2016/8/13, Sat.

 確か定かに意識を取り戻したのが九時五〇分だったように覚えている。しかし例によって即座に布団を抜けだすことができずに、結局一一時近くまでだらだらと留まり続けることになった。記録によると、一一時七分から一五分までの八分間、瞑想をしている。窓外で烏が口論するようにしきりに鳴き交わしている正午前だった。上階に行くと鍋に汁が用意されていたので、そこにうどんを投入して煮こんだ。おかずが何だったのかは覚えていない。煮こんだ麺を丼に移して食べると、パックにまだ残っているうどんをさらに、冷たい麺つゆに浸けていくらか食った。食器を片付けて一旦室に戻り、インターネットを回るか何か、あるいは隣室でギターを弄るか何かしてから、水を持ってくるか何かのために居間に行くと、山梨から貰ってきた黄桃を食べようと母親が言うので、ソファの端に腰掛けて切り分けられたものをつまんだ。それから自室に帰ると、一二時半から書き物を始めたらしい。音楽はBrandon Ross『Costume』を掛けた。部屋の各所を占めているCDたちをそろそろ整理しなくてはなるまいというわけで、ひとまず床の上に置いてあるボックスのなかの作品を順番に流している。それでもう一度聞きたいと思わなかったものは売ってしまい、また新たな音楽を開拓していこうという腹である。ディスクを置いておいても、実際にはコンピューターにデータを取りこんで聞くわけで、時代の趨勢に従ってそもそもデータで買うようにしてしまえばとも思うのだが、なぜだかどうにもそうする気が起こらないのだ。Brandon Rossのこの作品は残すことにした。打鍵を続けて一時五〇分頃、一一日の記事を仕舞えたのだが、数えてみると二〇〇〇字しか書いていなくて、掛けた時間との不均衡に落胆するようになった。それから一二日の記事にも入ったのだが、水谷隼のことを書き付けた拍子にインターネットに繰りだして卓球の動画を閲覧してしまった。ヤン=オベ・ワルドナーというスウェーデンの選手が、ほとんど伝説的な英雄として卓球界にその名を君臨させているらしい。その動画を見たり、そこからテニスの動画に飛んだりしているうちに三時を回った。いい加減に横道に逸れず、締まりを持って行かなくてはとふたたび書きはじめた。Leon Parker『Above & Below』に、David Santoro Trio『Live』を流して打鍵し、四時三五分に前日の記事を終了させた。四六〇〇字になった。汗で背中や肩のあたりの肌が軽くひりついていた。この日の分には入らずに、疲れたのでベッドに転がって、ジュリア・アナス/瀬口昌久訳『古代哲学』を読んだ。そのうちに瞼が降りるようになるので、ブルーライトの助けを借りるかと携帯電話を掴んで他人のブログを読んだ。そのうちに買い物かどこかに出かけていた母親が帰ってきたので、五時半になって上に行くと、既にフライパンにピーマンと鶏肉を炒めていた。それを引き継いで箸を動かし、火を通して鶏肉を白くしながら、細切りの玉ねぎを入れた鍋を隣に置いた。フライパンが炒まると焼肉のたれを入れ、絡めて完成、それから卵を椀に溶いて味噌汁の準備をした。電話が掛かってきて、出た母親の口調からすると隣家の老婆らしい。まもなく母親が玄関に出ていき、どうやらキュウリを貰ったらしい。その合間に汁に味噌を溶かして、味見もせずに完成とすると、テーブルに移って新聞を少々読んだ。それからもう空腹が極まっていたので食事を取ることにして、作ったものをそれぞれよそり、薄暗いなかでまた新聞を読みながら食べた。食事を終える頃に父親が帰宅した。食器を片付けて室に帰ると、Craig Taborn『Junk Magic』を流して、新聞記事の写しを始めた。八月一〇日の夕刊からである。現在の時間から遅れ気味であり、前日は山梨に行き、帰ったあとはだらけていたため、一二日の新聞はほとんど読んでもいない。夜だが室内には暑気が膨らんでいるので、水の入ったペットボトルを冷蔵庫から取ってきて、首すじに当てたり、湿り気を身体に塗ったりしながら仕事を進めた。八月一一日の朝刊を途中まで写しておくと、疲れたので取りやめにして、八時過ぎに風呂に向かった。出てくると八時四〇分前、自室に帰って先ほど読んだこの日の新聞の後ほど写すつもりの部分に印を付けておき、それから今度は、書き抜きを始めた。ゼーバルト/鈴木仁子訳『目眩まし』と、続けて鈴木大拙『禅堂生活』を少々である。打鍵しながら再生したSteve LacyとMal Waldronの『At The Bimshuis 1982』が素晴らしく、これはぜひとも残しておくことにした。さらに繋げたStephane Furic『Twitter-Machine』も――パウル・クレーの絵画から取られた題名で、ジャケットにも、頭だけの鳥のような奇妙な生物(物体?)が機械に繋がれて何かを吐きだすさまを描いた当の絵が採用されている――充実作で、これも残しておくことに決めた。一〇時まで一時間ほど書き抜きをすると、やはり疲れて身体のあちこちが凝っているので、避難所たる安息のベッドに帰り、『古代哲学』を読んだ。一一時に読了である。それから歯ブラシを取ってきて、口のなかをごしごしやりながら少し気晴らしをするかというわけで、インターネットに繰りだしてゲーム動画などを眺めているうちに、例によって時間を過ごしすぎてしまい、零時半である。Gabriel Garcia Marquez, Love In The Time of Choleraを三〇分強読んでから、マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へⅡ』に取り掛かった。しかしまた眠気に襲われているうちに時計が二時に到ったので、ここで切りあげることにした。一時以降の活動は大抵ものにならないので、一時を迎えたらさっさと寝たほうが吉だなと思った。便所に行ってきてから二時一五分まで瞑想をして、就寝した。



