2020/5/25, Mon.

 (……)グレーゴルの変身行為は、作者カフカの断罪を受けて、毒虫という奇怪で醜悪な唾棄すべき姿を晒すことになった。しかしこの否定は主人公の姿態だけに留まらない。事態はもっと深刻である。グレーゴルという主人公、つまり主語となるべき人物が常に否定を内包している以上、その主語に連なる文章も、絶えず否定的な色彩を帯びてしまう。グレーゴルの行動、それどころか彼の存在そのものが、周囲の人間に不快感や恐怖を与え、否定的な感情を懐かせる。また彼の行動は、その真意が伝わらず曲解され、ことごとく否定を浴びせられる。否定の連綿たる羅列が『変身』の冒頭文から主人公の死まで続くことになる。(……)
 (高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』鳥影社、二〇〇三年、159)



  • 七時間四〇分の滞在で一一時四六分離床なので、それほど悪くない。
  • 母親が弁当に使ったカツの余りと納豆で米を食う。新聞は中国や北岡伸一イスラエルについての記事と、思潮のページ。
  • 五月二三日の記憶を記録。記しているうちに中学時代のことを次々と思い出してしまい、思い出したからにはまあ記述しておくかというわけでやたら時間を費やしてしまった。BGMはそのなかにも名が出てきたAerosmith『Honkin' On Bobo』。
  • その後、やはり記事中で言及したVan Halenのベスト盤をYouTubeで探して流してみた(「Van Halen- Best Of, Volume 1」: https://www.youtube.com/playlist?list=PLzw8D_7QpH2wdxwTDc97UpE__z0PnQgMf)。ストレッチをしながら冒頭の"Eruption"を聞けば何だかんだ言ってもやっぱり凄えなあとは思うもので、まずEddie Van Halenのギターはディストーションの質感がたいへん綺麗で粒立ちがきめ細かく、エレキギターディストーションサウンドの一つの理想形をおおよそ具現していると言ってしまっても良いのではないか。"Eruption"に続く"Ain't Talkin' 'Bout Love"のフランジャーだか何だか掛かっているリフを聞いてみても、充分なトレブリーさを帯びながらも甲高く尖りすぎて細ることがなく、芯が太くてなめらかでありながら同時にとても歯切れが良い。"Eruption"のフレーズ面について言えば、音列は速くてたぶん実際の譜割り以上にスピーディーに聞こえるような勢いのこもった弾き方になっていると思うし、必殺技のライトハンドによる高速のコード奏法も改めて聞けばやはりすぐれて美麗でよくできている。ライトハンドはEddie Van Halen以前にも誰かがやっていたとかいう話もあるみたいだけれど、そうだとしてもそれをここまでの技術に高めてたしかな形として整えたのはEddie Van Halenが最初であるはずなので、その点でやはり彼はロックギター史における一つの革命的画期を担っていると言うべきだろう。当時のギター小僧たちがこの音源を聞いて、強い衝撃を与えられながら完全にぶっ飛んだであろうことは容易に想像できる。
  • 一二時半頃から五時までほとんどぶっ通しで日記。二三日のことを記録したあと五月二日も記述し、五時で中断して夕食の準備へ。帰ってきた母親はソファで力なげに休んでおり、ハンバーグを焼けば良いと言う。「マルシン」というメーカーの、五種のチーズが入っているとかいう廉価なハンバーグが三つあったのだ。パッケージはいかにも安っぽい感じの黄色いもので、たしか「みみちゃん」とかいう名前が付されていたと思うが、看板キャラクターらしき女児の顔がいくらか抽象化されたシンプルな絵で描かれていた。それを一つのフライパンで焼き、他方ジャガイモも焼くことにして四個取って皮を剝き、薄くスライスして少々茹でたあと、もう一つのフライパンでローズマリーを添えてソテーする。調理の合間はストレッチ。こちらが料理をしているあいだ、母親は仕事で大層疲れたようで、首を横に傾けてソファの背にもたせかけながらまどろんでいた。仕上がると洗濯物を畳んで、まだ六時にもなっていなかったけれどもう食事。ハンバーグはむろん廉価な味ではあるものの、そこそこ美味かった。これは母親の思い出の食べ物、というほどでもないだろうが、昔、と言うのはおそらく子供時代に、祖母が買ってきて焼いてくれた品だったと言う。ほかに前日余った大根の味噌汁やサラダを食べ、夕刊を読みつつ母親の職場の話を聞く。例の「クソガキ」のことである。とにかく暴力的で、職員が一人、その人は何かしら資格も持っているとかでけっこう色々な子供に慣れているはずなのだが、その子が手に負えないと言って仕事を休んだらしい。小学校三年生と言うからまだせいぜい九歳だ。一〇歳にもならないくらいなら、ADHDだの何だの新しめの概念を持ち出さなくとも、乱暴な子供は昔もいただろうし今も普通にいるだろう。三年間くらいは寛容に見守るのが良いのではないかと言っておき、ただあまりに振舞いが度を越すようだったら最低限のラインは決めたら、とも付け加えておいた。と言って女性には大変だろうから、男性の職員に注意してもらうとか、相手の暴力を受け止めてやりながらそんな攻撃全然効かないぜみたいな姿勢を示してもらって肉体的優位性を理解させるのはどうかと。実際、今日だか先日だかは、中国系のハーフだという体格の大きな若い男性が入っていて、するとその子もちょっとおとなしくしていたらしい。
  • 夕食後にまた日記に取り組み、七時半で五月二日を完成させたあと、インターネットをちょっとうろつきながら青空文庫にある太宰治の諸篇を「あとで読む」ノートに写しておいた。それから運動。scope、ceroMaroon 5、SIRUPなどを流して歌いつつひたすら柔軟に励む。腰ひねりがとにかく効く。やばい。全人類がやったほうが良い。要は上半身全体でまとめて後方に振り向くような姿勢を取って静止し、腰周りの筋を伸ばすだけのことなのだが、これはやばい。あとはベッドの上で合蹠をやったり前屈をやったりと色々やったが、すると驚くほどにからだが軽くしなやかに、感覚がなめらかになった。そう言えば夕食前にかなり久しぶりに体重を測ったところ、六一. 二キロまで落ちていた。前に測ったときには六七キロあったはずなので相当に落ちたのだが、やはり歩くようになったことと、柔軟とは言え多少からだを動かしていることが大きいのだろう。ストレッチに熱中しすぎてあっという間に一時間が経っていた。
  • Mさんのブログ、二〇二〇年三月二一日。柄谷行人『探究Ⅱ』より。

