寒気に祟られて花の匂うようなこともなく、落花の閑寂も繚乱も知らず、ただすがれて赤い花柄ばかりが目に立つようになり、やがて芽吹いた若葉も鮮やかならず、行く春を老年が惜しむにしても、味気なく思われたが、考えてみれば青年の頃には花の盛りを苦にして、頭が重くなるようで、その間はなるべく外出を控えていたこともあった。中年に入り、病人のためにしげしげと通っていた道の、幹線道路の交差点のあたりに一本の桜の木が、昔はどこぞの庭にあったのが道路の拡張のために地所をへずられてわずかに道端に残されたものか、大枝を無残に詰められながら、細く伸びた小枝が、車の排気の臭いの中へ花を精一杯に咲かせているのを、いつまで持つだろうか、と傷ましくも可憐なものと眺めた。心身も時間も切り詰った頃でもあった。ほかの花盛りには、自宅のすぐ前に咲く花もふくめて、ろくに目を向けなかった。
あれからさらに年を経て、母親を亡くし父親を亡くし、姉まで亡くして自身も五十代に入った頃だったか、あるいは自身が五十日の入院の目に遭って、まもなく兄も亡くし、六十の坂にかかった頃だったか、いずれにしてもつい先年のことのようにも思われて記憶は霞むが、ある年の四月の花の盛りに夜からかなりの雪になり、あくる日も正午前にまだ雲の低く垂れる下を近間の馬事の公苑の、例年おびただしく花をつける老桜の幾株かあるところまで来てみれば、雪折れの花の小枝が地面にたくさんに落ちている。その枝を惜んで手に持てるだけ拾って帰ると、家の者があるかぎりの花瓶を出してあちこちに活けた。空よりもどんよりと暗い家の内が花の色に照ったものだ。俄な冬の戻りに身体は冷えこんでいた。雪の後の湿気も身に染みた。空は晴れようともしない。しかしその日は終日、そして深夜までも、机に向って老いたような背を、花に照らされる心地で過ごした。今から思えば、それとも覚えず至福の一日だったか。あるいは人は半日一日の内に、自分でも知らずにまとめて年を取ることが、壮年の間にもあるとすれば、そんな日にあたったか。
(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、15~16; 「後の花」)
- 毎度のことで、午後二時半まで睡魔に捕囚される。
- 都立高校はゴールデン・ウィークの最終日である五月六日まで休校する方針だと言う。こちらの仕事も休みになってくれないだろうか――と報道を受けて勿論考えていたのだが、果たしてその後、緊急事態宣言が発されたことによって、学習塾も正式に休講となった。
- ギター演奏に耽った。まるで小児のように夢中である。と言って、例によってブルース進行で気ままに遊んでいるだけだが。目を閉じ、指板上の指のポジションを表す抽象的な図を思い浮かべ、自ずと変位していくそのイメージの推移に従って左手を動かしていく。脳内の像をよく見つめて捉えながら、それに導かれ、一致するように弾くのだ。
- 夕食の品としてキャベツを千切りにして、そのほか豚肉でアスパラガスを巻いたものを焼いた。
- この日はせっかくの休日だったのに、だいぶ怠けて過ごしてしまったようだ。
- 九時頃に食事を取る。テレビ――何の番組だか知らないが、山奥でトラックに住んでいると言う男性が紹介されており、気温四度の寒さのなかでもまったく怯まず裸で川に入って水浴びをしたり歯磨きをしたりする姿が映し出される。夜になると毎日、猪や鹿などの獣を追い払うために、暗闇の彼方に向かって甲高い雄叫びを放つ習慣だと言う。
- 一一時からフィリップ・K・ディック/浅倉久志訳『高い城の男』を読み出し、ベッドに貼りついて安楽のうちに浸りつつ、午前三時前までほとんど四時間近くをぶっ続けで書見に過ごし、早くも読了した。まあそこそこといった感じだ。自分にとってはそれほど印象深い作品でもないが、主に終盤において登場人物のいくらかが示していたある種の諦念と言うか、人間がじたばた足搔いたところでなるようにしかならない、みたいな感覚には多少の親近感を覚えないでもない。『易経』という道教由来の占術が主要モチーフとして取り入れられており、人物たちは作中のあちこちで、自らの選択や事態の向かう先についてこの占い書に伺いを立てるのだが、作者であるディック自身もこの小説を書く途中で、『易経』に従ってストーリーの展開を決めたところがあると言う。
- (……)くんからメールが入った。今回の読書会はさすがに延期にした方が良さそうだね、と言う。彼の会社も完全に在宅勤務に移行しており、可能な限り家から出るなと命じられているらしい。
- 吉田徹×西山隆行×石神圭子×河村真実「「みんながマイノリティ」の時代に民主主義は可能か」(2019/10/23)(https://synodos.jp/international/22986)を読んだあと、三時半を越えてからようやく日記にいくらか取り組んだ。