2020/5/31, Sun.

 忽[たちま]ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入[い]って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。
 (夏目漱石草枕岩波文庫、一九九〇年改版、10)



  • 窓外から闖入してくる高い打音がうるさくて目を覚ました。父親が壁に取りつき、隣室の窓のあたりまで登って何か作業をしているらしい。たぶん壁に金具か何か取りつけているようで、それを叩きつけるけたたましい音が立って振動も伝わる。こちらの眠りになどまるでお構いなしでうるさいが、まあ苛立つほどのことではない。実際そのなかでもふたたび寝つき、しかし騒音でまた覚め、ということを繰り返したのちの一一時半過ぎに起き上がった。滞在は七時間半ほどなのでそこまで悪くはない。
  • 最初の覚醒時には夢を覚えていたものの、もはや散った。だいぶ長くてかつ不思議な感じの夢だったと思うのだが。何かRPG的な雰囲気だったろうか?
  • 母親がビーフシチューを作っておいてくれた。カレーを作ろうと思ったらルーがなかったので急遽シチューにしたらしい。それを素麺のサラダや昨日の煮物などとともに用意して食事、テレビは『のど自慢』を掛けていたものの、今日は何やら「バーチャルのど自慢」なる趣向で、いわゆるVtuberの人々が出演する形になっており、母親はこれじゃあねえ、つまんないねと言って番組をほかに替えていた。Vtuberなる存在が一体何者なのかこちらはちっとも知らず、いまのところ特段の興味もないけれど、あの現象にどのような文化構造が観察されるのかとか、どのような社会心理が働いているのかとか、そういう点は多少気にならないでもない。
  • 二〇一九年五月一六日木曜日を読み返す。冒頭の書抜きを以下に。

 ポリス本来の理想であり、それ故、固有に政治的資質として基準となるものは、「思慮[プロネーシス] phronesis」であって、これは政治的な人間(「ポリティコス politikos」という意味であり、政治家という意味ではない。政治家というのはこのギリシアの世界では存在しなかった)の洞察力のことであり、賢知というのとはほとんど関係ないものなので、アリストテレスは、哲学者の賢知との対立を強調して定義することさえできたのである。政治的な事態にたいして洞察力があるということは、事態を眺めたり、判定したりする立場や観点について可能な限り広く大きく見るようにしておくことである。この「プロネーシス」というのは、アリストテレスの場合には政治的なものの中核をなす重要な徳なのだが、それ以降、何百年にもわたってほとんど論じられていない。カントになってやっと、判断力の一能力として健全な人間悟性が論じられる際に、再び見られる。彼は、それを「拡張された思考様式 erweiterter Denkungsart」と名付け、その能力をはっきりと「どの他者の立場でも考える」ことだと定義している。(……)
 (ハンナ・アーレント/ウルズラ・ルッツ編/佐藤和夫訳『政治とは何か』岩波書店、二〇〇四年、82)

  • 二〇一四年七月八日火曜日。欄外に、当時柴崎友香に触発されて考えていた小説のアイディアがある。「うすく淡くやる、というよりは、やりたいことはつまり主体の解体ではないが、語り手を世界に埋もれさせるということになる。そういう意味で蓮實重彦言うところの私小説の流れに正しくのっとったものになればいい。語り手のいわゆる「わたし」をできるかぎりうすくする。一人称は使わない。「こちら」「こっち」「自分」もできれば使いたくない。語り手の発言は括弧でくくらず地の文に落とす。心内独白はしない。思考やいわゆる心理は書かない。男なのか女なのかできればわからないようにしたい」という具合だが、この作品もいまだったら結構うまくやれるのではないかという感じはする。そのうち書きたいには書きたい。一応目論見としては、『偶景』タイプのバリエーションの一つになるはずの見込み。
  • Mさんのブログは二〇二〇年三月二五日。常に沿ってラカン精神分析理論の解説。

