2019/7/30, Tue.

 清水 ところで、フーコーが死んでしまったいま、フーコーが我々に何を語りかけていたのかということになると、これは『思想』に載っていた「主体と権力」という論文にあった言葉なんですけど、「多分今日の標的は私たちが何者であるかを見出すことではなく、何者かであることを拒むことである」という言葉に要約できるんじゃないか。カッコいい言葉であるけれど、これはやはりフーコーの先取り論理であって、『性の歴史』全三巻で彼が言おうとしている、セクシュアリテを中心とした人間という個体の誕生、およびその権力構造との関係の、さらにもう一つ先のことをここでチラリと言ったんじゃないかと思うわけですよ。
 渡辺 すでに何度もその名を引いた我々の友人モーリス・パンゲは、よくフーコーのことを、「ヴォルテール的だ」と言います。それは、超越的なものを意識的に排除していく思考についても、そのような形での明晰なフランス語についても言っていると思います。しかしこれを僕なりに、ルソー的という言葉に対比して使ってみると、「ルソー的」ということが、短絡的には私小説的だと言えるなら、その意味ではやはりフーコーヴォルテール的だろうと思う。フーコーは、たとえばコレージュ・ド・フランスの就任演説では「私が語るのではなく、私を通して語りかけてくるもの」と言ったり、あるいはいろいろなところで「書物は無名でなければいけない」と言ったりしています。あるいは、『ル・モンド』が刊行した対談シリーズの冒頭を飾る無名の哲学者というのは、じつはフーコーだったわけで、そういう〈無名性〉に惹かれるフーコーというものがいる。しかし、フーコー通俗的な意味では、宿命的に無名ではありえない。それでもそういうことを言わずにいられなかったということは、「私が、私が」という騒喧に満ちた貧相な主観性の横行する風土の中では、いかにも「古典的」な節度であり、品位とも思われてきます。少なくとも、我々が相変わらずその内部に留まらされている「ルソー的」と一応は呼んでおく地平を超えるには、僕には少なくともフーコーという人は有効だし、僕自身、これからも多くのものをフーコーに負っていくだろうと思うのです。
 (渡辺守章フーコーの声――思考の風景』哲学書房、一九八七年、68~69; 渡辺守章清水徹フーコーの声」)

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 清水 いま豊崎君の言ったことから話を多少本題にもっていくためのつなぎになるかもしれないことをいうと、ぼくは非常に単純に言って、ニーチェって人は世界文学中たぐいまれな詩人哲学者だと思うんですよ。ぼくはむかし、いま豊崎君が言ったのと同じような意味でモラリストとしてのニーチェを愛読したとき、ニーチェにはフランスのモラリストとははっきり違う面がある、メタフォールやイマージュの非常に豊かなモラリストがここにいる、というのが少なくとも少年のときの印象だった。日本語でふつう言う「詩人哲学者」というのは、ひどくくだらない垢がついているけれど、ニーチェを「詩人哲学者」と考える理由は、このメタフォールというもののいわば存在論的な機能にかかわっているんですね。ヴァレリーニーチェに感動しながらなぜ敬して遠ざけたかといえば、ニーチェはつまり考えられないことを考えようとしてた。ヴァレリーは自分が考えられないことを考えるよりは、どこからどこまでが考えられてどの線から先が考えられないかという区分をまずやって、考えられる領域に光を当てながら、その境界線を絶えず絶えず外へ外へひろげていくほうがいいと思った。それと対照的にニーチェは、おそらく考えられないことを言語でもって考える、無限に対して言語で挑みかかるということをやってのけた人で、しかもそれを小説家とか詩人〔詩は書いてますけど〕とはちがうかたちでやってのけた。そういう意味で最も高次の詩人哲学者だと思うんです。ニーチェが一九六〇年代にはっきりとフランス思想の舞台に登場してきた理由もまた、そこにあるんじゃないか。豊崎君同様、ぼくにしても少年のときにたとえば「病者の光学」ってなことばにいかれた記憶があって、そういうモラリストとしての鋭さにニーチェの魅力があるんだけれど、それを越えてブランショ風にいえば、「外」というものにぶつかってしまったところにニーチェの衝撃性がある。それをたとえばフーコーは『言葉と物』のなかで非常にはっきり言った。『言葉と物』のなかで呪文のように繰り返されるマラルメニーチェアルトーバタイユロートレアモンという一連の固有名詞は、実体としてはほとんど説明されていないけれども、少なくともニーチェの場合はわかりやすい。フーコーによれば十九世紀の末に言語それ自体が改めて問題にされるような動向があり、フィロローグとしてのニーチェが、哲学的な営みと言語それ自体に対する反省とをはじめて近づけた、あるいは合体させたというわけです。フーコーは「ニーチェ・系譜学・歴史」という表題の論文で、「善い」とか「悪い」という概念を『道徳の系譜』のなかでラテン語源、ギリシャ語源にまで遡りながら、そういう言語の厚みにおいて分析しているニーチェをつかまえて、「系譜学は、ぼやけ、すりきれ、何度も書き直された羊皮紙にもとづいて作業が進められる」と言っているわけです。「羊皮紙」という考え方、つまり言語それ自体の厚みということと、ロワイヨーモンの《ニーチェ・シンポジウム》においてフーコーが「ニーチェにとって始原的な意味はありません」と語っていることとは、明瞭に照応し合っていますね。(……)
 (77~79; 渡辺守章清水徹豊崎光一「ニーチェ・哲学・系譜学」)


 七時のアラームで一度覚醒した。面白い物語風の結構が整った夢を見たはずなのだが、その詳細は覚めた当初から既に忘却の彼方だった。ベッドから起き上がってアラームを止めると、寝床に舞い戻り、それから三〇分ほどふたたび休んだ。そうして七時半を過ぎたところで再度起き上がり、股間が怒張していたのでそれが静まるのを待ちがてら、コンピューターを点けた。起動を待ち、Twitterを覗いていると逸物が収まって来たので部屋を出て、上階に行って母親に挨拶するとすぐにトイレに入って長々と放尿した。食事は、温野菜を今母親が拵えたところだった。それと茹でたソーセージを合わせて皿に盛ってくれたのを受け取り、そのほかヨーグルト――賞味期限が今日までだから食べてくれと言う――やゆで卵が食卓には並んだ。ソーセージをおかずにして、瑞々しい、炊けたばかりの白米を食し、温野菜にはドレッシングを掛けて口へ運ぶ。紫玉ねぎの辛さ、刺激の強さが口内に残った。食べているうちに父親も起きてきて、長く便所に籠っていた。こちらは食べ終えると抗鬱剤を服用し、食器を洗って下階に戻ってきて、Evernoteを立ち上げて、前日の記事に日課の記録を付けるとこの日の記事も作成して、日記に取り掛かりはじめた。先にこの日の分をここまで綴ると八時一〇分である。
