2020/5/5, Tue.

 食糧券だけではない。印章を盗んだり偽造文書の作成、承認書や証明書の不正入手をするなどは、日常的な事柄になっていた。もともと救援活動は非合法の地下活動であるとはいっても、こうした行動を彼ら[ユダヤ人救援グループ《エミールおじさん》のメンバー]はどのように考えていたのか。中心メンバーたちの会話を引こう。

 私たちが仕事を終えてほっと息をつきながら部屋で座っているとき、ファービアン(フレッド・デンガー)がいう、「犯罪者だという意識なしに犯罪者であることができるなんて、奇妙なものだ。ぼくの良心は一点の曇りもないよ」―「ぼくもさ」とフランク(ヴァルター・ザイツ)が応じる。「ナチの連中を騙すのは騙すことのうちに入らないよ。ただね、守るべき一線は守らなくちゃいけない」―「一線だって?」―「そう、道徳にかなうか反するかの境にあるきわどい稜線だ。もしそこで足をすべらせてしまうと……」(中略)「ほんのわずかでも利己的なことを考えたら――ほんのわずかでも自分自身の利益を得ようものなら――、われわれはもはや反ナチのパイオニアではなくヤミ屋だよ」「ただ純粋な目的だけが、純粋でないやり方を気高いものにするのだ」
 (ルート・アンドレアス=フリードリヒ『影の男――一九三八年から一九四五年までの日記』(邦訳『ベルリン地下組織――反ナチ地下抵抗運動の記録』))

 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、64)



  • 八時を過ぎたあたりで覚醒した。雲が散ってはいるものの、総体的には晴れの日である。膝で脛を揉みほぐしながら床に留まったのち、二度寝に陥ることもなく九時前に起床した。睡眠という名の悪魔に対する貴重な勝利だ。
  • 階を上がっていくと母親が昨日はごめんねと言ってきたが、何がごめんねなのかよくわからないし、仮にこちらに謝る必要性を課せられた者がいるとしたら、それは明らかに母親ではなくて父親のほうである。煮込みうどんで食事を取った。煮込みうどんは美味い。おそらくこの世の料理のなかで最も美味いものだ。
  • 暑い。最高気温は二五度だとか言った。夏のものに近い空気感があり、大気に熱が織りこまれていて立っているだけでも肌が薄く湿ってくる。しかし、午後からは雨になるという話だ。
  • 自室に掃除機を掛けた。ついこのあいだ埃のやつを駆除してやったと思ったところが、もう床の上にわだかまり蔓延っているのだ。この世の物理法則は一体どうなっているのか?
  • 昨日の悶着についてメモを取るのが面倒臭いと言わざるを得ない。書くことがかなり多いのがわかりきっているからである。
  • 陽の光と雨と風とは、この世でもっとも完全な平等主義者である。
  • 臥所に仰向けに転がって書見し、シェイクスピア福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫、一九七一年)を読了した。解説は中村保男という人が担当している。この人はここに収められた解説文を読む限りでは、正直に言って、特に鋭い読み手ではないなという印象を受ける。例えば「特にシェイクスピア劇には、作品を分析し比較すればそこはかとなく消えてしまう何かが多分にある」(284)という一節などは、こちらとしては、単なる「偉大な天才」(284)及びその「作品」の曖昧な神秘化としか思えないし、このようなことを言うのだったらそもそも「解説」など書かず、何だかわからないけれどとにかくめちゃくちゃ素晴らしいので全人類が読んだ方が良い、という一言で終わらせれば済む話ではないか。第一、この人自身も一つ前の文で、「私たちはただその世界にひたりきればよいのである」(284)と明言している。