで整理した。それから洗面所に移り、前日の自分の肌着を洗面器に移して水を注ぎ、洗剤もちょっと加えて揉み洗いした。ゆすいで絞ってから洗濯機に放りこんで脱水を始め、新聞を読みながら終了を待った。ベランダ入口の脇には、洗濯ばさみのたくさんついた四角い物干しがあり、前夜のタオルはそれに吊るしておいた。下着が脱水されるとその物干しに加えて吊るし、ベランダに出した。曇って陽射しはないが、外気にはいくらかの熱が封じこめられていた。どういう意味合いがあるのか知らないが、おそらく過去には自分も参加した地元の神社の儀式事だろう、太鼓を叩く音と子どもたちの掛け声が聞こえて道を過ぎていった。それで蕎麦茶を持って室に帰ると、肌着を脱いで上半身裸になって、夢を記録した。

・職場、勤務。忙しい。次々と生徒がやってくる。入口付近の台の上にある座席表を見に行くと、自分の名前の下に七、八人の生徒の名が並んでいる。もう一人の同僚の箇所も同様。なかに小学生が一人いて、科目の欄に「芸能関係技能」というようなことが書かれており、そんなことは教えられないぞと困惑するが、その小学生の名の上にはマーカーが引かれていないので、欠席らしい。奥の自分の区画と、入口付近のあいだをしきりに往復しながら働く。席のほうには、高校の同級生であるY.Nが生徒の一人として座っている。
・過去の同級生の一人が亡くなったらしく、その葬儀に向かう。家を出る。ひどく暗い夜である。自宅のすぐ近く、坂に入る手前のあたり、道から少々下がったところに小さな花壇のような場所がある。道の上からそちらを見下ろすと、中学の同級生、威勢のいいグループだった連中が何人か集まっている。暗いなかで目を凝らして、一人一人の顔に意識を集中し、あいつか、あいつかと判別していき、名前で気安く呼びかける。なかに一人、既に結婚して子どものいるはずの奴がいたので、ようT、子どもできたんだって、と声を飛ばすと、こちらの傍らに上がってきていた者から、あいつの子はまだ二歳かそこらで死んだのだ、と知らされる。眼下のその親の顔を見ると、陰鬱なような表情をしていて、罪悪感を覚え、そいつが上がってきたところで謝る。それで林のなかの坂を上っていき、駅に行って電車に乗った。数駅先まで乗って降りたはずだが、そのあたりははっきりしておらず、次の記憶では既に葬儀場にいる。建物の二階か三階あたりで、それほど広くもなく、こじんまりとしたような直方体の部屋である。公民館か何かの一室といった風情だが、どことなく密閉感の気配が残っているのは、窓がなかったのかもしれない。一方の端におそらく既に祭壇がしつらえられていて、もう一方の端には椅子が並べられるかして座席が用意されていたはずである。それをエレベーターを降りてすぐの場所、長方形の床の長い辺のほうに立って横から眺めている。業者らしき年嵩の男が一人いる。じきに同級生たちが少しずつ集まりはじめたのかもしれない、顔を合わせる前に、あるいは抜けだせなくなる前にというような気持ちがあって、出ることにする。もともと葬儀には出席できず、どうしても行かなければならない場所があったのだ。しかしその用事が何だったのかは、いまとなってははっきりしないし、そもそも夢の渦中にいる時点から、その内実は曖昧で、というよりはむしろ空っぽで、ただ行かなければならないという強烈な義務感のみが存在していたような気もする。あるいはそれは単に、葬儀に出ないで済ませるための中身のない口実だったようにも、今となっては見える。しかし、周りの連中に、もう行かなければならないと断りを入れる時にも、そう見られるかもしれないとの危惧がかすかにあったのだが、それは、本当は葬儀に出たくないという自分の内心を見透かされるかもしれないという心配ではなかった。自分は本当に大切な事情があってこの場を離れなくてはならないのだが、それを葬儀に出ないための虚言だと邪推され、不道徳な人間だと勘違いされるかもしれないとの懸念だったのだ。したがって夢のなかの自分は、自分に欠かせない用事があることを固く信じていた、というよりはそのことを確かな事実として知っていたのだが、しかしその中身がわからないため――そのことに疑問を抱いてもいなかった――周囲の人々にもただ用事があると繰り返し言うことしかできず、具体的なことを何一つ説明できなかった、そこから、これでは信用されないのではないかという先の危惧が生まれたのだ。