五時半に仕掛けられた目覚ましのアラームで意識を取り戻した。二時から三時間半のまことに短い夜だったが、寝床に戻るとそこから一時間、臥位のままに留まった。外は光の渡る晴れの様子である。六時半を過ぎると起きあがって用を足してきて、起床時の瞑想を行った。六時四二分から五〇分、済ませると上に行き、前夜の残り物を中心に食事を取った。母親はこの日も、ブルーベリー狩りだか何だかに出かけるらしい。七時二〇分頃部屋に戻って、コンピューターを点けると、朝からのこの暑さで機械も参っているのか、Evernoteがたびたび応答なしの状態に固まる。難儀しながらもこの日の記事を作り、前日の記録を付け、するともう七時半頃で出るまで大した時間もないので、どうするかと迷いながらも、Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraをひらいた。ゴルフボールを踏んで足裏を圧しながら読むのだが、それだけでシャツの内が湿って布が肌にくっつく有り様である。八時近くになると切りあげて、上階に行って制汗剤ペーパーで肌を拭いた。そうして服を着替え、ネクタイも締めると上階へ、風呂を洗い、水を飲んで排便してから家を出た。この頃には空は曇って陽射しは薄らいでおり、東南の方向を向いても取り立てた眩しさもない。自転車を引きだす時に触れたサドルも、ほとんど熱を持ってはいなかった。駆りだして、街道と裏通りを通って職場に向かった。着いたところで駅舎と小学校の先の森のほうに目を向けてみると、空のみならず緑色を背景とした空気の色も何となくくすんでいるようで、確かに予報通り雨の予感があった。実際、働いている最中に大きく降ったようである。退勤した二時前にはおおよそ止んでいたが、それでもまだ少し雨滴が残っていた。自転車をコンビニの横に止めて入り、和風に味付けされた鶏肉が入ったグラタンと、おにぎり二つ、ガムのボトルを買った。それからまた少し走らせ、図書館の分館に行った、『失われた時を求めて』を借りたかったのだ。三巻と四巻を借り、相変わらず雨がぱらついていたので、あまり効果はなさそうだが、籠に入れた本の上にコンビニのビニール袋を乗せて雨除けにした。裏通りを行っていると、そこここでサルスベリの紅色を目が拾う。さすがに散りはじめてはいるが、盆の休みを挟んでも残っている、開花の長い花である。色もいかにも鮮やかで、強いような色彩の密度であり、緑の連なりや民家の並びのなかに出現すると、浮かびあがるようになって視線を呼びこむらしかった。雨はそれなりに粒が多いとはいえ、戯れ程度だろうと思っていたところが、速度を増すと顔に斜めに降りかかって、目を細めさせた。家に着き、居間に入って荷物を卓上に置いた途端に、窓の外で音が膨らんで雨脚が強まったので、珍しくうまいタイミングで帰れたなと思った。上半身裸になって室に下り、スラックスも脱ぐと柔軟をしてから瞑想を行った。少々うとうととしながら、一〇分間瞑想をして、それから食事を取りに上がった。グラタンを電子レンジに入れて熱しているあいだに、キュウリを二本切って、皿に味噌を添えた。朝の汁物も払ってしまい、卓に就くとそれらを食い、満腹をさらに押すようにして、チャーシューわさびと鶏肉マヨネーズのおにぎりを食べた。たかが八時半から二時前まで労働とはいえ、それなりにエネルギーは使うらしく、食べると身体が重く、目のあたりに眠気の痺れがあった。南窓に目を向けると、ガラスの表面に水滴の残骸が点々と線を引いて、砂を散らばらせたようになっている。山の谷間から靄が湧いて、同じ白濁色の空に向けて背を伸ばしているのだが、じっと見つめているとその白い水粒の集積は、絶えず流動的に形や陰影を変えて動いているようにも見えるし、まったく動かずに停止しているようにも見えるのだった。林から絶えず響くアブラゼミの音は、蒸気が高速で噴出する音を思わせた。食器を片付けて室に帰ると、三時半だった。眠気と疲労のために身体から空気が洩れたようになっており、書き物をするべきところをすぐには掛からずに先延ばしにしたがる心があるのを、自分でも気付いていた。それでひとまずインターネットをうろつきはじめ、ニュースなどを見たのち、四時過ぎから始めたのだが、やはりあまり身が締まらず、前日の記事にはだらだらと一時間も掛けてしまった。