2020/6/11, Thu.

 シャルル・ド・フーコー神父(一八五八―一九一六)はフランスの修道士。リヨンに生まれ、二十歳のとき陸軍士官学校に学び、地理学や言語学を修め、一八八三年にはモロッコ探検をするなど、無神論者として貴族的な放蕩生活を送るが、三十歳のとき回心して隠棲生活に入る。アフリカのトゥアレグ族のなかで赤貧のうちに暮らしつつ布教に努めるが、一九一六年十二月にサハラで頭部を撃たれて死亡しているのを発見された。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、88; 「ピエール神父の図像学」; 註6)



  • 一一時二〇分頃離床。夢見。なんか、Deep Purpleの"Speed King"か何かを弾く夢があったような気がする。あとは四人連れで旅行をしているものもあり、車に乗って高速を走っているのだが運転していたのはたぶんTDだったはずで、ほかに兄がおり、もうひとりは女性だったと思うけれど誰だったのかは不明。目的地はロシア連邦内にある小国という設定で、高速道路から降りるところの分かれ道で路面に「Les」という文字が記されてあったが、これが国の名だったのか町の名だったのかはわからない。分かれ道のもう一方にはイスラエルと書かれてあり、運転手のTDは二度くりかえしてイスラエル方面に入りかけた。目的地に到着して町中を兄と並んで歩いていると、すぐそばの屋根付きベンチみたいな座席の角にプーチン大統領がおり、兄は近寄って握手を求め、こちらは行かずに距離を置いてその様子を眺める。戻ってきた兄に、また会ったじゃんとこちらは言ったのだけれど、どうも兄は過去にもどこかで偶然プーチンと出くわしたという設定があったらしい。それからなんなのかよくわからないが人が集まっている台みたいなものの上に乗り、人々がうごめいているのだけれどこちらも周りの人も何をしていたのか不明。そのなかにひとり、こちらの顔をやたらと見つめてくる女性がおり、誰だろうと思ったものの思い当たるところがない。しかしじきに「ハラショー」という人を呼ぶ声が聞こえてきて、これはロシア語の「ハラショー(хорошо)」ではなくH. Sという高校時代のクラスメイトのあだ名として認識されたもので、それでHがいるのかと探してみると実際おり、先ほどの女性もそのすぐ横にいて、もう一度見てみるとそれがおなじく高校のクラスメイトだったKさんだとようやくわかった。相手はこちらをこちらとして認知していたのにこちらはあちらが認識できなかったので決まりが悪く、いや、こういう場所だとさ、やっぱり顔がわからなくなるねとかなんとか言い訳をする。つまり、ロシアに来ているので日本人ではなくてロシア人あるいは白人のように見えたという意味でそう言ったらしい。
  • ハムエッグを焼いて食事。ほか、母親が作ってくれた稲荷寿司など。これに用いられた油揚げは隣のTさんからもらったらしい。食後に風呂を洗うあいだ、窓外から分厚い葉擦れが立ってやはり雨の予兆らしいが、ほとんど雨がもう実際に降ってきたかのような響きだった。
  • 帰室すると今日は最初に日記に取り組み、五月六日を仕上げて投稿してさらに七日も進めていると、雨が降りはじめたと言って母親がばたばた騒ぎはじめたので、こちらも上半身裸のままベランダに出てマットの類を取りこんだ。雨粒は斜めの軌跡を描きつつけっこう勢いよく肌に当たってきて冷たい。上のベランダにもバスタオルがひとつ残っていると言うので階を上がり、それもなかに入れてマットを元祖父母の部屋に干してから戻った。
  • 現在Twitterには主に風景描写など日記を部分的に抜粋して投稿しているのだが、それが面倒臭くなったので、Tumblrを使おうかなと思った。Twitterの一四〇字という枠で長い文をかちかち連鎖させて投稿するのが面倒臭いのだ。それでTwitterに公開したい文はTumblrに投稿してそのURLを貼る形で紹介しようかと思ったのだけれど、なんかいまメモを取りながら、そんないかにもまどろっこしいことをするのだったらもう前と同様ブログのURLそのものを貼れば良いじゃないかという気になった。そもそもブログとTwitterを切り離したのは、Twitterはあまり私的なにおいを出さずに記述を機械的に垂れ流す場にしたいみたいな発想があったからで、日記を全部読めるとこちらという人間が人間らしく見えてきてしまうかなと考えてたしか分離したのだったと思うけれど、そんなちまちました小細工ももはや良いかなという気がする。書いた日記のURLだけを日々お知らせするボットにすれば良いのではないか。
  • 四時からふたたび日記。五月八日を仕上げて五時半ごろ上へ。夕食の準備。豚肉が半端に余っていたのでタマネギと炒めることに。ほか、ブナシメジとタマネギのスープ。母親は昨日こちらが使った鶏のささ身の余りを揚げると言う。タマネギは自家製のもので要するに昨日父親が採っていたやつだが、切ってみるとなかがところどころ小さく変色していたのでその部分はいちいち取り除き、輪切りにしてフライパンでソテーした。ブナシメジと肉もくわえて加熱し、麺つゆで味つけ。仕上がるともう食事に。白米・ソテー・鶏の唐揚げ・小松菜のお浸し・豆腐など。
  • 母親が職場の駐車場を巡る小さな悶着の話をしてきて、面倒臭がらず納得を目指して話し合ったほうが良いんじゃないのとかなんとか適当に言ったが、詳細は面倒なので省く。食後、はやばやと入浴。
  • 帰室するとJaco Pastorius『Truth, Liberty & Soul: Live In NYC The Complete 1982 NPR Jazz Alive! Recording』を流して復読。それからまた日記で、六月六日、九日にこの日のメモを取ったらしい。今日は五月六日から八日まで三日分も記事を仕上げてよく働いた感じがあるので、なんかもう今日はこれくらいで良いかという気持ちになっていると言う。また、Aくんたちと通話した六月七日を記録する仕事が残っているけれど書くことがあまりにも多いのがわかりきっているのでやる気にならない、とこの部分のメモにあったのだが、今日(二〇二〇年七月二一日火曜日に)それを読むまで六月七日に電話したことを完璧に失念していたもので、七日の記事にも会話については一言も触れずに投稿してしまった。気が向いたらあとでこの日の記事か今日の日記覚えていることを記しておくつもり。
  • 二〇一九年五月二四日金曜日の日記を読む。冒頭に『族長の秋』の引用があり、これは過去、六回だか七回だか読んだなかで一番好きだった場面だ。