 ラカンは、「主体のすべての決定、そして思考の決定はディスクールに従属している」と述べていた(S17, 178)。すると、スキゾフレニー患者は、ディスクールへ従属していない自由な存在であると考えられる。しかし、この自由は、少なくとも現状では、決してどこかに心地よく安住していられるような自由ではない。なぜなら、ディスクールの外部にいるということは、シニフィアンと享楽が主人のディスクールのような仕方で構造化されていないということであり、その結果、さまざまな現象が精神病者を襲うことになるからである。では、その病理はディスクールの理論ではどのように理解されるのだろうか。
 まず、主人のディスクールによる構造化がなされていないということは、S1がS2に連鎖していないということである。その結果、シニフィアンは凝集し「ひとつきりのシニフィアン S1 tout seul」になってしまう。ラカンは『精神分析の四基本概念』のなかで、このようなシニフィアンの凝集現象を「オロフラーズ holophrase」と呼んでいた(S11, 215/321-2頁)。このシニフィアンの凝集からは、次の二つの現象が帰結する(Stevens, 1987)。
(1) S1がS2に連鎖せず、その代わりに「ひとつきりのシニフィアン」しか存在しないということは、あるシニフィアンを他のシニフィアンによって置き換えることによって可能になる隠喩を作ることができないということである。ラカンはかつて、シュレーバーの『ある神経病者の回想録』には詩的な隠喩がみられないことを指摘していたが、それはこのオフロラーズから説明できるだろう(S3, 90-1/上127-8頁)。また、これは精神病の症状がファリックな意味作用をもたないことの理由でもある。この意味で、ディスクールの理論における「〈父の名〉の排除」の対応物は、S1やS2といったそれぞれのシニフィアンが存在しないことではなく、むしろS1がS2に連鎖していないことであると考えられる(Moulinier, 1999, p.204)。
(2) また、「ひとつきりのシニフィアン」が現実界における幻覚のシニフィアンとして出現した場合、主体はその幻覚のシニフィアン弁証法的に否定しうるような他のシニフィアン(S2)をもっていないため、ただその出現を確信し、困惑することしかできなくなってしまう。以前にも指摘しておいたように、幻覚は「そんなことはありえない」とどれだけ自分に言い聞かせたとしても、その実在を否定することができないような確信をもって現れるのである(…)。
 また、ディスクールは主体と対象aのあいだを遮断し(…)、ファンタスム(…)を作ることによって、過剰な享楽の氾濫から身を守ることを可能にする装置でもあった。すなわち、ディスクールは「現実界に対する防衛」にほかならないのである(Miller, 1993a)。例えば、神経症者は多くの場合、身体の享楽をファルスというひとつの身体器官に局在化することによって、過剰な享楽の氾濫から身を守っている。しかし、ディスクールの外部にいる精神病者、とくにスキゾフレニー患者は、「象徴界という手段をつかって現実界から自らを防衛することのない唯一の主体」(Miller, 1993a)であり、彼らはその代償として、過剰な享楽を身体に直接受けることになる(…)。
 いまや私たちは、パラノイアにおける妄想性隠喩を、ディスクールという観点から理解することができる。パラノイア患者は、その病初期にシニフィアンの連鎖から断絶した「ひとつきりのシニフィアン」の襲来(精神自動症や各種の言語性幻覚)を受ける。彼は、この襲来してきたシニフィアンを何か別のシニフィアンに連鎖させることができず、したがってそのシニフィアンの意味を理解することもできず、ただ困惑に支配されてしまう。しかし、後に彼はこのようなシニフィアンの崩壊に妄想的な意味を与え、その惨状をたった一人で回復させようとする。この妄想形成の作業が妄想性隠喩と呼ばれていたのであった(…)。このシニフィアンの連結作業は、ひとつきりの形で存在していたS1を、他のシニフィアンS2へと繋げていく作業にほかならない(Miller, 2008a)。つまり、パラノイア患者の妄想は、主人のディスクールと同じS1→S2の構造をもっているのである。スキゾフレニー患者のイロニーが、ひとつきりのシニフィアンS1の散乱状態にとどまることによって、主人のディスクールの虚構性を暴露するものであるとすれば、パラノイア患者の妄想形成(S1→S2)は、「正常」なるものであるとされる主人のディスクール(S1→S2)が妄想形成と同じ構造をもっていることを示すことによって、主人のディスクールの正常性=規範性を相対化すると言うことができるだろう。つまり、精神病者だけが妄想しているのではなく、神経症者も精神病者も「S1→S2」という仕方で等しく「妄想」していると考えることができるのである。
 あらゆる人間が妄想しているという考えは、ラカン自身が七九年に述べていたことでもある――「フロイトはこう考えた。すべては夢であると。そして(こういう表現を使えるならば)人はみな狂人であると。言いかえれば、人はみな妄想的なのである」(Lacan, 1979)。この一般化された狂気のパースペクティヴを、ミレールは「人はみな妄想する tout le monde délire」「人はみな狂人である tout le monde est fou」というキーワードをもちいて展開している。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』p.324-327)