ただ読み、ただ浸ればそれで良い、というわけなのだが、それならばやはり「解説」など大した必要性を持たないだろうし、あるいはそれを有効に機能させたいのなら、読者が「ただその世界にひたりき」るための手助けとなるようなものでなければならないはずだ。と言うか人間、文章を「ただ」読み、「ただその世界にひたりき」ることなど大方できないはずだから、どのように浸れば良いのかということを、例えば自分はこんな感じで浸りました、とか、こんな風に浸ってみたらどうでしょうか、という具合に例示して読者を導くようなことをした方が、この場合、「解説」として役立つものになるのではないか。ところがこの人は、上のようなことを言いながらも何故なのか、「両者の特質を浮彫りにするため」(284)に「これらの二つの「夢幻」劇の傑作を比較しようとする試み」(284)を企図しているのだ。そのくせこちらの見るところでは、実際には大して具体的な「比較」はしていない。
  • 最初に引いた一文、「特にシェイクスピア劇には、作品を分析し比較すればそこはかとなく消えてしまう何かが多分にある」(284)については、「分析」や「比較」によって「作品」のなかにある「何か」が「消えてしまう」という事態も、それがどのような出来事なのかこちらにはうまく理解できず、色々と考えてはみたのだが結局よくわからなかった。この文に直接続けて中村は、「それは単なる人工的なフィクションの世界ではなく、まさに真の想像力が生みだした有機的な創造世界なのである」(284)とも言っているので、そこから推測する限りでは多分、シェイクスピア作品は各部分が「有機的」に――つまり、緊密かつ複雑な相互関係を形成しながら――繋がってできているものなので、「分析」によって多数の部分に分割すると、その「有機的な創造世界」が破壊されてしまう、というようなことを考えているのではないかと思うのだが。ただ、このように理解したとしても、それがさらにどういう内実を表しているのかはこちらにはやはりよくわからない。こちら自身の体験からすると、「分析」が正しい形で成功すれば、「創造世界」の「有機」性が破壊されると言うよりも、むしろその仕組みや各部分の結びつきなどがより明瞭に見えてきて、つまり作品の「有機」性がより精密に理解できるように思うのだが。その点は疑問だ。さらについでに言っておけば、上の一節に含まれている「真の想像力」という言葉にも、こちらとしてはいかにも胡散臭い印象を受ける。「真の」想像力とは一体どのようなものなのだろうか?
  • 『夏の夜の夢』に関してはまず、この作品の「特長は、何と言っても、その素朴で大らかな幸福さ」(284)にあると中村は断言しており、父親に対する娘ハーミアの「反抗」(284)は、「世間によくある親と子の仲たがい、恋心と親心のふとした行き違いにすぎない」(285)と認定されているのだが、老イジアスが絶対的な家父長権に基づいて、例えば「娘は私のもの」(13)だとか、「わしのものは、わしの気に入った男にやる。で、娘はわしのもの、したがって、娘に関するわしの権利は、ことごとくデメトリアスに譲渡するのだ」(15)などと口にして娘を自分の所有物として扱っている以上、「素朴で大らかな幸福さ」に満たされた世界のなかに、少なくとも一点忍びこんでいる苛烈な政治権力的関係の臭いを嗅ぎ取っても良いような気はする。