 (……)大統領はマヌエラ・サンチェスの家の屋根の上で、彼女と母親のあいだに腰かけて奇跡の出現を待った。不吉な前兆のただよう凍てた空の下で感じる心臓のはたらきの不調を気づかれないために、わざと大きく呼吸した。そしてそのとき初めて、マヌエラ・サンチェスが夜吐く息を吸い、屋外での、野天での彼女の冷たさを知った。異変を迎えて呪文のように打ち鳴らされる、地平線の鐘の音を聞いた。彼らより早く生まれて、彼らより長く生き延びるにちがいないのだが、彼らの力の及ばぬ創造物を前にして、恐怖に打ちのめされた群衆のかすかな嘆きの声、沸きたつ溶岩の音ににたものを聞いた。時間の重みを感じ、一瞬、人間であることの不幸を思った。そしてそのとき、問題のものを見た。あそこだ、と教えた。事実、そこにあった。それは、よく知っているものだった。宇宙の向こう側にあったとき、すでに見た、おんなじものだ。あれは、この世界よりも古いんだ。天空いっぱいに広がった、痛ましい光のメドゥーサは、その軌道を二十センチほど進むたびに、誕生した空間に百万年戻っていくのだ。錫箔の房飾りの鳴るのが聞こえた。悲しげな顔や、涙を浮かべた目や、宇宙風のせいで乱れた髪からしたたる冷たい毒液などが見られた。宇宙風はこの世界にきらきらと輝く宇宙塵の尾を、また、地上の時間の始まる前から存在する海底火山の灰やタールの月によって引き延ばされた夜明けを、あとに残していくのだ。あれがそうだ、と大統領はささやいた、ようく見ておけ、百年後でなければ見られないんだ。マヌエラ・サンチェスはおびえて十字を切ったが、彗星の青白い燐光に照らされ、小さな隕石や宇宙塵の雨を頭に白く浴びたその姿は、かつてない美しさで輝いていた。ところがそのとき、おふくろよ、ベンディシオン・アルバラドよ、そのときマヌエラ・サンチェスは、永遠の時間の奈落を空の一角に見てしまったんだ。彼女は命にしがみつくように宙に手を伸ばしたが、摑むことのできたのは、大統領のしるしの指環をはめたぞっとしない手、権力のとろ火で煮つめたように温かい、つるっとした、貪欲な手だった。(……)
 (ガブリエル・ガルシア=マルケス鼓直木村榮一訳『族長の秋 他六篇』新潮社、二〇〇七年、223~224)

