ミシェル・フーコーについて語ることの困難さは、別の事情に基く。たとえば『狂気の歴史』にせよ『臨床医学の誕生』にせよ、あるいは『言葉と物』『監獄の誕生』そして最新の著作『性の歴史』にもせよ、そこで扱われているのは、西洋世界、特にフーコーが「古典主義の時代」と呼ぶ十七世紀・十八世紀、ならびに「近代性の時代」と呼ぶ十八世紀末以降の西洋世界におけるある歴史的体験であり、そこで分析されるのは、そのような体験を可能にした大きな〈枠組み=構造〉と、その内部で時間的に生起して決定的な断絶を作り出した〈事件〉とである。その限りでは、〈反 - 構造主義的言説〉が何と言おうと、フーコー自身が繰り返し主張しているように、その仕事は〈歴史家〉のそれであり、その著作は〈歴史〉なのである。
しかしその歴史は凡百の歴史ではない。と言うか、これもフーコー自身がしばしば引き合いに出して語っているように、歴史分析のモデルとして考えられているのは、マルク・ブロックやフェルナン・ブローデルのような『年鑑[アナル]』学派と呼ばれる一連の歴史家のそれであり、その限りでは、むしろ現代の歴史研究における――少くともフランスにおける本来の歴史研究の――最も正統な立場と近親性を持つものなのである。しかし、フーコーは、たんなる歴史家あるいは歴史学者ではなかった。
言うまでもなくフーコーが研究者としての形成を負っている分野は、大学制度的に見れば〈哲学〉であったが、西洋世界における〈知〉を自らにおいて内在化し包括的に体現したヘーゲル哲学以後、哲学は時代の知の変革の場ではなくなったと考えるフーコーは、講壇哲学を見捨てて、まずはカンギレムによって拓かれた〈科学史〉をその領域として選びとった。しかしそれは、西洋世界における〈知〉の形成を、哲学の〈外部〉において追求しつつ、同時に、現代における〈知〉のよって立つ基盤やそれが置かれている地平を明らかにしようとするものであって、その意味では、歴史家フーコーの実践は、常に〈哲学者〉としての視線に裏打ちされている。しかしその哲学は、ヘーゲル的な歴史哲学として歴史を哲学に内在させることにあるのではなく、それとは正反対に、哲学の問題意識を歴史という〈外部〉へ立たせ、歴史的な体験へと変容させることにある。言いかえれば、フーコーの書く歴史を、科学史なり思想史の特殊領域の個別的研究として描写したのでも、またそれを書くフーコーの哲学者としての問題意識を列挙したのでも、フーコーを語ったことにはならないのであり、この二つは、フーコーの名を冠した言説的実践の表面で分かち難く結ばれている。それを織物の緯糸と経糸の比喩で語ることもできるであろう。そのいずれの一つだけを引き出しても、織物としてのテクストは解体し、フーコーは消滅してしまう。
(渡辺守章『フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、8~10; 「フーコーの方法」)
九時起床。悪くない。本当はもっと早く起きても良かったのだが。股間が怒張していた。と言っても特別官能的な気分になっていたわけではない、尿意が溜まっていたのだ。それでベッドに腰掛けて、逸物が収まるのを待ちながら手近の棚から市川春子『宝石の国』の一巻を取って読んだ。しばらくすると部屋を出て上階へ、便所に行って放尿してから洗面所で顔を洗った。台所でフライパンからジャガイモとインゲンとベーコンの炒め物を皿に取り、電子レンジへ。そのほか米をよそり、あと前夜の汁物。新聞を瞥見しながら、卓に就いて新聞を見ながらものを食う。今日は母親はYさんとI.Y子さんと墓参りに行くらしいが、こちらは労働の時間までそれほど猶予もなく、日記を書いたりしなければならないので行かない。
食事を終えると抗鬱薬を服用し――薬もそろそろなくなりかけているのだが、医者に行けるような暇な日がない――食器を洗ってそのまま浴室に行き、風呂も洗った。戻ってくると下階へ。コンピューターを点け、日記を記しはじめたのが一〇時ちょうど。途中で実に暑いので肌着のシャツを脱いで上半身を風に晒している。ここまで綴って一〇時四七分。
一一時から読書。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』。二時間。しかし、例によって眠りに蝕まれていた時間が一時間ほどあったと思われるので、実質一時間。それからどうしたのだったか――現在、七月二六日の午後一時一〇分なので、もう前日の記憶が曖昧である。多分飯を食いに行ったと思うのだが、何を食ったのか。確か朝のメニューと同じだったと思う。朝の炒め物などがまだ残っていたので、それをおかずに米を食ったのではないか、多分。それで戻ってきて、歯磨きなどをして、一時四五分から一〇分間、「記憶」記事を音読した。この日は曇っていたのだったか? それとも晴れていたのだったか? 確か早い時間のうちはわりと晴れていたので、洗濯物をベランダに出したような覚えがある。それを仕舞った頃合いには天気はどうなっていただろうか、まだ晴れていたのかわからないが、ベランダから下を見下ろすと、我が家と隣家の境あたりに黒い猫が一匹うろついているのを見かけた覚えはある。何か下草に鼻面を突っ込むようにしていた。戯れたい。しかしあれは多分人慣れしていない猫だ。近づけばすぐに逃げてしまうだろう。猫は洗濯物を入れているあいだ、そのうちに姿を消してしまった。どこかに行ってしまった。