  • パラノイア患者は、その病初期にシニフィアンの連鎖から断絶した「ひとつきりのシニフィアン」の襲来(精神自動症や各種の言語性幻覚)を受ける」とあるが、二〇一八年の一月から二月あたりにかけてこちらが襲われたいわゆる「殺人妄想」も、「精神自動症」やある種の「言語性幻覚」に近いものとして考えることができるのではないか。「殺人妄想」とこちらが呼んでいるのは、「殺人」及び「殺害」の観念またはイメージが理由もなく自動的に、かつ不条理に頭のなかに浮かんできて離れず固着しながら旋回するという種類の現象で、具体的には、出勤中に道を歩いているなかで見かけた犬や人に暴力を振るって殺すイメージが不意に湧いてきたりとか、朝目覚めたときに「殺す」もしくは「殺したい」という言葉が脳内を高速でぐるぐる巡っていたりとか、料理をするために包丁を握っているあいだに「これを使えば人を殺せるんだよな」という思考が繰り返し回帰してくる、という形で体験された。そこに殺意のような明確で「激しい」感情はまったくなく、何の意思も情動も伴わずにただそういうイメージや言葉だけが独立して発生するという精神現象で、だからそれらの思考は自分自身に正当に所属しているとはとても思えず、それに襲われたこちらはもちろんまさしく「困惑に支配され」ざるを得ず、自分の主体や人格の同一性を動揺させ攪乱させられることになった。平たい言葉に言い直せば、俺は本当に人を殺したいとかそんなことを思っているはずがないのにどうしてこんなことを考えてしまうのか、もしかして俺は心の底ではそういう危険な衝動を抱えているのではないか、という疑念が湧いて、自分で自分が信用できなくなる、といった感じだ。そこからは当然、このままだと自分はいつかこの自動的思考に操られるようにして本当に人を殺してしまうのではないか、という不安が連続するわけで、その懸念に囚われた当時は正直に言ってかなり怖かったのだけれど、なぜそうなったのかはまったくわからないものの、あのときのこちらにあっては「シニフィアンの連鎖」が、「断絶」はしないまでもいくらか緩くなったような状態だったということではないのだろうか。いわゆる統合失調症における「幻覚」や「妄想」の特徴として、それが自分自身に属しているとはどうしても感じられずまったくの外部からやってきたようにしか思えないという要素があるらしいのだが、二〇一八年のこちらにあってはまだぎりぎり自動思考の帰属性は自分にあった。「殺人妄想」が自らの真意だとはとても思えなかったものの、それが外から吹きこまれたものだと感じることはなかったし、その「妄想」的思考が自分にしか聞こえず認知できないということも明確に理解していた。ここの防波堤の箍が外れてしまい、それが完全に外から注入されたようにしか感じられないとなると統合失調症と診断されることになるのだろうが、こちらはわりと危ういところまで行きつつも境界線を越えることはなく、その内縁にうろうろしながら留まることができたわけだ。で、上の引用によれば「パラノイア患者」は「このようなシニフィアンの崩壊に妄想的な意味を与え、その惨状をたった一人で回復させようと」し、「この妄想形成の作業が妄想性隠喩と呼ばれ」るということだが、これは例えば、自分の脳内に到来する「妄想」を神からの啓示であると思いこんだり、より世俗的には、得体の知れない巨大組織が自らを監視し付け回しつつ電磁波攻撃などを仕掛けて自分の頭を狂わせていると考えたりする、という症状のことを指しているという理解で良いのだろうか。世界の意味論的体系の連鎖が崩壊してしまった主体にあっては、どういう形であれ何かしらの解釈と理屈をでっち上げて、その体系を補修し作り直すことで世界観と人格の統一性を取り戻さなければならないわけだけれど、それが現実的にありえる(と思われる)論理体系からあまりに逸脱したものになると、その人は精神疾患の患者として認定されることになってしまう。こちらにおいてはこの「妄想形成」は、わりと一般的に共有されうる論理でもって現実化した。「殺人妄想」に対してこちらが与えた第一の解釈は、先にも記したように、自分は「無意識」領域において巨大で危険な殺害衝動を秘めているのではないか、という可能性である。しかしこれは、できれば認めたくない可能性だった。そこでこちらの頭は第二の解釈を考え出す。それは、自分はむしろ人に暴力を振るったり殺人を犯したりすることを過度に恐れており、それがゆえにかえってそのことを考えてしまうのではないか、という理屈である。すなわち、「殺人妄想」を不安障害の一バリエーション、もしくは強迫神経症的な方面の「症状」として意味づけしたということだ。実際にそうだったのかは今になってもわからないし、一体あの精神現象がなんだったのかは完全に謎なのだが、ともかく当時のこちらはそういう「妄想形成」を働かせ自らの症状を論理的体系のなかに位置づけることで、主体的統一性を何とか崩壊させずに済んだという話になるだろう。

