2020/6/13, Sat.

 こうした二重の出産の際、最初は男が不在のように見える。子供と小説はどちらも同様にひとりでやって来て、母親だけのものといった様子をしている。なにしろ同じ括弧のなかに記された作品と子供を、七十人分も眺めていると、もう少しのところで、これらはみんな想像力と夢想の成果ではないか、ただの一度で女にバルザック的な創作の喜びと母性の愛情ある喜びを与えるような、理想の単為生殖の奇跡的な産物ではないかと思ってしまいそうだ。ならば、この家族の肖像画のなかで男はどこにいるのか。どこにもいないし、また、どこにでもいる。さながら大空のように、地平線のように、生存条件を規定すると同時に閉じ込める権威のように。これこそがあの『エル』の世界なのだ。そこでは女たちはつねに一つの均質な種族をなし、自分の特権に未練を持ちつつ、さらにそれ以上に自分の受けている束縛を愛しているような法人組織である。男は決してその内部には入れない。女らしさというものは、純粋で、自由で、力強い。けれども、男がそのまわりじゅうにいて、いたるところから圧力をかけている。男が女を存在させているのだ。男は太古の昔から、ラシーヌ的な神のように、不在の創造主なのだ。男が存在しないが、男の視線によってすべて完全に構成されているような世界。『エル』の女性的宇宙は、きわめて正確に閨房のそれである。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、90~91; 「小説と子供」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五五年一月号)



  • 一〇時のアラームで一度目覚めたはずだが、結局正午過ぎまで混濁した。外では真っ白な空から雨が落ちている。雨音にも層があると言うか、当然だけれどそれは空間のあちこちで均一に伸べられてはおらず、異なるニュアンスの領域が浸潤的に接し合いながら形成されているし、その様相は時間につれて絶えず変わっていく。風があるようでときおりばたばたという響きが挟まるのだが、それはたぶん斜めに走る雨粒がシュロの葉を打つ音か、あるいは濡れそぼった葉そのものが揺れてぶつかり合うために生まれた音だったと思う。水の属性につらなると言うよりも、ぱちぱちとはじける火花のような音響だ。
  • 食事は蕎麦や素麺やメンチカツなど。父親の勤めはいつまでなのかと母親に訊くと、六月いっぱいの予定だったところがひと月伸びて七月三〇日の株主総会で終了だと言う。それで帰室すると、兄にその旨知らせるために返信を書く。室内はほの暗く、モニターが発する白さの周囲に淡い影がただよっている。

 (……)

  • その後、Miles Davis『Four & More』とともに復読。読みはじめる前に冒頭の"So What"をちょっと聞いた。すばらしい。Miles Davisのトランペットは苛烈だし、Herbie Hancockのバッキングはこまかくて速いし、何よりTony Williamsがやっぱりすごい。ところによってはキック踏みすぎだろという感じでちょっと笑えるのだけれど、そのような勢いのみ一辺倒のプレイではなく、シンバルなどの装飾は巧みに挟まれるし、減速して抑えるところもぐっと急激に抑えてくる。Tony Williamsはこのライブの時点でまだ一九歳か一八歳ほどで、年齢をどうこう言うのはつまらないことだけれど、さすがにその歳でこのダイナミクスの幅広さ、動静のすばやくなめらかな転換を実現しているのはすさまじいと言わざるをえないんじゃないか。
  • 復読中、以前Uくんからもらった修士論文のことを思い出し、読んでみなくてはなと思った。そういうわけでその後、この文書に触れる。「ギャングスター・ラップ」と呼ばれるヒップホップ文化が合衆国におけるアフリカ系の人々のアイデンティティ形成とどのように関わっているかを整理し、Kendrick Lamarを「ギャングスター・ラップ」の系譜に位置づけるとともにそこにとどまらない彼の特異性を探る、というようなテーマ。こちらがこれまで全然触れたことのない分野だ。ひとまず三六ページまで読んだ。
  • 夕飯には久しぶりにカレーをこしらえた。
  • Mさんブログ、二〇二〇年三月二八日。自閉症者の事例の話がとても面白い。

