2020/6/15, Mon.

 日常的なものがかなり大規模に切断されることで、われわれは〈祝祭〉へと導かれる。ところで、増水はたんにいくつかの事物を選んで場所を移し変えただけではない。それは風景の体性感覚そのものを、先祖伝来の地平線の組織化をくつがえしたのだ。測地の習慣的な線分、木々がかたちづくるカーテン、うちならぶ家並み、道路、河床そのもの、所有地の諸形態をこれほどしっかり準備している、こうした四隅の角にある安定した存在、それらのすべてが消しゴムをかけられ、角から平面へと広げられてしまった。もはや道はないし、岸辺もない、方位もない。それは何処にも行かないまま、このようにして人間の生成を一時停止させ、理性からも場所の道具的性格からも人間を切り離すような、ひとつの平面的な実体だ。
 きっと最も人を当惑させた現象は、河が消滅してしまったことに違いない。この大混乱の原因そのものである河が、もはや存在しないのだ。もはや水は流れていない。リボン状の河川という、あの地理的な知覚の根本的な形は、子供らがまさに大好きな形なのだが、線分から平面へと姿を変えてしまった。空間の高低には、もうどんな文脈もありはしない。もはや河、道路、野原、土手、土地の起伏といったもののあいだには、ヒエラルキーが存在しないのだ。パノラマ的な眺めは重大な力を失っている。その力というのは、空間を諸機能の並列として組織立てることである。したがって、増水が混乱を持ち込むのは、眼による反射作用の核心そのものにである。とはいえ、この混乱は視覚的に[﹅4]人を脅かすものではない(わたしが話しているのは報道写真のことだ。それは洪水を真に集団的に消費するための唯一の手段である)。空間への適応は停止され、知覚は吃驚した状態になっているが、総体的な感覚としては心地よく平穏で何も動かず、しなやかなままであり続ける。眼差しは無限の溶解物のなかへと引きこまれる。日常的な視覚との断絶は、喧騒の領域には属していない。これは、その完成した性格しか見られない変移であって、それゆえ恐怖の感情はそこから遠ざけられることになる。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、97; 「パリは浸水しなかった」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五五年三月号)



  • 一一時過ぎ起床。居間で食事を取りつつ窓外に視線を送り出す。空は曇っていてすべて白いものの、透けてくる光の感覚がほんのわずかにつやめいている。見たところ風はないようで、川沿いの林の樹々が明緑色の飛沫を散らしたまますこしも動かず固化しているし、隙間から内に入ってくる気配もなくて居間の空気は停滞している。
  • 一二時半に洗濯物を取りこむころには雲が割れ、だいぶ薄れて消えており、青さと陽射しが生まれていた。暑い。
  • Mr. Childrenの歌をいくつか歌う。彼らの曲に"Sign"というものがあるけれど、いま検索してみるとこれが二〇〇四年の曲で、もうそんなに前なのかと思って正直ビビる。これは『オレンジデイズ』というテレビドラマの主題歌になったもので、このドラマは妻夫木聡が主演、柴咲コウがヒロインでいかにも「青春」といった感じの大学生活を描くもので、柴咲コウはヴァイオリンの才能あふれる演奏者だったところが聴覚障害におちいって嘱望されていた未来を断たれてしまったみたいな、たしかそういう話だったはずだ。"Sign"のシングルには"こんな風にひどく蒸し暑い日"という曲がカップリングされており、正直、音楽的には"Sign"よりもそちらのほうが面白いんじゃないかと思う。"Sign"はイントロからして感傷的で綺麗なピアノが強調されており、サビも盛り上がるしいかにも売れそうな曲という感じだが、興味を惹かれるくらいに面白いのはAパートの一部のコード進行及びメロディの推移くらいだ。それは良いのだけれど、ところで"Sign"というのは日本語で言うと記号のことであり、記号とは意味を伝達するものである。歌詞を見るとたとえば1サビには、「君が見せる仕草 僕に向けられてるサイン/もう 何一つ見落とさない/そんなことを考えている」というフレーズがあり、したがってこの曲の主体はここで、愛するあなたが発出するあらゆる記号表現(シニフィアン)を私はひとつも漏らさず受信し、それらをことごとく読解したいと思いますと表明しているわけだ。これは恋愛の表現として特に珍しいものではなく、恋愛する主体は相手が示すあらゆる要素を記号として読解するということはロラン・バルトも述べている(*1)。ただ二番のサビになるとこの主体の読解対象が「君」だけではなくて身のまわりの世界全体に拡大されており(「めぐり逢った すべてのものから送られるサイン/もう 何ひとつ見逃さない/そうやって暮らしてゆこう」)、この姿勢は正直わりと良いなと思ったと言うか、こちらが生活のなかでおのずとやっていることなので、この点には共感を覚えるのだった。ここで主体はまさしく世界そのものに対して「野生の記号学者」宣言をしているということなのだが、しかし大サビに至ると、「君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン/もう 何ひとつ見逃さない/そうやって暮らしてゆこう」と語られ、せっかく世界全体に拡張された読解対象がふたたび特権的な「君」に退行して集約されてしまっているし、しかもその意味も「僕を強くさせる」という一点に固まってしまっているわけで、これは曲をヒットさせるためには必要な収束・完結なのだろうけれど、こちらとしてはやはり退屈な収め方だなと感じてしまうところだ。
  • *1:

 ――(……)「恋する記号学者」とはまた奇妙な存在ですね。

 とんでもない! 恋する者は、純粋状態における、野生の記号学者なのです! 彼は記号を読むことに時間を費やします。幸福の記号、不幸の記号、それらを読むだけなのです。相手の表情に、相手の振る舞いに。彼は文字通り記号の虜なのです。

 ――すると、「恋する者は盲目である」という諺は嘘ですね……

 恋する者は盲目ではありません。その反対です。彼には信じられないほどの解読能力が備わっています。その能力は、すべての恋する者の中にあるパラノイア的な要素に由来します。ご存じのように、恋する者は、神経症と精神病の両極端を備えています。激しく悩む者でありかつ狂気の人なのです。彼にははっきり見えている。でも結果は、彼が盲目であった場合としばしば同じことになります。

 ――なぜでしょうか?

 どこでどのように記号をストップさせるか、を知らないからです。彼の解読作業は完璧ですが、確信的な解読の場でストップすることができない。いつまでも続くサーカスに巻き込まれて、けっして心の安まることがないからです。

 (ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』みすず書房、二〇一八年、438~439; 「現代神話解読の第一人者、恋愛について語る」; 『プレイボーイ』誌、一九七七年九月号; 聞き手はフィリップ・ロジェ)