 前日の記事をそれから綴って八時五〇分、電車の時間は確か九時一七分だったか? あまり猶予はなかった。それで、おそらく歯磨きをしてからだと思うが、一度上階に行った。しかし、何のために上階に行ったのだったかは覚えていない。靴下を履きに行ったのだろうか。その時、もう時間がないので風呂を洗ってくれるかと両親に頼んだ。するとそれを受けた母親は、じゃあお父さん、洗ってねと笑いながら言い、父親は、歯を磨いていたのだったか、何とも反応しなかった。こちらの服装は、いつもの煉瓦色のズボンに、薄褐色の細かなチェック柄のシャツ――チェック柄のなかに時折り細く赤い線が走っている――である。それでクラッチバッグと、T田とT谷に差し上げるプレゼントの本が入った丸善淳久堂の白い紙袋を持って部屋を抜け、階段を上がった。ハンカチは以前入れて入れっぱなしになっていたものが、もう尻のポケットに入っていたと思う。そうして出発した。もうこの朝の道行きのことはよくも覚えていないのだが、午前九時から陽射しがだいぶきつかったと思う。蟬も旺盛に鳴いていたはずだ。坂道に入ると、木の天蓋の下で陽射しがなかなか入り込まないから途端にいくらか涼しくなって、路面は濡れ痕が残った上に葉っぱがいくつも貼りついていたような覚えがある。坂を上っていくと途中で身体の小さい老婆が現れて、こちらの前方をよたよたとしたような調子でゆっくり歩いていた。その横の日向のなかを通り過ぎていき、馬鹿げた暑さのなか通りを渡って駅舎に入った。ホームに着き、屋根の下で手帳も読まず、息をつきながら風を感じるようにしていると、まもなく電車到着のアナウンスが入ったのでホームの先の方へ行った。電車に乗り込むと扉際に立ち、冷房に身を任せて汗がいくらかでも引いてくれるように願った。
 そうして青梅に着くと降車して、ホームをさらに先の方まで歩いて一号車に乗った。車両内は無人だった。七人掛けの端に腰を下ろし、手帳を取り出して読みはじめた。プリーモ・レーヴィの指摘によると、第三帝国において「敵」であるユダヤ人は、ただ死ぬだけではなく、最大限に「苦しみながら死ななければならなかった」(137~138)。そのための機能に特化したのが絶滅収容所という機関であるわけだ。病院のベッドで辛うじて生命を繋いでいたもう九〇代にもなる老女までもが収容所へと運ばれたという事実が端的にそれを表している。彼女は放っておいてももうまもなく死ぬはずだったのだから、そのまま自然に死ぬに任せた方が手間も掛からず、より「経済的」だったはずなのだ。しかし、ナチス当局はそれを許さず、彼女を苦痛のなかで死なせるために、食事も衛生設備も満足に整っていない列車に押し込めるという決定を下した。
 死という事象、そして、その死の結果生まれる人間の遺骸という物質については、「先史時代からいかなる文明のもとでも尊重され、敬意をささげられ、時には恐れられた」(142)。しかし、ラーゲルにおいてはそのような通念はまったく通用しない。強制収容所において遺骸とはもはや畏怖の念を向けられる崇高な死の表象ではなく、単なる素材であり、せいぜい良くても「何かの工業的用途に使えるだけだった」。実際、ガス室送りになった女たちの髪の毛は――アウシュヴィッツ博物館の陳列台に、それらは展示されているらしいが――ドイツの繊維産業に買い取られ、ズック地などの製造に使われたのだった。このような形で、収容所という機構の存在から無慈悲な利益を引き出した企業があったということも、我々は忘れてはならないだろう。
 路程の後半では少々眠気が湧いてきていたような覚えがある。立川に着くと、周囲の乗客たちが降りていくのを見送って、引き続き少々手帳を眺めて待ってからこちらも降車した。時刻は九時五五分だった。階段を上がっていくと、平日の午前一〇時だけあって駅の通路はいつもに比べて人が少なく、空間に隙間が大きく開けられている。そのなかを歩いて改札を抜け、壁画前に行った。待ち合わせのために並んでいる人々の顔を見ても知ったそれがないので、ひとまず立ち止まってあたりを見回していると、Mさんがすぐにやって来た。おはようございますと挨拶して二言三言、言葉を交わしていると、KくんとTも続いて到着した。そうしてT田。T谷は待ち合わせの一〇時には少々遅れるらしかった。Mさんは明日、これまでの職場を退職することになっており、今、求職中だと言う。それを聞いてKくんが、おめでとうニート、と言って笑っていた。ニート期間があったこちらもそれに乗って、ニートはいいぞ、とか何とか言ったかもしれない。そのほか、Mさんが、T谷のために作ってきた写真アルバム――先月にこちらを除いて皆がディズニー・シーに行った際の写真を集めたもので、青いカバーの小さなものだがよく出来ていた――を皆に見せたりしているうちに、T谷もやって来た。そして、今日の企画はT田のファッション・コーディネートである。T田の誕生日を祝いがてら、皆で彼の衣服をコーディネートしようという目論見だったのだ。とは言え、細かな段取りは特に決まっていなかった。つまり、メンバーそれぞれが自分が良いと思った服を選んでT田にプレゼントするか、それとも一品か二品をメンバー全員で割り勘してプレゼントするか、などの細かな部分である。こちらは何となく後者のイメージでいたのだったが、T谷などは前者の考えでいたようだった。ともかくまずは店に行ってみることにして、T田に普段どんなところで服を買うのかと訊いたところ、ユニクロとかGUとかだと言うので、ビックカメラのなかに入っているGUに行くことになった。この点も、こちらはLUMINEのなかの店舗で少々値の張る――こちらが普段買っているような――品を一品か二品見繕って、皆でプレゼントすることを何となく考えていたのだったが、そうした意図は口には出さず、GUに行くという決定に従った。