 ウィトゲンシュタインは、疑うことは言語ゲームによって可能であり言語ゲームの一部だといっている。彼もまた「懐疑のための懐疑」を否定した。だが、そのようにいうとき、彼は、疑うことは言語ゲームの一部ではないかと疑っている。哲学の歴史は言語ゲームであり、まさに疑うという言語ゲームが〝問題〟を形成してきたのではないか、と。もちろん、彼はデカルトのように、疑っている〝私〟が在ることは確実だとはいわない。しかし、多種多様な言語ゲームがあり、その外部に出られないと彼がいうとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、彼がその外部に立っていることは確実なのである。
 それはもちろん、彼がすべてを見おろす立場に立っていることを意味するのではない。言語ゲームにはそのようなメタレベル(超越的レベル)などありえないということが、ウィトゲンシュタインの主張の眼目なのだ。にもかかわらず、それを疑っている立場があり、そのような「私」が在ることは疑いがない。だが、この「疑いなさ」(明証性)こそ、彼の「語りえぬ」ことがらであった。
 彼は懐疑論を「言語ゲームの一部」として否定するとともに、私的言語を攻撃して、「内的な体験」の明証性を否定する。これはべつに反デカルト的ではない。われわれが「思惟」とよんだり「内面」とよんでいるものは、社会的な〝慣習〟(言語ゲーム)にすぎない。「私は考える」は、すこしも私的ではない。内的なものは、徹頭徹尾社会的(制度的)である。それは、デカルトのいう〝身体〟であって、〝精神〟ではない。結局「内的な体験」の明証性を批判するとき、ウィトゲンシュタインはまさに〝精神〟を要求していたのであり、私的言語を批判するとき、まさに〝私〟的な実存からそうしていたのである。世界は言語ゲームであって、その外部はないというときの、ウィトゲンシュタインの実存は外部的である。いうまでもなく、この外部性は、言語ゲーム論者たちにおいて消えてしまっている。
柄谷行人『探求Ⅱ』p.107-108)

     *

ひとは最初の刻印をララング lalangue から受け取るわけですが、そのララングにおいて語は不明確なものです。……言語 langue がどんなやり方でも遺産をつくらないという意味ではありません。その後に、夢や各種の躓きや各種の言い方のなかに何かが生じるわけですが、それは、各々においてランガージュが話され、また聴かれる仕方の個別性において生じるわけです。これは、まったくもって確かなことです。もし、この語を初めて使うことを許してもらえるならば、「語の物質主義 motérialisme」にこそ無意識の手がかりがあるのです。私が先ほど症状と呼んだものを維持するために各人が見出すのはこの方法でしかないのだ、と申し上げたいと思います。(Lacan, 1985,…)。

