2020/5/10, Sun.

 ではこのような経済構想を、彼らはどのようにヨーロッパに敷衍しようとしたのだろう。繰り返すが、ヒトラードイツが自給自足経済の名のもとに他国を侵略・迫害しホロコーストをつづける事態に、彼らは深い贖罪感をいだいていた。それは「自分たちの世代だけでは償いきれないほどのもの」(モルトケ)という自覚があった(一九四三年六月一四日の「戦争犯罪の処罰にかんする決議」はその強い意思を表している)。そこで彼らはこの償いをおこない、共通の価値であるキリスト教的西欧精神を取り戻すことで、ドイツがふたたびヨーロッパの一員となり、平和の再建にあずかることができる、と考える。その鍵は経済にあった。
 つまり今後の平和は、旧来の利害の対立を解消するような経済協力の体制、諸国家が「それぞれ生産力の安定した発展を保障する分業に参加する」体制となることによって、はじめて築かれていく。それは「経済的な平和秩序の前提」である。そうすることでヨーロッパも世界貿易に参加し、世界の平和の一翼をになう。こうして彼らは展望する。

 ヨーロッパ経済は伝統的な国民国家の制約から解放されねばならない。その基本原則は秩序のある業績競争である。それはヨーロッパ経済運営の指導部のもとでおこなわれる。指導部の課題には、さらに重工業の管理、カルテルの監視、その他、ヨーロッパの国単位の経済を有機的な統一体に導くような債券政策や運輸交通の政策などがある。
 今後の問題
 ①ヨーロッパ国内の統一通貨と関税制限の撤廃 ②ヨーロッパ通貨と世界の通貨の関連 ③ヨーロッパ経済圏の分業 ④ヨーロッパ経済と世界経済の関係 ⑤社会主義経済との関係
 (一九四三年六月一四日、第三回全体会議の結論「戦後外交政策の基礎」)

 右の構想は文字どおり将来に向けた展望である。彼らは、戦渦に巻き込まれたヨーロッパ全体が現実には破壊と窮乏の状態にあってさらに悪化すること、その再建が容易ではないことを討議し知っていた。その意味でも未来に向けたメッセージであった。彼らの大半は終戦を待たずに世を去った。その後自国が西ドイツと東ドイツに分断され、東西冷戦の最前線に立つことを知る由もなかった。
 だがそうしたドイツがやがて、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC、一九五一年)を経て欧州経済共同体(EEC、一九五七年)の一翼をにない、やがて欧州連合EU)の主要国となっていく。この長期的流れに照らしてみると、ドイツの再生と平和を願う《クライザウ・サークル》の人びとが密かに討議し纏めた考えに、その源流を認めてもけっして誇張ではない。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、192~194)