 そうして北口広場へ向けて歩き出した。屋根のある歩廊を抜けてエスカレーターに差し掛かると、愚かしいほどの熱線が重く頭に伸し掛かってくる。それを受けて汗を滲ませながらエスカレーターを下り、ビックカメラに入店すると、ここでもエスカレーターを使ってGUの入っている六階へ向かった。店舗に着くと、衣服のあいだのちょっと空間が広くなったところに集まって話し合い、皆でそれぞれT田に着せたいと思う品、似合うと思うものを持ち寄って、それを順番に試着してもらおうということになった。それで散開。こちらは自分の好みとして綺麗目、シックな装いがあるので、T田にもそうした格好をさせてみようというわけで、チェック柄のパンツにオープン・カラーの黒シャツ、茶色のベスト、ダーク・グリーンのジャケットなどのトラッドな品々を選んだ。さらには、T田がジーンズを履いているのを見たことがないというわけで、白いデニムと、臙脂色のスキニー・ジーンズも籠に入れた。しばらく店内をそれぞれ回って、もう一度集まり、順番に一人ずつ――TとMさんは二人まとめて、そしてT谷は特に選んでいなかった――プレゼンをしていった。Kくんが選んだのは、麻の白いシャツや、黒っぽい緑のアンクル・パンツなど。こちらはT田にジーンズを履かせたいという点と、トラッドな格好をしてもらいたいという点を強調した。白と臙脂色の短パンを選んだのは女性陣だったか、それともKくんだったか? シャツもたくさん集まり、Tシャツは一枚、Kくんが持ってきていたが、それはVAN HALENの文字とロゴが入ったものだった。そうしていよいよ試着室へ。FITTING ROOMの表示に従って移動すると、ずらりと一〇個の部屋が横並びに連なった廊下があって、その一番奥の端、一〇番の部屋が、車椅子に乗っている人などのためのものなのか、ほかよりも広くなっていて長めの椅子も備えつけられているものだったので、そこにまず入った。それで最初に、こちらの選んだチェック柄のパンツのうち、薄青さに寄った灰色のような色の方と、オープン・カラーの黒シャツを着てもらった。試着したあとカーテンを開けてT田が姿を現すと、おお、というようなどよめきが起こった。なかなか似合っていたと思う。さらに次には、下をもう一方のチェック・パンツ、黄土色と言うか黄褐色と言うか、そのような色味のものに替えてもらったのだが、こちらの方が明るめで良かったようだ。そのあたりだったか、もっと早かったか、あるいはもっと後だったか覚えていないが、ベビーカーを伴った婦人が一人、試着室にやって来たので、一度一〇番の室を使ってもらうために我々は九番の方に移った。それでベビーカーの婦人が去ったあと、ふたたび一〇番の方に戻ったわけである。そもそもまずもって、どうやら試着は一度に五点まで――ただし品を交換して何度も試着することは可能――というシステムだったらしく、大量の衣服をいっぺんに持ち込んだ我々の振舞いはルールに反していたのかもしれないし、それで言えばこんなに大人数で試着室を利用している人間たちもいなかったわけだが、そのあたりご愛嬌である。それでその後、次々にT田に着替えてもらい、そのたびにT谷がTの携帯で写真を撮り、どよめきが起こったり笑いが立ったりした。T田はわりとどれも似合っていて、いや、これはないなというような装いは見当たらなかった。そう言えば、皆がそれぞれ選んだ品がまったく被っていなかったことも、書き忘れていたが特筆するべき事実である。自分で選んだ英国紳士風トラッドな衣装――黄褐色のチェック・パンツに、シャツはKくんが選んだ白の麻シャツ、それに茶色のベストを被せ、ダーク・グリーンのジャケットを羽織る――がやはりこちらとしては一番好きだった。そのほか、皆が気に入ったのは紺色のポロシャツに白い短パンの組み合わせ。T谷が、高層マンションに住んでいそうだ、などと漏らしたのを皮切りに、投資をやっていそう、とか、ベンチャー企業の社長だ、などという声が聞かれた。
 すべての品の試着を終えたのは、一一時半頃だったのではないだろうか。一時間強は試着をしていたと思う。すべて終わってT田が今日着てきた装い――ちなみに、淡い青のシャツとモス・グリーンのズボンで、前者は多分スーツの下に着るようなワイシャツの類だったのではないか――になって試着室のカーテンの向こうから出てくると、拍手が起こり、お疲れさまでしたとの声が掛かった。それで、どの品を買うか決定する段に入った。まずT田に自分の気に入った品を選んでもらい、それから皆のお勧めを考慮して、累計で一三点が選ばれた。比較的、皆の気に入った品はどれも入ったようである。こちらはジャケットの装いがやはり一番良かったのと思ったが、ジャケットはこれらのなかで最も値が張って――それでも五〇〇円程度だが――それを入れると結構値段が嵩んでしまうので、ジャケットは諦め、その代わりにシャツなどを増やして点数の多さを取ることになったのだった。まあ、今買ったって今すぐ着られる品ではないし、ジャケットは秋になったらまた買えば良いわけである。それで試着室の区画を抜け、購入に至らなかった服を皆で陳列棚に戻していった。それから会計。会計はセルフレジである。品物からハンガーを外さないといけないということだったので、Mさんなどが次々に外していくハンガーをこちらは受け取って、まとめて台に置いた。そうして衣服をまとめて箱のような棚のなかに入れるのだが、一三点も一気に買う人間はそうそういないだろう、まるで大量の洗濯物のようになっていた。それで会計、Kくんがカードを使って一括で払ってくれたので、あとで皆で精算するということになった。一人頭三七〇〇円ほどである。そうして背後の台に移って二つのビニール袋に分けて衣服を入れていき、会計区画をあとにした。良い金の使い方をしたなあと話しながら、エスカレーターに向かった。白いデニムの裾上げを待つために、一〇分少々どこかで時間を潰す必要があったのだが、それでは下階にベンチがあったのではないかとなって、そこに向かったのだった。二階ほど下りたフロアに木製のベンチがあったのでそこに腰掛けた。ここでこちらはT田とT谷に、プレゼントの本を贈呈した。二人はその場で包みをひらいたのだが、布袋の包装が結構厳重で、輪ゴムが口のところに何重にも巻かれていたりして、それを外すのに結構手間取っていた。T田には『石原吉郎詩集』、T谷には谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』である。Tが二人が手に持った本を写真に撮っていた。それからT田と、こちらの短歌について話を交わした。以前T田には短歌をまとめたテキストファイルを送ってあって、それを丁寧に読んでくれているようなのだ。いくつかの歌について、これは元ネタがあるのだとか、これはあの作品からイメージが膨らんだのだ、とかいったことを話した。