それからこの日の分に入って、欠伸をもらしつつ四〇分で切りを付けた。そして、ベッドに寝転んで、借りてきたばかりの『失われた時を求めて』三巻を読みはじめたところが、例によっていつの間にか眠っていた。六時半頃覚めて、そこから改めて読書を続けた。その日その日の読書の進捗、読んだページ数は日記に記録している。ここ数日来、それに加えて読書に費やした時間の記録も始めたのだが――大概、ベッドでくつろいだ姿勢を取っている開始時に手帳を引き寄せて、壁時計に目をやって時間を記しておくのだ、そして終了時も同様である――それによって、一日のうちに読書の時間をきっちりと確保しようというような意識が促されているような感がある。実際、先月の体たらくを払拭するかのように、盆の休みに入った頃からは毎日よくものを読んでいる。この時も七時四五分まで、一時間一五分を確保し、それから一年前の日記を読んだ。八月一七日と一八日の二日間だが、一年後の自分が強いて言及するほどの内容もない。食事に上がったのだが、夕食時のことはよく覚えていない。母親が出かけて、食卓灯のみ灯った明るさと暗さが半々の居間で一人食事を取ったような像が脳内にあるが、それは既に記した一七日の記憶であるような気もする。メモによると、夕食後に室に帰ると新聞を読み、九時を迎えたらしい。確かここで風呂に入ろうかと階段を上がってみると、母親に先を越されていたのだ。従って、母親はこの夜はやはり外出せずに家にいたらしい。新聞記事を三つ写したのが、母親が出るのを待つあいだのこの時間だったはずである。替わって風呂に行って、湯に浸かりながら意識をひらき、周辺の知覚的刺激に向けた。まず最初に感じたのは、ひらいた窓から流れこんでくる涼気の感覚で、それが浴槽の縁に乗せた左腕の表面に、意外なほどの爽快感で触れたのだ。その涼気は引っこみ思案に左腕の位置に留まって、なかなか胸のほうまでやってこない、あるいはちょっと寄ってきてはすぐまた戻ってしまうような感じだったが、鼻で息を吸うと湿った穴の入り口をそれが通るのがわかった。浴室のなかには換気扇の駆動音が満ちている。右手上の窓外から虫の音が入ってきて、それにぶつかり、飲みこまれないように抵抗していた。音程らしいものもなく無味の、回転する翅の音が低い位置に布のように敷かれて、その上に濁点付きで苦味を混ぜたような鳴き声が、細かくジグザグに折れ曲がる線のように縦に繰り返し刻まれる。それを聞いているうちに、突然それらよりよほど高い音程の声が浮かびあがり、横に広がって被さった。いささか単調に鳴り続けるそれは初め、踏切りのサイレンを連想させるようで、瞳の裏には音に合わせて信号灯の赤い照明が上下に入れ替わり点滅するさまが映っており、そのヴィジョンはかすかな不吉さをはらんでいたのだが、一度声が止んでからふたたび始まったのを聞くと、わずかな切れ目のあいだに声の質が変わったかのように、今度は音の輪郭が柔らかく感じられ、鈴虫にも似ていかにも秋めいたような風情をもたらすのだった。それらにしばらく耳を傾けたのち、頭と身体を洗って上がった。戻るとちょうど一〇時くらいだったのだろう、Brad Mehldau Trio『Blues And Ballads』を流して、書き抜きをしている。『サミュエル・ベケット短編小説集』である。「反古草紙」という篇から色々と書き抜いた。これはどういう小説だったかと思い返してみても、何が書いてあったのかまったく思いだせず、どんな存在とも知れない声がどこかの辺境で気の狂ったようにぶつぶつとただひたすら呟いているようなもので、声以外に何も存在しないと――訳者あとがきにも書かれていたありきたりな評言だが――言われるのが納得された。「わたしは言葉と涙を混同する、わたしの言葉はわたしの涙、わたしの目はわたしの口なのだ」というフレーズがなかなかに気に入られて、繰り返し頭のなかで読んだ。書き抜きを一時間行って一一時を迎えたのち、一一時二二分からGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを読みはじめている(英語のリーディングも時間を記録することにしたのだ)。三〇分ほど費やしたのち、間髪入れずに『失われた時を求めて』三巻に移り、そこから一時二〇分付近まで読み続けた。何かちょっと挟んだらしく、一〇分経って一時三五分から瞑想、カーテンの向こうから虫の音が響いていて、風呂場で聞いたものと同じ種類の集まりなのだろうが、先ほどよりも随分と賑わしく聞こえた。断片的に回想したり思念を回したりして、結構長く、三〇分くらいは座っただろうと思ったところが、目をひらくと二三分しか経っていなかった。目覚まし時計を六時に仕掛けて就寝した。