  • 一一時一五分に覚醒。昼前までぬくぬくと寝びたってはいるものの、四時五〇分の就床なので睡眠時間としては六時間二五分、したがってそう悪くはない。天気は曇り気味で白と水色が網状に交差している。
  • 夢を久しぶりに見たけれど、あまり細かくは覚えていない。Mさんのブログを読むとこちらに対する苦言が記されていたというのが一つである。具体的な内容は忘れたが、こちらが母親に対して何かよろしくない振舞いを取ったらしく、それに対して、Fくんよ、君がそうやっていつまでも「女から逃げているなら」どうのこうの、みたいな言葉があったのを記憶している。また、その女性忌避だか女性嫌悪だかの姿勢を表す象徴的な小道具として、「ユースキン」が出てきていた。あの黄色い塗り薬のことだが、つまり先の「女から逃げているなら」が、「ユースキンを使い続けるなら」という風に言い換えられてもいたということだ。ちなみに現実のこちらはもう何年間か、ユースキンは使っていない。
  • もう一つはさらに記憶が曖昧で、何か駅か空港、あるいはホテルのロビーか図書館みたいな、カウンターのある空間が舞台になっており、カウンターの向こうには職員がいた。おそらく女性で、多分二人ほどいたと思うが、その点も不明確だし、カウンターそのものの機能ももはや記憶にない。何かしら不穏な、不快な、あるいは不吉な、不安な、そういう種類の意味合いを持っていたような気がするのだが。で、同行人――この人も多分女性だったと思う――と一緒にそこからどこかに旅立つ流れがあり、ガラス扉をくぐって外に停まっているバスのほうに行こうとするのだが、しかし扉は閉まったままで開かず、通り抜けられない。どうするのかと思っていると、正面ではなくて横にあった別の扉に女性が向かっていき、それでそこが自動ドアのようにひらくことが判明したのだった。バスの前で荷物を積みこむか何かする際にまた一つストーリーの要素、もしくは印象の断片があった気がするけれど、それはもう忘れた。
  • 新聞。日曜なので書評欄がある。アニエスマルタン・リュガン『縫いながら、紡ぎながら』、君塚直隆『エリザベス女王』、ジャック・アタリ『食の歴史』、志村真幸『南方熊楠のロンドン』、角田光代訳『源氏物語』上・中・下、カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』、小川和久『フテンマ戦記』などの紹介。『彼女の体とその他の断片』がわりと面白そうで、タイトルだけ見ても結構良い。原題はHer Body and Other Partiesだ。
  • 国際面。アメリカ総局長中島健太郎による「マスクで浮かぶ差別の影」。この人が「知り合いの米国人に聞くと、マスクには「重病の人向けの医療用品」という固定観念があったと口をそろえる」らしく、「そもそも、米国の多くの州では理由なしに公共の場でマスクをつけること自体が違法だ。少なくとも18州に「反マスク法」と呼ばれる法律がある。その多くは覆面での白人至上主義団体の活動を制限するため、20世紀半ばに制定された」のだと言う。これは知らなかった事実で、ちょっと驚かされる。具体的には、「例えば、南部ジョージア州の法律は「マスクやフードなどで顔の一部を隠すこと」を禁じて」おり、一方で米国にはまた「犯罪者がマスクやバンダナなどで身元を隠す」という「固定観念」もあって、これに基づく人種差別はいまだに根強いとのことだ。「実際、イリノイ州のスーパーで3月、黒人男性が白人警察官にマスク着用をとがめられる出来事が発生した。「この警察官はマスクで感染を防ごうとしている俺たちを追い出そうとしているんだ」。一部始終がアップされた動画サイトの投稿は何十万回と再生され、全米で広く報道された」と言う。
  • その隣の七面には慶應義塾大学教授の松沢裕作という人(四三歳)のインタビューが載っていて、「江戸後期から明治時代前期に現れた抑圧、言い換えれば「生きづらさ」」及びそれと密接に関連した「通俗道徳」に触れながら現在の状況を考察しているようなのだが、これはまだ読んでいない。
  • 自室に帰ると過去の日記と他人のブログを読み、その後、昨晩寝床で考えたことをメモしたのだが、寝床時点で思い巡らせたことを越えて思考が派生していってしまい、これにやたらと時間が掛かった。
  • 五時になって上へ行ったものの、夕食の準備は母親がもう済ませてくれていた。アイロン掛けをこなし、戻ってくると今日のことをメモ。日記はこの日は四月二〇日を進めたが、完成までには至らず。
  • 夕食を取りつつ新聞。こちらがものを口に運んで咀嚼しながら文字を読んでいる一方で、父親はスマートフォン大河ドラマを見て感激し、涙を催していた。
  • 六面、【マスクで体育 3人死亡/中国紙 医療用「呼吸妨げ」警告】。「9日付の中国紙・北京青年報などによると、中国で4月、新型コロナウイルスの感染防止のため、マスクを着けて体育の授業に参加した中学生3人が相次ぎ死亡した」と言う。具体的には、「浙江省温州市で4月14日、マスクを着けて1500メートル走に参加した中3男子が倒れて死亡し」、「その後、河南省湖南省でも、体育の授業中にマスク姿で走っていた中3の生徒が死亡した。このうち2人は、医療現場で使う高性能マスク「N95」を着用していたという」。
  • プーチン氏「団結」を強調/対独戦勝75年 露各地で記念行事】。「ロシアの新型コロナウイルスの感染者数が20万人に迫る中、プーチン政権は旧ソ連の対ドイツ戦勝75年の9日、各地で記念行事を実施した。モスクワなど全国47都市では、ロシア軍機計約600機が記念飛行を披露した」。「プーチン大統領は9日、モスクワ中心部のクレムリン(大統領府)近くにある「無名戦士の墓」に献花したあと演説を行い、「我々が団結すれば、無敵だと確信している」と述べ」たと言い、ほか、「タス通信によると、モスクワでの記念飛行には、戦勝75年にちなみ75機が参加した。最新鋭ステルス戦闘機のスホイ57や、時速1万キロ・メートル超で飛ぶとされる極超音速ミサイル「キンジャル(短刀)」搭載の戦闘機ミグ31Kも飛行した」とのこと。
  • 七面は先述のように、松沢裕作氏のインタビュー。

