2019/9/6, Fri.

 本書でその生涯と表現を追いかけてゆく詩人・石原吉郎は、そのような時代に文字どおり翻弄されたひとりである。一九四一年に、ロシア語の特訓を受けた兵士として満洲に渡った石原は、日本の敗戦後、シベリアに抑留されることになる。当時、五七万人あまりの日本人がシベリアに抑留され、最長一一年におよぶ期間、極寒の地で苛酷な労働を強いられ、その過程で一割近くが死亡したとされる。
 ソ連側には、戦後処理における交渉カードとして抑留者を用いる意図もあったが、なんといっても当時、スターリンの支配していたソ連は膨大な労働力(奴隷労働)を必要としていた。その意味で、シベリア抑留とは、「戦争と革命の時代」のただなかで、まさしく戦争(日本の侵略戦争)と革命(ソ連社会主義革命)が接点をもった場所で生じた現実だった。石原はそういう抑留者のひとりとして、八年の抑留ののち、一九五三年一二月、日本に帰国したのだった。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、1~2; 「はじめに」)

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 (……)石原が鹿野について綴った代表的エッセイは「ペシミストの勇気について」だが、大野が引いている「体刑と自己否定」という短いエッセイにおいてもまた、シベリアにおける鹿野の特異な姿が振り返られている。
 そこで石原は、「労働の名に値するものは肉体労働だけだ。精神労働というようなものは存在しない」(Ⅱ、二四八)という鹿野の言葉を軸に、収容所で断食を行なったり、危険な労働をすすんで引き受けたりした鹿野の行動の「内的な契機」に触れようとする。それは石原によれば、鹿野がけっして自らを被害者の位置において発想しなかったこと、むしろたえず自らを加害者の位置において考えていたことにある。収容所という弱肉強食ならぬ弱肉弱食[﹅4]の環境においては、およそ一方的な被害者というものは存在しない。そのことへの問いなおしを、鹿野は自己自身への加害、すなわち「自己処罰」という形で行ないつづけたのだ、と石原は考える。そこから石原は、肉体労働を「体刑」として担いつづける「自己否定」という思想を、鹿野のうちに認めようとする。
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 八時か九時頃から目を覚ましており、カーテンを開けて陽射しを寝床に取り込んでいたが、覚醒が定かになるのではなくてただ暑いばかりでなかなか起きられず、一一時に至ってようやく身体を起こした。暑い昼前だった。コンピューターに寄って起動させ、TwitterSkypeを覗いたあと、部屋を出て上階に行き、母親に挨拶をした。前夜の残りのシチューやら鮭やらウインナーやらがあると言う。冷蔵庫からそれらを取り出し、まずシチューを深めの皿によそって三分間、電子レンジで温めたあと、鮭やウインナーも加熱して卓に持ってきた。新聞からは香港情勢の記事を読みながらものを食べる。母親はタブレットで(……)さんから送られてきた(……)ちゃんの動画を見せてくれた。「(……)のばあばは?」とか「(……)のじいじは?」などと訊かれるのに対して、皆の名前を答えているもので、母親はそれを見て賢いね、と感心していた。また、今日こちらが医者に行くということを彼女は知っており、それで先生にロシアのお菓子を持って行ったらと提案してきた。こちらはどちらでも良かったのだが、適当に返答しているうちに母親は冷蔵庫に入っていたチョコレートを取り出して、保冷剤とともに袋に入れて用意してくれたので、折角だから持って行くことにする。食後、食器を洗い、風呂も洗って部屋に帰ってくると、FISHMANSCorduroy's Mood』を流し出し、前日の記事の記録をつけたりしながら歌を歌った。"あの娘が眠ってる"と"むらさきの空から"は非常に良い。その後、正午を回ったところで今日は先に書抜きをこなしてしまうことにして、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』の文言をコンピューターに写した。その時のBGMは『Art Pepper Meets The Rhythm Section』である。書抜きも毎日少しずつやっていかないといつまで経っても終わらない。それから(……)さんのブログも二日分読み、その後少々だらけたあと、『Art Pepper Meets The Rhythm Section』をもう一度冒頭から流してこの日の日記を書き出した。
