2020/1/27, Mon.

 一九四二年五月一日のヴァルテラント地方長官グライザーのヒムラー宛書簡によると、この撤去作戦によって、人口一六万のこの[ウーチ・]ゲットーから一〇万人のユダヤ人を撤去する予定だったようである。一九四二年六月二日のゲシュタポの報告(後述)からも明らかなように、このことによって、労働不能者をゲットーから一掃し、労働可能者を集中するためであった。強制撤去はすでに一九四一年一二月八日以来ウーチ周辺の小自治体で始まっていたのであるが、一九四二年一月には、ドイツ刑事警察のフックス警部がさしあたり三万人のゲットー住民を撤去する任務を帯びてウーチに到着した。ドイツ当局はユダヤ人評議会にさしあたり、一万人の撤去対象者のリストを作成するよう、命令した。ウーチ・ゲットー・ユダヤ人評議会の移住委員会は一月五日からリスト作成の作業を開始した。
 (栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、184)


 午後一時三〇分まで布団の下の安穏に留まってしまい、睡眠時間は一〇時間二〇分もの長きに渡った。紛うことなき、純然たる堕落である。俺は腐れた糞尿野郎と化した。起床には至らずとも、勿論覚醒だけは何度もしているわけだが、そのうちのどこかの時点でUさんの夢を見た。Uさんが現在暮らしているアメリカが舞台に設定されていたのかどうか、それは定かではないが、彼の家に招かれて文書の推敲を手伝うというような夢だった。宅にはまた、Uさんの恋人、と言うか夢のなかでは妻として名指されていたのだが、そういった関係の女性もおり、彼女は編集や校正の仕事をしているということで、普段はその人がパートナーとしてUさんの文章をチェックしているようだったが、何故かこちらもそれを手伝うことになったのだった。それで文字の書かれた用紙を受け取ると、既にいくらか校正が入っていて、文字の上を部分的に赤や青のペンでなぞった跡がある。女性は訂正や注釈の種類に合わせてペンの色を使い分けて仕事をしているらしいのだが、こちらはそんな器用なことはできないので、赤ペンで気になった箇所に線を引くだけで良いかと了承を取り、ところどころ線を引いていった。
 そのほか地元の駅前を自転車で走ったり、靴をなくしたりする夢も見たのだが、これに関しては詳細が欠落してしまって再構成ができそうもないので割愛する。一時半に至ってようやく、睡眠という人間に課せられたうちで最大の呪縛から逃れることに成功すると、ダウンジャケットを持って階を上がった。母親は(……)だか何だかの手伝いに行っていて不在である。その手伝いは一時までと書置きには記されていたが、そのあとにさらに図書館に寄ってくるとのことだった。ジャージに服を替えてジャケットを羽織り、冷蔵庫から天麩羅を取り出すと、電子レンジに突っこんで一分半を設定して加熱を始めた。ほか、小鍋に拵えられてあったモヤシと卵の味噌汁も火に掛けておき、そのあいだにトイレに行って用を足す。戻ってくると米と味噌汁を椀によそり、天麩羅と合わせて三品を卓に運んで椅子に腰掛け、足もとの電気ストーブのつまみを捻った。新聞の一面から新型肺炎関連の続報を追いつつ、天麩羅をおかずにしていくらかべちゃべちゃした白米を口に運ぶ。民間のチャーター機を利用して武漢市在留の邦人のうち希望者を帰国させるとの方針を首相が発表したとのことである。感染の規模は拡大しており、感染者数は中国全土で二〇五二人だったか、そのくらいを数え、死者も五六人だかになったと言う。紙をめくって二面を見ると、北京や上海でも移動制限の措置が取られはじめたと言い、地下鉄駅などでは警備員によって一人ずつ体温測定が成されているらしく、マスクをめくって警備員の前に突っ立ち、体温を測られている人の写真が載せられていた。
