2020/6/2, Tue.

 (……)空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂[もた]れ懸っていたと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾[と]くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃[こまや]かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれほどかわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の脊が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩[こ]める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
 (夏目漱石草枕岩波文庫、一九九〇年改版、17)



  • 一二時三〇分まで寝過ごす。やや長い。睡眠はやはり七時間以内、できれば六時間以下に収めたい。
  • 食事は天麩羅やモヤシの和え物に豚汁。新聞にはアメリカの抗議運動について。逮捕者四一〇〇人と言う。新聞が最近つまらないと母親は漏らす。つまらないと言って、ニュースなど母親はほぼ読んでいないと思うのだが。新聞屋からは電話が掛かってきたらしく、いま我が家の新聞は読売なのだけれど、一時的にでも朝日に替えてくれないかと頼まれたのだと言う。たぶん前々から言ってきている人だと思うのだが、その販売員が、母親当人の言葉ではいかにも「ヤクザっぽい」話し方をするらしく、おそらくいくらか柄悪くぺらぺら喋るようなタイプの人なのだろう。それで母親はあまり良い印象を持っていないようなのだが、ただ朝日は読売に比べると四〇〇円も安いのだと言う。それなら朝日でええやんけとこちらは思うけれど、最終的にはまあどちらでも構わない。読売は政権寄りで、朝日は左派的でクオリティ・ペーパーだとか一応言われはするけれど、質として大して変わりゃあしない印象だし、どちらにしたって読む際にはどうせ吟味を働かせなければならないのだから同じことだ。
  • テレビはドラマ。『珈琲屋の人々』とかいうもの。夫を殺されたらしい木村多江が、その殺害者当人の店に行く。その店というのはコーヒーショップで、下手人は高橋克典(だっけ?)が演じている。白いシャツとベストのかっちりした服装なのだが、高橋のガタイがあまりに良くて、特に首が太いために、珈琲屋の店員にしてはやたらごついやんけと思ってちょっと笑ってしまった。ボクシングをやっている設定だったので、それに合わせた役作りでもあるのだろう。店は商店街の人々の溜まり場になっているようで、ほかに八嶋智なんとかいうあの眼鏡を掛けた賑やかな人とか、小林旭という名前だったか元刑事の役の高年とか、旦那に浮気されたらしいクリーニング店主の渡辺えりとかが登場する。木村多江は先にも書いたように高橋克典に夫を殺されたらしいのだが、どうやって殺したの? いつ殺したの? 何で殺したの? と好奇心旺盛な児童のように矢継ぎ早に母親に訊いてみても、わからないと言う。ちょっと回想があったのみでそのあたりはまだ語られていないようだ。その木村多江は夫を殺された妻にふさわしく屈託を抱えた陰鬱気な表情を常に保っており、実に幸が薄そうな雰囲気なのだが、ここまでいかにもな薄幸さを特に何もせずとも顔とたたずまいだけで醸しだすことができるというのは、やはりちょっとすごいのかもしれない。渡辺えりは突然店に入ってくるやいなや、やや深刻そうな様子で旦那が浮気してるかもしれないと呟き、尾行をしたいと言って高橋克典に協力を乞うのだが、それを受けて小林旭が、人間ってのはどうしても真実を知りたい生き物なんだねえみたいなことを漏らすのはまあそのとおりではあるだろう。謎を与えられるとそれを解きたくなるのが人の性分ということで、何かしらの答えを手にしなければ気が済まないというわけだ。それが一面では例えば物語を駆動させもするし、あるいは学問とか文化というものを発展させてもきたのだろうけれど、一方で、答えにたどりつくことのできない宙吊り状態のまま曖昧な過渡空間に耐える力が、したがって人は弱い。むしろそういう問いの永続性に留まって過渡領域をうろうろと彷徨することに耐えられる体力を身につけなければならないというのは、例えば保坂和志がよく言っていることだ。
  • 一旦帰室してから茶を注ぎに上がったところ、今度は『勇者ヨシヒコと魔王の城』だったか、山田孝之が『ドラゴンクエストⅤ』の主人公の格好をしたあのギャグドラマがなぜか掛かっていて、そのオープニング曲がけっこうファンキーで、ギターのカッティングとかこまかくて素早く、カラフルな感じの音楽でちょっと良かった。日本語のラップはあまり好きではないし、率直に言うならば大抵の場合普通にダサいと思うし、鼻に掛かったような女性ボーカルの声も全然良いとは思わなかったが、曲の容れ物としてはわりと悪くないという感じ。それでこれは何という音楽なのかなと見ていたところが、情報が表示されなかったのでのちほど調べてみると、mihimaru GTの"エボ★レボリューション"という曲だとのことで、あああれがmihimaru GTというやつだったのかと思った。もちろんevolutionとrevolutionを掛けているのだろうけれど、「★」の記号が繋ぎとして差しこまれている点などいかにも軽薄で浅はかだし(David Bowieの潔さを見習うべきだ)、「レボリューション」なんていう言葉を片仮名で表記するあたりもダサくて、曲名は普通にクソだけれど楽曲としてはそこまで悪くなかったのではないか。
  • 短歌を四つこしらえる。