  • この記述全体を通してこちらとしては、三文目の「そしてそのとき初めて、マヌエラ・サンチェスが夜吐く息を吸い、屋外での、野天での彼女の冷たさを知った」という一節が一番良いと思う。とりわけ、「夜吐く息」の語にはらまれた具体性である。そのほかこまかな部分に触れておくと、二文目にある「はたらき」のひらいた表記はうまく嵌まっていると思うが、ただ一方で、「沸きたつ溶岩の音ににたもの」の「にた」は漢字のほうが良かったのではないか。あと興味深いのはやはり終盤に見られる「声」の嵌入、または視点の移行のすばやさである。「あれがそうだ、と大統領はささやいた、ようく見ておけ、百年後でなければ見られないんだ」の時点ではまだ「大統領はささやいた」と書かれているのだから、大統領の台詞もしくは「声」が導入されながらも語りの視点は第三者の位置にある。すなわちこの時点での大統領の「声」はあくまで屋根に上って彗星観測をしているその場におけるものであり、それを話者が外から見ながら語っているように思われるのだが、しかし彗星の威容に怯えたマヌエラ・サンチェスの美しさを描写する一文が挟まれたのち、「ところがそのとき、おふくろよ、ベンディシオン・アルバラドよ、そのときマヌエラ・サンチェスは、永遠の時間の奈落を空の一角に見てしまったんだ」という一節にいたっては、大統領の「声」はこの場で記述されている具体的な時空から浮かび上がって語りと同じ位相に置かれているように感じられる。その「声」の嵌入は、「おふくろよ、ベンディシオン・アルバラドよ」という定型句的な「呼びかけ」によって導入されるとともに、この「呼びかけ」こそがまた、この一文が大統領の「声」だということを証してもいるだろう(この「呼びかけ」がなければ、この文の主体が大統領であると判別することはおそらくできないはずだ)。つまりこのひとつの文においてのみ語りは一時的に大統領の「声」を召喚しており、あるいは母体的な〈大いなる語り〉として彼の分子的「声」を吸収しているわけで、大統領のほうからその点を考えると、彼はここで一瞬だけ語り手の地位に同化しているということになる。この小説内のさまざまな箇所に見られるこのような仕組みについてはまた再読したときに考える必要があるだろう。で、このあとの一文は「彼女は」で始まり、なおかつ「大統領のしるしの指輪」という三人称所有格も出てくるので第三者的な語りに戻っているわけだけれど、「おふくろよ、ベンディシオン・アルバラドよ」の「声」が差し挟まることでそうした三人称的語りの流れが切断され、二度に渡る鮮やかな視点の転換(「語り」→「声」→「語り」)が生まれており、その切断もしくは遅延によって最後の「彼女は(……)」の内容が言わば演劇的に強調されていると言えるのではないか。
  • 同日、短歌を七つ作っているが、いまの目から見て一定の水準をクリアしているのは三つのみ。ほかは無理があったり整っていなかったりする。