 そのほか米国のポンペオ国務長官が記者に対して暴言を吐いたとかいう報も伝えられていたのでそれも読み、ものを平らげたあと、椅子に就いたまま目を閉じて少々息をついた。聞こえるのは時計がかちかち針を刻む音と、足もとの電気ストーブが温風を吐き出す響きのみだった。時刻は二時、六時半前には出勤しなければならないから、それまでにあと四時間ほどしか自由時間はないわけだと考えた。己の怠惰が招いた猶予のなさだがいずれ仕方がない、こういう時こそ、焦らず急かず落着いて物事をこなしていくことが大事である。そういうわけで心を静めて明晰にするために敢えて少々休む時間を取り、それから立ち上がって台所に食器を運んだ。流しに皿を置いておき、洗う前にカウンターの裏に回って電気ポットの湯を確認すると、そこそこ入っていたので足す必要はあるまいと判断し、カウンターの上にガムが乗っていたのでそれを一粒頂き、噛みながら食器を洗った。それから洗面所に入り、櫛付きのドライヤーで髪を梳かして尋常な形に落着かせたが、前髪があまり決まらず、野暮ったいようだった。続いて電動シェーバーで、口の周りから顎までの髭を当たったあと、風呂を洗おうと浴室に踏みこんだが、浴槽のなかの残り水が結構余っていたので今日は洗わずこのまま沸かせば良いだろうと一人決めして、洗濯機に繋がったポンプだけ取り出してバケツに入れておいた。
 そうして一旦下階の自室に戻ったが、空は真っ白で陽の感触は粒子一つ分ほどもなく、空気はやや暗めに沈んで実に陰鬱気な天気というわけで、午後二時にもかかわらず部屋が小暗かったので電灯を点けなくてはならなかった。コンピューターを点けて各種ソフトを立ち上げておき、急須と湯呑みを持って廊下と階段を渡るあいだも、裸足に伝わってくる床の冷え方が格別で、確かに雪が降ってもおかしくはないように思われる。居間に上がると茶を用意して、部屋に戻って飲みながらこの日の日記を書きはじめた。途中で便意が満ちたのでトイレに行き、右膝の側面辺りが痛むので右手で揉みながら尻からは糞を垂れ、水を流して手を洗って戻ってくると日記を続けて、ここまで綴って二時五五分に達した。
 それからさらに、前日、二六日の記事にかかずらって一時間一八分が経過した。時刻は四時一三分に達し、そろそろ運動もしたいし飯も食いたいというわけで一度中断し、しかしすぐには運動に入らずThe Beach Boysの"Wouldn't It Be Nice"を何度か歌った。この曲が実に完璧なので、LINEにyoutubeの音源を貼って「(……)」の皆に紹介しようか迷ったが、ひとまず控えておいた。それから『Pet Sounds』の流れるなか、ベッドに移ってティッシュを目の前に一枚敷き、爪を切り、さらに目を閉ざして音楽に耳を傾けながら鑢掛けをしたあと、運動に移行した。いつも通り屈伸から始めて諸々のポーズを取ったが、今日は何だかあまり力を籠められず、空気椅子とか板のポーズとか忍耐力が必要な姿勢に耐える気力がなかったので、追いこまずに半端に行った。それでもなるべく毎日できていれば良いだろう。
 身体を少々温めると、五時が目前だった。食事へ向かう。何かおかずはあったのではなかったかと思うが、それにもかかわらずハムエッグを焼くことにした。焼いたものを丼の米の上に乗せると、その他モヤシと卵の味噌汁の余りを椀によそって卓に就き、食事を取りながらブログについて考えた。日記一本に絞ろうと思ったのだ。つまり、昨年の途中から本や音楽の感想の記事――と言ってもそれは元々毎日の日記に綴った文章をひとところにまとめただけのものではあるが――や、短歌や詩の記事もブログには投稿していたのだったが、それらを削除してしまおうと思ったのだった。そうすることの大きな理由は特にない。元々、そういう日付以外をタイトルとする独立した記事の作成は、検索サイトからの流入を呼び込もうという目論見もあって始めたもので、実際、Virginia Woolfの"Kew Gardens"だとかJames Franciesの記事などには多少の訪問者があったようなのだが、そういう形の読者拡大ももう図る必要はないかなと思ったのだった。