(……)わたしが言うことは言ったはしから全部取り消される、結局なんにも言わなかったことになるだろう。(……)
(片山昇・安藤信也訳『サミュエル・ベケット短編小説集』白水社、二〇一五年、32; 「鎮静剤」)
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(……)さて、いまここに、どういういまここに[﹅5]だ、いま[﹅2]とは天国の時間のように途方もなく長い一秒、ここ[﹅2]とは働きのゆるやかな、ゆるやかな、ほとんど停止したような精神。とは言っても、変化はある、何かが変化する、それは頭のなかにあるはずだ、頭のなかでゆっくりと人形がぼろぼろになっていく、たぶんわたしたちは頭のなかにいるのだろう、蛆虫がやってくる前の頭のなかに入ったように真暗闇だ。密閉した象牙の塔。言葉もまたゆっくり、ゆっくり、主語は動詞にたどり着かぬうちに死んでしまう、言葉もまた停止している。饒舌の人生を送っていたころよりはま(end99)しだというのか? そうだ、そうなのだ、たしかに良い方向に向かっている。それでは他者の不在、これは問題にならないのか? 馬鹿馬鹿しい、他者だと、他者なんて存在しはしない、それはいまだかつて誰にも迷惑をかけたことはない。もっともここにも二人や三人の他の他者はいるはずだが、目に見えない、ものも言えない他者で、これは問題にならぬ。しかし彼らから身を隠し、彼らの壁にぴったりはりついて歩いた、それはほんとうだ、ここにはあれが足りない、気晴らしが足りない、ここではそれは疼痛だ、馬鹿馬鹿しい、上のほうでそんなこと言ってたなあ、生きた芥子泥[けしでい]。言葉が続いてやってくるかぎり何も変化はないだろう、またしても古い言葉が出てしまった。話すこと、これあるのみ、話し、自分をからっぽにすること、ここでいつまでも、それしかない。しかし言葉が欠乏してくる、ほんとうに、こうなると話は別だ、言葉が出てこない、困った、困った。あるいは、終わりが来ないうちに最後の言葉に到着するのを、自分の考えを全部言い尽くすのを恐れているのかもしれぬ、いやそんなことはない、なぜならそのときが終わりなのだから、すべての終わりなのだから、たぶん。(……)
(99~100; 「反古草紙」)
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(……)むしろ黙っていたほうがよい、ほんとうにくたばりたければそれが唯一の手段だ、囀らぬこと、おし殺した呪いの言葉で胸も裂けんばかりになってくたばる、声を立てずに破裂するのだ、(……)
(100; 「反古草紙」)
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わたしは裁判所の書記だ、わたしは記録係だ、なんだか知らないある訴訟の公判の。どうしてそれをわたしの公判にしたがるのか、わたしはどうでもよいのだが。おや、公判再開だ、今晩最初の質問が始まった。わたしは裁判官であると同時に当事者であり、証人であると同時に弁護士でもある、そしてまた、注意深く無関心に記録を司る者でもある。これは一つの心像だ、無力なわたしの頭のなかの、すべてが眠り、すべてが死んで、すべてがまだ生まれないでいる、どれなのかわからない、頭のなかの心像だ、でなければわたしの眼前にある心像だ、わたしの目は一瞬間その場面を見る、瞼がまたたきするときにそれは目のなかに押し入ってくるのだ。それからすぐ目は閉じる、頭のなかをのぞきこもうとして、内部を見抜こうとして、そのなかにわたしを捜そうとして、誰かを捜そうとして、全然別のもう一つの掟の沈黙のなかに、このわけのわからぬ審判、生きることが有罪になるこの審判の罠にかかったわたしを捜そうとして。だから何一つ現われはせず、すべては沈黙する、人は生まれるのがこわいのだ、いや、おおいに生まれたがっている、死ぬことを始めるために。(……)