 この世から綺麗さっぱり消えたままもうあの世にもかえりたくない

 復活は、輪廻の導き だとしても余計なお世話 俺に無をくれ

 わたしたち、お似合いですねと君は言う 今度いっしょに入水してくれ

 疫病の廃市をあゆむ幽霊を 見るひともあり 見ぬひともあり

  • Led Zeppelin『Celebration Day』とともに「英語」と「記憶」を復読。三時過ぎまで一時間ほど。

 スレブレニツァの虐殺(スレブレニツァのぎゃくさつ、セルビア語: Масакр у Сребреници、ボスニア語: Masakr u Srebrenici)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで1995年7月に発生した大量虐殺事件である。ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍(Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計8000人のボシュニャク人が殺害された[3][4][6][7]。(……)

[3]: 佐原徹哉『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』有志舎、日本、東京、2008年3月20日
[4]: “ボスニア紛争の悲劇「スレブレニツァの虐殺」の戦犯たち” (日本語)(https://www.afpbb.com/articles/-/2421143?pid=3156942). AFP (2008年7月22日). 2009年4月6日閲覧。
[6]: “オランダ部隊の失敗に学ぶ 脇阪紀行(記者は考える)” (日本語). 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 13. (2002年4月23日)
[7]: シェリ・フィンク『手術の前に死んでくれたら ボスニア戦争病院36カ月の記録』中谷和男訳、アスペクト、日本、2004年12月8日

     *

 ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた[19]。1990年にユーゴスラビア民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め[3][20]、ボシュニャク人のアリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。当時のセルビアユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。

[19]: 1991年の国勢調査によると、ボスニア・ヘルツェゴビナ全土における民族ごとの人口比率は、ムスリム人が43.7%、セルビア人が31.4%、クロアチア人が17.3%などとなっている(久保慶一『引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題』有信堂高文社、日本、東京、2003年10月10日、170頁)。
[20]: 多谷千香子『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』岩波書店、日本、東京、2005年10月20日

     *

 セルビア人勢力は、南北のセルビア人地域をつなぎ、地理的に連続で民族的に純粋な領土を確保する目的で[23]東部ボスニアでの戦闘を優位に進めた。そして、フォチャ、ズヴォルニク、ツェルスカなどでボシュニャク人住民の殺害や強制追放を繰り返した[24]。1993年頃にはこれらの地域の多くがセルビア人勢力の支配下となり、ボシュニャク人は一掃された。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(Armija Republike Bosne i Hercegovine; ARBiH)に守られたジェパおよびスレブレニツァには周辺地域から逃れてきた多くのボシュニャク人が流れ込み、四方をセルビア人勢力に包囲され、孤立していた[3][20]。1993年4月、国際連合はスレブレニツァを「安全地帯」に指定し、攻撃を禁じた[25][26][27][28][29]。国際連合保護軍がスレブレニツァに送られたものの、その数は少数に留まった。その後も、スレブレニツァへの物資の搬入はセルビア人勢力の妨害により困難となり、武器、水、食料、その他あらゆるものが不足する状況となった。1995年7月までには、包囲されたスレブレニツァでは市民も国連軍も困窮し、市民のなかには餓死者も出るようになっていた。