 ミネソタ州ミネアポリスで、黒人男性が警官の暴行を受けて死亡したと抗議する人々のデモが過激化している。略奪を恐れる店舗を銃で武装した市民が警護にあたる事態になっている。
 「これは一線を越えた。正義は求めるが、同時に略奪はやめなければならない」と、地元の市民グループミネソタ・リフォーマー」がツイッターに投稿した動画の中で、武装した男性の1人は語った。
 別の男性も同様に「略奪にはまったく賛同できない。しかし抗議デモの趣旨には賛同する」と話している。

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 [ミネソタ州]ミネアポリスの抗議デモは、建物への放火や警官との衝突を繰り返し、市内全域で破壊活動が行われている。警官隊はゴム弾、閃光弾、催涙ガスなどで鎮圧にあたっているが、デモ参加者は石や花火を投げて抵抗している。

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 市民グループの動画に登場した武装市民の男性は、タバコ店で買い物をしようとしたが、店主らが略奪を恐れて閉店したと告げられた。「警察がここまで来れないので、店主らはナタやガラスの破片で略奪から店を守ろうとしていた」と男性は話している。
 このため男性は店が略奪されないよう、武装して店の前に立った。「警官が来る前に、ここはカオスになっていた」からだと言う。

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 ミネアポリス警察署長のメダリア・アラドンドは地元メディアの取材に対して、抗議デモが「警察はもとより一般市民まで危険にさらしている」と語った。また事態悪化を受けて、ミネソタ州のウォルツ知事は、非常事態宣言を発令し、事態収束のために州兵を派遣することを決めた。