  • 一時半ごろ出勤路へ。玄関を出るとボロボロのビニール傘が干されてあり、畳んで仕舞っておこうと思ったところが骨が折れていて引っぱっても途中でつかえてしまう。なぜこんなボロくて使い物にならない傘を干しておいたのかわからないのだが、仕方がないので畳まずにそのまま玄関内に入れておき、出発した。
  • 道を行きながら上で触れた「野生の記号学者」的な姿勢についていくらか考えた。生において遭遇する世界のあらゆる断片 - 表情を記号として味わうことがもしできるのだとすれば、この世界はことごとく記号なのだということになるけれど、ロラン・バルトにとってはたぶんそうだったのだと思う。と言うのも、バルトはこの世のすべては「言語活動」であると言っているからだ(*2)。「言語活動」ってなんやねんというのは知らないが、たぶん記号を媒介とした規則的・連鎖的意味伝達、つまり一言で言ってコミュニケーションのことじゃないかなとひとまずは理解している。で、ロラン・バルトにとってはおそらくこの世界のあらゆる事柄は記号であり、記号とは文化的構築物なのだから、彼の考え方からするとこの世界に「自然」などというものはないということになるはずだ。人が通常「自然」として措定しているものを「記号」として読むことができるというのはどういうことかと言うと、たとえばこの昼間に最寄り駅に向かって道を歩き出したとき、林の樹々が風に触れられてさらさら葉鳴りを落としていたのだけれど、この葉擦れの響きはこちらが視覚的に感知することのできない空気の動き、すなわち風の存在を伝え、証しているわけだ。したがって、ここで樹木の立てるさらさらという音は記号表現(シニフィアン)であり、その響きはそれそのものとはべつの記号内容(シニフィエ)、つまりは風の存在およびその動きを伝えているということになるだろう。もちろんこの意味伝達は人にとって体験的・現象的にあまりにも自明のことなので、葉擦れと風は通常ほぼ一体のものとして等価的に扱われ、二要素の連結は一瞬で認識されるのだが、それをあえて分けて考えるならそういうことになる。
  • *2: 「わたしの本質的な確信は(それは二〇年来のわたしのすべての仕事に結びついています)すべては言語活動であり、何物も言語活動を逃れることはできず、社会全体は言語活動により横断され、貫通されているということです」(ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』みすず書房、二〇一八年、213; 「文化の宿命、対抗文化の限界」; 『ポリティック - エブド』誌、一九七二年一月一三日号; 聞き手はジャン・デュフロ))
  • あるいはまたべつの例として、路上の大気のなかにおそらく草か何か、よくわからないけれどなんらかのにおいがこの日以前よりもあきらかに濃く漂っていたのだが、こちらはそれを嗅いで、もうほとんど夏だなと思った。ということはここにおいて、におい→(おそらく)草の生長→夏という観念連鎖が成立しているのだから、嗅覚的刺激は「夏」という季節感を伝達するシニフィアンになっているだろう。上に触れた風の例では、葉擦れの響きと風の存在とは一応物理的な因果関係の範疇に属するものだった。この季節感の例でもにおいから草の生長まではまだ物理的因果関係の領域にとどまっているが、そこから「夏」の感覚に接続する段階では、「夏」などという「季節」はこの世にもともとあったわけではなくて人間が世界の生成を勝手に区分し定義した意味であり文化的仮構物なのだから、物理的現象→文化という別次元への意味論的移行が観察されると思う。
  • また、歩いていくと公営住宅に接した貧相な公園の滑り台が光を反射して白く濡れていたのだけれど、ここでも上記と同様に、純白の発光は頭上に浮かぶ太陽の存在やその陽射しの勢いを伝達していると考えられ、場合によってはこれも「夏」のシニフィアンになりうるだろう。そういう感じでおそらく人間はときに自覚しながら、またときには無自覚に、絶えず世界を読解しながら生きているのではないか。上記三つの例はそれぞれ聴覚的・嗅覚的・視覚的知覚情報が意味連鎖の発端になっているのだから、ロラン・バルト風に考えれば人間の器官的感覚も「言語活動」だということになるような気がするし、ポール・ド・マンなんかもそういうようなことは言っていたらしい(*3)。
  • *3: 「(……)ルソーにとってと同様、ド・マンにとって、感覚、知覚、思考は言語と切り離すことができないものであり、切り離されて生じることができないものだ(……)。これらには言語が隅々に至るまで浸透している。あるいはこれらがまさに言語[﹅5]なのだ」(J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇〇〇年、76)。「ド・マンにとって〈読むこと〉とは、単に読みそれ自体を含むばかりでなく、また言うまでもなく文学作品を読むという行為を含んでいるばかりでなく、感覚も知覚も、したがって人間の行動すべてを含んでいる」(79)。「言語を用いて言語の境界外に出ることはできない。例えば感覚とか知覚とか、言語外と思われるものに我々が到達したとしても、それらはすべて更なる言語であることが判明する。生きることとは読解することである」(79)