監獄でメメント・モリを唱えつつ純粋音楽夢見て眠る

街角でバスに轢かれた猫を見て雨が降ればと祈らずおれぬ

後れ毛を搔きあげながら唄歌うあの子の眼には無限が見える

  • 二〇一九年五月二五日土曜日もやはり作歌。以下の四つがそこそこ悪くはなく、一応許せる。

純白の真昼の光の只中で蝶が孵化する夢を見てから

道端の小石を拾い涙するいかなる夜も祝福だから

寂しいと今言ったのは僕の瞳? 夜空の下ではすべて眩しい

「ロリータ」と発語するたび舌を噛む血塗られた唇でキスしたい

  • 「明け方に台風の目を刺し殺す風が絶えたら俺も死ぬから」はわかりやすすぎる。「赤らんだ石の記憶が忘れられ歴史は腐る樹液のように」は悪くないが、なんか惜しい感じがある。「黄昏の砂の帳を切り捨ててスケッチしよう虚無の色味を」も悪くはないが、「色味」の語が嵌まりきっていないし、「虚無」も通有的。「崩れ落ちたガラスの破片で指を切り血を撒き描く真理の唄を」は一応整っているものの、遊びがなくて退屈。
  • 同日にはまた生まれてはじめて詩を書いているものの、これはいま読み返すとまったく話にならない。意味の接続や連の移行というものをまるで理解していない。続けて二篇目もさっそく作っており、第一連(「西陽のなかで狂い鳴く鶯が/色彩の反乱めいた音列を撒き散らす/美しく荒れ果てた菫色の空に/僕は役立たずのカメラを捨てなければ」)は、音調は良くないけれど内容はそこまでゴミクズでもない。ただやはり次の連への移行がまるでなっておらず、適当に思いついたことを並べただけという感じで、と言うかまさに実際そうだったのでそりゃそうなるほかはない。最終連にある「唇と唇をわざわざ遭遇させなくたって/僕らが繋がり合う方法はほかにいくらでもある」も、ロマンティックに気取っていやがるけれどポップではある。
  • Sさんのブログを閲覧。彼のブログもMさんのものみたいに過去のアーカイブを最初から全部読んでみようかなと思い、記事をさかのぼって二〇〇六年五月二一日のものを読んだ。すなわち一四年前であり、二〇〇六年の五月というとこちらは高校二年生で、典型的な自意識過剰を抱えて鬱屈した少年に過ぎなかった。高校二年の初夏だから新しく替わったクラスにはまださほど馴染んでいないはずで、とは言えたぶんNあたりとは、ハードロックやヘヴィメタルなどが好きだということでちょっと話すようになっていたのではないか。バンドでは、今年の文化祭でDeep Purpleの"Burn"をやろうということがもう決まっていたかどうか、さすがにまだ固まってはいなかったか? あとたしか六月の頭に沖縄行きの修学旅行があった気がするので、それに向けてなんとなく計画が進んでいるころかもしれない。男子はともかくクラスの女子とはほとんど親しんでいなかったはずだが、ただ合唱祭がたしか五月末にあったのではないか? そうだとすればその練習を通じて多少クラス内関係ができはじめていたかもしれない。文化祭あたりからS. Aと仲良くなった覚えがあるのだが、あれは一体何をきっかけとしたものだったのだろう。彼女は文化祭実行委員を務めており、その仕事の関連で何かしらの相談を受け、雨の宵に玄関外に出て携帯で電話をした記憶があるが(こちらが携帯電話をはじめて入手したのはたしか高校二年生のときだったと思うから、まだ手に入れてまもなかったのではないか)、相談を受けたということはそれ以前から親しくしていたということだろう。だがその発端が思い出せない。そういう思い出話はともかくとして、自分がそんな人間だったころからSさんの文章が書き継がれているというのは、何度考えてもちょっと驚くと言うか、なかば理解を越えていて印象深いことだ。まあそれを言ったら、この世の営みってすべてそうなのだろうけれど。あともうひとつ驚いたのは、この二〇〇六年時点ですでにSさんの語り口がまさしくSさんの〈声〉にほかならないという感覚を与えることである。

郡司 (……)僕はいちおう自然科学者なのですが、手術のようにちゃんとした環境のもとで計算することでは、つまり科学のモデルでは、本当の意味での現実が見えてこないだろうと思っています。そこが出発点です。
 科学は、科学が設定した条件のもとで、科学がつくりだした測定装置で世界を見て、理論がうまくいったと言うわけです。極論すると、水がコップの形をしているか否かを考えるとき、コップで水を汲んで、「水はコップの形をしているんだ」と言う。それ以外の可能性は、測定装置によってあらかじめ排除されてしまう。
 たとえば、生物の群れをプログラミングでどう実現してきたか、ほとんどの科学者がどう考えてきたか、説明しましょう。群れのモデルでいちばん問題なのは、人間の社会と一緒で、〈個の自由〉と〈社会性〉の両立です。この二つは、普通に考えると、矛盾しますよね。自由は大事だけれど、社会を維持するためには、みんなが自分の自由を犠牲にしなくちゃいけない。でも、すべての自由を奪われたくはない。
 そこでギリギリのところで妥協点を設ければ、適度に民主的で、適度に自由な、理想的な社会がつくれるだろう。そう考えてしまうわけです。

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 むかし十徳ナイフを一枚の金属プレートで実現する道具がありましたが、それは万能性と効率の妥協の産物ですね。四角いプレートのある辺は定規、ある頂点とその周辺は薄くなっていてナイフ、別の頂点はマイナスドライバーといった具合です。絶妙のバランスでさまざまな機能が配分されていますが、使い方を間違えるとケガをしますね。定規を使うつもりで、ナイフの部分を握ったり。つまり妥協の産物はつくれるものの、逆に使い勝手が悪い。
 群れのモデルの場合も同じです。自由と社会性の妥協点を実現したモデルやロボットは、ものすごく精密に調整することで、つくれることはつくれます。けれど、精緻な計算で実現したものは、少しの温度変化や環境の変化で、たちどころに動かなくなってしまう。つまり、これも現実世界における使い勝手の悪さをあらわすもので、頑健性が非常に低い、ということですね。