(116; 「反古草紙」)
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(……)ところでこのわたしはごらんのとおり、部屋の片隅に浮かぶ小さな一つの塵、どこからか吹きこんでくる一陣の風にふわふわと舞い上がり、次の一吹きで舞い落ちる塵なのだ。そう、わたしは永久にここにいる、そばには蜘蛛と死んだ蠅、蜘蛛の巣(end125)にからまった羽根が風に震えるのに合わせて踊っている蠅の死骸、しかしわたしはうれしい、とってもうれしいのだ、やっとおしまいになったので、涙の谷を上り下りしてひたすらにわたしを慕いあえぐことがやっと終わったので。ときどき蝶がやってくる、花の熱気ですっかり温もって、なんと弱い虫だ、なんと早く死んでしまうのだ、羽根を十字架のようにひろげて、まるで日向で休んでいるように鱗翅を灰色に光らせて。抹消、言葉は抹消できる、それから言葉がつくり出す狂った想念も。神が息を吹きこみ、神の子がずっと後になって崇高な馬鹿指の先で姦婦の足もとで字を書いたあの泥への郷愁、ふき消すこと、何も言わなかったと言いさえすればよい、それはまた何も言わないことになるのだ。(……)
(125~126; 「反古草紙」)
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(……)次の沈黙まであと何時間あるだろう、何時間なんてものじゃない、沈黙は来ないだろう、あと何時間、次の沈黙まで? ああ、まちがいなく、これには終わりというものはないのだ、これとは何か、沈黙と言葉のごたまぜ、沈黙ではない沈黙とつぶやきにすぎぬ言葉とのごたまぜだ。またはそれでもやはりこれは人生なのだ、人生がそのありとあらゆる形で終わるまでに、他の人生が終わったように、終わるだろうように、終わるべく運命ずけられた人生の一形態なのだ。言(end127)葉、言葉、わたしの人生はただそれだけ、沈黙と言葉の入り混じるバベルの塔の混乱だけだった、無定見なわたしの人生の形態は、それがなおもこんな奇妙なやり方で続くかぎり、出てくる言葉しだい、そのときの時刻しだいで過去にも未来にも現在進行形にもなる。(……)
(127~128; 「反古草紙」)
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沈黙を破るのは言葉だけだ、ほかのすべての音はやんでしまった。わたしが黙ればもう何も聞こえはすまい。しかしわたしが黙ればほかの音がまた始まるだろう、言葉のためにわたしには聞こえなかったか、さもなければ実際にやんでしまっていた音が。しかしわたしは黙っている、こういうことはときどきあることだ、いや、断じてそんなことはない、一秒たりとも。わたしはまた泣きもする、とぎれることはない。言葉と涙のとだえることのない波だ。熟慮反省の休止のない総体。しかしわたしは前より小声で語る、毎年少しずつ小声になる。たぶん。また話す速度も遅くなる、毎年少しずつ遅くなる。たぶん。わたし自身にはわからない。とすれば休止は長くなるだろう、言葉と言葉、文と文、音綴と音綴、涙と涙の間の休止は。わたしは言葉と涙を混同する、わたしの言葉はわたしの涙、わたしの目はわたしの口なのだ。そうすると、それぞれの小休止で何かが聞こえるはずだ、もしそれがわたしの言うような沈黙、言葉だけが沈黙を破ると言ったときと同じ意味の沈黙ならば。ところが違うのだ、相も変わらぬ同じつぶやきなのだ、水の流れるように間隙のない、終わりのない、したがって意味のない――終わりが言葉に意味を与えるのだから――一つきりの言(end135)葉のようなつぶやきなのだ。それじゃなんの権利で、いや、今度はわたしの言おうとすることがわたしにはわかっている、そこでわたしはこう言ってわたしを引き止める、なんの権利もありゃしない、なんの権利もありゃしない。