2019/9/7, Sat.

 これもしばしば指摘されることだが、難解な石原の作品でも、個々の言葉それ自体はけっして難解ではない。作品「位置」にしてもそうである。難解なのは言葉と言葉の関係である。石原の詩においては、既知の語彙が未知の関係のなかに投げこまれる。その未知の関係を既知の関係(場面)に置きなおそうとするとき、「誤読」がはじまるのは避けようもない。その言葉と言葉の関係は、その詩のなかで一回かぎり生起するものだからである。石原の作品においては、言葉は通常の意味の束縛から身をふりほどく。そのことによって、たとえば「位置」という語は「敵」という語を、「姿勢」という語を、「声」という語を、「挨拶」という語を、自らのまわりに引き寄せる。
 ちょうど星座の「意味」が星と星との関係のうちにのみ存在するように、「位置」という作品の「意味」は、「位置」、「姿勢」、「敵」、「挨拶」といった語の布置関係のうちにのみ存在している。そして、この詩という星座の布置は、「ほとんど唐突に」あるいは「石原吉郎自身への衝撃のように」形成されるとしか言いようのない、その作品においてのみ生じる一回かぎりの「出来事」なのである。
 けれどもその際、それぞれの語と語が形づくる関係は、けっして偶然的なものとしては現われないし、その関係のなかではじめて輝き出すそれぞれの語の新しい意味も、まったくでたらめなものとして感受されることはない。むしろ、「位置」にしろ「姿勢」にしろ、その語の原初的な意味が「位置」という作品においてあらためて輝きはじめるように思われる。つまり、言葉の星座としての石原の作品は、そこでそれぞれの語が新しい意味を獲得する意味生成の現場であるとともに、おのおのの語がその根源的な意味を回復する関係の現場でもあるのだ。それこそが、作品の成功[﹅5]という一般にはきわめてあいまいな概念が石原の詩において厳密に意味している事態である。
 しかもそのことは、たとえば「位置」という語のうちへと錐揉みするようにして内在してゆく主観の介入なくしては、起こりえないことである。正しい語の意味をもとめて、ということはつまり、正しい語と語の布置をもとめて、石原という詩人の主観は、思惟と想像力を激烈に働かせる。あたかも一昔まえの熟練した金庫破りが、複雑に組み合わされた金庫のダイヤルを、繊細な指先の感覚とかすかな音感をたよりに開いたように、詩人は言葉とその布置を、カチッという音がするまでためすのである。
 (細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、30~32)