そうこうしているうちに一〇分くらい経ったので、ふたたびエスカレーターに乗って上階に向かい、白のデニムを受け取ってビニール袋に入れるとエスカレーターに戻って下階に下りた。昼食を取りに行く流れだった。店はKくんが事前に調べておいてくれたようで、それが、伊勢丹の下にあるということだったので、ビックカメラを抜けると、馬鹿げた暑気のなか歩廊へと上がるエスカレーターに乗って広場で上がった。そうして通路を辿っていき、伊勢丹前のエスカレーターからふたたび下の道に下りると、Emilie Flogeという店が伊勢丹の敷地の端にあった。入店。六人であると告げて待つことに。椅子は三つか四つしか空いていなかったので、こちらは立ってほかのメンバーに譲った。ここでもT田と、こちらの短歌について話をした。T田は、九三番、「鴇色のやさしい人はおしなべてうつむき歌う風の言葉を」が好きらしかった。それなので、これは岩田宏という詩人の詩のなかに、「やさしい人はおしなべてうつむき」というフレーズがあるのでそれを引用したのだと話した。そのほか、「監獄でメメント・モリを唱えつつ純粋音楽夢見て眠る」という歌についても、これは――この歌はNさんが一番好きだと言ってくれたものだったと思うが――『ショーシャンクの空に』がイメージの下敷きとしてあったのだと告げた。『ショーシャンクの空に』を実際に見たことはないのだが、そのなかの一つのエピソードは何となく知っていて、監獄に入れられた男が頭のなかでモーツァルトか何かの音楽を聞いて、身体的に制限を受け拘束されていても、精神の働き、その自由は誰にも拘束できないものなのだと語られる、そんなエピソードがあって、それが何となくイメージの発端としてあったのだと話した。「純粋音楽」という語については、詩や短歌というものは意味のない純粋な音楽のような様態に憧れるものかなと思っているので、そのような言葉になったのだとも話した。あとは『族長の秋』の語を入れた歌についても、T田は検索してそういう小説があるのだと知ったらしい。それで、『族長の秋』はこちらが今まで一番繰り返し読んだ小説である、七回くらい読んでいると話し、時空の操作が凄まじく、渦に飲まれているような感覚を与えられると紹介した。ガルシア=マルケスはいわゆるマジック・リアリズムと言われることが多く、エピソードや内容面では荒唐無稽、奇想天外な出来事が起こって、豪放磊落といったようなイメージが強いのだが、形式面、時空操作の手付きに関しては非常に几帳面で整然としているのだとも話した。T田は短歌について検索する過程で、こちらのブログを発見したらしかった。それでも、日常生活を覗くことになってしまうのが悪くて中身は詳しく覗いてはいないと言うので、別に読んでもいいぞと笑った。
 そうこうしているうちに、六人分の席が用意されて案内された。テーブルを三つ繋げた長方形の区画のなかで、こちらは下辺の右端に就いた。左隣にKくん、そのさらに左にT、こちらの向かいにはT田、その左隣にはMさん、こちらから見て対角線上の反対側にはT谷が就いた。テーブル上には、昼食のパスタセットのメニューが三つ、並べられていた。パスタは三種類、トマトソース、ジェノベーゼ、和風パスタだった。こちらとMさん、T谷がトマトソースを選び、KくんとT田は和風パスタ、Tが一人ジェノベーゼを選択した。飲み物はこちらはジンジャーエール、ほかの人々の品は何だったのか覚えていない。プラス二八〇円でケーキセットになるところ、こちらはケーキは良いかなと思っていたのだが、店員にケーキセットの方と訊かれてこちら以外の全員が手を挙げたので、え、皆食べるの、それじゃあ俺も、と追随した。ただし、ショーケースを見分して品を選ぶのは面倒臭かったのでT田がモンブランを迷わず決めていたのに倣って、こちらもモンブランを食べることにした。
 品が来る前だったか来て食べ終わったあとだったか、Kくんが隣のこちらに向かって頭上の照明を指差して、あれから何を連想する、と訊いてきた時があった。照明は球形のもので、ただ普通の球なのではなく、全体に襞がたくさんついているものだった。Kくんはフリル状のスカートを連想したらしかった。情報量が多い照明だね、と彼は言った。そのほかもう少し、Mさんも交えて話が発展したのだったが、何を話したのかよく覚えていない。海月がどうとか言っていたのだが、何故海月の話になったのかもわからない。海月の触手は何故触手状になっているのか、あれは進化の上での必然性はあるのか、というようなことをKくんが問いかけていた。
 料理は普通に美味かった。トマトソースのパスタはパプリカやズッキーニが具として入っており、あとは全体に蟹が細かく混ぜられていたようなのだが、Mさんは、蟹感があまりなかったと言っていた。モンブランは底が少々硬い、砂糖細工のようになっていた。料理を食べ終わったあとだったと思うが、Mさんに呼びかけて、現代アートの展覧会とか見に行く、と訊いた。見に行かないとのことだった。本人曰く、美大出なのに、美術館に行かない、芸術はよくわからない、という人種なのだと言った。それを受けて問わず語りにこちらは、このあいだ、クリスチャン・ボルタンスキーという現代アートの作家の展覧会に行ってきたと話した。そう口火を切ると、どんなものなのかという問いが皆から発せられたので、白黒の写真がずらりと並んでいたり、パネルのようなものが積み上げられた上に子供の顔の写真が乗せられていたりする、それはどうやらホロコーストの死者とどこかで繋がっているらしい、写真は皆薄白い顔で幽霊を連想させるような感じであり、全体的に「死」の空間、というような印象だった、というようなことを話した。
 その後、全員で一人ずつ、近況や、これからの生活の予定などを報告し合った。T田は来年からおそらく大阪に行き、どこかの大学の助教として働くことになりそうだとのこと。Tは、学校講師の職に加えて最近はコンサルタント業というようなものも開拓しはじめているらしい。母親とのあいだに問題を抱えた女性に対して、自分の経験を踏まえてアドバイスするような感じらしいが、その顧客を広げていくのに、どうやらYoutubeの動画を利用することになりそうだ、と言うので、こちらはすかさず隣のKくんに、どうですかKさん、彼女がYoutuberデビューしますけど、と話しかけたが、笑ったTによって、Youtuberじゃないと否定された。まあ今は動画で宣伝とか情報発信みたいなのたくさんあるよね、政治系のとか、芸能の噂とか、とこちらは受けた。