  • 次に、「ここで注目すべきは、『夏の夜の夢』という一編の「お伽話」が超自然界と人間界とを一つの舞台の上でほとんど渾然と融合させていることである」(285)と言われているのにも、本当なのかな? という疑念を感じる。続く記述を追うと、それによって「超自然の世界が一時的にもせよ人間にとって身近なもの、親しみのもてるものとして描かれる」(285)ことになるので、「オーベロンとその妃との不和がいかにも人間くさく、ホームリーであるのも偶然ではない」(285)と判断されるのだが、「ホームリー」などという片仮名の言葉が使われるのは初めて目にしたものだ。それはともかくその次の文では、「そして、そこには宇宙的な調和の雰囲気が――ほとんど家庭的な調和の感じ――が全体としてかもしだされるのだ」(285~286)と述べられてこの段落の結語に至るわけだが、正直に言って、この人は何を言っているのかな? という印象を受ける。「宇宙的な調和」とは一体何なのだろう。「全体としてかもしだされる」とも言われているけれど、例えばどの部分のどの言葉がその「全体」的な「雰囲気」を「かもしだ」すのに貢献しているのだろうか。それともそれは、あくまで作品「全体」を受け止めることによってしか感じ取れないもので、分節によって部分的に捉えることはできないということなのだろうか。それにしたってこの人が作品を読んでいるあいだの具体的な時間のなかで、「宇宙的な調和の雰囲気」を強く感じ取った一瞬や、あるいはそれが段々と醸成されていった時の連なりというものがあったはずではないだろうか。
  • 『夏の夜の夢』の劇中で職人たちによって演じられる「ピラマスとシスビーの物語」(286)は中村によれば、「「間違いの悲劇」「偶然の悲劇」であり、人物の性格そのものや悪にその根源があるのではない」(286)らしく、「シェイクスピアが『夏の夜の夢』において見ていた現実世界の悲劇はそういうものであり、それを彼は、想像力という魔法の杖で妖精たちを呼び起すことによって、一挙に豊かで大らかで陽気な夏の夜の夢のようなたわむれに変えたのである」(286~287)と言うのだが、「想像力という魔法の杖」などという比喩を何の恥じらいや韜晦もなく堂々と用いているのにも、思わず倦怠のような感を得ずにはいられない。
  • 『あらし』については、「この劇には、たしかにそれまでのシェイクスピアのすべてが投げこまれて」(287)おり、「芸術的にもシェイクスピアはその全能力を傾注している」と絶賛されているのだが、この評価が正確な観察なのかどうか、こちらには実際よくわからない。正直、『あらし』に関しては全然大した印象を受けなかったし、福田恆存訳で読む限りでは言葉が何だか野暮ったいような感じすらしたのだが、その福田恆存自身も「解題」で、「『リア王』について、たとえ聊[いささ]かなりとも自分の感動を語り得た舌は、『あらし』に対しては殆ど用をなさない。一つにはその原文の詩の美しさが、他国語に翻訳し得る限界を遥かに越えているという事もある」(280)と言ってまさしく脱帽、お手上げの姿勢を示している。「原文の詩の美しさ」を出されてはこちらには到底わかり得ない領域のことだ。とは言え福田は続けて、「翻訳不能の原文の美しさを別にしても、『あらし』の様な作品について、吾々はどうしてその感動を語り得ようか。何かを語れば、作品そのものの、そしてそれから受けた感動そのものの純粋と清澄とを穢[けが]さずには済まされまい」(280)と最大級の讃嘆を送ってもいる。これは中村保男とも共通する「作品そのもの」の神秘化とも呼ぶべき身振りであり、言わば福田はここで表象不可能性神話の前に唯々諾々と膝を屈し、批評家としての無力ぶりを堂々と認めているのだが、そこまで大仰に感嘆するほどの「感動」を、こちらは『あらし』に対して味わうことはできなかった。だが、それは中村や福田の評価が的外れなのか、こちらの鑑賞眼や感性が至らないためなのか、それとも福田の訳文が「感動」を生ぜしめるほどの質に達していなかったということなのか、解は不明だ。
