2018/10/1, Mon.

  • 台風一過の快晴。最高気温は三四度とか言った。まるで夏である。食後の習慣として緑茶を飲んでいると、背が汗で大層濡れて、肌着をぱたぱたとやりながらノートパソコンを前にした。午後二時頃になると、陽射しがもういくらか引いていたが、布団を干した。日暮れて既に外が真っ暗になった七時前でも、窓を閉ざしていると暑気が室内に籠って蒸し暑い。
  • (……)さんのご母堂、(……)さんが現在、東京に来ていると言う。何でも白内障の手術を受けるためにわざわざ上京せねばならないという話だ。
  • 夕食後、散歩に。道に出て見上げれば、台風の過ぎたあとの空は星を点じられて暗夜でないが、林の影が空に呑まれ吸収されるようで、梢との境が明らかでない。歩きだして首を振ると、無数に穴を開けられ毀たれた雲の筋が、それでも東から南まで辛うじて繋がり、横にまっすぐ長く通っていた。坂を上り、裏道を行くと、表に出る間際の一軒の前に八百屋のトラックが停まっており、荷台の品々の上に取り付けられた暖色の灯りが遠くからでも目に入る。八百屋の旦那とその家の主婦とが家先で何やら話していたが、随分と遅くまで行商に回っているものだ。そこを過ぎて街道に出ると東向きに方向転換し、歩を進めていると車とともに流れてくる風が涼しく、半袖の肌着から露出した腕にちょっと強いとすら言えるようだった。家の間近、木の間の坂道まで来ると台風の爪痕で、路上を埋め尽くすようにして木屑が散乱している。枝の原型を留めず細かく破砕され、路面に塗りつけられるようになったそのなかを踏み越え、坂を抜けてからもう一度視線を上げると、雲の滓の一つもなく星の寛ぐまっさらな空だった。
  • 夜半、床に就く際にカーテンをめくって、月の出ているのを目にする。まだいくらか東寄りの位置に、弧を左下に向けて傾いた姿の、夜空に埋[うず]もれた指のその爪の先のみがちょっと現れ出ているような、そんな風に見えた。



カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』みすず書房、二〇一八年

 性転換への外的な障壁は、なにより行政上のもの、また経済的、心理的、法的なものだろう。一九八一年以来、ドイツには「トランスセクシュアル法(TSG)」があり、トランスジェンダー本人の望む性が公的に認められる。「特別な場合における名の変更および性別の確定についての法」が、望む性に合った名前への変更(「小変更」)または出生記録に記載された性別の変更(「大変更」)のための前提条件を定義している。法によれば――幾度もの法改正を経て――、性転換手術はもはや公的書類上の性別変更に必要な条件ではない。むしろ重要視されるのは、性別の公的変更を望む本人が、「性転換によってもはや出生記録に記載された性には属していないと感じている[﹅12](傍点は筆者による)」ことである。つまり、「自然な」身体または「一義的な」身体は、もはや決定的な事項ではないのだ(「自然」と「一義的」の定義がどうであれ)。身体が本人の望む性のあらゆる特徴を備えていることは、もはや重要ではない。決定的なのは、与えられた性と本人のアイデンティティ[﹅8]が一致するかどうかなのである。連邦憲法裁判所による一連の決定を経て、現在では、心理的または感覚的なアイデンティティ――決して身体的な特徴ではなく――のみが性別を決定するとの合意がある。連邦憲法裁判所第一部は、二〇一一年一月十一日に、次のような決定を下した。「トランスセクシュアル法の制定以来、トランスセクシュアルに関する数々の新たな認識が得られた(中略)。トランスセクシュアルに属する人間は、出生時に身体的な性的特徴に基づいて定められた性とは別の性に属するという不可逆的およ(end133)び恒久的な自覚を持っている。彼らは非トランスセクシュアルと同様、異性愛者または同性愛者でありうる」
 (133~134)

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 行政上、「トランスセクシュアル」は調査が必要な事案とされている。すなわち、地方行政裁判所に心理学者による鑑定書が提出されねばならないのだ。この鑑定書は、性転換者の性アイデンティティが今後変わることはないと確認するもので、これなしには行政裁判所での公的性別変更は不可能である。心理学者による鑑定書には、必ずしも(法に定められているとおり)本人が別の性別に属すると感じている[﹅9]かどうかのみが記されるわけではない。「トランスセクシュアリティ」を病気、または(end134)「障害」と判断する鑑定書も多いのである。その際の指針となっているのが、WHO(世界保健機関)のICD - 10(疾病および関連保健問題の国際統計分類)ハンドブックに「トランスセクシュアリティ」が「障害」と分類されていることである。ICDの第五章F00 - F99節には、心理学的障害および行動障害がリストアップされている。そのなかのF60からF69までが「人格障害および行動障害」に充てられている。しかし、なぜ性転換者が行動障害者に分類されるのだろう。連邦憲法裁判所は、トランスセクシュアリティを病と見なしてはいない。トランスセクシュアルの定義は、本人が別の性に属すると感じていること、その感覚が持続的なものであることのみだ。公的書類の性別記載を変更したいと望む者は、二通の心理学鑑定書を提出するのみならず、鑑定書作成のために必要な医師との面談において、自身の苦しみをわかりやすい形で語ってみせねばならない。そのことを嘆くトランスジェンダーは少なくない。自身の苦しみを、「間違った身体」を持って生きる苦しみだと表現する者もいれば、逆に、自分の身体が社会的に受け入れがたいものだと解釈されることに対する苦しみだと表現する者もいる。病という分類を基本的には否定しないトランスジェンダーもいる。生まれ変わる前の、別の身体、別の名前での人生に大きな痛みを感じてきたからだ。だが、病との診断を受け入れがたいと考えるトランスジェンダーも多い。そういう人は、当然のことながら、「障害者」であるという決めつけを拒絶する。だが、鑑定書を手に入れようと思うなら、心理学鑑定の過程で、この決めつけに同意し、自らすすんで「障害者」を演じなければならないのである。
 (134~135)

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 (……)「男性 - 女性」といったいわゆる「当たり前」とされるカテゴリーにも、倫理上および言語政策上の問題が存在する。なぜならそれは、本来なら反省され、批判されるべきレッテルと二極性との反復に過ぎないからだ。それゆえ現在では、適切な呼称または表記を探す非常に多彩な言語上の提案が存在する(たとえばあらゆる性を可視化する戦略があり、それが多様な表記方法によって示される。「/」を使った二重表記や、男性を示す語尾 er と女性を示す語尾 in を大文字のIでつなげる二重表記〔たとえば男性および女性の教師たち<複数形>を表すには、男性教師たち Lehrer と女性教師たち Lehrerinnen をつなげて、LehrerInnen と表記する〕。また、呼称から性別の要素を取り除き、性別がわからないようにすると同時に、性別は男女のふたつのみだという標準を否定する戦略もある。(……)
 (197; 原註16)