 江戸後期から明治時代前期に現れた抑圧、言い換えれば「生きづらさ」について、私は「通俗道徳」という歴史学の用語を使って説明しています。人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないから、というような考え方です。
 身分制と引き換えに競争社会となった明治時代には、「恤救[じゅっきゅう]規則」という現在の生活保護制度と似た仕組みが存在しました。大日本帝国憲法の制定より15年前の1874年にできた法令です。ただ、「恤」は「あわれみ恵むこと」を意味し、相当な「上から目線」の法令で、現在の生活保護法と根本的に異なりました。
 救済対象は①障害者②70歳以上の高齢者③病人④13歳以下の児童――のいずれかで、さらに、働くことができず、極めて貧しく、独り身であるという厳しい条件を満たした人に限って、一定の食費を支給することとしていました。
 厳しい運用を問題視した政府は1890年、恤救規則に代わる法令として、市町村に貧困者を助ける義務を負わせる「窮民救助法案」を帝国議会に提出しました。ところが、選挙で選ばれた議員が集まった衆議院で法案は否決されます。議員の多くが「貧困に陥ったのは、働き、貯蓄するという努力を怠った結果だ」と考えたのです。当人が怠けた結果を税金で解決するのはおかしい、貧困は自己責任であり社会の責任ではない、との主張でした。
 江戸時代まで、社会は「通俗道徳のわな」にはまりきってはいませんでした。社会の基礎が個人ではなく、集団で成り立っていたからです。村請制では、村単位で納めていた年貢は農民が連帯責任を負ったため、足りない分を豊かな人が肩代わりして助け合いました。
 しかし、明治になって多くの人が勤勉や倹約を是とする通俗道徳を信じたことで、弱者が直面する貧困などの問題は全て当人のせいにされました。勤勉に働いていても病気になることもあれば、いくら倹約しても貯蓄するほどの収入が得られないこともあったにもかかわらずです。(……)