  • 「解説」に戻ると、『あらし』についての評言の途中で中村は『夏の夜の夢』に一時戻り、それは「文字どおり一場の夢」(287)だったと言いながらも、「むろん、それが何の意味もないたわむれであったと言うのではない」(287~288)と補足したあと、作品中に書きこまれているヒポリタの言葉の引用――「ゆうべの話……たんに夢幻とのみは言えない、何か大きな必然の力が、そこに支配しているようにも感ぜられるのですけれど」(107)――を通過して、「それは、早くも劇詩人として世に認められ、屈託なく自分の才能と人生とを折り合せつつあった若き幸福なシェイクスピアの見た「正夢」であったのだ」(288)とこの段落を締めくくっているのだが、ここでふたたびこちらは、この人は何を言っているのかな? と首をかしげなくてはならない。「正夢」とは一体何なのだろう? この最後の文はどういうことを述べているのか、全然よくわからない。
  • シェイクスピアの作風の推移については「解説」の終盤で、「四大悲劇で世界の暗黒面、否定面を見てしまったシェイクスピアは、もう二度と『夏の夜の夢』のあの幸福な調和の世界を描くことはできなかった。しかし、彼にはそのまま絶望のテーマに安住することもできなかった」(289)と整理されており、これはとてもわかりやすい道筋で、それに沿って考えると、「彼は再び安定した境地に戻らねばならぬ。それにはまず、自分と和解することが必要だ。こうして、かつて無垢の健康の時代に手を染めたあのロマン劇の形式が新しい光のもとに甦り、やがてその最大の傑作『あらし』が生れたのである」(289)ということになるらしい。そして、劇中でプロスペローがアロンゾーたちを「恨んでいた自分と和解」(289)したように、「劇作家シェイクスピア」(289)も、プロスペローを「魔術師=劇作家という形で舞台に押し出すことによって、人間シェイクスピアと和解した」(289~290)と言うのだが、こうした自分自身との「和解」という言葉が、具体的にどのような事態を意味するのかについては何の説明もない。
  • 面倒臭くなってきたのでもはやあげつらうことはやめにするが、最終部で結論のようにして、「シェイクスピアの無私の想像力」(290)は『あらし』において、「おそらく人類が到達しえた最も高いヴィジョンの一つをそこに実現することができたのである。シェイクスピアは最後において宇宙的世界と劇的世界との合一に成功したと言っても過言ではあるまい」(290)とまとめられているのは、さすがに、マジで? という感じだ。正直、風呂敷広げすぎじゃね? と思う。何しろ、「人類が到達しえた最も高いヴィジョンの一つ」である。それをこれよりも前に書き記されている言葉で言い換えれば、「遥かな理想と原始的自然との全体感覚、この世が、良いとか悪いとかいうようなものではなく、ただ在るように在るのだという大きな神秘感」(290)ということになるようなのだが、それが本当に、「人類が到達しえた最も高いヴィジョンの一つ」なのだろうか。
  • 早起きのために意識が濁らずにはいなかったので、昼寝をした。一時から三時二〇分まで。そうして上階へ行った頃には予報通り、空は薄白く平板に、なだらかに曇ってきており、まもなく雨も降り出した。腕を回して体操をしていると、仏間で書類の整理か何かしていた父親が、(……)、昨日はごめんねと声を掛けてきたが、その顔と身体をこちらに向けてはいなかった。こちらは一応殊勝ぶって、いやまあその……まあ偉そうなことを……言わせていただいて、と受け、まあでも、いい機会だったのかな、とか何とか適当なことを言っておいたが、その発言に対しても反応は何もなく、父親はずっと無言であちらを向いて胡座を搔き、顔を伏せながら作業を続けていた。人に対して謝罪をするならば、顔を合わせろとか目を合わせろとかいうことは言わないから、せめて身体くらいは相手に向けて、まっすぐ正面から向かい合って多少はそれらしい姿勢を見せるべきではないだろうか?