 たとえば、パスカルは、「なぜ私はここにいて、あそこにいないのか」といった。たぶんパスカルが強調したかったのは、現実的なものの偶然性である。しかし、現実性はもともとそのような偶然性と切り離しえないのだ。「ここにいる」という現実性は、あそこ(ここより他の場所)にいるかもしれないという可能性のなかではじめて在る。
 (……)
 彼[クリプキ]のいう「現実世界」は、経験的世界のみが現実的で、あとは想像的であるというような意味で考えられているのではない。その逆に、現実世界または現実性こそが諸可能世界または諸可能性の中において考えられているのだ。「可能世界」が現実世界から考えられるということは、実は「現実世界」がすでに可能世界から考えられているということと同じである。固有名を確定記述に置き換えると可能世界で背理が生じるということは、固有名がすでに可能世界をはらむ現実性にかかわるということを意味するのである。
 たとえば、夏目漱石という「これ」は、「他ならぬこれ」である。つまり、他である可能性のなかで「他ならぬこれ」として固定されている。したがって、それが可能世界においても固定されるというのは当然である。「『猫』を書いた作家」というような確定記述(単称名)はそうではない。それらの差異は、たとえば、可能世界において、「漱石は小説を書かなかった」というのと、「『猫』を書いた作家は小説を書かなかった」というのとの差異として顕在化する。つまり、現実性をラッセルのように経験的なものとみなす考えは、可能世界をもってくると背理に陥るのである。
 クリプキが可能世界意味論を導入したとき、実は、ラッセルの「これ」が、固有名と異なること、つまり固有名が「他ならぬこれ」に関係するのだということを背理法によって明らかにしたのだといってよい。固有名がどの可能世界にも指示固定的であるということは、逆にこういうべきである。あるものが固有名で名指されるとき、それは他=多なる可能性において、多=他ならぬ一者として指示されるのだということである。