[23]: ICTY, "Prosecutor vs Krstic, Judgement"(リンク切れ), Case No. IT-98-33, United Nations, 2 August 2001 [1](リンク切れ) (PDF, 685 KB) . II, A, 2, par. 12.
[24]: “IDC: Podrinje victim statistics”(https://web.archive.org/web/20070707071037/http://www.idc.org.ba/onama/izvjestaj_analize_po_centrima.html#podrinje). 2007年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年10月17日閲覧。
[25]: Security Council, "Resolution 819"(https://www.nato.int/ifor/un/u930416a.htm), United Nations, 16 April 1993, par. 1.
[26]: 橋本靖明「ボスニア・ヘルツェゴビナにおける安全地域 (PDF) 」(https://web.archive.org/web/20040410111913/http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j1-2_5.pdf) 『防衛研究所紀要』第1巻第2号、防衛庁防衛研究所、東京、1998年11月、 85-90頁
[27]: 千田善『なぜ戦争は終わらないか ユーゴ問題で民族・紛争・国際政治を考える』みすず書房、日本、2002年11月21日
[28]: 日本国際連合学会『人道的介入と国連』国際書院、日本、2001年3月31日
[29]: 明石康 (1999年12月6日). “スレブレニツァ悲劇とPKO 明石康(論壇)” (日本語). 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 4

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 1995年7月11日ごろから、セルビア人勢力はスレブレニツァに侵入をはじめ、ついに制圧した[4][26]。ジェノサイドに先立って、国際連合はスレブレニツァを国連が保護する「安全地帯」に指定し、200人の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊がいたが、物資の不足したわずか400人の国連軍は全く無力であり、セルビア人勢力による即決処刑や強姦、破壊が繰り返された[20][27][28][29]。その後に残された市民は男性と女性に分けられ、女性はボスニア政府側に引き渡された。男性は数箇所に分けられて拘留され、そのほとんどが、セルビア人勢力によって、7月13日から7月22日ごろにかけて、組織的、計画的に、順次殺害されていった。

     *

 スレブレニツァの虐殺第二次世界大戦以降、ヨーロッパで最大の大量虐殺である[37]。2004年、ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷ICTY)での「検察官対クルスティッチ(Prosecutor v. Krstić)」の裁判において、満場一致のもと、スレブレニツァの虐殺はジェノサイドであると認定された[20][39]。裁判長テオドル・メロン(Theodor Meron)はその声明において、判決文から以下を含む部分を引用した。

ボスニアムスリムボシュニャク人)の一部を消し去ることを目指し、ボスニアセルビア人部隊はジェノサイドを犯した。彼らは、ボスニアムスリム一般を象徴する存在であった、スレブレニツァに住む4万人のボスニアムスリムの絶滅を目標とした。全てのムスリムの男性捕虜から、軍人も民間人も、老いも若きも別なく、所持品や身分証明書を奪い、意図的かつ組織的に、単にその身元(アイデンティティ)だけを根拠に殺害した。
 — 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[40]

 2007年2月、国際司法裁判所(ICJ)は、スレブレニツァの虐殺がジェノサイドであったとするICTYの判断を確認し[39][41]、次のとおり言明した。

スレブレニツァで行われた、条約(ジェノサイド条約)第II条(a)および(b)に該当する行為は、ボスニア・ヘルツェゴビナムスリム人集団自体を一定程度に破壊する明確な目的をもって実行されたと、裁判所は結論する。従ってこれらの行為は、1995年7月13日前後以降にスレブレニツァおよびその周辺にてスルプスカ共和国軍の構成員によって行われたジェノサイド行為である(と結論する)。
 — 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[42]

[37]: Institute for War and Peace Reporting, Tribunal Update: Briefly Noted (TU No 398, 18-Mar-05)
[39]: “「ジェノサイド」、最も罪深くかつ証明しにくい戦争犯罪”(https://www.afpbb.com/articles/-/2421266) (日本語). AFP (2008年7月22日)
[40]: ICTY; "Address by ICTY President Theodor Meron, at Potocari Memorial Cemetery" The Hague, 23 June 2004 [4](リンク切れ)
[41]: Oudenaarden, Ed (2007年2月27日). “国際司法裁判所セルビアの行為をジェノサイドと判断 - オランダ”(https://www.afpbb.com/articles/-/2187140) (日本語). AFP
[42]: ICJ, Case Concerning the Application of the Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide (Bosnia and Herzegovina v. Serbia and Montenegro), Judgement, p. 108, par. 297.(http://www.icj-cij.org/docket/files/91/13685.pdf)(エラーになる。リンク切れ?)