  • こちらが考えるに、抗議デモに乗じた略奪行為は明らかな愚行だろう。それはまず第一に、道徳的観点から見て正当化することがもちろん困難である。そもそも略奪を受けた店の店主らは大抵の場合、ジョージ・フロイドを殺害した警察官個人や警察組織とはまったく関係がないはずだ。それにもかかわらず、もし、例えば相手が「白人」だからというだけの理由で略奪を働いたのだとすれば、それは一部界隈の「白人」たちが「黒人」の人々に対して行っていることと構造的には何も変わらないはずである。つまり彼らは人種差別的な構造性に対抗するために自らも人種差別的な方策を用いているということになり、これではむろん、分断は深まり対立は先鋭化するばかりで、アメリカ合衆国にとって何一つ良いことにはならないだろう。もっと具体的なレベルで考えるに、例えば店を略奪された「白人」の店主は、自らの生活基盤を不当に破壊されたということを根拠にして「黒人」たちはクソだなという観念的一般化を働かせ、人種差別的な意識を強化するかもしれない。それまでそうした意識を大きく明確な形では持っていなかった人の心にも、それが新たに生まれてしまうかもしれない。したがって略奪行為はまず、道徳的及び感情的観点からして愚策だし、構造的に見ても人種差別を再生産する可能性がけっこう高いと思われる。加えて第二に、州政府もしくは中央政府の強硬な処置を必然的に招くという点でもそれは愚策だとこちらは考えるものであり、実際この次の日かそのあたりの報道にも示されていたが、こういう事態になったときにドナルド・トランプという人間が軍隊の出動を仄めかして人々を脅迫するということはまさしく火を見るよりも明らかなわけで、しかも彼だったらそれを脅迫に終わらせずに現実に実行するという可能性も充分考えられる。そして、もしそんなことが実際に起こってしまったら市民のほうに勝ち目があるはずもなく、当然多数の被害者が出るだろうし、国家的混迷は深まり抗議活動どころではなくなるだろう。あるいはそれでもなお市民側が戦い続けようとするのだったら、それはもう内戦であり、アメリカ合衆国の破綻あるいは崩壊だ。略奪者たちがどういう意図でもって行為を働いたのかはわからず、大方は単に今回の騒ぎに乗じた悪党に過ぎないのかもしれないが、彼らの行動が抗議活動の正当性を毀損していることは明らかだと思うし、もし抗議の一表現として行っているのだとしても、以上に述べたようにそれは道徳的・感情的・戦略的観点のすべてから見て愚策だと思う。

 米中西部ミネソタ州ミネアポリス近郊で黒人容疑者が白人警官から首を圧迫され死亡した事件を巡り、地元検察当局は29日、この警官を第3級殺人と故殺の容疑で訴追した。有罪判決が下れば、最長25年の禁固刑となる。
 逮捕された元警官はデレク・ショビン容疑者。地元ヘネピン郡のフリーマン検事は「証拠はある。市民が撮影した動画、警官が身に付けていたカメラ、目撃者の証言などだ」と説明。「われわれがこれまでに警官を訴追した中で最短のケースだ」と、迅速な対応を強調した。

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 ショビン容疑者は26日解雇された。現場にいた同僚の警官3人も解雇されており、今後訴追される可能性があるという。


・作文
 13:10 - 13:20 = 10分(5月31日)
 13:53 - 16:08 = 2時間13分(5月28日)
 16:53 - 18:40 = 1時間47分(5月28日)
 19:59 - 20:53 = 54分(5月28日)
 23:34 - 25:07 = 1時間33分(5月28日)
 25:10 - 25:13 = 3分(5月28日)
 27:47 - 27:59 = 12分(5月28日)
 計: 6時間52分

・読書
 13:21 - 13:53 = 32分(日記)
 25:13 - 25:50 = 37分(ブログ)
 25:50 - 26:42 = 52分(古今和歌集: 262 - 286)
 26:56 - 27:10 = 14分(Newsweek
 計: 2時間15分

・音楽

  • Joni Mitchell『Blue』
  • Jose James『No Beginning No End』
  • dbClifford『Recyclable』
  • Keith Jarrett『The Koln Concert』
  • Keith Jarrett Trio『At The Blue Note - Saturday, June 4th, 1994, 1st Set』