つまりはこれも定期的にこちらの身に訪れる閉鎖的な欲求の一環になるわけだが、それよりも日記ブログとしての一貫性や徹底性、すべての記事を毎日の記録として統一させることの方が大事ではないかと考えたのだ。本や音楽の感想を一所にまとめておいた方が、自分で見返すことになった時にも便利だし、読者にとっても優しいだろう。しかしそのようなわかりやすさ、利便性、親切さのようなものは敢えて排して、徹底してマイナーでアナログな形式のあり方を模索しようかという気持ちになったのだった。自分の体験を考えてみても、こちらが嵌まったMさんのブログなども、日記以外の記事はなく、読者に対して親切な形式を取ってなどいなかった。Sさんのブログや「偽日記」も同様である。それらのブログにおいては、何か特定の具体的な情報を求めたい場合は検索機能を駆使して数多ある記事のなかから欲しい情報に辿り着くほかなく、手間が掛かるのだが、そのような手間を要求するというアナログさが今となっては大事なのではないかという気がしている。そういうわけで記事の種類は完全に日記一本に絞り、感想の類などもその毎日の記述のなかに含めるだけで満足することにして、さらには読者をある種突き放すような閉じた様相をより完全なものとするために、コメント欄も閉じることにした。まあ、今までコメントが来たことなど一度もないので、閉じていようが開けていようが変わらないのだが、もし仮にコメントを残したい人がいたとしてもそうできないようにしようと決めたのだった。ただ、最後の一線と言うか、こちらと何らかの接触を取りたい人が辛うじて繋がりを得るための最低限のひらかれた回路として、メールアドレスだけはブログ下部のプロフィール欄に載せておくことにした。
 そのような方針を固めて食事を終えると食器を片づけ、三方の窓のカーテンを閉ざした。そうして緑茶とともに自室に帰ると、早速、「音楽」や「読書」のカテゴリに分類されていた記事を削除し、さらにローベルト・ヴァルザーの真似事をした断片や短歌や詩、それにVirginia Woolf, Kew Gardensの私的翻訳も消去した。最後の記事は検索からのアクセス流入を結構稼いでいたようなのだが、まあ別に良いだろうというわけで潔く抹消し、これで日付以外の文言をタイトルに掲げた記事はこちらのブログには存在しなくなったはずである。noteの方でも同様の処置を取った。
 五時半から過去の日記を読み返しはじめた。一年前の一月二七日日曜日の記事には、福田恆存訳の『マクベス』の一台詞が引かれていて、それを再読してみると、これはかなり良いのではないかと感じられた。福田恆存に関しては、ヘミングウェイ老人と海』の翻訳は、憚りながらも糞のような仕事だったと言わざるを得ないが、シェイクスピアの翻訳は、『マクベス』を見る限り結構な水準を持っているのではないか。しかし、和文もさることながら、さらに素晴らしかったのがそれに付されてあったシェイクスピアの英語原文で、これを何気なく呟き音読してみたところ、何だか知らないがこれは滅茶苦茶格好良くないか、と感じられたのだった。これがおそらく初めてのことだろうが、英語の韻律の魅力と言うか、その卓越した音楽性のようなものを、感覚に迫ってくるものとしてある程度実感できたのかもしれない。

マクベス あれも、いつかは死なねばならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、こうして一日一日と小きざみに、時の階[きざはし]を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の燈し火! 人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。
 (シェイクスピア福田恆存訳『マクベス新潮文庫、1969年、125~126; 5-5)


MACBETH
She should have died hereafter;
There would have been a time for such a word.