 疎外の操作によって、ひとは象徴界に参入するとともに、享楽を喪失する。この議論は、セミネール第七巻『精神分析の倫理』において、象徴界に参入した主体にとって〈物〉や享楽が接近不可能になったことに相当する。シニフィアンと享楽は二律背反的であり、シニフィアンの領野に居つづけるかぎり、主体は享楽に到達できないが、仮に享楽に到達したとすれば、その到達は主体の死滅を意味する、というわけだ。
 しかし、話はそれだけでは終わらない。セミネール『精神分析の四基本概念』のなかでラカンが「分離」と呼ぶ第二の操作では、失った享楽を別の仕方の享楽(対象aの享楽)として回復することが試みられる。言い換えれば、「疎外と分離」の理論の導入は、セミネール『精神分析の倫理』のようにシニフィアンと享楽を二律背反的なものとして捉えることをやめ、むしろシニフィアンと享楽の緊密な結びつきを考えることを可能にする、大きなパラダイムの転換点なのである(Miller, 1999b)。
 分離においてシニフィアンと享楽が結びつくロジックを追っていこう。シニフィアンによる疎外をこうむった子供は、自由をもたない主体(…)となる。なぜなら、象徴界のなかでの主体のありようを決定するものが大他者(既存の言語)に由来するシニフィアンの連鎖(S1→S2)である以上、子供がそこに何か別のものを付け加えることは不可能だからである。これは現実の水準では、子供が「排泄しなさい」「眠りなさい」といった大他者(=母)が発する要求に従うだけの不自由な存在となってしまうことを意味する。
 しかし、子供には、このような要求にあふれた息苦しい世界から脱出する道がひとつ存在する。「存在の生き生きした部分」すなわち享楽を喪失した子供は、ひとつの欠如を抱え込んでいるが、それと同じように、子供を疎外している大他者(=母)の側にもひとつの欠如があるということを子供が発見することが、子供を大他者の要求の鎖から解放する契機となるのである。
 (……ラカンの引用は省略……)
 大他者(=母)が発する要求を聞き取った子供は、その要求の意味を理解するだろう。しかし、そこで一つの問いが浮上する。要求を通じて、大他者は私に何を欲望しているのだろうか? という問いである。この問いは、子供にとって答えようがないばかりか、大他者にとっても答えようがないものである。なぜならば、既に確認しておいたように、大他者が一貫的なものであることを保証する〈父の名〉のシニフィアンはあらゆる主体にとって欠如しており、大他者の領野にある要求のシニフィアンをメタレベルから基礎づけるシニフィアンはどこにもないからである(…)。ラカンが六〇年代に導入した大他者における欠如のシニフィアン(…)は、この欠如を指し示すものにほかならない。
 子供は、この大他者における欠如に対して、自分が先に失った欠如である「存在の生き生きした部分」(…)をもって答える。この二つの欠如を重ね合わせる操作が、分離と呼ばれる(S11, 199/294頁; E844)。こうして、疎外によって失われた「存在の生き生きした部分」、すなわち享楽が、大他者(=シニフィアンの体系)における欠如に重ね合わされる。そして、この重ね合わされた欠如の点に、抽出された対象aが到来する。つまり、対象aとは、大他者における欠如(…)を埋め合わせてくれる対象であるとともに、主体が原初的に喪失した「存在の生き生きとした部分」を部分的に代理し、主体に別種の満足を獲得させてくれる対象でもあるのだ(S11, 180/264頁)。
 (……)分離の操作によって獲得される享楽は、むしろフロイトが部分欲動と呼んだものに相当する、部分的な享楽である。この部分的な享楽は、身体の全体から享楽をかすめとり、それを身体の一部分(器官)に凝縮したものである(AE368-9)。実際ここでラカンは、欲動は生殖という究極的な目標 goal に達することなしに、口唇や肛門のような部分的器官の周囲を経巡ることによって目的 aim を達してしまうというフロイトの説を援用している(S11, 163-4/238頁)。この享楽は〈物〉そのものを目指すのではなく、〈物〉の断片としての「対象の周りを経巡る」(E849)ものなのである。このような享楽は、後にラカンによって「ファルス享楽 jouissance phallique」ないし「器官の享楽 jouissance de l’organe」(S20, 13)と呼ばれることになるだろう。

  • 一〇時頃入浴。ここでも入湯前にストレッチをやりまくる。柔軟を習慣化すると自分の身体の凝りかたまりが明確に見えてくると言うか、ある場所をほぐせばその次にまだほぐれておらず固まっている場所はどこかというのが自動的にわかるようになる。そうして肉体が全体的にほぐれた状態を一度たしかに知ると、そのあまりの軽さを求めてむしろやらずにはいられなくなる。ヨガに耽る人の気持ちがわかるような気がする。
  • 風呂を挟んでふたたびMさんのブログ。二〇二〇年三月二二日から柄谷行人『探究Ⅱ』。