 日記は午後二時過ぎまで書き続けた。その後、Twitterを閲覧しながら歯磨きをしたあと、上階に行って洗面所に入った。髭を剃るためである。天井の電灯と洗面台に取り付けられた明かりと両方を点けて、電動の髭剃りで口の周りや顎を当たった。うまく剃りきれずに残った細かな毛は鋏で短く切っておき、ついでに眉毛の上端で余計にはみ出した毛も切り揃えた。そうして次にベランダに出て、足拭きマットや毛布を室内に取り込んでソファの上に広げておいた。それからボディシートで身体を拭いたあと、エアコンの入った自室へ戻って、"あの娘が眠ってる"を歌いながら仕事着に着替えた。時刻は二時半頃だった。出発までのあいだは(……)さんにダイレクト・メッセージの返信を綴った。五月くらいからTwitterSkypeで様々な人々と交流を持っていることについて、「数年前の自分が知ったら驚き、ことによると軟弱だとして軽蔑するかもしれない社交ぶり」だと笑いを添えて報告しておいた。メッセージを送るとFISHMANS "忘れちゃうひととき"を流して歌う。「用もなく 用もなく 歩く このひととき/言葉にならないで いつもどっかいっちゃうんだよ」という詞が良い。歌を終えるとリュックサックを持って上階に行き、トイレで排便したあと、ハンカチを持って出発した。
 陽射しが厚い。近所の(……)さんが家の横の林の縁、草の茂ったなかでドラム缶に火を焚いて、木枝か何かを燃やしていた。煙が朦々と立ち昇り、白い煤が宙を渡ってこちらの方にも飛んでくるなか、こんにちはと挨拶した。もう少し進むと日向に出て、眩しさに思わず目が細まり、百日紅の色も定かに見えない。坂道に入ると速歩き気味に上って行ったので、熱狂的に盛った陽射しのなかを通り抜けて駅のホームに着く頃には汗だくになっていた。空に雲はほとんどなく、これでもかというくらいの晴天だった。手帳を取り出すとまもなく電車のアナウンスが入ったので、東風の流れて涼しいなか、ホームの先の陽射しのなかへ歩いていき、乗車したが、冷房のなかでも汗がすぐに引かないのでハンカチを取り出して首筋を拭った。(……)で乗り換えである。乗り換え先の電車は間を置かずすぐに発車だったので、今日は先頭の方に移らずにすぐ目の前の車両に乗り込み、扉際で手帳を広げた。優先席に観光客らしい白人のカップルが座っていた。
 (……)で降車し、駅を抜けて線路沿いの日蔭のなかを行く。クリニックのビルに到着すると入って階段を上った。待合室に入ってみると今日はかなり混み合っていて、席はほとんどいっぱいに埋められ、空きがほぼ見当たらないくらいだった。診察券と保険証を受付に出し、かなり混んでますねと呟いて、どのくらいですかと訊くと、一時間くらいですかねえとの返答があった。そうして辛うじて空いていた席の一角に就き、ここまで混んでいるとこのあとに図書館にでも行って日記を作成するつもりだったがその時間があまり取れなさそうだというわけで、この待ち時間を利用してメモを取ることにした。まず九月二日の事柄で思い出した一事を手帳にメモ書きしていき、そのあと、この日のことを綴っていった。客のなかに幼い子供を連れた人が多いのが今までに見られなかったこの日の珍しい特徴だった。やはり夏休みが終わって学校が始まったことと関係があるのだろうか。
 メモを現在時まで追いつけると確かにちょうど一時間ほどが経っていた。手帳を仕舞い、目を閉じて首をゆっくりと、何度も回して筋をほぐした。そうしているとまもなく呼ばれたので、返事をしてリュックサックを持って立ち上がり、扉に近寄って二度ノックしたあと開けて、こんにちはと言いながら診察室に入った。革張りの椅子にゆっくりと腰掛けると、いつものように調子を問われるので、まあ変わらず良いと笑う。――夏期講習はそろそろ終わりですかね。――そうですね、もう終わりました。講習中はそこそこ忙しかったですけれど、もう落ち着きました。――そこそこ、という感じでしたか。――今年はまあ……教室長の方も、手加減してくれたと言いますか。