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郡司 万能性と効率は、「道具」という人間の都合でつくられた世界の概念です。そのトレードオフは、だから人間の道具の設計思想に依存して現れているわけです。群れや人間の社会は、道具ではなく、こちらの都合で見たり使ったりできない現実の事物や現象です。科学的モデルやロボットの多くは、これに人間の都合を押し付けている。そこに問題があるのじゃないかと思います。つまり、そもそも自由と社会性の矛盾や対立は、ある意味でアーティファクト(artifact)、人間がつくりだした問題なんじゃないかと疑っているのです。
 人間の都合の典型的例が、同期的時間だと思います。人間は、計算するときや、論理的にものを考えるとき、「時間」が全部同期していることを前提に話を進めます。つまり、どこにいる人も、同じ状況を観測して、同時に判断して、同時に動くということですね。
 群れのモデルも、基本的にはそうした「同期」を前提につくられています。いったん何か計算して、全部やめて、全部また同じスタートラインに立って、また次の計算をやる。そうやって時計が同期をとりながら計算しています。

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 僕が見るところ、現実というのは、それぞれの時間は非同期で、みんな勝手な時計で動いている。つまり時間はローカルに調整されていて、グローバルに同期していないわけです。そこで群れのプログラムも、そのようにバラバラの時計で設計してみる。すると、二項対立からもたらされるトレードオフが壊れてきて、同期の時計で考えたギリギリのバランスよりも、より万能性も持ち、さらに効率がよく、また頑健性も高い、という群れが実現されるのです。

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 一般に、能動と受動は二項対立で考えられますが、僕は「能動的な受動」と「受動的な能動」のような、より中途半端な態度が、時間のズレのなかで次々に実現されていると思っています。能動的受動というのは、「受動的であることを能動的に表現すること」。お店に入ったときの挨拶「いらっしゃいませ」が、まさにそれですよね。

——発話自体は能動だけど、内容が受動。

郡司 もっとわかりやすい例でいえば、ダチョウ倶楽部のコント(笑)。
 熱湯風呂があって「入るひと〜」と聞くと、皆、ハイハイハイって手を挙げるわけですね。で、いちばん最後に挙げた竜兵が、「どうぞどうぞ」と言われてなぜか入ることになってしまう。つまり「どうぞどうぞ」は能動的な受動の表現であるし、最後に行かされるほうは、一見能動だけれど受動的な能動で、「俺、行くわ」って感じになる。
 大事なことは、このコミュニケーションは同時に発言していたら成立しないということです。タイミングの微妙なズレで、竜兵ははめられてしまうのです。竜兵が熱湯風呂に入ってしまうのは、二項対立を調整して妥協点を探ったのではなく、時間的なズレがあるからなんです。
 能動と受動が対立して、いずれかが明確に決まるわけでもなく、能動と受動を中和してしまうわけでもない。能動と受動は、非同期な時間によって、能動的受動、受動的能動、能動的受動的能動……など、関係を内包させて区別しながら区別を無効にする。こうして、能動と受動の二項対立は見えなくなっていく。

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 いま哲学では思弁的実在論が盛り上がっています。郡司さんは基本的にそれに同意しつつも、「あの哲学は外部の実在を証明しただけである」と書かれています。ご自身は証明のその先、つまり「外部とどうつきあうか」を考えている、と。一方でAI研究者たちは、計算が精密になったことで、「外部を考えてもしょうがなくなった」と外部が解消したかのように振る舞っている。これらは一見対立しているように見えるけれど、実はコインの表裏であって、身体や時間など現実にあるものを無視してしまっているとおっしゃっていましたね。

郡司 僕はやっぱり、「実在する世界を肯定したい」という気持ちを持っています。『天然知能』の帯には、『理不尽な進化』(朝日出版社)の吉川浩満さんに「AIブームへの正しいカウンター」と書いてもらっていますが、人工知能のブームについては危機感があります。
 それはよく言われるような、シンギュラリティが来る、人間の職が失われる、という危機感ではありません。人工知能は、基本的に「わかるもの」を組み合わせて、自分の(人工知能の)世界を拡張してつくっていますよね。自分にはわからないもの、つまり「外部」は一切ありません。そうした理解の仕方を進めることで、人間の、人間についての理解が、人工知能のようになってしまう。これは非常に危ない話だと思います。見たいものだけを見て、他者は排除されますから。そういう認識のあり方が全面肯定されていく。