 ライプニッツが区別するのは、分析的命題と綜合的命題ではなくて、必然的真理と偶然的真理である。それは、ライプニッツが主語を固有名で指示されるような個体的実体としてみなしているからであり、そのかぎりにおいてである。その場合にのみ、可能世界が導入される。必然的真理とは、すべての可能世界で妥当する真理であり、偶然的真理とは、この世界でのみ妥当する真理である。
 ライプニッツのいうモナドが、「シーザー」のような個体であること、現実的な(可能性に対する意味で)個体であることに注意すべきだろう。当然ながら、彼の考えでは、現実的なものは偶然的なのである。なぜなら、シーザーがルビコン河を渡らなかった可能性がある(可能世界がある)からだ。現実的なものはすべての可能世界から見られねばならない。その場合、ライプニッツは神がすべての可能世界からあるものを選択するのだと考える。神の選択は自由であるが、「最善選択の原則」によってなされると、彼は主張するのである。
 こうした議論は、主語をあくまで固有名で指示されるような個体とみなすがゆえに生じる。固有名を取った個体的実体なるものは、「他ならぬこれ」という意味をもたない。それはたんに文法的(命題的)に考えられるような主語でしかない。「述語は主語にふくまれる」という考えは、アリストテレスやアクィナスにおいてある。しかし、ライプニッツはたんに彼らの見解を受け継いでいるのではない。たとえば、それは彼の創始した微分法と関係する。モナドはたんなる静的な点ではなくて、無限小としての点であり、いわば力と方向をはらむ生成する質的な点である。つまり、この微分=差異化(ディファレンシエート)された一点は、そのなかに連続性としての生成や運動を「表出」する。逆にいえば、微分法は彼のモナドジーの所産である。モナド微分=差異化された一点であるということは、それがそれぞれ他と違った個体だということである。それは固有名で呼ばれる個体が単独であるのと同じ意味においてである。しかも、それぞれ異なるモナドは、微分法と同じく、同一の世界を「表出」しているとみなされうるのである。