 ――それで、八月の前半から半ばに掛けて、ロシアに行って参りました。――ロシアに(と先生は目を見ひらく)。――兄が向こうに赴任しておりまして。家族三人を呼んでくれたんですね。――ご家族で行って来られた……モスクワですか。――モスクワです。――お兄さんはもう何年くらいあちらにいらっしゃるんですか。――二年くらいですかね。――それでいつ頃まで。――……来年ですかね。――じゃあ三年ほど……そうですか……ロシアは……自由なんですか。いや、自由というか……ソ連時代のような感じではないわけですね。――空港では特に問題なく通れたんですけれど、外国人はやはり滞在登録みたいなものが必要なようで、兄の家に泊めてもらったんですけれど、それとは別にホステルみたいなところに行って登録をするようでした。それで、実際には兄の家に泊まっていたんですけれど、登録上はそのホステルに停まっている態にする、という形で。
 ――と、そのような話をしたあと、先生は薬のことに話題を移して、前回減らしたんでしたねと確認する。今回はこのままで行きますか、それとも減らしたいですかと訊くので、減らせるようなら減らしたいですとこちらが答えると、まあアリピプラゾールを減らすかどうかなので、六ミリだったのを三ミリにしてみましょうか、ということになった。これで服用量は、セルトラリンを朝夜二粒ずつで一日四錠、それに三ミリグラムのアリピプラゾールを夜に一錠となる。順調である。それで了承し、椅子を立つと扉に近寄り、失礼しますと先生の方に頭を下げて、そうして退出した。
 ちょっと待ってから会計を済ませると(一四三〇円)、受付の女性職員にもありがとうございましたと礼を言って待合室を抜け、階段を下りてビルの外に出ると隣の薬局に入った。処方箋にお薬手帳、それに保険証を渡し、呼び出し番号の記された紙を受け取って席に就く。手帳を読んでいたが、呼ばれるまでにさほどの時間は掛からなかった。立ち上がってカウンターに寄り、女性局員と定型的なやりとりを交わして金を支払い(一九七〇円)、薬局をあとにした。空気にはまだまだ熱が籠っていた。それでふたたび線路沿いに出て建物の影のなかを行き、駅前の日向まで来ると目を射る眩しさに瞼の隙間を細めて瞳を守り、それから階段を上った。腹が減っていたのでコンビニでおにぎりでも買って食べようかと思っていたのだが、たまにはロッテリアに行ってハンバーガーでも食べるかという気分になりつつあった。その考えが思いつくと同時に、元々図書館で書き物をしようと思っていたのだが、わざわざ館に移動せずともロッテリアで食事を済ませたあとそのままその店内で書き物をすれば良いのだということに気づき、そうすることにした。労働に間に合うためには、五時半ぴったりの電車に乗らなければならない。現在は五時直前で、僅かな移動の時間も取りたくはなかった。図書館に行ったのに席が空いていなかったりすればそれでまた余計な時間を食ってしまうので、その観点からしても最初からロッテリアに行っておくのが良いだろうと思われた。そういうわけで、高架歩廊に出ると左方の階段を下った。下の道では核兵器廃絶団体らしき高齢の人々が署名を求めており、なかの一人はロッテリアの前で覚束ない演説をしていた。こちらは道路を縁取る柵を跨いで越えて道を渡り、そちら側の柵も跨ぎ越してロッテリアに入店した。カウンターに寄り、メニューを見たあと、エビバーガーとバニラシェーキを注文した。六〇〇円だった。エビバーガーはすぐに出来たが、シェーキは時間が掛かるらしく、ごめんなさい、お届けしますねとの言とともに番号札がトレイに乗せられたので、ありがとうございますと言ってバーガーのみが乗ったトレイを持って席に行った。窓際のソファ席である。それでコンピューターを取り出し、ものを食べはじめるのはシェーキが着くまで待つことにして、日記を書きはじめた。しばらくして飲み物がやって来たので礼を言って受け取り、口をつけると、コンピューターを脇にどかしてエビバーガーを貪った。そうして食べてしまうとシェーキを啜りながら打鍵を続け、五時二〇分を過ぎたところで切りとしてコンピューターを仕舞い、トレイやゴミを片付けて退店した。ふたたび柵を跨ぎ越して通りを渡り、駅に向かって、改札を抜けてホームに降りると、電車までは五分の猶予があった。ホームに立ったまま手帳を取り出して眺め、しばらくしてやって来た電車に乗り込み、リュックサックを背負ったまま座席に腰掛けて到着を待った。(……)に着くとちょっと待ってから降車して、職場に向かった。
 (……)