     *

郡司 もともと人工知能は、ミンスキーに見られるように、フッサールハイデガーなど、現象学の流れにつながっています。僕は、ハイデガーがナチと関係していたのは、決して偶然じゃなくて、ある程度の必然性を持っていると感じていますが、この部分が人工知能研究には継承されないようにしないといけない。「私の世界」を徹底的にまとめていって、そこに時間を考えていくと、時間というのは私が死に向かっていくもの、という話にならざるを得ない。ここでは、自分の思考する世界全体の外側については考えない。そういう「全体性」が、強力な何者かにすり替わるというのはある意味で当然の結果だと思います。
 人工知能現象学的な話は、どちらかというと一人称で、自分がいきいきと生きられればいいという考え方だと感じています。でも、自分とまったく関係のない人、社会にはまるで役に立たない人も、世界にはたくさんいるじゃないですか。そういう人たちは、関係がない限り目にも入らないわけです。目にも入らないことを許して、目に入っている世界だけで自分を成長させられればいいみたいな。現在の人工知能はそうなるんじゃないか。それは、いくらなんでもとんでもない話だという気がします。
 かといって、「自分以外の人のためにも、一緒に生きなくちゃいけない」と言ってしまうと、一見世界を他者や外部へと拡張したように見えますが、それはあくまで「自分が理解できる範囲で」ということです。だから、「私とあなたが入れ替え可能である」という、やはり閉じている世界にいることになる。その人たちの立場に立つ、なんてことは絶対にできない。できると思って何かやるほうが、よっぽど恐ろしいことだと思うんですね。

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 ただ、「受動と能動」だとか「問いと答え」みたいに、両者の対応関係が一つに決まることを前提にして考えるんじゃなくて、そのあいだにズレが入ってこないと、コミュニケーションはうまく機能しません。受動に対して能動を対置したつもりが、なんか曖昧で、受動的能動みたいで「あれ?」という感じ。問いに対してうまく答えたつもりが、ピンとこなくて「あれ?」と。こういうズレにツッコミが入りまくり、そこへ外部から何かやってくる。そういった「自分と相手」のモデルを携えながら生きることが、「その人の気持ちになるかのように」ということでしょうね。
 だからこのモデルは、あくまでも「宙吊りにされた二項対立」として、本当の意味でわからない相手=他者へアクセスするため道具といいますか。そういう覚悟が大事なんじゃないかと思うんですね。

——二項対立が宙吊りにされている……。もう少し説明していただけますか?

郡司 ふつう、問題と解答は、排他的な関係です。問題が成立するときには、まだ解答がない。解答があったらば、もう問題は考えなくていい。これがわかりやすい二項対立です。「椅子ってなんですか」「これが椅子の画像です」「わかりました」で終わります。終われるというのは、その答えがそれしかなくて、まさにいい答えであることを意味している。だから、問いに対して答えの関係がただ一つに決まるとき、排他的な関係になるのです。
 では、もっと難しい問題について考えてみるとどうでしょう。「生きるって何?」みたいな問いになると、なかなか答えられません。ただ一つの解答として、「これ」という答えは出せないですよね。
 でも、そこでもし「それは黒澤明の『生きる』という映画でしょう」と答えたらどうでしょう。「違うよ!」とツッコミが入りますよね(下図)。
 これがツッコミとして成立するのは、「生きるとは」という質問と、黒澤明の『生きる』という解答のあいだに、明らかに空白、ズレがあるからです。そのズレにツッコミが入り、ズレはより明確になる。その結果、問いに対する答えは不十分となって、答えが出たのに問いが消えないのです。これが排他的なはずの二項対立の宙吊りです。この宙吊り、ズレによって、質問者も想定していなかったような、何か生(せい)の本質にたどり着ける可能性が出てくる。徹底した外部としてアクセス不可能だった生の本質がやってくるのです。
 このように「生きるとは何か」から二項対立の宙吊りが出てくるのはわかりやすいですが、本当は、「椅子とは何か」という質問も、同じように、二項対立の宙吊りに接しているはずなのです。椅子の画像を見せられて「わかった」と思うのは、要するに「百聞は一見に如かず」という条件のもとで見ているからにすぎません。本当は「そもそも座るって何だ?」みたいな本質が背後にいっぱいあるのに、特定の条件に束縛される限り、そこにはぜんぜんたどり着けない。

——そこで郡司さんは『天然知能』で、外部すなわち想定外のことがやってくるのを「待つ」のだと書かれています。同時に、ただ待つのではなく、「仕掛けが大事」とも書かれていますよね。その仕掛けというのを、具体的にもっと聞きたいのですが。