  • Wikipediaの「ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク」を読む。母親はサロンをひらいて知識人を招き、伯父は美術評論家スタンダールやメリメと交流があったと言う。ヴィオレ・ル・デュク自身が後年古建築の修復を始めるに当たってもメリメの推薦があったらしく、「1840年からのラ・マドレーヌ教会堂の修復を手始めに、パリのサント・シャペル、ノートルダムアミアンルーアンの大聖堂など多くのロマネスクやゴシックの教会堂、城館の修復、復興に携わった」。若い頃は「フランスの正統的な建築教育機関エコール・デ・ボザールを「建築家を鋳型にはめ込むもの」と批判し、入学を拒否」し、のちの「1863年にはボザールの教授になるも学生や教授らとの意見の対立により辞任」している。
  • 「ヴェズレーのラ・マドレーヌ教会堂」という建物が「ヴィオレ・ル・デュクが最初に修復を行った建築」だとのこと。先述のように、「歴史的記念物総監であったメリメからの依頼で修復が始ま」ったと言う。
  • 昨年の四月に火災に襲われたパリのノートル・ダム大聖堂も彼が手掛けた建築の一つだが、かの聖堂は「18世紀には、流行を気取った悪質な改築やフランス革命による激動を経て、廃墟と化して」いたのだと言う。一八四五年から修復が始まるものの、「当時のカトリック教会は、大聖堂を歴史的記念物として復元するだけでなくより美しく飾り立てることで教会の復興を示したいと要求していた。この声を背景に、ヴィオレ・ル・デュクは、失われていた尖塔の復元を決定する。彼は、残っていた尖塔のデッサンを発展させて、以前よりも10メートルほど尖塔を高くし、また尖塔基部の周囲に福音史家と十二使徒の彫像を付加したのである。これは大幅な現状変更であり、また彫像のモデルがヴィオレ・ル・デュク自身や工事に携わったスタッフたちなどであったことが、その後大々的に批判を浴びた」という次第だ。二〇一九年四月一五日の火災では屋根の尖塔が崩落・消失したという話だが、たぶんそれがこのヴィオレ・ル・デュクが復元したものなのではないか?
  • 最近の新聞記事を写すのを忘れていた。まず五月二二日金曜日朝刊。一面には【黒川検事長が辞表/法務省 賭けマージャン訓告】。「東京高検の黒川弘務・検事長(63)は21日、新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言期間中に賭けマージャンをしたことを認め、辞表を提出した」。「後任には名古屋高検の林真琴・検事長(62)が浮上している」と言う。「森氏[法相]によると、法務省の調査に対し、黒川氏は5月1、13日に報道機関の関係者3人と金銭を賭けてマージャンを行っていたと認めた。21日発売の「週刊文春」は、黒川氏が1日夜と13日、産経新聞記者2人と朝日新聞社員の元記者とともに、産経記者の自宅マンションで「賭けマージャン」に興じたと報じていた」らしい。
  • 先に夕刊一面からこの件の続報に触れておきたいが、【黒川氏後任 林氏が軸/辞職承認 法相 改めて陳謝】によれば、「黒川氏は産経新聞記者2人と朝日新聞社員の元記者との間で、約3年前から月に1、2回、賭けマージャンをするようになったという。レートは1000点100円で、川原隆司刑事局長は「社会の実情からみて必ずしも高額とは言えない」との見解を示した」。「賭けマージャン」のシステムをよく知らないが、一〇〇〇点一〇〇円ということは、普通に計算すれば仮に三〇〇〇〇点分勝ったとしても三〇〇〇円しか得られないはずで、さいふうめい・原案/星野泰視・漫画『哲也―雀聖と呼ばれた男』を読んだ記憶によればほかにサシウマとか何だとかよくわからんルールもあって、それで実際にはもう少し高くなるのかもしれないけれど、いずれにせよ端金である。黒川氏が「賭けマージャン」をやっていようがいまいがそんなことはどうでも良いのだが、法を司るはずの検事が法を違えていたという事実、またそれが緊急事態宣言期間中だったという事の性質上、バレれば致命的なダメージを受けるということは容易に予測がついたはずで、それにもかかわらずこの程度の小額の遊びを敢行したというのはどういうことなのだろう? と不思議に思わずにはいられない。何だか変な話だ。
  • 朝刊に戻って七面、【別の慰安婦団体でも告発/韓国 「寄付金 運営法人が蓄財」】。「韓国ソウル郊外で元慰安婦が共同生活を送る民間施設「ナヌムの家」の職員が、運営法人が寄付金を慰安婦のために使わずに蓄財していると内部告発した」。「ナヌムの家は1992年に設立され、同名の社会福祉法人が運営する。京畿道[キョンギド]広州[クァンジュ]市に所在し、現在は平均年齢95歳の元慰安婦6人が居住している」とのこと。「施設職員7人」によれば、「寄付金を基に法人が60億ウォン(約5億2000万円)超の不動産と70億ウォン超の現金を保有している」らしい。また、「聯合ニュースが伝えた職員らの主張では、法人が2019年に約6000人から集めた25億ウォンの寄付金のうち、元慰安婦のために使ったのは6400万ウォンだけ」だとか。
  • 五月二三日土曜日朝刊八面、【香港統制強化を審議/全人代開幕/直接介入 民主派へ圧力】。全国人民代表大会は二二日に開幕。「香港の憲法に相当する香港基本法の23条は、国家分裂を狙う行為を禁じる法律の制定を香港政府に義務づけている。しかし、住民の反発で1997年の中国返還以来、実現していな」かったところ、「習政権は昨年10月、中国主導で法整備を行う方針を示した」。「新たな制度案では、「国家安全に危害を加える行為・活動」の防止や、処罰が可能になり、中国政府の関連部門が香港に出先機関を設けることも認める」とのこと。「この時期の法整備には、9月の香港立法会(議会)選挙を前に、民主派への圧力を強める狙いがあるとみられている」。
  • 米大統領選2020 バイデン研究(中)」、【黒人社会と深い絆/妻子と死別 「家族」思い入れ】では、ジョー・バイデン(77)がデラウェア州ウィルミントンに暮らしていた青少年期から「自らの行動で人種間のギャップを埋め」ようと試みていたことなどが証言されているが(「前ウィルミントン市長のデニス・ウィリアムズさん(67)」による)、そのような人間でも時に、不注意な軽口の類だったとしても、「あなたがトランプか私かを迷っているなら、あなたは黒人ではない」(https://www.newsweekjapan.jp/watase/2020/05/post-4.php)などというおよそ馬鹿げた言明をぽろりと口からこぼしてしまうわけだ。一体この世の誰が、「あなた」が「黒人」であるかそうでないかを決めることができると言うのか?
  • 五月二四日日曜日七面、【「正義連は自分の利益追求」/日本と交渉 韓国元高官/尹氏と元慰安婦 利害相違】。「韓国の李明博[イミョンバク]政権で大統領外交安保首席秘書官として慰安婦問題の対日交渉にあたった千英宇[チョンヨンウ]氏(68)が本紙のインタビューに応じた」。