 (……)そうしたある晩、ふたりは幸福について語りあった、とベールは書く。そのときゲラルディ夫人は、文明の賜物のあらかたがそうだけれども、恋愛もまた人が自然から遠ざかれば遠ざかるほど求めずにはいられないキマイラのごときものだ、と自説を披露する。自然を他者の肉体の中に求めようとすればするほど、わたしたちは自然から切り離されてしまう。なぜなら、恋愛とは自分でこしらえた通貨で自分の借金を返すにも似た情熱だからだ。つまりは観念の世界の出来事であって、幸福のためには少しも必要ではない、それは彼が――ベールがモデーナで買った羽茎切り器が幸福に必要がないのとおなじことだ、と。それともあなたはまさかこんなこ(end22)とを思っていらっしゃるのではないでしょうね、と夫人は付け加えた、とベールは書いている、ペトラルカは、一度もコーヒーを飲んだことがなかったから不幸だったなどと?
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『目眩まし』白水社、二〇〇五年、22~23; 「ベール あるいは愛の面妖なことども」)

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 一八二九年から一八四二年のあいだにベールは大作をいくつも生み出しているが、そのあいだ終始梅毒の症状に苦しめられた。わけても嚥下困難、脇の下の腫れ、縮んでいく睾丸の痛みは悩みの種だった。いまやとことん観察する人となったベールは、おのれの健康状態のゆれを克明に記録する。そして不眠、目眩、耳鳴り、動悸、ナイフやフォークさえ使えなくなるほどの手の震えは、病気そのものでなく、むしろ長年服用してきた強い毒物のせいだと思い当たる。水銀とヨードカリの服用を減じるにつれて症状は好転したが、ところがこんどは心臓がしだいに役目を果たさなくなってきたことに気づく。暗号じみたやり方でわれとわが寿命を計算するのは長年の習いだったが、ベールはますますひんぱんにこの計算にとりくむようになった。なぐり書きめいた、不気味に抽象的なそれは、あたかも死を予告しているかのように思える。得体の知れない数字が書き残されてからベールの死までには、なお六年の辛苦に満ちた仕事の歳月があった。大気に春のきざしが感じられた一八四二年三月二十二日夕刻、卒中の発作に見舞われたベールは、ヌーヴ・デ・カピュシーヌ通りの歩道に倒れる。現在のダニエル・カサノヴァ通りの自宅住居にかつぎこまれたが、翌日早朝、意識を回復しないまま、命の灯を絶やしたのだった。
 (27; 「ベール あるいは愛の面妖なことども」)