郡司 小説や詩は、まさに外部に対する仕掛けといえるでしょう。文学って訳のわからない話がいっぱいあるじゃないですか(笑)。言葉は並んでいるんだけど、言葉の意味そのものを捕えるものではなくて、語間にある変なものを感じ取って、その並びに対する独特な雰囲気を立ち上げたり、イメージを理解するわけですよね。
 僕はずっと理科系にいましたが、みなさん哲学の本は読むわけですよ。だけど、そこでもやっぱり数学や物理の教科書のように、「言葉はある特定の意味を指定していて、文が指定する一個の客観的な意味を読み取ることが正しい読み方で、それ以外は誤読である」という前提のもとで読むわけですね。
 その意味では、小説や詩はむしろ誤読のための仕掛けなのだと思います。(……)

  • この直上の話の後半は、こちらがこのあいだ(六月七日の記事に)書いた即興演奏におけるミスの話とおおむねおなじ趣旨だろう。

 [宮沢賢治「なめとこ山の熊」に関して、]熊と猟師で童話をつくる場合、まず、そこには「殺す/殺される」という排他的な関係があります。その二項対立だけで考えると、熊も人間も、お互い敵同士の関係に見えるけれども、それは入れ替え可能で、どっちが殺す/殺される立場になるかわからない。そういう厳しい生存環境のもとで生きていくことこそが、われわれの生の現場だ——みたいな話になると、排他的な関係が、交換可能なことで循環さえ意味しますが、排他的な関係を前提にしてそこに留まるだけです。すると、閉じたエコシステムみたいな思想として終わっちゃうわけですよ。これでは文学にならない。
 「なめとこ山の熊」では、殺す/殺されるの関係が宙吊りになっています。ある日猟師が熊に会って殺そうとすると、「2年待ってくれ。2年経ったらば死にますから」と言って熊はどこかへ去ってしまう。猟師が忘れていると、たしかに2年後、窓の外でドタッと音がして、開けてみると、熊が血を吐いて倒れている。猟師は畏敬の念を感じてしまう。
 最後に猟師が死ぬところでも、その死体は、まるで生きているように山のてっぺんに置かれて、山の熊たちが車座になって何か拝むようなことをやっていたようだと、そういうナレーションみたいなのが入って物語は終わります。
 殺す/殺されるみたいな排他的関係を用意しながら、それが無効にされ、宙吊りになっている。殺したならば、殺されたほうは消えるはずなのに、殺すほうも、殺されるほうも残ったまま共立している。この「二つのものが共立している」ところがポイントで、共立しているがゆえに、そのあいだに変な隙間ができて、その隙間に何らかの形で考えなければならないものがバーッとやってくる。殺す/殺されるに留まるだけのエコシステムのようなものの外部、賢治的な宇宙がやってきて、そこで人は拝んだり、思考が始まる。

     *

 現実に外部を召喚するという行為は、けっこう命がけで奇跡的です。それを皆、一生懸命やってるにもかかわらず、そんなのは自明だという感じで終わっちゃうんですね。時間に関する議論がその典型だと思います。時間というのは、過去と未来があって、その真ん中に現在がある、と簡単な図式で思われがちですが、実際にはベルクソンが言っているみたいに、過去は「実現された過去」であって、未来は「まだ実現されていない過去」のことですね。
 つまり、過去と未来の関係は、部分と全体なんです。実現されたものはごく一部で、可能なものはものすごく大きくある。そこに、何か現実みたいなものがやってきて、そのあいだを貼り合わせて、「今」というのがつくられる。つまり今とは、ちょっと前の過去と、ちょっと先の実現されていない過去がつながった、ある種の幅を持った時間概念のこと、と考えられます。
 そこに私はデジャブのことを考えるんです。以前、目の前でおばあさんがカートを引っ張っているのを見ました。どうやら車輪が濡れているみたいで、轍(わだち)ができている。「おばあさんの車輪が濡れているから轍ができているんだな」と、ずっと10分ぐらい歩きながら見ていました。

——10分ですか(笑)

