2020/2/17, Mon.

 (……)すぐ風邪をひく。風邪をひいても夜に家を追いだされるから、クラスメイトがいうように学校を休みたいがために風邪をひきたいとはおもわない。そんな些細な違いにこそ、巨[おお]きな孤独をいつきくんはかんじる。持たざる不幸は持つ不幸によく似ていて、幸福なクラスメイトは不幸を迫害しながら不幸にあこがれている。だから不幸をいうと自慢とおもわれる。それがもっとも孤独だ。もっとカジュアルに不幸をいいたいよ。(……)
 (町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、44; 「しずけさ」)


 一〇時頃に一度覚醒したのは、母親が掃除機を稼働させながら部屋に近づいてきたからだ。扉をひらいた彼女に向けてこのあいだ掛けたよと言ったのだが、まだ節分の豆の欠片がいくらか残っているとのことだった。それからまた寝ついて、正式な起床は正午を回ることになった。夢を見た――どこかの寺を訪れて、そこに保蔵されているミイラだかあるいは木彫りの彫像だかを見物したのだが、それがグロテスクなもので幾分強い印象を受けたという内容だった。
 起き上がると尿意が最高潮に達していたのでトイレに行って放尿し、部屋に戻るとベッドでしばらく「胎児のポーズ」を行った。窓ガラスの向こうは一面の平板な白さで、今のところ降ってはいないようだったが、いつ実際に降り出してもおかしくはないような雰囲気の霞んだ景色だった。それから上階に行くと母親は「(……)」の仕事に出ていて不在、書置きに、明日の午後に「(……)」に三人で行って着物の確認をできるかどうかと父親から連絡があったと記されていた。翌日は六時からの労働なので、おそらくその前に時間は取れるだろうと判断した。
 食事はおじやと、大根や人参や豚肉の煮物である。おじやを椀に盛り、電子レンジで回しているあいだに洗面所に入って髪を大雑把に梳かし、出てくると煮物をよそって卓に運んで、台所に引き返してくるとちょうどおじやの加熱が終わったのでそれも食卓に持っていった。食事を取りはじめながら新聞の一面に目を落とすと、東京都内の医師が一人、新型肺炎に掛かっているのが発覚したと報じられていた。多分もう結構広がっているのではないかという気もする。これから続々と感染者が増えていくのではないか。
 国際面もちょっと眺め、地域面に伝えられた(……)の報道も多少見たのち、席を立って流しに食器を運び、皿洗いの前にまず電気ポットに水を足しておいた。そして空になった薬缶にも再度水道水を注いでおいてから、母親が放置していった分も含めて皿を洗う。それから風呂洗いである。浴室に入り、洗濯機に繋がったポンプを持ち上げ、水がぼたぼた垂れて水面を叩く音を聞きながら待ったあと、浴槽の栓も抜く。排水のあいだは首を左右に曲げて筋を伸ばしながら待ち、浴槽内の残り湯が薄くなるとなかに入って四壁や床を擦り洗った。終えて出ると階段を下り、洗面所に寄って歯磨き粉を付着させた歯ブラシを口に突っこんで、部屋に戻ると歯を磨きながら一年前の日記を読みだした。二〇一九年二月一七日日曜日は「(……)」のメンバーで集まっており、(……)のスタジオに入って"(……)"を合わせたあと、当時は(……)にあった(……)家にて皆でコロッケを作って食っている。その旨LINE上に報告しておき、歯磨きが終わると口を濯いで上階に行った。緑茶の用意である。一杯目の湯を急須に注ぎ、茶葉がひらいてエキスを滲出させるのを待つあいだに冷蔵庫をひらいてみると、チョコレートケーキが袋のなかに薄く切り分けられてあったので、一欠片を貰ってもぐもぐ咀嚼しながら茶を注いだ。そうして自室に帰ってきたあと二〇一四年六月一九日の記事も読むと、一時二四分だった。前夜、コンピューターをシャットダウンせずにスリープ状態にしたのみだったので、再起動して動作速度を回復させることに。処理を施して待つあいだはロラン・バルト石川美子訳『零度のエクリチュール』の書抜き箇所を読み返しておき、準備ができると一時三九分からこの日のことをメモ書きしはじめ、この地点まで綴ると二時直前だった。
 それから八日の記事に傾注する。音楽も聞かず、コンピューター前の椅子に腰をじっと据えて、静かに、黙々と、二時間のあいだ文章を生産し続けた。四時直前に至ったところでさすがに少々肉体がこごった感覚があったので、dbClifford『Recyclable』をスピーカーから流し出してベッドに移り、仰向けに寝転んで「胎児のポーズ」を取った。腰のあたりを伸ばす動勢や、股間の奥の方へと肉を押しこむような力が生まれる。脚上げ腹筋や立位前屈なども行ったものの、何だかんだ言って一番全身に効くのはやはり「板のポーズ」なのかもしれない。これを繰り返し行って、腹や背のあたりに力を籠めて肉を温めておいた。
