2016/8/17, Wed.

 九時半に鳴るよう目覚ましを仕掛けてあった。それで覚めはしたものの、三時半まで起きていた身体が覚醒に耐えられず、即座にふたたび寝付き、結局は一一時である。ただそれでも睡眠時間は七時間半で、陽の高さのわりにそれほどの過眠というわけではなく、二時五〇分から一〇時五〇分まで眠った前日よりも僅かに少ないくらいなのだ。とはいえそこからさらに三〇分ほど寝床に留まった。非常に暑い晴天の正午前だった。起きて廊下を渡り、階段を上るあいだにも空気の暑さが如実に感じられ、台所に入るとすぐに水を飲んだ。先日のカレーの残りを利用したものなのか、凍ったカレードリアが出されていたので、それを電子レンジで熱し、母親と分けた。気温計は三六度を指していた。風のよく吹く日で、カーテンが時折り大きくめくれあがって、光が染み渡って色の薄くなった窓の先の空気が露わになった。瓦屋根には点々と、スポイトで置いたように白い雫が宿っている。デザートにメロンを食って室に帰ると正午過ぎ、早速セネカ大西英文訳『生の短さについて 他二篇』を読みはじめた。Brad Mehldau Trio『Blues And Ballads』で部屋を満たしつつも、二方面の窓を両方とも網戸にして開放した。それで汗が湧いて仕方がないので寝転がらずに、ベッドの縁に座ってゴルフボールで足の裏を揉みながら読書をした。二時まで本を読むと、隣室に行ってギターを少々弄り、それから上がって風呂を洗った。煎餅を一枚食いながら新聞をひらいて、五輪で活躍している卓球男子チームについての記事を読むと下階に戻り、二時四〇分から書き物に入った。音楽は、Kevin Eubanks『Live at Bradley's』である。ギターとベースとピアノのトリオで、演目は既成曲中心であり、サウンドも主線で耳に新しいところはないのだが、演奏が朗らかで香り高いような風情で充実しており、売る気にならなかった。それでちょうど一時間ほど掛けて前日の記事を綴り、この日の記事も短く書いて、四時を迎えた。久しぶりに記述を現在に追いつかせることができたわけである。イヤフォンを外すと、窓外の近くから鳥の鳴き声が響いていた。口笛を気まぐれに、滅茶苦茶に吹きまくっているような具合で、以前から耳にするものだが、フリー系のサックスソロを連想させるほど非常に自由で多彩な鳴きぶりである。洗われたシーツとマットを敷いて寝床を整えながら耳を傾け、コンピューターの前に戻ると何という鳥なのか調べた。イヤフォンを片耳のみにして、動画の音声と背後から響く声を聞き比べてみると、どうやらガビチョウというものらしい。元々中国から渡ってきたものが野生化して繁殖し、特定外来生物に指定されていると言う。その知識を仕入れたあとは、階上から包丁の音が聞こえていたので、そろそろ飯を作らなくてはならないかと部屋を出た。ところが台所に行ってみると、母親は六時半からのパソコン教室に行くからということで早めに食事の容易に掛かったらしく、ジャガイモの煮物や卵とワカメのスープやらが既に用意されて、こちらの働く余地はなかった。そういうわけで室に戻り、セネカ『生の短さについて 他二篇』の続きを読んだ。途中からベッドに移って、暗んでいく室のなかで薄闇を纏っているページに目を寄せ続けた。六時半頃に読了して、それからすぐに瞑想に入った。六時三五分から四五分まで一〇分間座ってから上階に行くと、母親は既に出かけたあとで無人の居間は闇に包みこまれていた。食卓灯を点けて台所に入り、即席のハンバーグを一つ、電子レンジで熱した。ほかに細長い鶏の揚げ物などをおかずに米を食い、汁と生野菜も平らげると、食器を洗って部屋に帰った。七時四〇分だったらしい。インターネットを回っているうちに、東浩樹と津田大介猪瀬直樹の三人が八月一五日にニコニコ生放送で行った放談会の動画を発見し、閲覧しはじめたところが、二時間ほどあるものを結局そのまま最後まで見てしまい、大層時間を潰して一〇時を越えた。風呂は、と上に行くと母親は既に寝巻き姿で椅子に就いている。父親がもう帰ってきて入浴していると言うので、戻って新聞記事を写すことにした。八月一六日の分である。打鍵しながら背に汗の玉が転がってくすぐったくて仕方がなく、露出している肌の面で粘りを帯びていない箇所はないほどに、身体がべたつき、同時に軽くひりひりとする。カーテンを留めて網戸を晒しても汗が止まらないので、さすがに扇風機を点けた。いつ置いたのか、あるいは置かれたのか覚えていないのだが、ちょうどひらいた扉の先がぶつかるあたりのところに、手狭そうに位置していたのだ。それで身のほうへ風を送らせながら新聞記事を写していくのだが、なかの一つ、トルコで人民民主主義党は除き、与野党一致で反クーデターの国民集会が行われたという記事で、参加した聴衆の数が当局発表で三〇〇万人とあって、そんなに多いのかと素朴に驚いた。記事を写し終える頃に、父親が風呂から出たので替わって入浴に行った。翌日から労働が再開するので、身なりを整えるかと髭を剃り、べたついた肌を流して、戻ると一一時一五分である。読書は、最低でも二冊に一冊は必ず小説を読むことにしている。セネカを読了したいま、『失われた時を求めて』を読んでいる最中なので、三巻に入りたいところだが、まだ借りておらず手もとになかった。それなら英語のリーディングでもさっさとすれば良いのだが、休みも最後の日の夜だしと己に怠惰を許すような風があって、歯ブラシをくわえながらゲーム動画を眺めたりした。それで日付を境を踏み越えて零時半、ベッドに移って、Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを手に取った。一時には切りあげたかったが、相変わらずの鈍足を押して少しでも進めようと一時半まで読み、それで瞑想をした。一時三三分から五〇分まで、座っているうちに背中のあちこちにぴりぴりと、虫がたかったかのような小さな刺激が生まれるのは、汗腺がひらいて汗がかすかに湧いている印らしい。ただじっと座って呼吸をしているだけだというのに、と驚いた。脚も触れ合ったところから熱を持って湿っており、瞑想を終えると薄布団に潜りながら、膝の下は突きだして涼み、じきに寝付いた。