  • 夕食後、夜歩き。上半身は黒の肌着のみで、涼しい夜気が肌に気持ち良い。空は全面、雲の幕が張られて灰白に褪せ、三日くらい前には満月だった覚えがあるので月はまだそこそこ大きいはずだが所在は窺えない。十字路の自販機に至って見れば、業者が入って品物は補充されたようなのだが、それでも早くもいくつか売り切れのランプが灯っていた。やはりすぐそばの公営住宅の住民などがよく買いに来るのだろうか。「Welch's」を購入し、それからどちらに進むか迷ったものの、今日は短めの道を取るかということで、西には進まず北方面の、最寄り駅前に上がる坂道に入った。シャガの花が道脇に群れている。こちらの歩速は相当に遅い方で、よほどゆっくりのろのろと、まるで病を抱えた老人にも近いほどの緩慢さで歩いていると自覚しているが、そんな調子でも身体が温もって肌が不可避的に汗を帯びてくるので、足を動かすとやはり血液が全身によく巡るのだろうか。
  • 最寄り駅前を北に渡ったところにあるピンク色の躑躅が満開だったのだが、間近で見てみるとくしゃくしゃとしぼんで絶えようとしている花もいくつかある。それでも花叢の全体としては盛りと見えるわけだ。つまり少なくとも躑躅の花において栄華の様相のうちには既に滅びがはらまれているということで、これは我々人間も生きながら常に死につつあるのだ、細胞レベルで考えると恒常的に生滅が繰り返されており、三か月もすれば我々は生物組織としてはまるで別の存在に生まれ変わっているのだ、みたいな話と大体同じことで大して面白くはないけれど、一応一般的な図式的想像力にしたがって、盛りに向かう指向性を仮に上昇と捉え、しぼんで枯れていく動きを下降と考えるとすれば、躑躅の花という一個の組織体のなかには上昇と下降という対立的な運動の働きが部分的かつ分離的に、すなわち真っ向から衝突して葛藤することなく平行的に共存しているということになる。だから何なの? ということはそれ以上特にないのだが。
  • タクシー事務所の前の自販機に寄って品を見分し、「余市の白ぶどう すっきりみずみずしい」というポッカサッポロフードの製品をはじめて買ってみた。「ぶどうの名産地・北海道余市町で育つ希少な白ぶどう「ナイアガラ」。芳醇な香りと強い甘みで知られるナイアガラの果汁で仕上げた、すっきりみずみずしいニアウォーターです。」とのこと。「ニアウォーター」なんていう言葉ははじめて知った。余市というのはいまや文部科学副大臣などを務めた義家弘介の出身校がある土地で、その余市高校だか何だかは、素行不良やら何やらで通常の学校制度には馴染めないような、いわゆる「落ちこぼれ」と見なされるような若者たちを全国から受け入れて教育するという学校だったはずだ。義家弘介はこの高校を出たのち教師になって母校で働いたのだが、その話をもとにして『ヤンキー母校に帰る』というテレビドラマが制作されたもので、これはこちらも昔見たことがある。主人公役は竹野内豊が演じており、いわゆる「落ちこぼれ」のそれぞれ色々と癖のある生徒たちを前にしながら教壇だか机だかを蹴り、「てめえらァ!」みたいな感じで息巻きつつ説教かましていたのを覚えている。ちなみにこのドラマの主題歌が当時の自分はそこそこ好きだったような気がしてメロディも一部思い出せるが、これは奥田美和子"青空の果て"(https://www.youtube.com/watch?v=1BK2qDgXOcY)である。
  • 自販機の品を見分して買っているあいだ、背後を男性が一人通り過ぎていったのだが、この人も散歩もしくはウォーキングだろう。こちらはその後、通りを渡って帰路に向かったが、対岸ではその男性も別の自販機で飲み物を買って、その場に立ち止まったまま開けて飲んでいた。木の間の下り坂に折れて緑蓋の下に入っていくと、草木の向こうの上方からきゃんきゃん叫ぶ犬の声が響いてくる。たぶん(……)さんの家で飼っているのだと思うが、もしかするとこちらの足音を聞きつけたかにおいを嗅ぎつけたかしたのかもしれない。樹々や下草に囲まれた坂道は初夏を迎えて植物たちがぐっと生長したようで、ほかにもおそらく空気中にこまかな虫が多くなったりもしているのだろうか、何となく狭くなったと言うか圧迫感めいたものが感じられないでもなかった。蜘蛛の糸か何かが顔に触れてくるのを払いながら下りて帰る。
  • 青山真治「蓮實先生と私」(2014/10/1)(http://www.webchikuma.jp/articles/-/830)を読む。「先生には今後もジョン・フォード論を初めとしてやってもらうべき仕事が山積している。何より拙作におけるとよた真帆の存在に言葉を費やしてもらわなければならないと考えるのは弟子の鈍感さゆえか。三十年前同級生という名目で御子息の誕生パーティに招かれたその女が偶々妻であるために現在多少なりと銀幕に彩りを与える様を評価していただきたいなどと考えるのも愚鈍な弟子の勝手な甘えに過ぎないか」とあり、それでとよた真帆青山真治が結婚していたという事実をはじめて知った。ついでに言っておけばこちらは映画という文化物を観る習慣がまったくない人間なので、青山真治作品も黒沢清作品もただの一つも、おそらくワンシーンすら観たことがないし、それどころかいままで生きてきて映画館という施設に足を運んだのはたぶん一五回未満だと思う。それはやはりまあよろしくはないことだろう。それどころか、反省するべきことだと言ったほうが良いのかもしれない。
  • 入江哲朗「「ド」と「フォン」、あるいは高貴な「私生児」と偽伯爵」(2018/12/14)(http://www.webchikuma.jp/articles/-/1579)も読む。田中純「義兄弟の肖像──『帝国の陰謀』とその周辺をめぐって」の一節が紹介されている(この論文は、工藤庸子編『論集 蓮實重彥』(羽鳥書店、2016年)の四六頁から五六頁に収録されているらしい)。