 今日は母親は仕事のため、帰宅は七時頃である。六時を過ぎたら夕食を作れば良いだろうと思っていた――それも、おじやに大根の煮物などが残っているから、汁物と加えてあと一品、炒め物でも簡便に拵えれば良いだろう。そういうわけで身体をほぐしたあとは(……)五時からふたたび日記に取りかかった。二月八日の分である。とにかく今日はこの大作を仕上げなければならない――その決意のもと、ふたたび粛々と一時間強を打鍵に費やして、六時を回ったところで切りとして上階に行った。それよりも以前、五時台に入った頃に一度キーボードを離れてカーテンを閉めに行っており、その時に無論、食卓灯も点けておいた。台所に入って冷蔵庫を覗いてみれば、半端に使われた玉ねぎや椎茸やエノキダケなどの茸があり、台所の隅には使いかけの大根も転がっている。それで一つにはこれらを使って汁物を作れば良かろうと判断し、そのほかエノキダケをスープにすべて入れるのは過剰そうだったので炒め物にできないかと考え、肉があればと冷凍庫を探ると鶏の笹身が少量凍らされてあったので、これを玉ねぎと茸と合わせてソテーにすることに決めた。
 それで両手を石鹸で洗い、鍋に水を注いで火に掛けて、野菜を切りはじめる。大根は真円の四分の一に当たる扇形に切り分け、玉ねぎと椎茸は薄切りにして、エノキダケは全体の五分の一かそのくらいの少量をスープ用に取り分けておいた。切ったものを鍋に詰めこんで煮ながら、ソテー用の材料も切り分ける。エノキダケは適当な長さに切断し、下の方の塊の部分には縦にも包丁を入れて、玉ねぎは新たなものを一つ薄切りにして、笹身は電子レンジで凍結を解いて細かく分割した。そうしてフライパンにオリーブオイルを垂らし、ローズマリーをいくらかばら撒くと鶏肉を投入し、フライパンを振りながらある程度火を通して、肉の色が大方変わったあたりで野菜も放りこんだ。強火の上に置き、時折り振る合間に冷蔵庫からバターを探った――帝国ホテルの高級バターを入手したと母親が言っていたのを思い出したのだ。それを発見するとスプーンで少量取り分けて炒め物に加え、そのほかチューブ容器から醤油を絞り出して搔き混ぜればソテーは完成である。他方で汁物の野菜は煮えており、ソテーを拵えているあいだに灰汁を取ったり出汁や椎茸の粉を入れたりしていたが、炒め物を仕上げた時点でもう少し柔らかく煮た方が良いように思われたので、もう先に食事を始めてしまい、ものを食べながら完成を待つことにした。それでおじやは両親に残して手をつけず、冷蔵庫に入っていた細長いミートパイをレンジで熱し、さらに作ったばかりのソテーをよそって卓に運びながら、汁物の大根をつまんでみるともう柔らかくなっていたので、小さな立方体をしたコンソメの塊と塩、それに醤油を少量入れてさらに煮込んだ。煮物もレンジで温めているあいだに、夕刊を取っていなかったことに気づいて玄関に行き、裸足にサンダルを履いて外に出た。地面は濡れて染みと水気を留めている。ポストから夕刊と父親に来た東京オペラシティのコンサート案内を取って戻ると、食事を始めた。「津久井やまゆり園」の事件を起こした植松聖被告に対して検察は死刑を求刑したとの報告があった。また、中国は湖北省にいる在留邦人を帰国させるためのチャーター機第五便も、出発しただか到着しただかという報道もあった。それらを読みながらものを食ったが、炒め物にはローズマリーを入れる必要はなかったなと思った。このハーブはジャガイモのソテーには合うものの、今回の料理にはあまり調和しなかったような気がする。バターの風味とぶつかるような感じがしたと言うか、色々と入れてかえって雑駁な味になってしまったような気味がないでもなく、ローズマリーは入れずにバターと醤油のみの味つけにして、もう少し醤油を足した方が美味かったかもしれないと推測された。ソテーを食い終わると台所に立って鍋の火を止め、スープを椀によそり、それを食っていると母親が帰ってきた。こちらが料理を拵えておいたことについて礼を述べ、ほうれん草やおじやをこちらに用意してくれたあとに食膳を支度して自分も炬燵に入った。汁物に野菜の滋味らしきものがうまく出たようでなかなか美味かったので、こちらはおかわりをした。テレビのニュースは無論新型肺炎関連の事柄を伝えており、都内の屋形船で催された新年会に参加した人々の感染が続々と発覚している、狭い密閉空間内でウイルスが伝染したのだろうとのことだった。