しかしあの古く愚かしい挽歌とつき合いながら、わたしはわたしに問いかける、返事のあるまで問い続ける、一つの新しい質問を、もっとも古い質問――ものごとはいつもそんなふうだったかという質問を。さてそれでは、これからわたしに一つのことを言おう(もしわたしにできるなら)、たぶん未来への約束でずっしり重いと思う一つのことを、つまりわたしは昔のことをはっきり思い出せなくなりはじめたということを(できた!)、ところで昔[﹅]という言葉でわたしはよそ[﹅2]を意味する、時間は空間と化し、わたしがここから外へ出ていかないかぎり時間はもはや存在しないだろう。そう、わたしの過去はわたしを外へほうり出した、鉄格子の門が開いたのだった、でなければわたしが自分で脱出したのだ、たぶん地面に穴を掘って。脱出したのは、しばらく自由に昼と夜の夢のなかを歩き回り、そして季節から季節へと最後の季節へ向かって生者のように進んでいく自分を夢に見たかったからだ、突然、ここで、記憶喪失になる前に。それからというものはもう想像と希望だけしか残っていない、わたしに物語ができる希望、どこからか来たという希望、いつの日にかそこへ帰れるまたは前進できるという希望、でなければ無希望。どんな希望がないのか、それはいま言った、生き身のわたしの姿を見る希望、それも架空の頭脳のなかだけでなく、いずれは砂と化するさだめの浜砂利のように、移り変わる空の下で、毎日、毎夜、少しずつ場所を変え、まるで何かの役に立つかのように小さくなり、どんどん小さくなり、しかも(end136)けっして消滅することのないわたしの姿を。いや違うんだ、なんでもかまわない、なんでもかまわないのだ、声を擦りへらすことが、頭を擦りへらすことができる望みがあれば、それともそんな望みはなくとも、理由がなくとも、なんでもかまわない、理由がなくとも。だがそれも終わるだろう、やがて末端に達するだろう、息がだんだん弱くなる、このほうがずっとよい、沈黙がやってくるだろう、わたしは沈黙というものがあるかどうかを知るだろう、いや、わたしは永久に何も知ることはあるまい。しかしここから出ること、せめてそれだけはできないものか。わからない。時よふたたび始まるがよい、空、地上の足音、愚か者が、朝、早く来てくれと哀訴する夜、夕方、二度と明けそめぬようにと懇願する黎明、ふたたび始まるがよい。わからない、わたしにはなんのことやらわからない、昼と夜、地と天、哀訴と懇願。そしてわたしがこれらを欲しがっているかもしれないって? 誰がそんなことを言うのか、わたしが欲しがっているなどと、声がそう言うのだ、そしてわたしが何かを欲しがるなんてありえないとも言う、どうやら矛盾しているようだが、わたしはどうでもよい。わたしを、ここで、この小さな言葉たちがぽっかり口を開いてわたしを飲みこみそして口を閉じることができるなら、たぶんそれは一度すでに起こったらしいが。それならもう一度開いてわたしを出してくれぬか、わたしに固く目をつぶらせた光の喧噪のなかに、そしてもう一度開いてわたしを出してくれぬか、わたしに固く目をつぶらせた光の喧噪のなかに、そしてもう一度わたしが仲間入りを試みるために人間の喧噪のなかに。または、わたしが有罪だとすれば、わたしを許し、そしてわたしが罪滅ぼしをすることを、過ぎ行く時間のなかで行ったり来たりしながら、毎日少しずつ純粋になり、少しずつ死んでいくことを許してくれぬか。(……)
(135~137; 「反古草紙」)
*
(……)言葉のがらくたよ、わたしを埋めてくれ、言葉の雪崩よ、誰のことももはや問題にするな、去るべき世界も到達する世界も問題ではない、世界も、人も、言葉も、悲惨も、そう、悲惨もみんなおしまいにするために。この言葉が終わるか終わらないうちに、案の定、わたしは言い出す、ああ、そこに出口があると言えさえしたら、すべてはすらすらと言ってしまえるのだが、墓行きの長い旅路の、沈黙のなかに踏み出す第一歩になるのだが、一歩また一歩小股にゆっくり踏み出すこの引き返せぬ歩み、まず(end143)最初は長い通路、それから現世の大気のなかに出て、昼を過ぎ夜を過ぎ、だんだん速く、いや、だんだん遅くだ、わかりきった理由によって、それと同時にだんだん速く、わかりきった別の理由によって、または同じ理由によって、理解のしかたが異なるだけの、または理解のしかたは変わらぬが理解の時期に少し早いか少し遅いかの差がある、または同じ時期で、いやそんなことはない、そんなことはありえまい、一口に言って、不可能だ。