 パラフレーズしよう。子供が初めて言語に出会うときのトラウマ的な衝撃(身体の出来事)の際に刻印される最初の言語のことを、ラカンは「ララング lalangue」と呼ぶ。つまり、ララングとは、子供が初めて出会う原初的な言語(S1)のことである(「ララング」という奇妙な綴りがもちいられているのは、子供がもちいる「喃語 lallation」との言葉遊びのゆえである)(S20, 126)。このララングは「不明確」な語であり、子供はその意味を理解することはできないが、そこには「子供が身体の上に最初に発見する性的現実」、すなわち自体性愛が刻まれている。通常では、このトラウマ的なララング(S1)に、新たに獲得した他のシニフィアン(S2=知)を付け加える作業がなされ、そうすることによって子供は次第に「ララングと折り合いをつけること savoir-faire avec lalangue」ができるようになる(S20, 27)。このようにして無意識(S2)が、すなわち無意識の形成物である夢や言い間違いや症状が形成される。この際に、ララングに刻まれた自体性愛的な享楽の残滓は、ララングが他のシニフィアンに置き換えられていく過程のなかで、剰余享楽へと変貌することになるだろう。しかし、症状を解消不可能なものとして維持しているシステムの根幹には、自体性愛的な享楽をまとったシニフィアン(S1)の反復がある(S22, 64-5A)。このように考えると、無意識を解明するためには、無意識の知(S2)を相手にするのではなく、その知のすべての発生源にある物質的な語であるララング(S1)を取り扱わなければならないということになる。
 症状の一般理論は、単に言語獲得における「原初」を遡及的に思弁することによって得られたわけではない。なぜなら、自体性愛的な享楽が刻まれたシニフィアンであるララングは、とりわけ自閉症の臨床において実際に確認できるからだ。
 ここでは、自閉症の代表的症例として、精神分析家ロジーヌ・ルフォール(以下、ルフォール夫人)がラカンセミネールのなかで提示した症例ロベールを取り上げてみよう。ロベールは、適切な養育を受けることができなかった、今でいうところのネグレクト(育児放棄)被害児である。ルフォール夫人がロベールに初めて出会ったとき、彼はまとまった文章を話すことができず、単語を発することしかできなかった。なかでも、不安を感じた際に「狼!」という単語を叫ぶ姿が頻繁に観察された。例えば、彼は扉が開いていることが我慢できず、扉をルフォール夫人に閉めさせては「狼!」と叫んでいた。また、彼は糞便や尿を排出する(自分の身体から切り離す)ときにも不安になり、おまるに溜まった糞尿を捨てる際にも「狼!」と叫んでいた。総じて、この「狼!」というシニフィアンは、なんらかの否定的な穴 trou が彼の前にあらわれるときに決まって叫ばれるものであった。つまり彼は、扉が開いて空間に穴があくことや、おまるの中身が捨てられて無の空間ができることにひどく不安を感じており、その不安を「狼!」というシニフィアンで表現していたのである。ルフォール夫人らは、この「狼!」というシニフィアンは「ひとつの現実的な穴にみあうシニフィアン」であると述べている(Lefort & Lefort, 1988, p.124)。後に、この「狼!」というシニフィアンが、ロベールにとっては「破壊」を意味していることが明らかになった(S1, 109/上150頁)。ネグレクトによって、住居や施設や病院を転々としながら生きることを余儀なくされてきたロベールにとって、ドアから出ることや排泄物を捨てること(=棄てられること)は破壊を意味しており、ロベールはそのトラウマ的な出来事に対して「狼!」というシニフィアンをあてていたと考えられるのである。
 エリック・ローランは、ロベールが「狼!」というシニフィアンを反復する姿に、ララング(S1)を他のシニフィアン(S2)に連鎖させることなくララング(S1)のまま中毒的に反復する試みをみてとっている(Laurent, 2012, p.89)。より詳しく説明しよう。ロベールのような自閉症者は、しばしばひとつのシニフィアンを常同的に反復してもちいる。また、自閉症者がしばしば行う儀式的行動も、ひとつのシニフィアンの反復と関連している。このような反復されるシニフィアンは、次のような特徴をもっている。
(1) 自閉症者がもちいる「狼!」のような反復的シニフィアンは、他のシニフィアンと連鎖していない(=分節化されていない)シニフィアンである。このようなシニフィアンしか存在しないことは、彼が「現実界だけを生きている」ことを示している(S1, 120/上168頁)。このようなシニフィアンは、他のシニフィアンへと回付されることができず、それゆえ子供は、自分でもこのシニフィアンの意味を理解することができず、困惑に陥ってしまう。つまり、このシニフィアンは、「〈一者の〉シニフィアン signifant Un」に相当する。
(2) このシニフィアンは、単に言語であるだけではなく、むしろそこには享楽が一体化している。ロベールの場合、「狼!」というシニフィアンは耐えがたい穴の出現というトラウマ的な出来事を刻み込まれたものであり、先に検討した「ララング」の性質をもっている。そして、この〈一者の〉シニフィアン=ララングは、他者とのコミュニケーションにはまったく役に立たず、むしろ各々の主体が自体性愛的な享楽を独自に得るためのツールとしてもちいられている。
 このように、自閉症者がもちいる常同的・反復的なシニフィアンは、原初的な言語であるララング(=自体性愛的な享楽をまとったトラウマ的なシニフィアン)そのものを私たちに呈示していると考えられる。自閉症者は、いわばララング(S1)というトラウマ的なシニフィアンに出会い、それ以降、言語(S2=知)を獲得しないことを自ら選択し、ララングの場所に立ち止まった子供たちである。言語(S2)の領野を受け入れることを拒絶し、言語(S2)の領野の前で立ち止まるという選択をした主体、「存在の計り知れない決定 insondable décision de l'être」(E177)を行った主体、それが自閉症者であると考えられるのである。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』p.359-363)