 食後、食器を洗ったあとに緑茶を持って自室に帰り、そうして再度、八日の日記に取りかかった。一度便所に立った際に階上の母親から、お父さんがもう帰ってくるよと言われたが、風呂は後回しである。(……)がセレクションしてくれた近現代クラシックのコンピレーションや、Nina SimoneNina Simone & Piano!』をヘッドフォンで聞きながら作文を進めた。Nikolai Kapustinのピアノ演奏はやはりとてつもないと言うか、リズムや発音の明晰さ、その正確無比さには端的にビビる。九時二一分に至ってようやく八日の日記を完成させることができた――分量は四万字を越えたが、これはさすがに初めてのことである。原稿用紙一〇〇枚分に当たる。しかも書き流すのではなくて、一段落書いたら必ずその冒頭に戻って読み直し、語調をチェックして修正しながら進めたので、これだけ時間が掛かったのもむべなるかなといった感じではある。終盤の、午前一時の(……)駅からの帰路の記述にはとりわけ時間が掛かったが、それに見合った強靭さが文章に付与されたかどうかはわからない。
 ブログとnoteに投稿を済ませておくとこの日の事項の記録に移り、一〇時一一分まで記したあとに、Dominique Visse: Ensemble Clément Janequin『Janequin: Le Chant Des Oyseaulx』の冒頭の一曲、"鳥の歌"を流すとともにベッドで仰向けになって「胎児のポーズ」を取り、その一曲が終わるまでのあいだ姿勢を保持して身体を和らげると入浴に向かった。階を上がって両親と顔を合わせると、時間訊いておいたら、と母親が言う。それで、炬燵テーブルで背を丸めるようにして飯を食っていた父親に、明日は何時にするかと訊けば、お前の好きで良いと言う――三時が良いなら三時で構わないと。「(……)」に行って祭りの着物の合わせをする予定だったのだが、五時過ぎには職場に到着しておきたい。おそらく採寸をしたりするのだろうが、着物の合わせ自体には一時間も掛からないだろうと言う。それで、まあ三時半か四時くらいに行くかということで緩くまとめておき、翌日は労働だし件の着物屋に行く用事もあるので洗面所で髭を剃って、顔を綺麗にしてから入浴した。風呂は水位が低かった上、換気扇も点いていて空気の流れがあったので、露出した肩や胸の辺りが少々冷たい。湯に浸かりながら目を閉じ、瞑想めいて自分の身体に生まれる感覚を追っていった――腹の内に微かに点じられる痛みや圧迫感、肌のところどころに設置される痒みなどが生じては去っていくのを動かず眺め、細密に感じ取るのだ。外からは上空を渡る飛行機の響きが降って、窓から入りこんで知覚領野に混ざってくる。瞑想的に身体感覚を観察していると、自らの肉体も一つの世界であると言うか、外部世界の客体として言わば「自然」と同じような対象なのだなということが実感的にわかるような気がしてくる。(……)さんによれば柄谷行人が、瞑想というのは自分自身の生成の動き、自己差異化の流れを緻密に観察して捉え続ける、そういう技能だとどこかで定義していたらしいが、それはわりと体感的に納得できるものだ。
 その後、短歌の断片も少々考え、風呂を上がると塒に帰った。「原初にて猿の交わした愛こそが今いる俺の悲劇の起源」という一首をTwitterに投稿しておき、それから(……)くんにメールを送った。二月八日の記事を拵えた、四万字を越えて自分としても新たな段階に一歩踏み出せたような気がするので、やたら長いものだが良かったら読んでもらいたいと伝えたのだった。それからその八日の記事を何となく読み返して時間を使ってしまい、日記にふたたび取りかかったのは零時を回ってからだった。前日、一六日のことを記録し、さらに一五日の事柄も記録しようと打鍵を始めたものの、さすがにもはや作文的体力が尽きたようで、身体もこごって何となく椅子にじっと腰を据えているのに耐えられないような感じがあったので、ひとまず休むことにした。ベッドに移り例によって「胎児のポーズ」を行ったあと、上階に行ってカップラーメンを用意してきて、戻って食いながら(……)の「(……)」及び(……)さんのブログを読んだ。後者は二月一日付のものである。最近全然読んでいなかったが、最新の日付から随分と遅れてしまっており、ちょっとやばくないか? (……)さんのブログも、多少目を通してはいるものの、全然きちんと読めていない。とにかく書き物がすべての問題の根源にある。どうしたものか。
 長い記事を読み通したあと、二時からふたたび日記に取り組んだ。本当は一五日のことを早々と記録しておくべきなのだが、何となく九日分を進めたいような気持ちになったのでそちらに取りかかり、三時前まで作文に力を注いだのちに就床した。