 T谷は八月後半からは週二程度のスケジュールで茨城に通うことになるのだと言った。Mさんは先にも書いたように求職中で、有休を使って既に休みになっているが、この翌日で今の職場を退職するということだった。転職活動も既に行っていて、面接をこなすのが嫌で仕方がないと言う。嘘つき大会だから、と苦笑しながら漏らす。既に受けたのは塾や事務などの職で、この日のあとの時間、モノレールに乗っているあいだには、発達支援の教室から内定の知らせが届いたようだったが、そこは圧迫面接のようなことを行われた職場で、絶対受からないだろうと思っていたので意外だと言っていた。こちらはMさんに、ニートしようぜ、と笑顔で持ちかけ、一年くらい休んでよく考えた方が良い、と冗談を言ったが、メンバー皆には思いの外に真面目に受け取られたようだった。その後もKくんと一緒に、ニートは大事、ニートは重要、などとこちらは冗談を言い合っていたのだが、しかし、Mさんの父母はあまりそうしたことに対して寛容ではないらしいので、何もせずに家にいるということは出来ないという話だった。
 そのほか、このあとどこに行って何をしようかということも話し合った。Tが、夜になったらタチヒビーチに行って皆で花火をしたいと言う。異存はなかった。それで、花火を買うためにひとまずドン・キホーテに行こうということになった。あとそうだ、店を出る前に、T田がトイレに行って今日買った服に着替えてきたということもあった。彼が選んだのは紺のポロシャツに白の短パンで、皆がベンチャー企業の社長みたい、と言っていたもので、いかにも夏らしい装いだった。それで先ほどのGUでの代金を精算し、さらにここEmilie Flogeの代金をまとめて払ってくれたMさんに、一五〇〇円を渡して精算を済ませ、店をあとにした。
 馬鹿げたほどに暑く重い陽射しのなかを歩いて表通りに出て、交差点を小走りになって斜めに横断し、ディスクユニオンの前を通り過ぎてドン・キホーテに入った。ドン・キホーテという店を訪れるのは、こちらはこれが生きてきて初めてである。入口を入ってすぐのところに花火が陳列されているのが早くも見つかったが、ほかにもあるだろうかということで五階に上がってみることになった。それでエスカレーターを辿っていき、様々な玩具やら何だかよくわからない雑多な物々が陳列されたフロアに入り、花火を見つけた。そこに至ってしかし、バケツと火はどうするかという問題が持ち上がった。バケツも売っていたが、一回の花火のために買うと荷物になってしまって煩わしい。タチヒビーチの方で貸してくれるのではないかとこちらは言って、Tがスマートフォンでそのあたりの情報を調べはじめた。どうでも良い情報しか含まれていないサイトにいくつか当たったあと、求めていた情報に出会うことが出来たのだが、それによれば、現地で花火を売っており、それを買う代わりにバケツや水や火を貸してくれるとのことだったので、花火は買っていかなくても良いことが判明した。それで、ビーチには――タチヒビーチについて説明していなかったが、これはららぽーともある立飛に作られたフェイク・ビーチである。言うまでもないが「タヒチ」と掛けた名前で、その規模は日本最大級だと言う――七時頃に行くとして、それまでのあいだどうするかという話になった。Mさんが"K"のMVの元になる線画を持ってきたと言うので、それを広げて見られるような個室を求めていたのだ。カラオケなどに行っても良かったのだが、レンタル会議室のようなものがあるのではないかとこちらが提案し、それを受けてTが――彼女は普段からそうした類を利用することがあるらしく、確かSpaceeという名前のサイトを使っていた――調べはじめ、立川駅南口から程近い場所に一時間五〇〇円で借りられる部屋を見つけてくれた。時刻は現在、四時を過ぎた頃合いで、四時半から六時半までの二時間、予約をした。Tがこうした調べ物をして、こちらが横でそれを見ているあいだ、T田とKくんは『Gunslinger Girl』というアニメ作品の話を交わしていた。T田が最近これを観て、非常に良かったらしい。のちのち、カレー屋に行った際にKくんからブルーレイディスクを受け取ったT田はそれをこちらに見せて、これこそ機微、機微の作品だねと言っていた。
 そうして、飲み物や菓子類などを買って会議室に行こうということになった。丁度良く、このドン・キホーテには一階にスーパーが入っていたので、下に下りていき、こちらが籠を持って、そこに皆それぞれの飲み物を収めて行った。菓子はポテトチップスをまず入れ、そのほか良さそうなものを求めて店内を回ってみたのだが、あまりピンとくるようなものがなかったし、皆もなかなか選び取って入れようとしなかったので、最終的にこちらが「じゃがりこ」などをいくつか選んで籠に収め、Kくんと一緒に会計に行った。会計の際、代金が一三四四円だったのだが、こちらが二〇〇〇円を出そうとしたところ、店員が、その場に設えられていた一円玉のたくさん入った小さなケースを指して、四円までなら使えますがと掛けてきた。どういうことなのかわからず、え? え? と二回くらい聞き返してしまったのだが、これは端数を埋める小銭が足りない時などのために、四円までなら無料で利用できるというサービスなのだった。それでどうせなので使うことにして、一の位の端数を埋めてお釣りを簡単にし、それから台に移って袋にものを適当に詰めていった。そうして皆と合流し、退店。
 愚かしいまでの熱気のなかを交差点に戻り、Kくんと並んで暑い暑いと言いながら横断歩道を渡り、エスカレーターを上がって駅に向かった。コンコースを通って南口に出ていくまでのあいだ、Kくんと並んで話を交わしながら歩いていたわけだが、彼はこちらには南国の島が意外と似合いそうだというようなことを言った。その細かな内実とその後の展開は忘れてしまったが、そんな話をしながら歩き、南口に出るとT谷の先導についていき――Tのスマートフォンがもう充電切れ間近だったので、代わりにT谷がマップを見たのだった――すずらん通りを進み、途中で右に折れて裏道に入った。会議室があるのは「エリア立川」というビルだった。狭くて急な階段を上がっていき、ダイヤル式のロックを、送られてきたメールに記されていたパスワードに合わせて鍵を取り出し、室内に入った。なかはなかなか綺麗だった。エアコンも勿論ついており、テレビや電源、アダプターの類なども完備されていた。