 七時四五分頃に退勤した。(……)行きの発車が迫っていたが急がず次に乗ることにして悠々と歩いていき、(……)方面から来た電車から降りてきた乗客たちが流れてくる通路の端を通ってホームに上がった。そうしてこの日も自販機に寄って、SUICAを使ってコカ・コーラを買い、ベンチに座ってゆっくりと、一口ずつ間を置いて飲んでいく。飲み干すとボトルを捨て、席に戻って手帳にメモを取りはじめた。こちらの座っているベンチの端には、(……)で見かけるのは珍しいが、黒人の人が就いていた。こちらの背後、ベンチの反対側には共通の運動着を纏った中学生らしきグループが集まっていたのだが、その黒人が中学生たちに、サッカー? とか、今、中学生? とか話しかけていた。子供たちはいくらか困惑した様子で、イエス、とか、言葉少なに答えていた。
 (……)行きが来ると乗り、引き続きメモを取って到着を待ち、最寄りに着くと降車した。降りて視線を上げた瞬間に、西の空に浮かぶ細い三日月の白さが目に入った。その右斜め下には星の光も一つ引っ掛かっているのだが、それに焦点を合わせても遠近感が曖昧で、遥か何光年の彼方に位置しているとはとても思えず、すぐ近間の空中に浮かんでいる羽虫のようにしか見えないのだった。
 駅を出て家路を辿り、帰宅すると、自室に帰ってコンピューターをリュックサックから取り出し、机上に据えておいて着替えると夕食を取りに行った。夕食が何だったのか、いまいち覚えていない。確か何かをおかずにして米を食ったような気がするのだが。鮭だっただろうか? ほかにも何かもう一品くらい、米と合わせて食べられるおかずがあったと思うのだが、明らかでない。まあ、何を食ったかなどどうでも良いことだ。こちらがものを食べている途中に母親が風呂に行ったので、食後、こちらは皿を洗って下階に下り、だらだらとしたあと、九時四七分から日記に取り掛かりはじめた。一〇時に至るとSkypeのグループで通話が始まったので、BGM的に聞こうかとミュート状態で参加したのだったが、やはり人の会話というのは意味があるからうまく聞き流すことが出来ず、同時に日記を書き進めることも難しかったので、そのうちにチャットで通話に本格的に参加した。一一時になったあたりで風呂に入ってくると言って一度自室を離れた。それで入浴して戻ってくると、(……)さんが通話に参加していた。初めてのことである。それでチャットで参加しながら通話を聞いていたのだが、そのなかで、ピエール・ギュヨタという新しい作家の名前を知ることになった。何でも、クロード・シモンとアラン=ロブ・グリエが揃ってメディシス賞に推したのだが惜しくも落選し、それに対する抗議でシモンとグリエは選考委員を辞めたとかいう逸話の持ち主で、彼の何とかいう作品はロラン・バルトが序文を書いたりもしていると言う。それは物凄いな、面白そうだなとウィキペディア記事を見てみると、二〇一八年にメディシス賞を取っている人だった。これでまた読んでみたい本が増えてしまったわけだ。
 零時半に至って人数が減ってから、マイクのミュートを解除して音声で参加した。(……)さん、(……)さん、(……)さんらとしばらく話し、一時に通話を終えたあと、ふたたび日記に掛かって九月二日の記事を書き進めた。三〇分強進めたところで、今日はもう疲れたなというわけでコンピューターを停止させ、ベッドに移ってハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』の二周目に取り掛かったのだが、例によっていくらも読まないうちに意識を落としてしまった。


・作文
 13:10 - 14:09 = 59分
 16:58 - 17:21 = 23分
 21:47 - 22:36 = 49分
 25:03 - 25:39 = 36分
 計: 2時間47分

・読書
 12:05 - 12:22 = 17分
 12:24 - 12:37 = 13分
 25:43 - ? = ?
 計: 30分 + ?

  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、書抜き
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-29「捨て石を集めて投げる来世でもおれは負け犬鎖と無縁の」; 2019-08-30「梳る未来も過去もひとすじの流れに尽きて岸辺はいずこ」
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 7 - 14

・睡眠
 4:00 - 11:00 = 7時間

・音楽