2020/3/4, Wed.

 プロパガンダに続いて法律が制定された。ポツダムでの式典の三日後、ヒトラーは圧倒的な議会の承認(反対票を投じたのは社会民主党だけだった)を得て議会政治を終焉へと導き、これにより民主主義は一掃された。三月二四日の全権委任法(正式名称は、国民および国家の危機緩和のための法律)により、ヒトラー政府は緊急事態に関する法を制定したり、議会にはかったり、大統領の署名を手に入れたりする必要がなくなり(それまでは有事立法の際には必要とされた)、憲法の基準に縛られない権限を手にした。
 全権委任法は一九三七年四月まで、あるいはヒトラー政府が交代するまでの時限立法のはずだったが、実際は、第三帝国が一九四五年五月に崩壊するまで延長され、ナチの独裁政治の法的基盤となった。全権委任法の通過後数週間で、政敵は官公庁から排除された。SAが国じゅうに設置した急造の強制収容所に、数千人の社会主義者共産党員、ユダヤ人が送られた。報道機関は新たな宣伝省の管理化に服従させられた。NSDAPを除くドイツの政党はすべて解散させられ、ヒトラーの首相就任後半年も経っていない一九三三年七月一四日、政党新設禁止法によりドイツは正式に一党独裁国となった。軍幹部はその間ずっと、防衛大臣ヴェルナー・フォン・ブロムベルクが一九三三年二月三日に述べたように、ドイツ政府がいまや「広範な国民の熱望の具現であるとともに、多くの優秀な人々の長年の悲願を実現する」政府であることに誇りを感じていた。
 (リチャード・ベッセル/大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』中公新書、二〇一五年、64~65)



  • (……)
  • (……)さんは二一年生まれと言っていた。これは無論昭和のことなので、西暦で考えると一九四六年生まれだから現在七四歳ほどだろう。生まれてまもなく父親を亡くしたらしい。戦後すぐのことで物流が定かでなく、浅草だかどこだかまで遥々品物を買付けに行き、大荷物を背負ったり抱えたりして運んでこなければならなかった。そうした過労が祟って父親は逝去し、一人息子だった(……)さんは幼い頃から店を継ぐようにと周囲から求められていたという話だ。
  • 彼の息子は現在三八歳で小学校の教師をしていると言う。親としては息子にも店を継いでほしかったようだが、本人の意向を訊いてみると、すまないが教師が一番やりたい仕事なので店は継げないという答えがあり、それで彼の代で商売を畳むことに決めたのだと。その息子が二、三年前に二世帯住宅を建ててくれて、一階に親夫婦、二階に息子夫婦が住んでいるとのことだった。
  • (……)
  • 午後一〇時半頃、(……)から電話が掛かってきた。最近は全然やる気が起こらず日記がほとんどまったく進んでいないとLINEの方に投稿してあったのだが、それを見て元気がなくなっているのではないかと思って連絡をくれたようだった。特に元気がないわけでなく、コロナウイルスの件で一五日まで休みとなり、突然長期の休暇が発生したものだから気が緩んだのだろうと話して安心させる。そのほか、先月辺りから文章を妙に丁寧に綴るようになってしまい、書き物に労力が掛かることが――要はかなり疲労することが――やる前からわかっているので、それでなかなか取りかかる気力が湧かないのだとも言っておいた。ベストなペースというのは無論、昨日の記事を今日完成させて投稿するという習慣が確立されている状態である。現状の書き方ではいつまで経ってもそうした習慣に復帰することができず、営みそのものを適切な形で続けられなくなってしまうので、どの程度細かく記録するかという点と、どの程度こだわった文体で書くかという点のあいだでうまいバランスを探っていかなければならないというのが結論である。通話は三〇分ほど。
  • (……)と話したことを踏まえて風呂のなかで思い巡らせていたところ、箇条書き方式を試みてみるかと思いついた。二〇一六年だか二〇一七年だかの一時期にも取っていた方法だが、要は一日の生活をなるべく隈なく書こうとはせずに、強く印象に残ったことだけ取り上げて綴るやり方である。できるだけ細かな生の記録を取りたいのは山々だが、どうやら今の自分にはそのための気力が圧倒的に不足しているらしいので、ひとまず書くことを絞ることで負担を減らして溜まっている日々の仕事を片づけしまい、記述上の生が生身の生に追いついたところで、方法を戻すかそれとも箇条書きのまま続けるかまた考えれば良いだろうというわけだ。ともかく、たった一文であれ僅か一行であれ、毎日何らかのことを書けてさえいれば最低限それで良いわけである。その原点に立ち戻ってあまり根詰めずに営みを続けていきたい。言わば、心身の気力や作文のペースが回復するまでのあいだ、防衛戦と言うか退却戦に従事し、好機を待ってしたたかに耐えるようなものだ。