それで労働はこの日は三時からだったのだが、暑いなか歩いて行くのが嫌で電車を取ることにしたのだった。その電車の時刻が、正確なところが思い出せないのだが、二時半頃だったはずだ。それで余裕のあるうちに出発することに。肌をボディー・シートで拭い、仕事着を着て、クラッチバッグに荷物を入れて――その前に、洗濯物を取り込んで畳んだ時間もあった。それらを諸々こなしたあと、出発。西へ。途中、O.Sさんの車が前からやって来た。減速して窓を開け、声を掛けてきてくれたので、こんにちは、行ってきますと返す。坂に入って上っていき、最寄り駅。ホームへ。ベンチには先客が一人、高年の婦人である。こちらがベンチの反対側に腰を下ろすと同時に、その女性が話しかけてきた。間違えて奥多摩行きに乗ってしまったのだと言う。本当は東京行きに乗って国立――あるいは国分寺だったか?――まで行くところが、電車を間違えてしまったらしい。住まいを訊くと、もう青梅に長く住んでいて、国立には整形外科か何かに通うために行くのだと言う。脚が悪いもので、と言う。しかし、青梅に長く住んでいる人が東京行きと奥多摩行きとを間違えるだろうか? その点疑問なのだが、住むには良いけれど、都心に出るにはねえ、と相手は漏らす。不便ですねとこちらも笑って受けて、僕も美術館なんかに行きたいんですけれど、全部都心の方でしょう、だからなかなか出づらいですねと言うと、相手は若い頃には美術館などよく回ったものだと返す。高校や短大が都心の方にあったからと。歳は八三歳だと言うので、その世代で短大を出ている女性というのも珍しいのではないかと思い、失礼ですがと断ってそう言ってみたところ、そうかもしれませんねえ、みたいな返事があった。結構良いところのお嬢さんだったのかもしれない、今に至っても品のある雰囲気だった。八三歳には見えない若々しさでもあった。その他落合に美術館があるという話をしたり――こちらは、落合と言えば新宿区中央図書館があるあたりですよね、と受けた。正確には高田馬場が最寄り駅だと思うが、落合は早稲田大学に通っている時分に通学途中の駅だったのだ――富山県の山の話をしたり、このあいだは遠野に行ってきたという話を聞いたりした。あとそうだ、この人はもともと慶応病院に何十年も通っていたらしいのだが、もっと近いところが良いからだろうか、今は国立の医者に変えたらしい。慶応病院と言うと、信濃町にある、とこちらは受けたのだが、偶然だが相手が出す地名の大方に対して、こちらも何かしらの知識を持ち合わせていて、そこはあれがありますよねとかああですよねとか受けられたのが我ながら意外だった。仕事は何をしていたのかは訊かなかったが、短大のあとに洋裁学校、カッティング・スクールというのに通ったということを言っていたので、何かそちら方面の仕事ではないか。八三歳と言うと一九三六年あたりの生まれだろうから、蓮實重彦や古井由吉と同年代ということになる。
電車が入線してくると、老婦人は有難うございましたと丁寧に頭を下げたので、いやいやとんでもない、と受けた。本当はどうせなので青梅までご一緒しましょうかと声を掛けようかとも思っていたのだが、挨拶をされて別れる流れになったので、立ち上がり、婦人に寄って、到着した電車の立てる響きのなか、お気をつけて、と声を掛けてこちらはホームの先の方へ行った。電車に乗り、ここでは手帳を見たのだったかどうだったか? 忘れてしまった。ともかく青梅に着くと降りて、向かいの番線に乗り換える人々のあいだを縫っていき、階段通路を辿って、八三歳と言うと古井由吉や蓮實重彦と同年代だなと頭のなかで計算しながら改札を抜けて、職場に向かった。
今日も三時限。一コマ目は、(……)くん(小六・国語)、(……)くん(小六・国語)、(……)さん(高三・英語)。(……)くんの進みが悪かった。目を離すと手遊びをしていると言うか、よくわからないのだが、指先を弄っていて鉛筆が停まっていたのだった。それでもこちらは本人のペースに任せようというわけで特に急かしたりはせず、時折り、どう、大丈夫、と声を掛けるに留めたのだが、お蔭で今日進んだのは一頁のみとなってしまい、ノートの記入も授業が終わる直前になってしまった。もう少し急かしたり、あるいは一緒に解いてやったりしたほうが良かったかもしれない。問題は一問ミスのみでよく出来ていたのだが。ほかの二人は特段の問題もない。いや、(……)くんが敬語に苦戦してはいたか。