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

 さらに続けて二〇一四年六月五日の日記も読み返したのだが、この日には二〇一四年の自分の全般的な実力からすると不相応なくらいにしっかり書けていると思われる描写が二箇所見つかった。以下に二つを並べるが、上の一節のなかでは、雨粒が空中を貫いて落下する響きと地を叩く打音とが区別できないほどに雨音が渾然一体となって持続的な様相を取っていることに言及したあと、そこから、「だから雨は壁だった」という断言に流れこんで停まるその急速なスピード転換に、我ながらはっとさせられた。雨の降りもしくは雨音を壁に喩えるイメージ感覚自体は凡庸なものだが、断言体によって比喩をまるで事実であるかのように提示し、なおかつ文を最大限に短くして端的に言い切ることで生み出された収束 - 停止の運動感覚は見事である。これはおそらく、柴崎友香『ビリジアン』から学んだ文体的技術だろう。後者の風景描写ではまず、「音がはやすぎるから囲まれているとすこし不安になった」という、今ではなくなってしまった精神的過敏さ、華奢で繊細な感知力が生々しい。実際、二〇一四年だとまだパニック障害の影響が残存しており、その圏域から完全には逃れられていない頃だったと思われる。また、上の引用のあとに続く水滴の動き方やガラス上に発生する空白と充塡の交替劇に対する観察もなかなか緻密なもので、評価したい。

 風呂の電気をつけると明るすぎたから消した。消すとすこし暗かったけれどちょうどよかった。青緑色の薄暗さだった。窓をあけて顔を寄せると湿ったにおいがした。無数の灰色の線が窓の上と下をつないでいた。外側にクモの糸が引っかかっていて、風にゆらゆら揺れていた。寒くなったから湯のなかに座った。目を閉じて外の音を聞いていると、雨が強まっていった。雨の音は雨が空気を切る音なのか、葉や地面に当たる音なのかわからなかった。たぶんそのすべてがひとつにつながって長くて途切れない音になっていた。だから雨は壁だった。一粒一粒が隙間なくつまって音の壁になっていた。そのうしろから鳥の声が聞こえた。雨からあわてて逃げるような声だった。

 (……)駅前のスーパーの前に路上駐車して、買物をするあいだすこし待っていて、と母は言った。だるかった。目を閉じて深呼吸した。あけると、フロントガラスに水滴がびっしりついていて、そのなかにワイパーの跡が水路みたいになっていた。前の車のテールランプが点滅すると、水滴のひとつずつに黄色が入りこんで光った。きれいだったけれど、目がちかちかしそうだった。前の車が行ってしまうと安心した。車がいた下の水たまりに信号の光が映りこんで、雨で水面が乱れてぼうっと鬼火みたいに浮かんでゆらゆら揺れていた。雨が強くなって屋根に当たる音がこまかくなった。風呂で聞いたのとはちがって、すごくこまかいけれどひとつながりではなく分かれていて、連打だった。音がはやすぎるから囲まれているとすこし不安になった。またガラスを見た。水滴は雨を吸収してふくらんで自分の重さに耐えきれずにあふれて、まわりの水滴を巻きこみながらゆっくりと滑り落ちていった。屋根のほうから来る水滴は大きいからすっと直線的に落ちた。水滴が流れていったところは一瞬空白地帯になって、だけどまたすぐに雨が埋めてしまった。(……)

 二つの日記を読み返すと五時四九分だった。歯ブラシを取りに行ったついでに上階に行って母親に顔を見せておき、歯磨きを終えて口を濯いでくると、中村佳穂『AINOU』を流し出し、着替えの前に空気椅子を行った。一曲目 "You may they"が流れているあいだ耐えて、それから二曲目 "GUM"が部屋に満ちるなかで廊下のワイシャツを取り、音楽に乗りながらゆっくりと袖を通した。そのあとも同様にしてゆっくりとした動きで一枚ずつ着物を身につけていき、ポケットには小物を入れ、クラッチバッグには財布や携帯を収めた。出勤前に僅か五分間だけメモを取っておき、その時流されていた"永い言い訳"を椅子に座って最後まで聞くと、上階に向かった。