郡司 ええ。それがある瞬間、突然、車輪と轍がズレたんですね。そのときに初めて、その轍はだいぶ以前にできていて、たまたまおばあさんのカートが、その上を走っていただけだとわかった。その一瞬、すごいデジャブ感が起こったんですよ。その理由をあとあと考えてみると二つの因果関係がズレてしまったから起きたんだろうと思い至った。
 つまり、さっきまでは「車輪が濡れているから轍ができている」という因果関係が頭の中でずーっと回っていて、現実の轍に沿っている映像とちゃんとつながっていました。因果に関する反復が、この今を完了させ続けている。解釈が循環していて、完了して、完了して、完了し続けていますが、それはまさに現在と接続することで現在完了を成している。
 ところが車輪が轍からズレることで、「車輪が濡れているから轍ができている」という因果関係の説明ができなくなった。この因果関係の反復は、完了には違いないのに、現在との接続を絶たれてしまう。現在と無関係な完了形、それはつまり過去完了しかあり得ません。だから、現在完了に過去完了が共立して、今完了していることに、かつて完了したという感覚が伴う。だから今現在それを見ているにもかかわらず、過去に見たと感じる、まさにデジャブになってしまったのではないか。そう考えたのです。
 でも、これって特殊なことではないと思います。「今」というのがある程度の幅を持つというのがまさにそれです。たとえばボールが飛んでいるのを見たときですら、そこにあったのが今ここにあって……ボールがここにあることと、そこにあることの因果関係は違うわけです。その違う因果関係が接続されてしまうからこそ、われわれは「運動」を知覚できるわけです。われわれは、そういった接続を絶えずやっている。

(……)On Dec. 11,1967, Prime Minister Eisaku Sato (Prime Minister Shinzo Abe’s great-uncle) announced Japan’s “Three Non-Nuclear Principles” to the Diet, noting that it was his responsibility “to achieve and maintain safety in Japan under the Three Non-Nuclear Principles of not possessing, not producing and not permitting the introduction of nuclear weapons, in line with Japan’s Peace Constitution.” The Diet later codified part of the principles in law, meaning that renewed legislative action is a prerequisite to any formal pursuit  of a domestic nuclear arsenal.

While domestically that policy is black and white, Japan’s foreign policy takes a different approach. The government has consistently recognized the need for nuclear deterrence, achieving this by relying on the U.S. nuclear umbrella. The allies periodically renew this deterrence commitment in senior-level joint statements and offered an explicit reference to it in the 2015 Guidelines for U.S.-Japan Defense Cooperation. Those defense guidelines reassured that “the United States will continue to extend deterrence to Japan through the full range of capabilities, including U.S. nuclear forces.”

     *

Japan has also taken a measured approach to the international community’s activities toward nuclear disarmament. Where Japan can call for disarmament without impact to its nuclear umbrella, it does. In 1970, Japan signed the Nuclear Non-Proliferation Treaty and ratified it in 1976. The 2020 Review Conference for that treaty is upcoming, and Japan will take the opportunity to renew its commitment to the provisions of the treaty. Also, for the past 26 years, Japan has co-sponsored an annual United Nations General Assembly resolution calling for the total elimination of nuclear arms.

However, neither of those activities have binding impacts on existing nuclear deterrent capabilities. That is why Japan’s approach to the recent 2017 Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons differed: With this treaty, signatories accept a prohibition from developing, testing, producing, stockpiling, transferring and using or threatening the use of nuclear weapons, as well as assisting other countries to engage in prohibited activities or seeking assistance from anyone engaged in actions that violate the treaty. In other words, signing onto the treaty would mean Japan would have to change its position toward the U.S. nuclear umbrella, which is a bridge too far despite its own domestic principles.


・作文
 12:10 - 12:25 = 15分(5月6日)
 12:36 - 14:09 = 1時間33分(5月7日)
 16:04 - 16:24 = 20分(6月11日)
 16:34 - 17:13 = 39分(5月8日)
 20:14 - 21:01 = 47分(6月6日)
 21:02 - 21:11 = 9分(6月9日)
 21:11 - 21:17 = 6分(6月11日)
 24:15 - 24:27 = 12分(6月11日)
 27:16 - 28:12 = 56分(5月9日)
 計: 4時間57分

・読書
 19:29 - 19:51 = 22分(英語)
 19:52 - 20:08 = 16分(記憶)
 21:18 - 23:22 = (1時間引いて)1時間4分(バルト: 72 - 85)
 23:27 - 24:14 = 47分(日記 / ブログ)
 24:59 - 25:33 = 34分(ジョンソン)
 25:34 - 25:58 = 24分(郡司)
 26:07 - 26:37 = 30分(MacArthur Bosack)
 28:13 - 28:32 = 19分(バルト: 85 - 90)
 計: 4時間16分

・音楽

  • dbClifford『Recyclable』
  • Deep Purple『Made In Japan』
  • Rafael Kubelik / Czech Philharmonic『Smetana: My Country』
  • Jaco Pastorius『Truth, Liberty & Soul: Live In NYC The Complete 1982 NPR Jazz Alive! Recording』
  • James Morrison『Songs For You, Truth For Me』