既に一一月二六日の午前零時三九分を迎えているのだが、この日の生活の様子は中途半端にしかメモを取っておらず、日付として四日も前になる一日の記憶を念入りに探って仔細に記すのが面倒臭いので、大方は省略して一言だけ触れることにする。ここからこちらが得た教訓は、やはり記述を見てすぐに記憶が蘇ってくるくらい詳細なメモを記録しておかないと、書きたかったことがあっても書けなくなってしまうということだ。非常に粗いが情報量だけは豊富な細かい下書きというような感じで、時間を経てから見ても文を書き記す気持ちが起こるような記録をつけておかねばならないだろう。
新聞記事についてだけ言及しておこうと思うが、一度目の食事(また八時間半に渡る怠惰な眠りを過ごしてしまった結果、食事時には既に一時半頃になっていたようだが)のあいだに、「退位 19年3月末か4月末 政府2案 来月1日 皇室会議」、「北の更なる孤立化図る 米が「テロ国家」再指定」という二記事を一面から読んだ。退位と改元に関しては、翌日の朝刊で、統一地方選終了後の一九年五月一日案が本線となる見通しだと続報が述べられていた。この二二日の朝刊内ではほか、一〇面に寄せられた井上智洋「AI時代 人間が働くには」という小文も読んだが、この人は『ヘリコプターマネー』という本の著者である(この著者及び著作の名は、(……)で知った)。
ヴァージニア・ウルフ/土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年
●38
「肩にショールをかけ、歩道で花を売るモル・プラットは、愛すべきあの子に幸あれ、と願った(あれは絶対に皇太子殿下だよ)」
→ 12: 「クラリッサは縁石に立ち、やや緊張して待った。すてきな人だ、とスクロープ・パービスは思った」
→ 35: 「ブルック通りのこちら側にはクラリッサ、向こう側には老判事サー・ジョン・バックハースト(長年法律上の判断をなさってきた方、身なりのよいご婦人がお好みの方)」
- おそらくこのテクストにおいて、ただの一度しか[﹅7]その名前を書き記されずに終わるであろう人物たち(「通りすがりの」人々)。
●38
「その間も噂は体内をめぐって血管に堆積し、この身が王族の目に触れた、王妃様に会釈された、皇太子様に手を振られたと思っては、太腿の神経をうずうずさせた」
●41
「この異様な静けさと平和、この淡い青さ、この清らかさの中で、鐘が十一時を打った」
- 物語の現在時の判明。
●58
「いえ、立ち向かうのは、正しくはにらみつけてくる月並みな六月の朝ね」
- 「六月」への言及。
●68~69
「違う、わたしはまだ老いてなんかいない、と思った。人生五十二年目に入ったばかりだもの。(……)クラリッサは、落ちていく水滴を捕まえにいく勢いで化粧台に駆け寄り、この瞬間の核に飛び込んで、それを固定した。ほら、これが六月の今朝の――あらゆる朝の重さを背負った今朝の――この瞬間。クラリッサは、鏡と化粧台とそこに並ぶすべての瓶を新たな目でながめ、この一瞬におけるわがすべてを鏡の中に据えた。女の小さなピンク色の顔をながめた――今夜パーティを開く女の、クラリッサ・ダロウェイの、自分自身の顔を」
- クラリッサの年齢の判明。
- 「六月」への言及。
- 「クラリッサ・ダロウェイ」という呼称の初出。ここではその名は、何よりも「パーティ」と結び合わされている(「今夜パーティを開く女」)。
●69
「この顔――何百万回見てきたことか。いつも、傍にはそれとわからないほどにちょっと引き締めて(クラリッサは鏡を見ながら口を結んだ)。これでわたしの顔になる。これがわたし。尖って、ダーツの矢みたいで、輪郭がはっきり。意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めたときのわたし。いつもとどれほど異なり、どれほど相容れないか、わたし以外は誰も知らない。世間向けに作られた一つの中心、一つの菱形、一人の女。その女は客間にすわり、大勢の集まる場を用意する。人生に退屈している方々にはきっと一瞬の気晴らしになるでしょう。孤独な方々にはたぶん慰めの場になるでしょう。若い人を助けて感謝もされた。わたしはいつも同じ自分であろうと努め、それ以外の自分は――欠点だらけで、焼餅焼きで、自惚れ屋で、疑心暗鬼の自分は――おくびにも出さないようにしてきた。たとえば、レディ・ブルートンの昼食会に招かれなかったときのわたし。(……)」
- 「意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めたときのわたし」「世間向けに作られた(……)一人の女」 対 「それ以外の自分」「欠点だらけで、焼餅焼きで、自惚れ屋で、疑心暗鬼の自分」。
- 「客間にすわり、大勢の集まる場を用意する」という記述を、「パーティを開く」ということと同義と取り、上の項目で触れたことを考え合わせるならば、ここでの前者の「わたし」は「クラリッサ・ダロウェイ」としての夫人の様態だということになる(これが以前に出てきた「ダロウェイ夫人」=「リチャード・ダロウェイの妻」と等しいものなのかどうかは、まだいまいち良くわからない)。夫人にとって、その様態の自分であるためには、「意識的な努力」が必要である(「意識して自分を作ろうと顔のあちこちを引き締めた」「わたしはいつも同じ自分であろうと努め」)。後者の「それ以外の自分」は、「クラリッサ」としての夫人ということになるだろうか?
●82
「「いま、恋をしている」とピーターは言った。クラリッサにではなく、闇の中によみがえらせた誰か――手では触れられず、暗闇の芝生で花輪を捧げるしかない誰かに言った。
「恋を」と繰り返した――今度はさほど感情を込めず、クラリッサ・ダロウェイに。
「インドにいるある女に恋を」。さあ、花輪は捧げたぞ。それをどうするかはクラリッサしだいだ。」
- 「クラリッサ・ダロウェイ」の二回目。
●88
「ビッグベンが半を打ち、鐘の音が異様な力強さで二人の間に割り込んできた」
- 物語の現在時の指定(十一時半)。
●93
「軍服の若者が隊列をなし、銃をかつぎ、まっすぐ前を見据えて行進していく。その腕は固定され、顔には銅像の台座に刻まれた碑銘のような表情がある」