 石油ストーブの上にスープの鍋が置かれてあったが、取っ手が横に突き出る方向になっており、傍を通った拍子に誤って身体に当たって落としてしまう恐れを感じたので、引っかからないような位置取りに変えておいた。トイレに行ったが通じるものはなく、小用を足したのみで出てきて、洗面所に移って石鹸を使って手を洗っていると母親が、今日行った会合で根掘り葉掘り色々なことを訊かれたと愚痴っぽく漏らしてみせる。新人だからやっぱり興味の対象って言うか、と呟く。母親ももう六〇を越えているわけだが、その集まりのなかでは年齢も一番下なのだと言う。
 出発した。傘をひらいて雨を防ぎながら道に出ると、家の敷地と道路の境に挟まった小石や砂利の地帯がところどころ煌めき、砂浜に眠った貝殻のイメージを連想させた。空気はかなり冷たく、片手には傘を持ち、片手にはバッグを持っているので、手指から冷え冷えと温度が奪われるのを防ぐ術がない。道の脇の車庫の前には漆黒の影が蹲った動物のように蟠っており、家屋の前を過ぎれば煙や焼き魚のような匂いが伝わってくる。坂道に入り、地面の上で仄かに揺動する葉っぱの影を踏みながら行き、出口に近づくと風が迫ってきて、傘を前に傾けて防ごうとするものの大した効果はない。浸透的でなおかつ貫通的な風だった。
 駅に着き、階段に入ると前方に一組の姉弟の姿があり、遅れて何をするでもなく階段の途中に佇んでいる弟に姉が、何やってんの、振り向いて声を掛けている。顔をよく見なかったが、数年前の塾の生徒ではないかと思われた。(……)何とかさんという名前だったか? 過去にもこの駅で見かけたことがある。その横を過ぎ、鷹揚に階段を下ってホームに入ると、前方にいた男性が柱に隠れるような素振りを取って、知り合いだろうかと疑ったが、そういうわけでもなさそうだった。ベンチの端にバッグを置き、傘を閉じて縛ると、立ち尽くして電車を待った。
 やって来た電車に乗ると、薄色の短い茶髪の男性と目が合った。(……)ではないかと一瞬思ったが、彼よりも顔つきが鋭く凛々しいような印象だった。扉際に立って目を閉じた状態で揺られ、青梅に着いてもすぐには降りずに客が去ったあとの席に入った。そうして胸の隠しから手帳を取り出し、この往路のあいだに印象に残ったことをメモし、終えると降車した。家を出る前にトイレに行ったのにも関わらず、またも尿意が湧いていた。おそらく緑茶を飲んだためだろう。ちょうど近くに駅のトイレがあったので寄り、放尿して手を洗い、ハンカチで指を拭きながらホームを行った。
 今日の労働の相手は(……)くん(中三・国語)、(……)さん(中三・国語)、(……)くん(中一・英語)だった。座席表を確認したあと奥のスペースに行って、授業中だった(……)くんのもとに現れ、過去問を持ってきたかと確認した。彼が持っているテキストはブックオフで買った中古の品なので、最新の問題――つまり昨年の試験のもの――が収録されていなかったので、今日はその平成三一年度の問題をコピーして扱うことに合意された。そうして準備して読んでみると、古典混じりの大問五が大岡信白洲正子の対談だった。数年前の試験と比べて、全体的にさほど難しくないように思われた。
 そうして授業である。始まってしばらく経っても(……)さんが来なかった。しかし自習席にいるフードを被った姿がどうもそれらしい。ちょっと様子を窺って待ってみてから、声を掛けに行った。忘れていたの、と訊くと肯定の頷きが返ったが、授業があるのを忘れていながら塾に来て自習をしているのも変な話である。座席表を見てみると前のコマが理科だったので、その宿題をやっていたのかと思ったが、あとで室長に訊くと、理科の授業も出ていなかったらしい。サボるつもりだったのか? しかしそれなら初めから塾に来なければ良いはずである。授業は受けたくないが、家にいたくもないということだったのだろうか。入室時のカードの入力によって塾に来ているという連絡が保護者の方に行くシステムになっているので、親には塾に来ていると思わせながら、授業には出ないつもりだったのかもしれない。