 それでテーブルに集まって、菓子類を広げ、食いながら話をしたのだが、こちらはエアコンの風があまり当たらないところに座ってしまったために、しばらくは汗が引かずにハンカチを使って首元を拭いたりしていた。そうして、Mさんの線画が色々と開陳されたのだが、こちらは素人なので細かな点の評価などはよくもわからないものの、労力が多大に掛かっていることは無論理解でき、凄いものだなと思われた。背景となる夕焼け空及び星空の一幕などは色付きで拵えられてきており、これはとても鮮やかで見事なもので、皆凄い凄いと言い合ったし、Tなどは写真に撮って携帯の待ち受け画像にしていたようだ。
 Mさんの絵のお披露目が終わると、今後の予定が話し合われたが、こちらはよくも聞いていなかった。ただ、多分今年中くらいを目安に、"K"、"C"、"D"の三曲を完成させることを目指すということになったようである。と言ってこちらはもうギターを弾くつもりもないし、特にやることはなく、曲を聞いて多少のコメントをするくらいしか役割としてはないだろう。八月三〇日にレコーディング・スタジオに入って"C"のレコーディングをする予定になっているらしく、そこにこちらも行くことになっているのだが、この日も特段にやることはないはずだ。それなので行く意味があるのだろうかと疑問に思いもしたのだが、まあ別に意味がなくとも仲間と時間を共有するだけでも良いかと思い直し、レコーディング・スタジオというものに入ったこともないのでこれも経験だというわけで、行くつもりで今のところはいる。T谷などは、偉そうに椅子にふんぞり返って、そこはもっとこうしたら、とか助言をしてくれれば良いのだ、と言っていたが、そんなに大した耳を持っていないしな、とこちらは笑って受けた。
 それで二時間が経ち、六時半に至って会議室を辞去することになった。外に出ると鍵を閉め、ダイヤル式ロックの箱のなかに鍵を戻しておき、狭く細くて急な階段を下りて外に出た。外気は陽が落ちてそこそこ涼しくなっていた。道を駅の方まで戻っていき、モノレールの立川南駅に向かい、改札をくぐると、T谷やTがトイレに行った。そのあいだにゴミの入ったビニール袋を持っていたMさんが、壁際に設置されたダストボックスに袋を無理やり押し込んでいた。トイレに行った連中が戻ってくるとホームに上がり、ちょっと待ってからやって来たモノレールに乗った。立飛までは僅か三駅である。MさんやTやT谷は座り、こちらはその前に立った。この時に確か、Mさんが圧迫面接をされた職場から不思議にも内定が来たという話題が出ていたのだと思う。発達支援のところだと言うので、うちの母親も発達支援の教室で働いているとこちらは言った。
 立飛着。駅を抜けて階段を下り、通りを少々行くと保育園があって、その傍にタチヒビーチの入口があった。なかに入っていくと、砂の敷き詰められた一画でサッカーをやっている人々がいる。受付でチケットを買って、花火も購入し、ワンドリンク制だったのでドリンク・チケットも貰って区画奥に進んでいった。テント風のテーブルを設置したスペースがいくつも並んで、ものを焼いてくったりしている人々がいた。そこを抜けて、もう一つあるフェイク・ビーチの区画に入っていき、その端のテーブルに皆で就いた。じきに数人、ドリンクを貰いに行くようだったので、T田にコーラを頼んだ。空は既に暮れ終わって、群青色が全体に広がりはじめていた。直上からやや東に傾いた方角に一つ、光の大きな星が浮いていて、T田に訊くとあれは多分木星だろうとのことだった。T田が持ってきてくれたコーラを啜りながら、彼が携帯で流してくれたFISHMANS『Oh! Mountain』の冒頭に合わせて身体を揺らしていたのだが、じきにT田はあとでまた、と言って貸出しされたバスケット・ボールで遊んでいたT谷たちの方に加わった。こちらもどうしようかなと思いながらも椅子に留まってコーラを口にしていたのだが、髪を結びにやって来たTが、席を離れてバスケット・コートに行く際に、F、行くぞ、と声を掛けてきたので、それじゃあこちらも行くかというわけで遊びに加わった。別にワン・オン・ワンをやったり、スリー・オン・スリーをやったりするわけでなく、ただ替わる替わるシュートを打っていって入るかどうか一喜一憂するという単純な形式の遊びだった。段々とシュート位置が後ろに下がっていき、飛距離が伸びたのだが、こちらは全部で五回くらい入れることが出来たのではないか。バスケット・ボールなど触るのは本当に何年ぶりかわからないくらいだった。
 三〇分くらい遊んだあと、ボールは返却され、こちらは席に戻り、T谷たちは今度は新たにバレー・ボールを借りてきて遊びはじめた。こちらはT田と向かい合ってFISHMANSを聞き、"感謝(驚)"を流して小さく歌ったりしていた。じきにT谷とKくんはビーチの方に入って、バレー・ボールを遠投し合ったり蹴り合ったりしはじめた。それを見ながらこちらは"ひこうき"も歌い、コーラを啜った。バレー・ボールでの遊びが終わると、いよいよ花火をやろうということで準備が始まったが、その脇でこちらは、裏拍で手を叩きながら"頼りない天使"を歌っており、横にはKくんも立って、ボイスパーカッションめいた振る舞いを披露してリズムをつけてくれたり、「ヒェッ」「ヒァッ」というようなヒップホップ風(?)の合いの手を入れたりしてくれたのだった。そうして花火の準備が出来たので、皆一つずつ持ち、T田か誰かの花火が最初に着火された。火を撒き散らしはじめたそれにほかの皆が自分の花火を近づけて、火を分けてもらい、その後は燃えている誰かの花火から誰かが火を受け継ぐということが繰り返された。こちらは両手に一つずつ花火を持って、火を点けると円状に回したり、八の字状に動かしたりする遊びをやっていると、Tが、それ私もやりたい、と言って真似をした。花火は全部で五〇本入っていたらしいのだが、あっという間になくなった。最後に線香花火をやろうという段になって、男児が二人、こんにちはー、と言って話しかけてきた。何やってるの、と言うので、花火をやっているよと答え、君たちも一緒にやる? とTが誘っていたのだが、男児たちは水鉄砲を持っていた。こちらが近づくとそれを発射してきたので、こいつら、水鉄砲持ってやがる! と言うと、子供たちは面白がってさらにこちらに向けて水を掛けてきた。それで少しのあいだ、彼らと追いかけっこをしたり、水を掛けられながらも迫っていったりして遊んでいると、じきに母親がやって来て、すみませんと言った。良いんですよと皆で受けていると子供たちはそのうちに去っていき、あとには新品のシャツを前後ともたくさん濡らされたこちらが残った。そうして線香花火へ。まず皆で一つずつ持ってやり、あと二つ余っていたので、誕生日の近いT田と、T田にじゃんけんで買った者が最後の二つを担当することになった。そうしてじゃんけんをするとこちらが買ったので、線香花火を受け取り、T田と競争しようと言って同時に火を点けた。線香花火の火花の広がりの形というのは、まじまじ見てみると複雑で凄いものである。先日行った国立科学博物館で見たトナカイの角の形を思わせるようなところもちょっとあった。T田とこちらの花火はまったく同時に落ちた。同じ風にやられたのだろう。