ついでに言うならば、中身が茫漠としてほとんど空虚だったのはこの用事だけではなく、そもそものこの夢の状況を作りだした、つまり葬儀を発生させた原因である亡くなった同級生についても同様である。一体誰が死んだことになっていたのか、覚めた今では何の手掛かりもなく、砂の一粒ほども記憶に引っ掛かりがない。むしろこれも、夢のなかにいる時から、誰が死んだのかということはまったく問題にされず、ただ同級生が死んだというその事実だけが、その具体的な内実を欠いた抜け殻のような状態で、夢を動かす駆動源になっていたような感触がある。
・あとは先の夢に続く断片的な記憶のみ。自分は確かに、用事に向けて出発し、その目的地に向かっていたらしい。土砂降りの雨のなか、スーツケースのようなものを押して歩いている。途中で少しでも雨を避けるためにだろう、ファミリーレストランに入って、店内を渡ってもう一つの扉からまた雨のなかに出る。用事を済ませて、先の葬儀場に戻ってくると、建物の外、周りに同級生たちがまだ集まっており、何らかの出来事が起こったはずである。それで、間に合ったな、と思ったような記憶がある。あとはおそらくこの夢の帰路だが、駅の通路で、小中の同級生と並んで歩いている。O.友一(ゆういち)、と呼びかけて、お前俺の名前知っていたのか、というようなことを言われるのだが、実際に覚えていたのはOという少し珍しい苗字のみで、相手の名前は友一ではない。覚めた時に今しがたの夢の内容を反芻して、友一ではないなと思ったのだが、本当の下の名前は思いだせず。

 結構時間が掛かって、記述すると既に二時一五分になっていた。他人のブログを覗いてから、腹もこなれていたのでベッドに転がって首を労りながら新聞を読み、その後、前日のものとこの日のものから記事を写して、するとあっという間に三時半である。インターネットをちょっとうろついてから部屋を出て、さらに玄関も出た。郵便箱を覗くと、まだ夕刊は来ていなかった。そのまま家の南側に下っていき、畑にも下りて、胡瓜やトマトやインゲンの出来を確かめると、結構実っていたので取ることにした。一度室内に戻り、袋を探すと、テーブルの上に朝刊を包んでいたビニール袋がお誂え向きにあったので、それを使うことにして、鋏とともに持って再度畑に行った。寄り集まってくる蚊や、顔に貼りつく蜘蛛の巣を振り払いながら、網に沿って伸び上がった植物の周りをうろうろとし、収穫した。そして家横の空調機か何かの上に鋏と袋を置いてから、蛇口を捻ってホースを取りあげ、水やりをした。鉢植えになっている花壇の紫陽花は、もはや花びらをほとんど残しておらず、辛うじて残ったものも青紫色が褪せ切って死んだ蝶の翅のようになっており、花の消えたあと、細い管の先端には浅緑色の細かい粒のようなものが生まれていた。畑の斜面のほうに生えている紫陽花も、見たところ大方死んでいる。水やりを終えると室内に帰り、手を洗って、書き物をするべくコンピューターを居間に運んだ。Jim Hall『Subsequently』を流し、各種記録を付けてから打鍵に掛かって、急がず気楽にゆっくり書いた。三二〇〇字ほど綴って前日の記事が完成、五時四五分である。音楽はJim HallRon Carterとデュオでやったライブの、『Alone Together』に移っていた。それでこの日の分に移ったが、すぐに電話が鳴ったので立ちあがり、子機を手に取った。出るとガス会社で、なぜかひどく相手の声の音量が小さく聞き取りづらいが、丁重な女性の声で挨拶があり、ご主人様ですかと訊いてきた。自分は息子であると答えると、失礼しました、まだお若いですねと相手は返してきた。親はいるかと訊かれたのに、明日まで出かけていると返して通話を終え、椅子に戻ってまたキーボードを叩いた。それでこの日のことを追っていると、先ほど取った野菜の袋を家横に置きっぱなしにしていたことに気が付いて、回収しに外に出た。既に六時過ぎ、ヒグラシの声が林のなかから天に向けて立ちあがっている。