 (……)くんは(……)点だった。かなり良いのではないか。ただこれは、夏頃だかに一度解いたことがあったらしいので、それならこのくらいは取れるかという感じではある。大問五をいくつか間違えていたので確認し、宿題は作文を書いてくることとした。推薦入試は自信がなく、まったく受かった気がしないと言う。面接官の女性の目つきが鋭く、睨みつけるかのようで、しかも話を聞くあいだは口をぽかんと開けていたと話すので、眠かったんじゃない? と受けて笑った。
 (……)くんは今日の授業では眠らなかった。起きていられるようになったのは進歩である。宿題の英作文をことごとくミスしていたので見ないで書けるように練習してもらい、あとでチェックすると正答できた。地頭は悪くないはずなので、もう少し基本的なやる気が充実すれば伸びるように思うのだが。
 授業後、(……)先生に弟の過去問の結果を伝え、褒めてあげてくださいと言っておいた。彼女曰く、(……)くんはこちらの授業に当たることを楽しみにしており、こちらと話ができることを嬉しがっていると言う。生徒にそのように思ってもらえるというのは、講師冥利に尽きると言って良いのではないか。少しでも意欲を上げるのに役立っているとしたら、有難いことですと受けておいた。
 その後、退勤前に室長と少々話を交わす。(……)さんの学習障害というものについて訊いてみたところ、彼もよく覚えていないらしく、あまりはっきりした答えは返って来なかったが、発達障害の類のようだ。しかし、発達障害と言っても広い。ほか、推薦に受かりそうな生徒は誰ですかねと尋ねると、安定なのは(……)くんくらいで、あとはあまり期待はできないだろうとのことだった。
 そうして職場を出ると、降りはやや雪っぽく、霙くらいの感触になっていた。駅舎に入ってホームに上がり、自販機でBOSSのカフェラテを買って飲んでみたが、さほど美味くはなかった。人々は次々と暖房の利いた待合室に入っていくが、こちらは外のベンチに留まった。密室のなかで他人と近距離で沈黙のうちに向かい合っているのは何となく気詰まりで、避けたい気持ちがあるのだ。しかし冷気のなかにいると手がさすがに悴んでくる。しかも電車は二〇分だかそのくらい遅れており、奥多摩行きはなかなか入線して来なかった。ようやく来た電車に乗ると、すぐに発車するだろうからと座らずに扉際に立ち、手帳にメモを取り続けた。
 最寄り駅で降りて傘をひらくと、こちらの周囲に降りる者は誰もおらず、前方、屋根の下に二、三人降りたのみだった。傘の持ち手にバッグを掛けて進み、階段通路を行っていると、目の前に薄白く蟠る呼気の、その溜まる時間がいつもより長く、なかなか拡散していかないように見えた。駅舎を出ると通りを渡って東へ向かえば、降りにはやはり雪がやや混ざって霙風になっており、傘に当たる音もいくらかべちゃべちゃとしているくらいだから相当寒いが、しかし急がず街道沿いを歩いていった。木の間の坂に入ると途端に歩幅を小さくして小刻みに踏んでいく。地面に苔が生えている上に濡れているので、滑って転ぶことを恐れたのだったが、地面の上に円型の溝が無数に刻まれた区画に入ると安心して警戒を緩めた。
 帰宅すると居間の母親に雪が降っていると報告し、冷え切った手を差し出して握らせてみると、随分冷たいと母親は笑っていた。テレビは『しゃべくり007』を放映していた。自室に下りてコンピューターを点け、コートを脱いで収納のなかに掛けておくと各種ソフトを立ち上げて、各所を確認しながら着替えたあとに上階に行った。父親は風呂から上がっていた。食事は天麩羅の余りや鯖、シーフードの混ざった野菜スープに米と、あとは大根や人参を細くおろした生サラダだった。席に就いて夕刊を見てみると、新型肺炎の感染者は二八〇〇人ほどを数え、日本政府は二八日からチャーター機を派遣すると言う。政府発表によれば、湖北省の在留邦人は五六〇人いるらしい。テレビでも雪の話題のあとに同じく新型肺炎関連のニュースが流されて、武漢市の病院の医師がもうお手上げだと電話に向けて音を上げる様子が伝えられ、また女性医師らしき人が気が狂ったように泣き叫んでいる映像も報道された。診察の待ち時間は長ければ一〇時間半にも上ると言う。