「凡庸さ」をめぐる同様のシニカルなリアリズムに貫かれた『凡庸な芸術家の肖像』よりも、『帝国の陰謀』にいっそうの愛着を覚えてしまうのは、それが見事な「軽さ」を備えているからだろうか[…]。デュ・カン論や『「ボヴァリー夫人」論』を前にしたとき、その論述自体の「テクスト的現実」と四つに取り組むことの困難を否応なく感じさせられてしまうのに比べ、『帝国の陰謀』は「政治を非深刻化する政治性」という、それ自体は権力に関わる巨大な問題を、あっさりと、しかし、明快このうえない論理で、現在にまでつながる時代の「現実」として了解させる。これは『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』と対にして読まれるべき[…]「政治」論の書なのである。

  • ほか、「蓮實は、1999年に刊行された山内昌之との対談集『20世紀との訣別』において、本書を著した動機を「人々がこれだけポストモダンポストモダンと騒いでいるのに、ポストモダンの最初の典型みたいなモルニー公のことを誰もやらないのは変だ、そうしたら先にやっておこう、ということ」なのだと説明している」という証言もわりと興味深い。あとはシュトロハイムについての歴史的事実。

 (……)加えて見逃しがたいのは、オーストリアの某伯爵家の息子と自らを称していたシュトロハイムが、実際には、ウィーンの中流階級に属するユダヤ人として婦人帽子店を営んでいたベンノ・シュトロハイムが妻ヨハンナとのあいだにもうけた子であったという事実である。すなわち、大西洋を渡るべく1909年にブレーメンから蒸気船に乗った24歳の移民エリッヒ・オスヴァルト・シュトロハイムは、米国の土を踏むころにはエリッヒ・フォン・シュトロハイム(Erich von Stroheim)へ変貌しており、蓮實の言う「旧制度いらいの出身と血統の正当性の保証を模倣しつつ漂わせている貴族的な雰囲気」を前置詞「フォン」の挿入によって呆気なく我が物としたわけである(Koszarski, Richard. Von: The Life and Films of Erich von Stroheim. New York: Limelight Editions, 2001. を参照のこと)。

 

 ヴラド3世は、オスマン帝国への貢納[4]が1万ドゥカートに引き上げられたのを機に拒否する。オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドは使者を生きたまま串刺し刑にする。これについてヴラド3世は、無礼があったためと釈明した。その後、メフメト2世は大軍を率いてワラキアに何度か侵攻したが、兵力に劣るヴラド3世はゲリラ戦と焦土作戦でもって激しく抵抗し、その都度撃退する。
 1462年のトゥルゴヴィシュテの戦いでヴラド3世は、メフメト2世の首を標的とした夜襲をワラキアの首都トゥルゴヴィシュテ城外に敢行してオスマン帝国軍とその先兵であるブルガリア兵を2万人を串刺しにして殺害したという[5]。しかし、イェニチェリの激しい抵抗にあってメフメト2世を殺すことはできなかった。その後、入城したメフメト2世を待っていたのは、ヴラド3世による大量のオスマン帝国兵の串刺しの林であり、それを見て戦意を失ったメフメト2世は、陣中に疫病が発生したこともあってワラキアから撤退した。
 [4]: オスマン帝国が属国などに課す税金。伝統的にイスラム世界では人頭税(ジズヤ)と土地税(ハラージュ)が存在する。このうち、人頭税コンスタンティノポリス総主教庁がミレット(宗教共同体)を代表して貢納しており、ワラキアなどに課せられたのは土地税であった。また、子供を差し出すという内容はオスマン帝国のデヴシルメ制による徴兵であると考えられる。メフメト2世の時代は拡大戦争の最中で、兵士と軍資金調達が急がれたが故の要求と言える。
 [5]: 「改訂版 世界の民族地図」p117 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行