  • 次にSさんのブログ。二〇二〇年三月一二日の最終段落に笑う。「覇気無しやる気なしの、相変わらずの呆け面」とか、「どこかの店の席でとぐろを巻いている」とか。

夜はE氏と会食。覇気無しやる気なしの、相変わらずの呆け面をこちらに向けているが、この人、飲食だけは律儀に重ねる人で、そこだけは億劫がらない。ほとんど毎晩ひとりで、どこかの店の席でとぐろを巻いているらしい。自分とこの人とが対面して飲み食いしているときは、双方完全に飲み食いだけが目的であり、毎度そのシンプルに愚鈍な時間を漫然と浪費することを、さほどわるくないひとときであると思っている。

  • 二〇〇六年五月二四日も覗く。このころSさんは美術活動をしていたらしい。以下の箇所にやはりちょっと笑ってしまった。

「誰にも関心もたれない」
「全く売れない」
「日々が過ぎていく」

の3つの責め苦に一生耐えていく。これ美術の人の基本。頑張るよ。

  • 自分の日記は二〇一九年五月二七日月曜日を読む。『族長の秋』から引かれた以下の一節がすばらしい。こういう透明感にあふれる叙情性みたいなものにこちらはどうしても弱い。あとたぶん、「歌をうたう」というテーマにも弱いのだと思う。

 (……)岸に打ちあげられたクジラのような、ただ一人の正妻レティシア・ナサレノの朝方の眠りを、もやめいた蚊帳を透かして眺めながら、久しくなかったことだが歌をくちずさんだ。目を覚ませ、とくちずさんだ、わしの心はもう六時、海はそこにあり、人びとの営みは続く、レティシア。(……)
 (ガブリエル・ガルシア=マルケス鼓直木村榮一訳『族長の秋 他六篇』新潮社、二〇〇七年、333~334)

  • また、この日はAくんにメールを送っているのだが、その文章を一部引いておく。全体的に熱っぽくて暑苦しいけれど、言っていることはいまでも一応は同意する。まあ近ごろではゆるくなっていて、死ぬ当日まで文章を書きたいとそんなに「本気で」「願って」はいないのだけれど(ある程度「願って」はいる)。最悪、べつに読み書きできなくてもとりあえず生きてりゃいいかな、くらいの感じになっている。「歴史に小さな名前を残したいという野心」もどうでも良い。過去の人々が「何かを書き続けたという誰にも否定できないその事実(……)、これを引き受け、それに対して報いる後世の人間が必要なのです」というのは、まあ一応そのとおりじゃないかなとは思う。

昨日も口にしたことであり、上に書いたこととも関わることですが、何かの営みを行うに当たって一番重要なのは、それを続けるというただ一点、そこに尽きると思います。続けた者こそが偉大なのです。質だのスタイルだの個性だの評価だの影響だのは、とにかく続けていればあとから勝手についてきます。

何かを続けるということは、それを習慣として、それとともに日々を生きるということです。僕の場合だったら、日記とともに生きること、いや、むしろ、日記それ自体を生きること(ここに強調の傍点を付したいところです)、と言いたい。僕は本気で、この世を離れるその日まで文章を書き続けたいと願っています。勿論、それは相当に困難なことでしょうが。