 食後、皿を洗いながら、横で湯たんぽを用意している母親に、電車が遅れていて帰りが遅くなったのだと報告した。それから風呂に入り、湯のなかで瞑目すると、The Beach Boysの"Wouldn't It Be Nice"が脳内には流れていた。窓外からは雨だか雪だかが降り続く音が響いており、室内の時計の音が雨垂れの一つであるかのようにそれに呼応し、あるいは同化していた。じきに意識が崩れ、解体していき、零時を越えた。
 風呂を上がると居間の電灯は点けっぱなしだった。下階へ行ってまず便所に入り、長々と放尿して膀胱の疼きを解消したあと、部屋から急須と湯呑みを持ってきて居間のテーブルの隅で茶を用意し、明かりを落としておいて室に帰った。インターネットを回りながら茶を飲むと零時四〇分過ぎに至った。そこからこの日のことを簡易的にメモ書きしたのだが、気が乗らなかったのだろうか、僅か一二分で一時を目前にして取りやめている。その後はロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』の文言を読書ノートに引用しはじめ、何と二時間四一分ものあいだ白い頁の上に文字を刻むことに邁進し、三時四四分に至ってようやく切りとしてこの日の活動を終わらせた。

 「ある言語がわれわれ自身の共同体の言語でなくなるや否や、われわれはそれを無用で、空疎で、錯乱的であり、その言語が真面目な理由からではなく、取るに足りない、低俗な理由(スノビズムやうぬぼれ)から使われていると批判する」(36)
 「たしかに作家にとって自分が受け容れられる限界というのは重大な問題である。ただ少くともそうした限界はかれが選び取るものであって、その限界が狭いことを作家が受け容れるとすれば、それはまさしく書くということが、あらゆる読者の平均値[﹅3]と安易な関係を結ぶことではなく、われわれ自身の言語と困難な関係を結ぶことだからである。作家は『ナシオン・フランセーズ』紙や『ル・モンド』紙の批評家に対するよりもかれの真実である言葉に対していっそう多くの義務を負っている」(39~40)
 「人はある言葉の所有者になり得るとか、自分の存在の諸性格のなかの一財産として言葉を擁護することが必要だとか、そんなふうに想像することには深い不安(同一性の不安)がある。いったい私は、私の言語よりも以前に[﹅3]存在しているのだろうか。この私をまさしく存在させているものの所有者であるこの私[﹅]とは誰なのか。私の人格の単なる一属性として私の言語を生きることがどうして私にできるだろうか。私が語るのは私が存在しているからだとどうして信じられようか。文学の埒外でならそうした幻想を抱くこともあるいは可能かもしれない。しかし文学とはまさにそうしたことを許さないものなのである」(40~41)
 「事実、文学の特異性は記号の一般的な理論の内部にしか措定することができない。言いかえれば、作品の内在的な読解を擁護する権利を持つには、論理学、歴史、精神分析が何であるかを知らなければならない。つまり作品を文学に返すためには、まさしく文学から外に出て、文化人類学的な教養に助けを求めなければならない」(45)
 「もちろん作家になりたいと思うのは社会的地位への抱負ではなく、存在の仕方への意思である。(……)作家は役割や価値という用語によってではなく、ただ、言葉への意識[﹅6]とでもいうべきものによってしか定義され得ないのである。言語が自分の問題となっている人間、言語の道具としての有用性や美しさではなく、その深みを実感している人間こそが作家なのである」(69)
 「もしも新批評になんらかの現実性があるなら、それは方法の一貫性のなかにあるのではなく、まして世間でよく言われる批評を支えるスノビズムにあるのでもなく、科学や制度などのアリバイから離れて、十全なエクリチュールの行為としてすでに確認されている批評行為の孤独のなかにこそあるのである」(70)