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(以下は年表から抜粋)

1974年  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国地方分権化が強化される憲法改正セルビアクロアチア語を話すムスリムが「ムスリム人」の呼称で独自の民族と認められる。

1991年6月25日  クロアチアおよびスロベニアユーゴスラビアからの独立を宣言。それぞれ独立戦争に入る。

1992年1月7日  ボスニア・ヘルツェゴビナセルビア人議会は、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内にスルプスカ共和国の設立を宣言。

1992年2月29日  ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を問う住民投票が行われる。ほぼ全てのセルビア人が投票をボイコットし、投票率67%で、99.43%の賛成となった。

1992年3月1日  ボスニア・ヘルツェゴビナ議会は独立を採択。セルビア人は欠席。

同上  セルビア人の将軍がサラエヴォにて殺害される。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で最初の死者。

1992年3月  ボスニア東部でセルビア人とボシュニャク人の間の戦闘が始まる。

1992年4月7日  ボスニア東部でセルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・フォチャ虐殺が始まる。

1992年4月23日  ボスニア北部でセルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・プリイェドル虐殺が始まる。

1992年5月  ボスニア東部の大部分はセルビア人の支配下となり、スレブレニツァおよびジェパが孤立状態となる。

1993年4月16日  国際連合安全保障理事会がスレブレニツァを安全地帯に指定。

1994年3月  クロアチア人勢力とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の間で和平合意・ワシントン合意が結ばれ、両者は統合されボスニア・ヘルツェゴビナ連邦となる。

1995年7月6日  国連軍のオランダ部隊がスルプスカ共和国軍から攻撃を受ける。スルプスカ共和国軍が国連指定の「安全地帯」に侵入を始める。

1995年7月10日  スルプスカ共和国軍がスレブレニツァへの侵入を始める。

1995年7月11日  スレブレニツァの市民がポトチャリの国連施設に避難する。散発的な市民への殺害が始まる。

1995年7月12日  スルプスカ共和国軍が市民を男女別に分けて移送を始める。

1995年7月13日  大量殺害が開始される。

1995年7月19日  大量殺害の大部分(およそ8000人)が完了する。その後も逃走を続ける人々に対する追跡と殺害が続く。

1995年8月30日  スルプスカ共和国に対するNATOによる大規模な空爆が始まる。

1995年11月21日  デイトン合意が結ばれる。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が公式的に終了する。

2001年7月  セルビア元大統領スロボダン・ミロシェヴィッチICTYに引き渡される。

2004年11月10日  スルプスカ共和国が公式に虐殺の事実とその責任を認めて謝罪する。

2008年7月  虐殺を指揮した事件当時のスルプスカ共和国の大統領ラドヴァン・カラジッチが逮捕され、ICTYに引き渡される。

2011年5月26日  スルプスカ共和国軍の参謀総長ラトコ・ムラディッチが逮捕され、ICTYに引き渡される。