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 この街での目覚めはほかのどこともちがう。一日がしずかに明けていく。呼び声や、シャッターを開ける音や、鳩の羽音がときおり静けさをやぶるにすぎない。ウィーンでフランクフルトで、ブリュッセルで、これまで何度おなじようなホテルの一室で、頭の下で腕を組んで横たわり、ここのようにしずけさに耳を澄ますのではなく、すでに何時間となく体の上を轟いていた波音のような往来の喧噪を目覚めととも(end54)に聞いて慄然としたことだったろう。これが新たな大洋なのだ、とそのたびに思ったものだった。街全体をたえまない大波がうねっている。音の波濤はしだいに膨れ、しだいに高まり、頂点に達すると錯乱したごとくアスファルトや石畳に砕け散って、そのときにはもう、信号の前にできた渋滞から新しいうねりが起っている。近年、こう思うようになった、このどよめきの中から、私たちのあとにつづく生命が、私たちをじわじわと破滅にみちびく生命が生じるのだろう、ちょうど私たちが太古の生命をじわじわと破滅させたように、と。それだけに、ヴェネツィアの街をおおう静けさは現実ばなれのした、いつ破られてもおかしくないものに思われたのだった。(……)
 (54~55; 「異国へ」)

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 (……)私たちは帰り道に祖父がエーベントイヤー時計店に修理に出していた懐中時計を受けとってこなくてはならなかった。ドアベルが鳴ると、たちまち小さな時計屋のなかにいた。大型の床置き時計や壁掛け時計、居間や台所用の時計、目覚まし時計や懐中時計や腕時計、無数の時計が、てんでにチクタクと、あたかも時を破壊するにはひとつの時計だけでは充分ではないかのように鳴っていた。(……)
 (187; 「帰郷」)

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 (……)毎日午後五時にベーレンヴィンケルからやってくるロマーナを、私はよく橋のたもとまでむかえに行った。歳はせいぜい二十五というところで、そのことごとくが私にとっては美しさのきわみだった。上背があり、大きな開放的な顔に、水灰色の眼と、ハーフリンガー種の子馬のような栗色のゆたかな髪をしていた。ひとりの例ももれず小柄で色黒で髪が薄くて意地の悪い百姓娘や下女の集まりであるW村の女たちとは、あらゆる面で雲泥の差があった。そしてそのあまりにも異彩をはなつたたずまいに、水際だった美しさにもかかわらず、結婚の申し込み手がなかったのである。(……)
 (189; 「帰郷」)

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 (……)私は毎日十時ごろ林務官館まで足をはこんで、天気の悪い日にはやさしいラウホ学校教員試補とならんで暖炉のベンチに腰かけ、天気のいい日には養樹園のなかにある回転式の四阿[あずまや]のなかで、一心不乱に練習帳を文字や数字でうめていった。その蜘蛛の巣のような文字や数字の網の目のなかに、ラウホ先生を閉じこめてしまいたいのだった。(……)
 (200; 「帰郷」)

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 (……)W村ははやくも無限のかなたに遠ざかっていて、私はかねてから不可解な、隅から隅まできっちりと整えられ均されたドイツの田舎を通り抜けていった。あらゆるものが不吉[いや]なしかたで宥められ、感覚を喪っているかのようで、その麻痺の感覚は、じきに私にも襲いかかってきた。買っておいた新聞をひろげる気にも、眼の前のミネラルウォーターを飲む気にもなれなかった。かたわらを野原が過ぎていき、畑には淡みどりの冬の小麦がカレンダーどおりに芽を出していた。(……)
 (201; 「帰郷」)