わたしがどこから来たかを知ることができるだろうか、いや、わたしに母親はあるだろう、母親を持ったことはあるだろう、そこからわたしが出てきた、それもずいぶん苦労して、いや、忘れたらしい、すっかり忘れたらしい、いったい何がわたしにあんなことを言わせるのか、何があれやこれやをわたしに言わせるのか、ところであれは確かじゃないのだ、母親は確かにあり、墓は確かにあるが、あれは確かじゃない、出口があるかどうか、出口があるとわたしが言うかどうかは確かじゃないのだ、わたしにそう言わせてくれないか、鬼神[デモン]たちよ、いや、わたしは何も頼みごとはすまい。そう、わたしにはどうやら母親がある、わたしにはどうやら墓がある、わたしはここから出なかったらしい、ここから出るものはいないのだ、ここにわたしの母親、ここにわたしの墓、今晩はみんなここにある、わたしは死んでそして生まれようとしている、完了もせず開始もできずに、これがわたしの人生なのだ。なんと理にかなったことか、いったい何に不服があるというのか、わたしの人生が完全に終わってしまうまでこの芝居の幕が下りないようにとつぶやきながら墓地の前を行ったり来たりすることができなくなったのがわたしの不満なのだろうか、そうかもしれない。わたしがなぜかはいっこうにわからぬままに不安で(end144)たまらなかったのはそれだけの理由があったのだ、わたしは行ったり来たりしながら、いったいわたしを不安にするのはなんなのかと捜し回りそして正体をつきとめ、こう言った、これはわたしじゃない、わたしはまだ始めていない、まだ誰にも見られていないと、そしてさらに言った、いや、いや、これはわたしだ、しかもそのうえ、生きることをやめようとしている最中だ、次の猛攻撃が始まる前に到着しようとまるでわたしが時間の上を歩いているかのように足を早めてと、そしてさらに言った、以下同様。(……)
(143~145; 「反古草紙」)
*
(……)魂も肉体も誕生も生も死も、そんながらくたは何も使わずに続けねばならぬのだ、そんなものはみな言葉によって死んでいる、そんなものはみな言葉の氾濫なのだ。言葉はほかのことを言う術を知らぬ、言葉が言うことはほかには何もない、ここにはほかのものはないということだけだ、しかし言葉はそれをけっして言わない、言うとはかぎらない、言葉は何かほかのもの、なんだっていい、何かほかのくだらぬものを捜し出すだろう、そうすればわたしは続けられる、いや、止まることができる、または始まることができる、これまたできたてのほやほやの嘘だ、それはわたしの時間をつくる、わたしにしばしの時間をつくってくれる、わたしに場所をつくってくれる、それから一つの声と一つの沈黙をつ(end150)くってくれる、沈黙の声、わたしの沈黙の声を。このような未来への展望の下に言葉は忍耐を勧める、わたしは忍耐強く、そして静かなのに。どこかで人は静かにしている、ここはなんと静かなことか、ああそうだ、これを語ろう、ここの静寂、わたしの快適、わたしの沈黙を、これで始めよう、静寂と沈黙、なにものも破ったことはなく破ることもあるまい――わたしは沈黙を破らないとかわたしはこれから語らねばならぬとか言わないかぎりは――この静寂と沈黙を語ろう。それはみんな明日の晩に語ろう、そう、明日の晩、とにかくほかの晩だ、今晩はだめ、きちんと仕事をするには今晩はもう遅すぎる、そろそろ眠ろう、少したってからわたしがこう言えるように、わたしがこう言うのが聞こえるように、わたしは眠った、彼は眠ったと、だが彼は眠ってしまいはすまい、でなければいま眠っているはずだ、彼は続けること以外は何もしないだろう、何を続けるのか、いま休みなくやっていることを続けるのだ、つまり、なんだっけ、放棄することをだ、結局わたしは何も所有せず、存在もせず、ただ放棄することを続けて終えるだろう。
(150~151; 「反古草紙」)