 千氏によると、京都で2011年12月に行われた日韓首脳会談で李大統領が野田首相慰安婦問題の解決を迫った翌年の春、斎藤勁[つよし]官房副長官が解決に向けた腹案を持ってソウルの千氏の事務所を訪れた。
 腹案は、駐韓日本大使が元慰安婦に1人ずつ面会し、日本の首相の謝罪親書と日本の国家予算による補償金を直接手渡すことが柱だった。千氏はこれに先立ち、中心的な元慰安婦5、6人を大統領府に呼んで意向を聞いていた。
 千氏は「元慰安婦のおばあさんは、生きているうちに日本政府の謝罪と補償金を受け取りたがっている印象を受けた。日本が受け入れられないことを承知で、正義連が(挺対協時代から)強硬に求めている『日本政府の法的責任の認定』といったことについて、おばあさんたちは難解でよく分かっていなかった」と述べた。
 千氏は斎藤氏との会談後、挺対協の代表だった正義連の尹美香前理事長(55)と面会して案を説明した。挺対協が「法の上に君臨していると言っても過言ではないほど絶大な影響力」を持っていたためだ。
 尹氏は、腹案の内容を喜ぶと思ったが「困惑に満ちた表情を浮かべた」という。
 千氏は「尹氏は純粋に元慰安婦の利益を代弁していると思っていたが、元慰安婦と利害関係が違うのだとその時悟った。(……)」と語った。
 政権内部には「尹氏ににらまれた公職者は、(左遷など)一生が台無しになる」という空気があったという。(……)
 15年末の慰安婦問題をめぐる日韓合意によって、当時生存していた元慰安婦47人中の7割以上にあたる36人が1億ウォン(約870万円)の支給を受けた。(……)

  • 五月二五日月曜日朝刊九面。詫摩佳代「1000字でわかるグローバル・ヘルス 1 病に対する協力体制」。「国際保健協力の始まりは19世紀に遡る。コレラが大流行するヨーロッパで、近隣諸国がそれぞれの国内情報を共有し、入国する人や船に対して共通の検疫制度を確立する必要性が認識された。1903年に成立した史上初の国際衛生協定では、コレラとペスト(12年に黄熱病が付け加わる)に関する通知義務や検疫法などが定められた。第1次世界大戦時にスペイン風邪チフスが流行すると、既存の枠組みをより強固なものにしようという機運が高まり、国際連盟の下には感染症情報の拠点が設立された。国際連盟に加盟しなかったアメリカは非公式な形でその保健協力に関与し、第2次世界大戦中も国際連盟と協力しつつ、連合国陣営の感染症管理に尽力、その経験からWHO設立を主導した」。


・作文
 12:36 - 13:55 = 1時間19分(5月23日)
 14:02 - 14:44 = 42分(5月23日)
 15:11 - 15:22 = 11分(5月25日)
 15:22 - 17:03 = 1時間41分(5月2日)
 18:17 - 19:28 = 1時間11分(5月2日)
 24:27 - 24:51 = 24分(5月25日)
 計: 5時間28分

・読書
 21:20 - 21:46 = 26分(ブログ)
 23:00 - 23:26 = 26分(ブログ)
 23:29 - 23:34 = 5分(日記)
 23:35 - 24:15 = 40分(Wikipedia; Jordison)
 24:59 - 25:35 = 36分(ジョンソン)
 26:46 - 27:08 = 22分(Wikipedia
 27:16 - 28:02 = 46分(尾田)
 28:03 - 28:20 = 17分(古今和歌集
 計: 3時間38分

  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-21「木漏れ日をはだかの腕に宿すひと今日も誰かの命日である」; 2020-03-22「雪どけの音が聞こえる密室であなたは言った天使がいると」
  • 「at-oyr」: 2020-02-28「ライブ映像」; 2020-02-29「ryota
  • fuzkue「読書日記」: 2020年4月24日(金)
  • 2019/5/7, Tue.; 2019/5/8, Wed.
  • Wikipedia: 「Emperor Kazan」; 「ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク」
  • Sam Jordison, "Primo Levi brings readers as close as prose can to the horror of Auschwitz"(2019/7/9)(https://www.theguardian.com/books/booksblog/2019/jul/09/primo-levi-auschwitz-if-this-is-a-man
  • バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇一六年、書抜き
  • 少年ジャンプ+」: 尾田栄一郎ONE PIECE』第9話~第12話
  • 奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、一九七八年): 86 - 92

・音楽