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 日本語においては「串刺し公」を意味する「ツェペシュ」を音訳で用い、ヴラド・ツェペシュと呼ばれることが多い。存命時はむしろ「ツェペシュ」よりも「ドラキュラ」というニックネームの方が多く用いられたのではないかといわれる。本人筆と思われるサインにも「ヴラド・ドラキュラ」(正確にはラテン語表記でWladislaus Drakulya、ヴラディスラウス・ドラクリヤ)と書かれたものが存在するため、ドラキュラというニックネームは本人も好んで使用していたと推測されている。

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 (……)串刺し刑はこの時代のキリスト教国、イスラム教国のいずれにおいても珍しいものではなかったが、あくまで重罪を犯した農民に限られた。しかしヴラドの特殊性は、反逆者はたとえ貴族であっても串刺しに処したところにある。通常、貴族の処刑は斬首によって行われるが、あえて串刺しという最も卑しい刑罰を課すことで、君主の権威の絶対性を表そうとしたと考えられている。
 ヴラドを串刺し公と最初に呼んだのは、1460年ごろヴラドの串刺しを目の当たりにしたオスマン帝国の兵士であり、トルコ語で「カズィクル・ベイ」(カズィクルは串刺し、ベイは君主)という。このカズィクル・ベイのルーマニア語訳がツェペシュである。(……)

  • ほか、「ドラキュラとは、ドラゴンの息子、つまり小竜公とでもいうような意味である。父ヴラド2世がドラクル(Dracul=ドラゴン公)と呼ばれたことに由来する。現地の言葉で"a"を語尾に付加することで「〜に属する」または「〜の子」という意味を持ち、単純にドラクル公の息子ゆえにドラクレア(Drăculea 英語:Dracula=ドラキュラ)公と呼ばれた」。「また次のような伝承もある。オスマン帝国からの使者がヴラドに謁見する際、帽子を被ったままであった。なぜ帽子を取らないのかと問うと、トルコの流儀であると応えた。ヴラドはならばその流儀を徹底させてやると言い、帽子ごと使者の頭に釘を打ち付けたという」。「英語などで吸血鬼を意味するヴァンパイア (vampire) はスラヴ語の「ヴァンピール」 (вампир / vampir) が基になっており、中欧からバルカン半島にかけて、セルビア人などのスラヴ系民族の間で言い伝えられたと考えられている。ルーマニア人はスラヴ系ではないため、トランシルヴァニア地方が吸血鬼の発祥地とされることもあるが、それはあくまで創作によるものとする説もある」など。大窪晶与という漫画家がこの人物を『ヴラド・ドラクラ』として作品化しているらしい。参考文献には、清水正晴『ドラキュラ公 ヴラド・ツェペシュ』(現代書館、1997年)が挙がっている。


・作文
 13:06 - 14:25 = 1時間19分(9日)
 14:31 - 14:45 = 14分(9日)
 15:00 - 15:44 = 44分(9日)
 17:17 - 17:42 = 25分(10日)
 17:42 - 19:35 = 1時間53分(20日
 27:34 - 28:27 = 53分(20日
 計: 5時間28分

・読書
 12:09 - 13:06 = 57分(日記 / ブログ)
 15:52 - 17:03 = 1時間11分(カフカ: 78 - 105)
 19:36 - 20:03 = 27分(カフカ: 105 - 122)
 21:39 - 22:08 = 29分(青山 / 入江)
 22:51 - 23:26 = 35分(ヒリス・ミラー、書抜き)
 23:28 - 24:22 = 54分(ブログ / Wikipedia
 26:26 - 27:25 = 59分(カフカ: 15 - 46)
 計: 5時間32分

・音楽

  • cero『Obscure Ride』