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 (……)列車がライン川沿いを走るようになってはじめて、彼女はときおり顔をあげ、車室の窓ガラスから河面や対岸の懸崖に眼をはせた。北風がよほど強いのだろうか、灰色の波を割って川を遡る艀[はしけ]の艫[とも]の旗が、後ろむきではなく、子どもの絵のように進行方向になびいていて、そのため光景のすべてがなにやらあべこべの感じとともに、一抹の哀切をもただよわせていた。
 (203; 「帰郷」)

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 シナ禅の起因は、伝説的に、西紀五二〇年、南印度より菩提達磨が入来せることに帰せられている。併し、禅がシナ民族的天才の産物としてシナ風に造り上げらるるまでには、百五十年余りの歳月を要した、何となれば、大体慧能[えのう](西暦六三八 ― 七一三)及びその弟子の時代に至って、今日禅として知られているものが、判然とした形式を採って、印度型の仏教的神秘主義と区別せらるるに到ったからである。然らばシナ仏教思想史に漸次現出し来ったこの禅は、如何なる特徴を有しているであろうか。
 禅は、先に述べた如く、禅定(dhyāna)を意味する。併しながら、シナに於けるその発達の過程に於て、禅は、禅定よりも、より[﹅2]多く般若と同化するに到った。般若(慧)は、直観そのものであると同様に、また直観智でもある。直観の力は禅定より発生しはするが、禅定それ自体は般若を構成しない、而して禅の目的とする所は、般若の実現であって、禅定そのものではない。禅は空[﹅]の真理を把捉するものであって、これを為すに知性や論理の媒介によらない。それは直観又は直覚に訴える。慧能や、慧能下の駿足、神会[じんね](西暦六六八 ― 七六〇)は、禅のこの方面を強調して、呼ぶに「頓教[とんぎょう]」の名を以てし、般若よりも寧ろ禅定に重きを置く「漸教」と対立した。禅は、それ故に、実際上、般若波羅蜜を生活することを意味する。(end24)
 般若波羅蜜の教義は、空[﹅]の教義そのものに他ならぬ。この点を簡単に説明しておこう。自分は空[﹅]を英語でいつも emptiness と訳しているが、それは、無・空虚・無内容を意味しない。それは絶対的意味を有し、相対的な言葉や形式論理の言葉による表現を拒む。それは只〃[ただ]矛盾した言葉によって表現せられる。それは概念によっては把捉せられない。それを理解する唯一の方法は、自身之を経験するにある。それ故に、この点よりすれば空[﹅]なる言葉は、他の何物よりもより[﹅2]以上に心理学上の言葉の系統に属すると云ってよい。殊にそれが禅に於て取扱わるる場合そうである。「南に面して北斗を看よ」とか、「橋は流れて水は流れず」とか、「柳は緑ならず、花は紅ならず」など云う表現を、禅師達が用いる時には、彼等はこれを自らの内的経験上に属する言葉として話しているのである、論理的思索の結果ではない。而してこの内的経験と云うのは、身心脱落の時に我々の体得するところのものであって、この経験そのものから、普通に所謂る世界なるものを見ると、我々の普通の見方で見ていた凡[すべ]てのものが或る根本的転回を受けるのである。それで自然この種の経験より迸出する言辞は、常に矛盾に満ちたものとなり、全く無意味に見える。これは何とも致し方がないのだ、そして此処に禅はその特異な使命を見出すのである。
 (鈴木大拙/横川顕正訳『禅堂生活』岩波文庫(青323-3)、二〇一六年(底本一九四八年)、24~25; 「緒言」)

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 (前略)
 身心をして散乱せしむる勿[なか]れ、
 道は行じ難く、塵は漫[けが]し易し、
 頭頭物物[ずずもつもつ]須らく明見すべし。
 (後略)
 (37; 「第一章 入衆[にっしゅ]」; 汾陽善昭[ふんようぜんしょう]の「行脚の頌」)