 「つまりいかなる歴史も作品の意味を汲み尽すことができないのだから、作品はもはや歴史的事実ではなく、人類学的事実になる。したがって意味の多様性は人間の風俗に関する相対的な見方に由来するのではない。意味の多様性が示しているのは、間違いを犯しやすい社会の傾向ではなく、作品には開かれる性質があるということである。作品は、構造上、いくつもの意味を同時に持つのであって、作品を読む人々に欠陥があるためではない。作品が象徴的であるのはこの点においてである。象徴とはイメージではなくて、意味の複数性そのものである」(75)
 「社会が何を考え、何を弾劾しようと、作品は次々に社会を乗り越え、それを貫いて進む、ちょうど多少とも偶然的、歴史的なさまざまな意味が次々にあらわれては満たしてゆく一つの形式のように。ある作品が「永遠」であるのは、それがさまざまな人間にたった一つの意味を課すからではなく、幾多の時代を貫いてつねにただ一つの象徴的な言語を語り続けるたった一人の人間にさまざまな意味を暗示するからなのだ。事を計るのは作品、事を行うのは人間なのである」(76~77)
 「文学とは名前の探究である。プルーストはゲルマント[﹅5]というあのいくつかの響きから一つの世界をそっくり出現させた。記号は恣意的なものではなく、名前は事物に本来備わっている特性であるという信念を作家はつねに心の底にいだいている。作家たちはクラテュロス側の人間であって、ヘルモゲネス側の人間ではないのである。ところで、われわれは人が書くように読まなければならない[﹅22]。そのときこそわれわれは文学を「称揚する」のである(「称揚する」というのは「その本質において明示すること」である)。なぜなら、もし言葉が辞書にある一つの意味しか持たないならば、もし第二の言語があらわれて「言語の確実性」を攪乱し、解き放つのでなければ、文学は存在しないであろうから。それゆえ読解の規則は文字の規則ではなくて、暗示の規則である。つまり言語学的規則であって、文献学的規則ではないのである」(77~78)
 「マラルメは「おっしゃることを私が正しく理解しているとすれば」とフランシス・ヴィエレ=グリファンに書いている、「あなたは、詩人の創造的な特権は、かれが使わなければならない道具の不完全さによるものだと考えておられます。仮りに自分の思想を表わすのに十分な言語というものがあるとすれば、文学者などは抹殺されてしまうでしょうし、そうなれば実際、文学者は〈誰でもかまわないひと〉 Monsieur Tout et Monde とでも呼ばれることになりましょう」(J・P・リシャールの引用に拠る。『マラルメの想像的世界』、スイユ社刊、一九六一年、五七六頁)」(122; 原註10)
 「作品はわれわれにとって偶然性というものを持たない。たぶんそれが作品の最良の定義であるかも知れない。いかなる状況も作品を取り囲んだり、指示したり、保護したり、導いたりはしない。いかなる実生活といえども作品に与えるべき意味をわれわれに教えることはない。(……)作品の言葉はいっさいの状況[﹅2]の外で――あるいは曖昧さという状況そのものにおいて――語られる(……)。つまり作品とは、つねに予言者の言葉のような状況にあるのだ。(……)作品は私が作品に与える意味に異議を唱えることができない。しかし、だからといって作品はその意味を真なるものと認めることもまたできない、なぜなら作品の第二のコードは制限的であって、規定的ではないからである。つまり第二のコードは意味の容量を描くのであって、意味の輪郭線を引くのではない。複数の曖昧さを創始するのであって、一つの意味を創始するのではない(80~81)


・作文
 14:21 - 14:55 = 34分(27日)
 14:55 - 16:13 = 1時間18分(26日)
 17:59 - 18:04 = 5分(27日)
 24:44 - 24:56 = 12分(27日)
 計: 2時間9分

・読書
 17:30 - 17:49 = 19分(過去の日記)
 25:03 - 27:44 = 2時間41分(バルト; メモ)
 計: 3時間

  • 2019/1/27, Sun.
  • 2014/6/5, Thu.
  • ロラン・バルト/保苅瑞穂訳『批評と真実』: メモ: 33 - 81

・睡眠
 3:10 - 13:30 = 10時間20分

・音楽