最初の時限と二コマ目のあいだは一コマ分、休憩が入った。そのあいだは国語のテキストを読んだり、手帳を読んだりしていた。あとそう、休憩に入った直後にコンビニに買い物に行った。ソルティ・ライチと、赤ボールペンを一つ買って二七五円。戻ってきて読んだり読んだりして時間を潰し、そうして二コマ目。(……)(高二・英語)、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(中三・英語)。ノートはとにかく、わからないところが解決されたり新しい知識を得たりしたら、その場ですぐに書かせてしまうのが良い。こちらが読書中に気になったところをメモするのと同じような感覚でやらせれば良いのだ。(……)さんは国語が得意なのかと何となく思っていたところが、そういうわけではないようだ。接続語の問題など結構間違えていた。内容の要約も覚束ないが、質問を織り交ぜながら解説して進めた。(……)くんはそこそこ出来るのではないか。そんなに悪くはない感触。
最後のコマは(……)(高三・英語)、(……)さん(中三・英語)、(……)くん(中三・社会)。なかなかやりやすい面子だった。(……)さんが英語が苦手な様子。レッスン四のまとめを扱ったが、まずもって基本的な英文の順番などが理解しきれていない様子だった。ミスが多かったけれど一問ずつ確認し、なかから三文ピックアップして練習してもらい、それをノートに記入してもらい、さらに宿題は今日やった頁をもう一度やってくるように出した。(……)くんは大人しい生徒だが、思いの外にやりやすい。どうだい、と訊きに行けば、わからないところを自分から質問してくれるのだ。
退勤。退出する前に出入口のところで、(……)先生に、お疲れ様でしたと声を掛けた。彼は昨日今日と朝から晩までずっと教室にいて仕事をしていたのだ。労働基準法違反ではないかという気がするのだが。それで退出し、駅に入って通路を行っていると、後ろから人が駆けてくる音がする。抜かして行ったのを見れば、先ほど挨拶した(……)先生と(……)先生だった。通路を駆けていった彼らはそのまま階段に入って駆け上がっていったが、途中で(……)先生がものを落として、すると二人はいかにも大学生らしく賑やかに騒いでいた。立川行きに間に合いたかったらしい。結局発車直前の電車に彼らは乗り込み、こちらも反対側のホームに停まっていた奥多摩行きに乗った。そうして手帳を確認。
最寄り駅。羽虫の飛び交っている階段通路を抜け、横断歩道を渡って木の間の暗い坂道へ。下っていき、平らな道をゆっくり歩いて帰宅。途中で公営住宅の敷地から、あれは何だったのだろうか、蟬の鳴き声だったのか、それとも、何かスプレーやムースを勢いよく吹き出しているような音にも聞こえなくもなかったが、何かよくわからない音が繰り返し響いていて不穏だった。帰り着くと母親は風呂に入っている最中で、父親はまだ帰ってきていなかった。ワイシャツを脱いで洗面所に入れておき、自室へ。コンピューターを点け、Twitterなど確認しながら着替える。そうして食事へ。何を食ったのか覚えていない。豚肉の炒め物が一つにはあった。それをおかずに米。そのほか、茄子の味噌汁などだった。食事を終えると母親が買ってきた駄菓子のなかから、チューイング・キャンディーを頂く。ソファに就いて。それから入浴。出てくると戸棚から柿の種の小袋を二つ取って自室へ。コンピューターを前にしながら柿の種をつまみ、その後、日記を書きたかったのだが、まず疲労した身体を少々休めようということでベッドに移り、読書を始めた。一一時過ぎだった。そうして例によっていつの間にか眠っていたため、その後の記憶ははっきりしない。気づくと二時か三時かそのくらいだったはずである。そのまま就床。
・作文
9:59 - 10:47 = 48分
・読書
11:07 - 13:07 = (1時間引いて)1時間
13:45 - 13:55 = 10分
23:07 - 24:42 = 1時間35分
計: 2時間45分
- プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』: 64 - 94
- 「記憶」: 4 - 10
・睡眠
3:30 - 9:00 = 5時間30分
・音楽
- FISHMANS『Oh! Mountain』
- Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(Disc 3)