ヒグラシの鳴き声というのはどういうわけか、儚さとか諸行無常とかの匂いを喚起するものなのか、その紫に金泥めいた色合いのイメージと言い、煙のように細く揺らぎながら伸びる音質と言い、非常に仏教的だという感じがする。そんなことは今まで一度も考えたことがなかったのだが、この数日、鳴きはじめたあの声を聞くにつけて、その音のなかに何となく仏の姿のイメージが起こされて、眼裏に映るかのようなのだ。それはともかく、室内に戻り、野菜を洗って冷蔵庫に収めると打鍵に戻って、六時四八分に切りを付けた。既に日暮れて七時になろうとしているとは、休日が何と速く過ぎていくものか、しかしこれでも覚めてからまだ七時間ほどしか経っていないのだ、と考えた。居間のテーブルに就いたまま、娯楽的な動画を眺めて一時間ほど過ごし、それから食事を始めた。カレーの鍋を火に掛けて炊飯器をひらくと、米がもう残り少なく、釜を空にすることになった。一杯目を食べると、鍋も空にしてしまうことにして、米はないがルーだけを大皿いっぱいに満たし、水を飲みながら食べ尽くした。食器を洗ったあと、大鍋に蛇口から水を注ぎこんで、洗剤を垂らしてお玉でかき混ぜ、少々泡立てた液体に浸けておいた。それから前日と同じように生ごみを持って外に出て、暗闇のなか堆肥溜めに捨て、戻ってくると蕎麦茶を持って室に下りた。八時四〇分だった。歌をちょっと歌ったのち、九時からGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraをひらいた。一〇時半まで英語に触れ、そして湯を浴びに行った。前日と同じようにシャワーで身体を流し、たわしで肌を擦ってから出ると、タオルをハンガーに吊るし、カーテンを開けて網戸にしたベランダの戸の前に掛けて、風を浴びせるようにしておいた。それからカレーの鍋の水を流して、ふたたび注ぎながら今度は途中で洗剤を垂らしたので、水流の勢いによって白い泡が見る間にぶくぶく膨れあがり、鍋をいっぱいに満たした。それをそのまま置いておき、仏壇の前に供えられた花瓶の水を替えると自室に帰った。それで一一時一五分ほど、ベッドに転がって浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』を読みはじめた。眠気の気配は微塵もなかったが、日付が変わって深更に入ると腹が減りはじめた。カップラーメンを食べたい欲求が募るのだったが、ここで食べてはまた翌日の起床に支障が出ようと迷いながらとりあえず歯を磨き、一時前になると翌日の仕事を減らすためにに今のうちに米を用意しておこうと部屋を出た。流し台を占めているカレーの鍋を洗い、釜も洗ってから、ざるに米を四合、玄関の戸棚から取ってきて釜の上で研いだ。それで研いだものをすぐに釜に収めてしまい、翌朝七時に炊けるようにタイマーをセットしておいた。夜食の欲求に迷わされながらもひとまず部屋に戻り、またベッドの上で読書をしているうちに一時半も過ぎて、ここまで遅くなってはもはや食うのは愚の骨頂だなと否定に定まって、そこから二時を半ば近く回るまで読書を続けた。用を足して水を飲んできてから、二時二五分から瞑想を始めた。首の痛みはなくなったがしかし、朝の長寝の患いが抜け切っていないのか、肩が非常に凝っており、首の両側に窮屈な肩当てを嵌めているようで、繰り返される深呼吸に応じて筋肉の収縮が腹から上体にも伝わっていくのだが、その波を弾いて拒否するような固さだった。それを感じながら初めは遊びすぎている自分の生活を反省して、もう少しものを読まなければなるまいなどと考えたり、川向こうから響いてくる高速の虫の羽音のような威勢のいいバイクの音を聞いたり、犬を広場に放すように思考を遊ばせてその動きを追ったりしていたのだが、そのうちに一日の生活を振り返りはじめて、しばしば道草を食いながら現時点まで思いだし終えて目をあけると、二時五二分になっていた。二七分の長い瞑目のあいだ、空っぽになった胃がしきりにぎゅるぎゅると音を立てていた。それでアイマスクを付けて消灯し、布団に入ったが、眠気は一向に訪れてこない。また思考が遊ぶ様子を眺めているうちにそれにも疲れて、観察をやめてから少々時間が掛かったがやがて寝付いた。