 その時点で時刻は八時半かそのあたりだったはずだ。立川に戻ろうということになった。それで片付けをして、荷物を持って受付の方に戻っていった。水場があったのでそこに花火のあとの水を流し、花火の残骸はTが持った袋に収めた。それから手を洗い、ハンカチで手を拭きつつ、ハンカチがぐちゃぐちゃだと言いながら掛かっていた音楽に合わせて身体を揺らしていると、隣にいたKくんがふたたび、「ヒェッ」みたいな合いの手を入れてきて、それが次に「ハンケチ、ハンケチ」という言葉に変わり、それからさらに「ケチハン」になって、「ケチハンヒェッ、イェァ」みたいな感じになってきたので二人で笑った。そうしてタチヒビーチを辞去。駅に戻ってモノレールに乗った。六人とも座ることが出来た。夕食はどうしようかという話になったが、T谷が明日仕事があるし、今日はもう解散しようかということに決まった。立川北でモノレールを降りてから、しかしこちらは並んだT田に話しかけて、明日何かあるのかと訊いた。午前中の遅い時間から仕事があると言うので、それがなければ飯に行こうと誘おうかと思っていたのだが、と言うと、別に大丈夫だと言うので、それでは喫茶店にでも行くかと相成った。ただしT田は『Gunslinger Girl』のディスクを借りるためにKくんの家がある三鷹まで行かなければならなかったので、それについてきてくれという話だった。了承し、立川駅まで歩くあいだに後ろにいたTとKくんにその旨告げると、それなら三鷹で飯を食っても良いのではないかということになった。
 駅に入り、東京行きに皆で乗った。T谷は今日は飯を食わずに帰ると言った。Mさんは迷っているようだった。優柔不断で決められないと言うよりは、何か決定的な言葉を待っているような表情を見せているように思われたが、どのような言葉を差し向ければ良いのかはわからなかった。電車に乗っているあいだ、そのMさんがこちらに向けて、結構濡れてるんだよねと言った。子供たちに水鉄砲で濡らされたシャツのことである。それでこちらだけ集中的に狙われていたと誰かが言い、それを受けてこちらは、やはり子供から好かれてしまうオーラが出ているんだねと冗談を言ったのだが、そうだと思う、とTがそのまま受け取って返してきた。
 Mさんは結局、なし崩し的に皆と一緒に三鷹で降りた。カレーの美味い店があるとKくんが言い、そこに行くことになった。駅を出てちょっと行くと、自宅マンションにディスクを取りに行くKくんとは別れ、Tが近間のその店まで先導してくれた。「マイカリー食堂」という店だった。Tが先になかに入って四人と告げてくれているあいだ、こちら、T田、Mさんの三人は外のメニューを見て注文する品を決めていた。こちらはバターチキンカレー、T田はスパイシーロースなんとか、みたいなやつ、Mさんはオーソドックスな欧風ビーフカレーみたいなやつではなかったか。それで入店したのだが、ここがカウンター席しかない店で、仕事帰りのサラリーマンがちょっと寄ってさっと食って出るというような雰囲気で、あまり長居して話が出来るような雰囲気ではなかった。これはちょっと誤算だった、というのはこちらがT田を誘ったのは彼ともう少し色々と話を交わそうかと思っていたからで、だから当初は喫茶店にでも行こうかと考えていたのだった。それに皆がついてくる結果となったわけだが、まあ致し方ない。それでとりあえず食券を買って三席にそれぞれ座り、Kくんを待つのだが、あまり長居出来る感じでもないし、Kくんが来る前に食べはじめてしまおうかということで、すみませんと店員を呼び止めて食券を渡した。まもなくKくんはやって来て、『Gunslinger Girl』のディスクをT田に渡した。それからKくんは、持ち帰りのつもりでカレーを頼んでいたのだが、じきに我々三人の隣の席が空いたので、そこで食べられるではないかということになり、店員を呼び止めて持ち帰りで頼んだのだがやはり店内で食べていって良いかと変更し、許可を取った。それで四人並んで食し、Tは先にKくんの宅に帰って行った。先に食べ終わったこちらとMさん――こちらの左隣に座っていた――は恋愛の話などしていた。KくんとTがそろそろ結婚するという話から、そうした話題に繋がったのだったと思う。Mさんは中高が女子校だったから、男性との関わりが全然なくて、恋愛には向いていない、というようなことを言った。まったく男性と付き合ったことがないのか、恋人が出来たことがないのかは訊かなかったが、恋愛経験というものは基本的にないらしい。こちらにも恋人が出来たことがないのかという質問が来たので、ない、一度もないと答えた。Mさんは、中学生の時、三〇歳になるまでには結婚するか、車に轢かれるか、妖精になるかしたいと思っていた、と言った。人生の墓場に入るか、本当の墓場に入るか、それとももはや人間でない存在になってしまいたい、ということらしかった。今彼女は二七歳だが、三〇歳までもう二年と少ししかない、恋人が出来そうな気配もないし、だから妖精になるしかないと漏らしていた。こちらも、まあ恋愛は成り行きだからねとか言って、成り行き主義者としての面目を主張した。その後、Kくんにこちらは、Kくんは、俺がTのこと好きだったって知っているんだっけと訊いた。Tからいくらかそういう話は聞いた、とのことだった。T田はそのことについて知らなかったと言うので、もう七、八年前のことになるが、恋慕していて告白したことがあったのだと改めて話した。まあそれが俺の唯一の青春だな、と言うと、T田が、青春で思い出したけど、と言い、今日俺、自分マジでリア充だなと改めて思ったわ、と、服選びやタチヒビーチでの遊びを踏まえて断言したので笑った。Kくんはこの店では口数が少なかったと言うか、T田とはよく話していたと思うが、あまりこちらの会話には入ってこなかったような印象があり、表情も多少固かったような気がして、そういう符牒から、こちらがTに恋慕していたという事実、もうまもなく結婚して自分の妻になろうという女性相手に、かつて恋心を抱いていた男が同じ仲間内にいるということに対して、ちょっと複雑な心境を抱いているのではないか、などと邪推したくもなってしまう。これは穿ち過ぎで、多分そんなことはないのだと思うが。