 一二時起床の体たらく。コンピューターに寄って起動させ、Twitter及びSkypeを覗いてから上階に行った。母親に挨拶して便所に行き、用を足してから食事である。母親はこの午前中にクリーニング屋や買い物に出掛けてきたらしく、アメリカン・ドッグを買ってきたと言った。それのほか、朝の残りであるらしいウインナーなどを卓に用意して、食事を始めた。新聞を瞥見しつつものを食べる一方で、テレビには『メレンゲの気持ち』が映し出されており、千原兄弟桑田真澄の息子であるらしいMattという人などが出演していた。それをぼんやりと眺めながらものを食い、母親が作ってくれたカルピスで抗鬱薬を流し込み、食器を洗うと風呂も洗った。そうして下階へ下り、FISHMAN『Corduroy's Mood』を流し出して、歌を歌いながら前日の記事の記録を付けたりしたのち、この日は初めに(……)さんのブログを読んだ。八月三一日と九月一日の二日分を読み、それからTwitterのダイレクト・メッセージで(……)さんに送る再返信を綴り、短く書き上げて送信した。おそらく今月末か来月の上旬に久しぶりに顔を合わせることになりそうだ。
 そこまで作業を進めたところで、溜まっている日記に取り掛からなければならないのだが、気力が湧かなかったので今日は先に本を読みながら休もうということでベッドに移った。しかし、ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』をほとんどひらきもしないうちに瞼が閉じて、気づけば姿勢を崩していた。窓外では母親がこの暑いのに、文句を漏らしながらも草取りを行っていた。三時台の途中で、その母親が室内のこちらに声を掛けてきた。曇ってきてことによると降るかもしれないので、ベランダの布団を入れてくれと言う。それで、その声を受けてもすぐには起き上がれずしばらく休んでからだったが、部屋を抜け、両親の寝室を通ってベランダに出て、そこの柵いっぱいに掛けられた布団たちを寝室内に取り込んだ。それから階段を上がって上階のベランダにも行き、タオルや足拭きや毛布をソファの上に入れておいて、そうして自室に帰った。時刻は四時前だった。ここでようやく読書に入ることができ、一時間ほど読んで五時に至ったのだが、その頃にはまた意識が弱くなっていて、頭を枕に預けて寝転び、ふたたび夢のなかに吸い込まれることになった。そうしてそのまま、室内に暗闇が浸透するまでずっと床に留まった。夕食の支度をしなければならないと思っていたのだが、そういうわけで仕事は果たせず、日記も書かずに眠ってばかりいる今日の怠惰具合は端的に言ってやばい。糞である。
 上階に行くと、せめて家事を少しでもやろうというわけで、居間の隅に掛かっていたシャツにアイロンを掛けた。テレビはニュースを映しており、先日トラックとの衝突事故があった京急が運転を再開したと伝えられていた。運転を再開した電車の走るその線路沿いには見物の人々が集まって写真を撮ったりしていたのだが、暇な人間たちがいるものだ。なかの一人がインタビューに答えて言った、大好きな京急が復活してくれてとにかく嬉しい、というような言にも、何か釈然としないものを覚えた。それから食事、野菜炒めや汁物を用意して電子レンジで温めていると、既に帰って来て風呂を浴びていた父親が洗面所から出てきた。夕食のメニューは、キャベツ・玉ねぎ・人参・ピーマン・コーンなどが入った野菜炒めに中華丼の素を絡めて餡掛け風にした料理が一つ、青紫蘇を添えられたサーモンの刺し身四切れが一つ、ワカメと卵と葱の醤油風味のスープが一つ、胡瓜に人参に大根をスライスした生サラダが一つ、あとは米である。卓に就き、醤油を垂らした野菜炒めをおかずにして米を口に運び、一方で新鮮で滋味深いサーモンの切り身も味わう。テレビは外国人が思う日本の変なところ、というようなお定まりの番組を流していた。キャッシュレス決済が話題に上がっていて、中国では顔認証の決済サービスが普及しつつあるだとか、スウェーデンだったか北欧では手にマイクロチップを埋めこんで決済や扉の開閉などに使えるようにした技術なども取り入れられているとの報告があった。
 ものを食べ終えると抗鬱剤を飲み、食器を洗って入浴に行った。湯に浸かると、窓外から、コオロギだろうかアオマツムシだろうか、秋虫の声が窓いっぱいを埋め尽くすような勢いで響いてきて、古井由吉の小説で知った「野もせに」という表現を思い出した。頭と身体を洗って上がってくると、パンツ一丁で下階に戻り、八時半手前から『Art Pepper Meets The Rhythm Section』とともにこの日の日記を書きはじめた。ここまで綴ると九時が目前となっている。
 それから確か前日の日記を綴ったのだったと思う。そうして九時四〇分に至ると、一旦読書をしようということでベッドに移った。ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』の二周目である。さっさと日記を進めなければとは思っていたのだが、ベッドに身体を預ける安楽さに飲まれ、一時間四〇分ほどぶっ続けで読み進めて、それからようやく日記に戻った。時刻は一一時半前だった。Skype上ではグループ通話が行われていた。零時前後になって確か前日、九月六日の記事が完成したので、ちょっと顔を出してみるかということで、ミュートで参加した。グループには(……)さんのほか、(……)さん、昨日も参加していた(……)さん、それに新しい方で(……)さんという人が参加していた。(……)さんと(……)さんが、新海誠の『天気の子』について熱心に語り合っていた。(……)さんはちょうど今日、『天気の子』を観てきたのだが、その内容が頂けなかったようである。話を途中から聞き出したし、のちには日記に集中したくて一時アンプの音量を絞って会話の音声が聞こえないようにしていた時間もあったので、その感想内容の正確なところを理解出来てはいないが、どうも現状追認の事なかれ主義を促進するような物語になっている、というようなことが(……)さんの評価であるらしかった。新海誠という作家に関しては、やたらと売れているようだが、こちらは大して興味がない。映像美に象徴されるように、やたらと感傷的で情緒を煽るような物語を作るというイメージがあるのだが、これはあまり確かなものではないのでもしかしたら間違っているかもしれない。いずれにせよ、こちらの鑑賞の文脈には挙がってこない作家だと思うので、誰かに誘われでもしなければ観には行かないだろう――そもそも自分は、映画というものを全然見つけない人種でもあるのだが。
 それで何となく会話を聞き流しながら日記を進めたあと、一時頃に至って書き物は中断し、チャットではあるが本格的に会話に参入した。その後、一時半頃から今度はミュートを解除して、二時まで三〇分だけと言って音声で通話に参加した。どんなことを話したかは今記憶が呼び起こされて来ない。二時まで話したところで、それでは解散しようとなり、通話を切って、ありがとうございました、よい眠りを、とチャット上に書き込んでおいて、そうしてコンピューターをシャットダウンした。ベッドに移ってハン・ガンを読み進め、二周目の最後まで読み終えると三時前だったので、そこで眠りに就いた。


・作文
 20:23 - 21:39 = 1時間16分
 23:24 - 24:59 = 2時間35分
 計: 3時間51分

・読書
 13:07 - 13:24 = 17分
 15:55 - 17:00 = 1時間5分
 21:41 - 23:18 = 1時間37分
 26:11 - 26:48 = 37分
 計: 3時間36分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2019-08-31「匿名の遺言ばかりが当て所なく漂う宇宙で名付け親になる」; 2019-09-01「全集を焚き火にくべる狼煙にもなりえぬほどに痩せてたなびく」
  • ハン・ガン/斎藤真理子訳『すべての、白いものたちの』: 14 - 186(読了)

・睡眠
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・音楽