  • スーザン・ソンタグはまさにこの一九九五年八月三〇日前後にNATO空爆下のサラエヴォで『ゴドーを待ちながら』を演出し、彼女のもとに集まった役者たちが閉鎖された都市のなかで稽古を重ね、実際に上演が実現したのだなあと思ったのだが、検索してみるとそうではなく、彼女がサラエヴォに滞在したのは空爆が始まるよりも前、一九九三年の七月から一か月ほどのあいだだということだった。しかし、年表に明らかなように、そのときには既に「大量殺害」もしくは「虐殺」は起こっている。「サラエボで、ゴドーを待ちながら」はけっこう感動的な文章だった記憶がある。もう一度読みたい。ソンタグが混迷のサラエヴォで演劇活動に従事したことについては当時けっこう批判もあったようだし――それについてソンタグは、私は自分勝手に必然性もなくサラエヴォまで行ったのではなく、当地の人に依頼されてそれに応えたのだと自身で反論していたはずだ――戦時下において文学だの演劇だのを敢行することの是非やその有効性といったサルトル的主題についての議論や批判はもちろんあるべきだけれど、ソンタグが現実に戦火のサラエヴォに身を運び、街路に出れば偶然に射殺される可能性がある街で一か月という時間を暮らし、テクストを訳し、言葉を練り、役者たちとともに稽古を行い、『ゴドーを待ちながら』を現に上演したという事実の具体性は誰にも否定することができないと思うし、こちらなどは、それはやっぱりすごいことだとほとんどロマン主義的に感じ入ってしまう。どんな作家にもできるということではないと思う。
  • 五時二〇分あたりで上へ。食事の支度。豚肉があると言うので野菜と炒めることに。冷蔵庫を見れば肉は二種類、こま切れのものと帯状のものとあり、後者の消費期限が今日までだったのでそれを使う。ラジカセで小沢健二『刹那』を流して、材料を切る。人参と大根は細めの棒状にして、そのほかタマネギとネギの半端な余りに肉である。肉はわざわざ一枚一枚剝いで広げて、急がずゆっくり切り分けた。合間にほうれん草も茹でたあと、フライパンに油を引いた上に生姜を大量にすりおろし、肉から入れて、赤味を少々残しながら野菜も投入。加熱し、生姜をまたおろし、醤油と砂糖で味をつけ、完成するとほうれん草を絞って切り分け、時刻は六時一〇分で腹が空だったのでもう食事に入った。昨日の豚汁やサラダの余りも合わせ、炒め物は丼に盛った米の上に乗せ、新聞を読みつつものを食う。テレビのニュースはマスクのポイ捨てが増えているという話を伝えていた。それはまあ増えるだろうなとは思う。意見を訊かれた通行人が、結構見たことあります、やっぱり大切にしたいって言うか、一か月前だったら大事にしてたものを粗末に捨てちゃうのはちょっと、みたいなことを言っていた。ものの価値というものがいかにうつろいやすいかということだろうが、マスクにせよ缶にせよ何にせよポイ捨てをする人間が完全にいなくなるとは思えないから、結局清掃員の人々は頑張るほかないわけで、だとしたらせめて彼らの仕事を増やさないようにするくらいの配慮は心がけても悪くはないだろう。あとは清掃ロボットみたいなものが開発・実用化されれば手っ取り早いのかもしれないが。
  • 母親がメロン風味のカルピスを買ってきてくれたので早速作り、帰室すると過去の日記を読み返す。窓を閉じるとだいぶ蒸し暑い。二〇一四年七月一一日金曜日には欄外に、「職場における人格のつくりかた」なる書きつけがある。「謙虚で地味な人柄を心がける。とにかく悪い意味で目立たないこと。自分のことを語らないこと、および自虐をしないこと。声は静かに丁寧に。あまり粗雑な印象を与えず、かといってなるべくならば暗くもならないようにしたい。やや高めでやわらかな感じ」などと方針を定めているのだが、一体何を気にしているのかわからず、ちょっと笑える。この頃の自分はいまと比べるとずいぶん自意識過剰だったということだろう。
  • 昨日送ったメッセージに(……)さんからの返信が来ていた。