 一〇時になったところで、そろそろ行こうかとこちらが口にして、退店した。すると、Tがわざわざもう一度見送りに来ると言う。駅まで歩いていて駅舎に入ったところで彼女は追いついてきて、そのまま皆で改札前まで行き、そこでちょっと立ち止まって、今日は有難うございましたと挨拶を交わした。いよいよ別れようという時になって、Kくんが近づいてきて、手を差し出したので、例によってこちらも握手で受けて、じゃあな、S、と言われるのに対して、じゃあな、J、と返すというお決まりのやりとりを交わして、そうして三人で改札を抜けた。Mさんともそこで別れて、T田と二人、ホームに降りるとちょうどやって来た高尾行きに乗車した。彼と喫茶店にでも行ってくっちゃべりたかったというのは先に書いた通りだが、もう一〇時も過ぎていたのでさすがにもはやそうした余裕はない。こちらも頭痛が生じていて、早く帰った方が良さそうだった。それでこの電車内での会話だけで満足するかと思ったのだが、いざ向かい合ってみるとそれほど話題というものが出てこないのだった。それでも途中から、今はホロコースト関連の本を読んでいるということを話した。するとT田は、ホロコーストは、ドイツが敗戦国だからというので強調されすぎているきらいがありはしないかというようなことを言ったので、戦争責任として、と訊くと、戦勝国だって途方もない数の人を殺しているわけだよねと返ってきた。まあなあと受けつつもこちらは、それでもやはり数の問題があるのではないか、と言って、例の六〇〇万という数字を頭のなかに思い浮かべ、さらに同時に、テジュ・コール『オープン・シティ』のなかに書かれていたことだが、あの六〇〇万という数字がすべての異論を封じ、黙らせるための魔法の数字になってしまう、というような記述も曖昧に思い出した。加えてこちらは、また、ホロコーストはやはりただの戦争の被害者とは違う特殊性があるのではないか、ユダヤ人に苦痛を与え、彼らを絶滅させるということそれ自体を目的にしていたという点で特殊なのではないかというようなことも答えとして返した。その後、こちらも良くも知らないのだが、第三帝国はそもそも何故ユダヤ人をそれほど憎み、殺そうとしたのかということや、ヨーロッパの反ユダヤ主義感情はどこから来たのか、というようなことを話して、そうして立川に着いた。
 エスカレーターを上り、通路に出ると、それじゃあまたというわけで別れ、こちらは一番線ホームに向かった。青梅行きの先頭車両に乗ると、端の席はさすがにもう空いていなかったが、七人掛けの真ん中にはまだ空きがあったのでそこに座った。頭痛が嵩んでいたが、目を瞑っても眠れなさそうだったので、手帳を取り出して読むことにした。じきに向かいの一席に中年の男性がやって来た。その顔を見ると、冴えず、目に生気がないような力のない表情をしていた。左に一席空けてその向こう、七人掛けの一番端の席には、肥満したこれも中年のサラリーマンが座っており、背を丸めて、太い首を上半身のなかに沈めるようにして、また口を常に魚のようにひらきながら、タブレットを凝視して操作していた。何だかなあ、というような感じがした。その後、電車は発車し、こちらは手帳を眺めたが、車両内にいるほとんど誰も彼もが疲労を身に纏って困憊しているような雰囲気だった。左方の肥満した男は時折り、右足を貧乏揺すりのように細かく動かしていた。向かいにはその後、別のサラリーマンがいつの間にか座っており、彼は隣の空席に右手をつき、脚を組みつつ、大口開けて首を傾けて眠りに落ちていた。青梅に着く間近になると、うるせえ、という声が、それほど大きなものではなかったが、聞こえ、何かと思ってあたりを見ると、こちらの左方の別の七人掛けに座っていた男――この人も結構大柄で肥満しており、比較的若め、と言って三〇代には達しているように思えたが、半身になりながらタブレットか携帯か何かを弄っていたと思う――が、その向かいに座っている別の男が時折り靴を浮かせてかつかつと床につけるのに怒っているのだった。もう一度、若い男がうるせえよ、と言うのをこちらは目撃した。向かいの男性は、しかしその後も靴をかつかつ鳴らすのを止めようとしなかった。その人はどんな者だろうと思って、青梅に着く間際に席を立って車両を移る際に見てみたのだが、一瞬ではあったものの、黒いスーツを着込んだ、わりと地位のありそうなサラリーマンに見えた。たかが小さな靴音が立っているくらいで、うるせえよと気色ばむ方も大概愚かしく、余裕のないものだが、子供っぽい対抗心なのか何なのか、それを受けてもわざわざ同じ振舞いを続ける方もまた大人気なく、それをきちんとした身なりの良い大人の男性がやっているというのに、何だかなあ、と思わされた。
 青梅に着くと奥多摩行きにすぐさま乗り換えて、最寄り駅まで行き、降車した。帰路のことは特別何も覚えていない。家に続く道の途中で、黒い影が道を横切ったのを見れば、猫だったということくらいだ。市営住宅の敷地への入口に入っていったので、そこに至って横を覗いてみると、もう一匹の猫と連れ立っていたのだが、すぐに逃げて階段を下っていってしまった。帰り着くと酒を飲んだらしい父親に挨拶し、自室に帰還してコンピューターを点け、LINEで皆に帰宅したと報告し、今日は有難うございましたと礼も述べておいた。それから入浴に行って、出たあとにエアコンの入った居間で身体を涼めようと母親の隣のソファに就いた。テレビはあれは何の番組だったのかわからないが、有吉などが出ているもので、稼げる副業みたいなものを紹介していた。そのなかに、若い女性が、朝のルーティン、出勤前のメイクや衣服の準備を17LIVEというサイトで動画配信するだけで、投げ銭システムで一月に五〇万もの金を稼いだという話が取り上げられていた。母親がそれを見て、若くて綺麗な子じゃないと駄目だよねというので、その通りだなと思った。
 そうして自室に戻り、零時半からプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『溺れるものと救われるもの』を読みはじめた。記録上は二時二〇分頃まで二時間弱読んだことになっているのだが、頁としては一四頁しか進んでいないので、多分また途中で眠っていたのではないか。いい加減にそろそろ睡眠の魔を超克して、本をさっさと読み終わりたい。


・作文
 8:05 - 8:48 = 43分

・読書
 24:29 - 26:18 = 1時間49分

・睡眠
 3:10 - 7:30 = 4時間20分

・音楽