  • 椅子を運んできてその上に乗りつつ玄関上のダミーカメラの電池を替えたり、その周辺を雑巾で拭いたりしたのち、新聞の一面を読んだ。緊急事態期間を今月末まで延長するとのこと。安倍晋三首相は、本人の発言によれば、「断腸の思い」だと言う。
  • 帰室して今日のメモを取りつつ一服。外は雨降りだが激しくはなく、緩やかな、穏やかな感じ。窓を開けて網戸にしていたところ、風も吹くというほどでなく、涼気が弱くひそやかに入りこんできて結構快適である。
  • 夜、雨中の散歩。昨日の悶着のことを考えていて、周囲の事物は大して見聞きしなかった。雨はこの時間にはなかなか強く、傘の表面をばつばつと打ちつけて音を鳴らす。歩きはじめは涼しくてちょうど良いくらいの空気の感触だったが、歩いているうちにやはり暑くなって背中に汗の気も湧いてきた。
  • 帰宅すると兄夫婦から通話が掛かってきていた。(……)ちゃんが幼稚園の課題か何かで描いた絵について(……)さんに伝える。青い花の絵で、手本のものは色鉛筆で描かれた普通のイラストみたいな感じだったところ、(……)ちゃんはなぜか色鉛筆をどうしても使おうとせず、絵の具を持たせたらようやく描いてくれたらしいのだが、その絵がうまい具合に輪郭が柔らかく溶けて形が崩れた様相になっていて、偶然にもそれが結構悪くなかったのだ。(……)さんも、ね、ちょっと抽象画みたいなね、と言ったので、そうそうそう、と笑い返した。その後、とにかくお互いにウイルスに掛からずに乗り切れるように注意しましょうと言い残して風呂へ。
  • (……)
  • ベッドで休みつつ、シェイクスピア/大場建治訳『じゃじゃ馬馴らし』(岩波文庫、二〇〇八年)を読みだした。註が細かく、補注もふんだんに活用して冒頭の登場人物表の来歴からして解説しているし、その後も幕割り・場割り・ト書きなどについても懇切丁寧に説明を加えていて、これは煩雑と言えばその通りだけれど、明らかに目に見えて観察される形式面に対しても、なおざりにせずに心を砕いている姿勢自体はわりと好感が持てる。
  • 三時からふたたび日記。四月一五日分を一時間進める。また二段落程度で終わってしまう。
  • 四時から音楽。Bill Evans Trio, "Alice In Wonderland (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#3)。開幕一聴して、やはりベースの存在感がやたらと大きいように感じられた。フレーズや動きのみならずサウンドバランスそのものとして、音空間内での割合をもっとも占めていると言うか、膨張的で侵食的に聞こえたのだが、これはこちらの音響環境の設定によるものだろうか? ベースソロは、Evansがバッキングを停めてMotianとLaFaroのみになってから以降とりわけ流麗で、滑らかに生き生きと歌っており、生命感に満たされていて素晴らしい。先日に"All of You (take 2)"を聞いたとき、クラシックの室内楽めいたニュアンスを得た瞬間があったわけだが、一九六一年のBill Evans Trioにはもしかするとそのような色合い、あるいは側面がはらまれているのかもしれず、もしそうだとすればこの曲などはその色が一番よく表れているのではないだろうか。音の流線同士が均衡的に入れ替わりまた立ち替わり、触れ合い、接し、時には互いに絡みつきながら浮かび上がっては去っていく、と言うか。
  • 次に、Horace Silver, "Break City"(『Blowin' The Blues Away』: #3)。テンポが速く、テーマもスピーディーで、テーマ裏におけるリズム隊のキメの緊密さ、特にベースとドラムの固く締まった合致ぶりが素晴らしい。この曲のテンポはかなり速いほうだと思うのだが、それにもかかわらずベースとドラムは最初から最後までぴったり乱れず一致して見事な動感を刻みだしており、プロとしてはそれが当たり前なのかもしれないけれど、これは大したものだと思う。Junior Cook(ts)はこの曲では、息の長いフレーズも含みつつするするとよく回転するソロを披露していて、なかなか充実した演奏ぶりだ。Silverのバッキングは一曲目と同様に他人のソロの裏でもお構いなしと言うか、跳ね回り打ちこみまくっていて存在感はかなり強く、ピアノソロも言うまでもなく活力に満ち溢れている。そのなかで何箇所か、Silverの尋常の語法とはちょっと違うような、流れを少し変えるような音使いがあったように聞こえて、それがちょっと気になった。