(……)

  • (……)さんからもこのあいだのメッセージに返事があった。

(……)

  • メモによれば入浴中に、「法について。また、殺人について。分析哲学的に?」考えたらしいのだが、よく覚えていない。
  • 五月四日の記事を書き進める。すなわち、父親との悶着とその振舞いに対する批判を長々と、つらつら書き記すのだが、五時間弱綴ってもまだまだ終わらない。就床は四時二三分になってしまった。
  • 新聞。二〇二〇年五月三一日日曜日、七面。【黒人死亡 デモ全米に/差別に不満 一部暴徒化/元警官「計画なき殺人罪」起訴】。「米中西部ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性が警察の拘束化で死亡した事件で、州検察当局は29日、男性の首をひざで押さえつけた白人の元警察官(免職)を第3級殺人などの罪で起訴したと発表した」。「29日に逮捕、起訴されたのはデレク・ショービン被告(44)」である。「「容疑者らの拘束時に首をひざで押さえる手法は、「窒息を招く非常に危険なやり方で、米国の警察では一般的ではないが、ミネアポリスの警察では認められている」(拘束による事故防止を訴える団体のジョン・ピーターズ氏)という」。「ミネソタ州の第3級殺人罪は、殺意や計画性を必要とせず、「人間の命を考慮しない悪意」がある犯罪に適用され、第1級や第2級の殺人罪よりも罪が軽い」ので、遺族側には不満の声がある。
  • 同面には【トランプ氏ツイート 物議/「略奪が始まれば、銃撃も始まる」】という小記事もある。デモの暴動化を受けて「トランプ大統領は29日、ツイッターでデモ参加者を「悪党」と呼び、「略奪が始まれば、銃撃も始まる」と書き込んだ」らしいのだが、「この言葉は1960年代、フロリダ州マイアミの人種差別的傾向の強い警察官が、黒人にどのような姿勢で臨むかと問われた際に答えた言葉として知られる。黒人差別の撤廃を唱えた公民権運動の指導者らが強く非難した言葉でもある」と言う。愚劣で悪辣な言表である。なぜならこの言葉によって、まず抗議活動の参加者のうちの多くは一国家の最高権力者である大統領から「銃撃」を用いた暴力的な弾圧もまったく辞さないという脅迫を受けたように感じると思われるし、デモ参加者を離れてアフリカ系の人々一般を考えても、彼らは、大統領は自分たちの権利(「公民権」)についてなどまるで関心を持っていないという印象を受けるはずで、それによって事態は鎮静して良い方向に進むどころか、反発によってさらに混迷を深めると考えられるからだ。ドナルド・トランプの真意がいかなるものだったかは問題ではない。いまの状況下でこのような背景を持った言葉を引用することの現実的な機能ぶりから考えて、彼の発言は明らかに浅はかで軽率なものだし、情勢と人心の安定に注力するべき一国の大統領としてふさわしい振舞いだとは判断できず、有害ですらあるとこちらは思う。
  • 六月一日月曜日朝刊、二面。【全米デモ 続く暴徒化/黒人死亡事件/銃撃で1人死亡】。「抗議デモ5日目の5月30日、西部ロサンゼルスなどで放火や店舗破壊が相次いだ。ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、少なくとも全米75都市でデモが行われ、10州で州兵が出動する事態になっている」と言い、「また、AP通信は31日、全米22都市で28日以降のデモ関連の逮捕者が少なくとも1669人に上ったと報じた」。ドナルド・トランプは、「暴徒化が激しいミネアポリスに関しては「地元が望むなら、軍を出動させる用意がある」とも語った」らしい。
  • 九面では、斎藤環筑波大教授がインタビューを受けて発言しており、彼は最近、「新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、我々は「コロナ・ピューリタニズム(CP)」ともいうべき奇妙な倫理観を持ち始めているのではないか」という見解をインターネット上で「提唱し、反響を呼んでいる」と言う。斎藤は、「「自らも感染している前提で、他人にうつさないように振る舞うべきだ」という医学的な要請が、誰もが人祖の罪を背負っているという前提での行動を求める、キリスト教の「原罪」意識に似ていると感じた」らしいのだが、正直それに関しては、そうかな? そんなに似ているかな? とこちらは疑問を感じるものの、「現代日本では、「医学的な要請を道徳的要請と捉え、無意識のうちに倫理観として内面化しつつある」」という分析はおおむねそのとおりではないかと思う。ただ、「これを、禁欲的なピューリタニズム(清教徒主義)になぞらえ、CPと名付けた」と言う点には、わざわざ西欧由来の宗教的概念を援用してくる必要はあるのかな? という疑問がまた生じないでもない。「宗教的な道徳律が希薄だった日本では、「同調圧力のもと誰かを罰したいという人が多い」」とも言い、日本国をいわゆる「村社会」的な共同体として捉えるこういう言説は非常に一般的に流通しており、それ自体は大体において当たっているのだろうけれど、それではなぜそういう「同調圧力」が形成され受け入れられているのか、歴史的・文化的・心理的・社会構造的・思想的などさまざまな方面から見てその源流は一体どこに求められるのかという点をこそ探究し、理解しなければならないはずだ。例えば江戸時代のいわゆる鎖国による文化的同質性の高まりと積み重なりなどという可能性がすぐさま思いつくものの、実際にはそんな単純な話であるはずがなく、そのあたりの研究にも今後触れていきたいとは思う。
  • 六月二日火曜日夕刊、一面、【全米デモ/暴徒鎮圧「州兵増強を」/トランプ氏「略奪は国内テロ」】。ドナルド・トランプは六月一日、「ホワイトハウスで演説し」、「治安が悪化する各州の知事に州兵の展開を増強するよう要請したことを明らかにし、州や市が必要な措置を拒めば、米軍を派遣する方針を表明した」と言う。加えて、「略奪や放火などが頻発する事態に関し「この数日、国がプロの無政府主義者や暴徒、犯罪者らに支配されている」」と述べ、「一連の暴動は「国内テロだ」と断じた」。「軍の派遣は、反乱法に基づき実施される見通し」で、もし「反乱法が発動されれば、黒人青年を集団暴行した白人警察官への無罪評決に端を発した1992年のロサンゼルス暴動以来となる」とのこと。
  • 三面にも関連して、【全米デモ 収束見えず/黒人男性死亡1週間/NYで略奪 外出禁止令】の記事。New York Timesによれば「抗議デモは少なくとも全米140都市まで広がって」おり、「AP通信によると、4400人以上が逮捕されたという」。六月一日の演説後、ドナルド・トランプが「デモで一部損壊した近隣のセント・ジョンズ教会」に立ち寄った際、「警官隊は催涙弾でデモ隊を排除した」とのことで、それを受けて例えばCNNテレビは、「トランプ氏の記念撮影のため、デモ参加者に催涙弾が使われた」と報じているらしい。