     *

プルーストは死ぬまで『失われた時を求めて』を書き続けました。ヴァージニア・ウルフも自殺するまで文章を書き続けたし、カフカも日々日記に断片を残し、死の直前まで自作の校正を続けました。彼ら彼女らがそのようにして、何かを書き続けたという誰にも否定できないその事実(ここにふたたび強調符号を添えたいところです)、これを引き受け、それに対して報いる後世の人間が必要なのです。それが文化が、芸術が、そして人間の世界が続いていくということなのです。

 

  • ほか、武満徹の文章。「ひとつの生命が他の別の生命を呼ぶ時に音が生まれる」という一文はすばらしい。総じていわゆる「文学的」なイメージにちょっと寄りすぎかなという感じもないではないけれど、それを含めてもそう悪くない。

ひとつの生命が他の別の生命を呼ぶ時に音が生まれる。その、沈黙を縁どる音の環飾りが音階となり、やがて、音階のひとつひとつは光の束となって大気を突き進み、あるいは、河の流れのようにほとばしる飛沫となって大洋へと解き放たれる。それは、無音の巨大な響きとしてこの宇宙を充たしている。
 (武満徹『樹の鏡、草原の鏡』; 小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、355より孫引き)

  • ほか、「街道に出てしばらく行き、ふたたび裏道に入ってまもなく、黒々と蟠る道端の樹木の梢から、ジージーという、夜鳴く蟬のような、砂っぽい線形のノイズめいた虫の鳴き声が大きく響き降っていた。それが木の傍を過ぎて、下り坂に入ってだいぶ遠くなってからも明らかに聞こえるので、めっちゃ届くやん、と心のなかで突っ込み、振り返り振り返り坂を下りていった。あまりに遠くまで届くので、木ではなくて自分の背にでも虫がくっついているのではあるまいなと一瞬疑いを差し挟んでしまったくらいだ」という一節はまあまあ。
  • 新聞、朝刊一面。【中国「監視型都市」を提唱/感染抑止へ 日本、標準化警戒】。「中国政府が、感染症対策を想定し、ITを活用した都市整備モデルを国際標準として提案していることが12日、わかった」。「中国がモデルを提案したのは、国際的な取引の規格を認証する国際標準化機構(ISO)。ISO規格は企業間の国際取引などで安全性の目安とされ、入札でも採用されることが多い」とのことで、「個人の行動データを事前に把握できる体制を構築し、AI(人工知能)やビッグデータ技術で解析することなどを想定している模様」であり、「データの効果的な活用に向けた指南書(ガイダンス)のほか、都市や地域の衛生管理方針を示したガイドライン(指針)なども提示している」らしい。
  • 【「#トランプ支持」に特典】も。「11月の米大統領選で再選を目指すトランプ大統領の陣営が、支持者向け公式アプリを開発し、4月から提供を始めた。トランプ氏の投稿、政治ニュース、行事日程などを見ることができ、それを知人らに拡散させるとポイントがもらえる仕組みだ。ポイントをためれば、トランプTシャツなどの購入に利用できるという」。一国の大統領の政治活動もいまやアイドル産業とおなじような形を取っているわけだ。「トランプTシャツ」はつまり「グッズ」だろう。そんなものほしいやつ本当にいるのかよ、とこちらなどは思ってしまうが。
  • 九面、【香港民主派 戦略見直し/安全法制にらみ/「電撃」デモ■親中派不買】。 「香港で昨年、民主派住民が立法会(議会)前で警官隊と衝突してから、12日で1年を迎えた」。「住民の一部は、中国を刺激する独立を口にすることが増えている」らしく、12日に「立法会に近い商業施設」で行われた「数十人」規模の抗議運動に「参加した女性会社員(46)は、「独立できるものならしたい。独裁的な政権に民主化を求めても意味はない」と漏らした」と言う。コロナウイルスの影響もあって最近は抗議活動は小規模になっているようだが、民主派が試みる「多様な運動」の一環として例えば、「飲食店などについて民主派を意味する「黄色」と、親中派を示す「青色」に塗り分けた地図などが用意され」、「「青色」の店をボイコットすることで、親中派に経済的な圧力をかける」という方策も始められたらしい。
  • 天安門追悼強行/13人に起訴通知】。「香港紙・明報は12日、警察当局が、香港で4日に中国の天安門事件の追悼集会を無許可で開いた民主派団体幹部ら13人に、不法集会への参加を扇動した罪などで起訴すると通知したと報じた」。「団体は「香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)」。起訴対象は支連会の李卓人主席や、中国に批判的な論調で知られる香港紙・蘋果日報の創業者の黎智英氏ら」だと言う。
  • 【豪首相 デモ不参加訴え/米黒人男性死亡 コロナ拡大懸念】。「オーストラリアのスコット・モリソン首相は12日、記者会見を開き、米国の黒人男性死亡事件を機に豪州国内で広がっている抗議デモについて、「参加しないよう強く求める」と呼びかけた」と言う。「デモ参加者の間で新型コロナウイルスの感染拡大が懸念されているためだ」。「豪州では事件後、先住民の権利保護への訴えとも結びつき、数万人が参加する大規模デモが各地で行われている」が、実際、「南東部メルボルンでは、デモに参加した男性の新型ウイルス感染が判明した」らしい。
  • 今日は五月一〇日および一一日の記事を仕上げ、一二日分もけっこう書いた。書きぶりからだいぶ力が抜けてきたようで、良い感じだ。一応、一回二回読み返して整えはするけれど、もう文構造とか語の選択とかに迷うことはほとんどない。そのときの気分にしたがって、さっと決める。こっちかなと思ったらとりあえずもうそっちにしちゃう、という感じ。結局のところ気分に――正確に言えば、「気分」にも理性的な考慮とかあとどれくらい時間が残っているかとか、それを規定するのに色々な要素がかかわっているので、こちらが「気分」と言うときにはそういう諸々の条件下での自分の傾向性を意味しているし、こちらはそれをむしろ心身の〈志向性〉と呼ぶのだが――応じるのが一番良いのだ。漢字のひらきも統一していない。この箇所の配分の感じでこの流れだったらこっちかな、という風にその都度決めるようになっている。あとは打鍵もゆっくりとするように心がけている。そのほうが文のリズムや性質がよく感じられるからだ。急いでがしがし打つと疲れるし、その瞬間目の前にしている言葉に意識が行かなくなるし、そうすると結局あとでもどって直さなければならなくなるので、それよりも初めからゆっくり書いたほうが良い。


・作文
 13:12 - 13:24 = 12分(メール)
 14:24 - 14:46 = 22分(6月12日; 6月13日)
 19:01 - 19:32 = 31分(5月10日)
 19:54 - 21:10 = 1時間16分(5月11日)
 23:06 - 24:31 = 1時間25分(5月12日)
 26:52 - 27:20 = 28分(6月13日)
 計: 4時間14分

・読書
 13:33 - 13:55 = 22分(英語)
 13:56 - 14:17 = 21分(記憶)
 14:52 - 16:41 = 1時間49分(Uくんの論文)
 16:41 - 17:04 = 23分(バルト: 112 - 120)
 22:09 - 23:04 = 55分(ブログ / 日記)
 24:31 - 26:07 = 1時間36分(バルト: 120 - 155)
 28:07 - 28:46 = 39分(バルト: 52 - 72)
 計: 6時間5分

  • 「英語」: 77 - 100
  • 「記憶」: 213 - 215, 64 - 65
  • Uくんの論文: 1 - 36
  • ロラン・バルト/沢崎浩平訳『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(みすず書房、一九七三年): 112 - 155, 52 - 72
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-28「常識を種銭とする論外と注釈の海で息継ぎをする」
  • 「at-oyr」: 2020-03-11「この瞬間とさっき」; 2020-03-12「BCP」; 2020-03-13「配信」; 2006-05-24「額縁のこと、画廊のこと」「額縁やめ」「心構え」「白とグレーのハッチング・線描表現」; 2006-05-31「日中の超平和」
  • 2019/5/27, Mon.

・音楽