  • ところですべてのものが言語活動であり記号であるとすれば、すべてのものはおしなべてべつの何かとつながっているということになるだろう(意味を伝達するとはそのものと連鎖・接続しているということなのだから)。この世界のあらゆる一片は、ことごとく何かほかの一片とつながっている。このようにして、記号学者の考えを推し進めていくと汎接続論みたいな思想が見えてくるように思うのだが、「ホーリズム」ってもしかするとこういうことなのだろうか? あるいは、全然知らないのだけれど仏教が言う「縁起」の思想もこういう考え方に近いのではないかと想像している。鬱病になりかけたときに読んだティク・ナット・ハンがたしかそういう話をしていたように思うのだ。あらゆる物事は何かべつの物事とつながってネットワークをなしており、それ単独で実体的に存在しているものなどこの世にはないのです、みたいなことを彼は言っていて、さらにそこから、だから我々が老い、朽ちて死んでいき、我々の自我が消滅するとしても恐れることはありません、我々は雲や雨に還るだけなのですみたいな、いかにも宗教的な理屈も引き出していた記憶がある。いまから考えるとそれはまたべつの話じゃないかと思うのだけれど、意味の連鎖によってこの世界のあらゆる事物は複雑怪奇きわまりないネットワークを構成しているという点については、たぶんわりとそうなんじゃないか。「縁起」という思想をよりひらたく変換したものとしては「縁」という観念がしばしば口にされ、それは、この世に無意味で無駄なことなどひとつもなくてあらゆる出会いには意味がある、というような形で表明されることが多い気がするのだけれど、これは上で述べてきたような考えをもっとも簡明に言い換えた言葉だろう。
  • そういう感じで、ロラン・バルト的な思考を進めていくとその先でたぶん仏教とつながってくるような気がするのだが、ほかにもたとえばミシェル・フーコーの権力論(それは意味論ととても密接に結びついているはずだ)などにもこれと似たような発想はあるだろう。だから「ポストモダン」とか「現代思想」とか粗雑に一括されている思想家たちの考えのいくらかは、二五〇〇年ほど前にもう釈迦が定式化していたのではないか。だからといって釈迦やっぱすげえなあやばいなあとか言うつもりは特にないのだけれど、西洋のいわゆる「ポストモダン」思想と仏教を接続するような仕事も面白いものになりうるような気はする。たぶん誰かがすでにやっていると思うのだが。
  • そういうことを考えつつ汗をかきかき最寄り駅に行って電車に乗り、扉際から外の森を眺めて揺られ、青梅に移って職場へ。今日は本当は二時半からの労働だったところ、(……)さんが(……)に行かなければならないらしくその留守番ということで早めに来たのだった。お礼に室長は小さなボトルのカフェラテをくれた。それで彼とちょっと話したところ、青梅に来るのは今週の金曜日までで、一応七月にも二日くらいは来る日があるらしいけれど、もう大方(……)教室に行ってしまうということだったので、じゃあ金曜日、挨拶に来ますよと言った。その日には新しく教室長になる(……)さんもいると言うので都合が良い。その(……)さんはと言えば(……)さんいわく「女帝」だと言い、教室を一手に掌握するとかいうことだ。(……)さんという人は数年前、青梅の室長が(……)さんだった時代にたぶん新入社員として研修に来ていた女性で、正直そのころの様子はほとんど覚えていないのだがただ気弱そうな人だったという印象は残っており、その記憶と「女帝」などというイメージはそぐわない。その点訊いてみると、気は弱い、が、教室では「女帝」だと(……)さんは言い、なんだかよくわからない。
  • 授業のほうは一コマ目が(……)くん(小五・国算)ひとりの担当。国語は熟語の構成分類、算数は倍数の利用など。特に問題なかったと思う。途中、マンションの管理にかかわっている人なのか単なる住民なのかわからないがおばさんがひとりやってきて、ゴミ出しの場所について注意していった。ゴミ出しの場所は二箇所あり、プラスチックゴミのほうに置くと持っていかないことが多いので、燃やすゴミのほうに置いてほしいとのこと(職場では分別をしておらず、燃やすゴミとプラゴミが一緒くたにされているのだ)。先日もプラゴミのところを見に行くと袋が二つ残っていたと言い、その後、収集車がもう一度回ってきたときにこのおばさんが出してくれたらしいので礼を述べておいた。
  • 二コマ目は(……)さん(小四・国算)、(……)くん(小五・算数)、(……)さん(中一・英語)。(……)さんは初担当。快活でマイペースそうな女児。あどけない。他生徒にかかっていて国語の解説に入れないうちにどんどん進めてしまい、八ページくらい解いたのではないか。本当はもっとこまかく確認したかったのだが、いくらもできず。(……)くんもあまり進められず。加えて、母親から学校のテストを一緒に直してほしいという要望が出ていて、彼女が書いたメッセージを入れたファイルがあったのだが、授業の最初にそれを確認するのを忘れてしまいテスト直しができなかったので、これは連絡しておいたほうが良いだろうなと思ってのちほどそうした。(……)さんも初見。(……)中学校。私立なので教科書が教室になく、長い文を読むやり方が取れない。本当はリーディングをしたいのだが、扱っている文法のワークを進める。問題のできは良い。
  • 授業後、(……)家に電話。一度掛けると留守電になった。一旦切って口上を考え、吹きこんでおこうと掛け直すと今度はつながって、男性が出る。おそらく父親か? すぐに母親に替わってくれたので挨拶し、テスト直しができなくてすみませんと報告して、ついでにいくらか話を聞く。(……)くんはどうやら発達障害に分類されそうな傾向があるらしいのだが、母親は息子がものを学べるのか、充分に理解できるのか、かなり不安がっているような印象だった。一度注意をさせていただいて以来、こちらの話はきちんと聞くようになってくれ、理解の方向にも向かっていると思うと述べ、要望も多少聞いておいた。その後、母親がメッセージを記した紙に情報を追記しておき、電話をした事実を連絡ノートにも記録しておく。
  • そうして六時半ごろ退勤し、コンビニへ。駅出入口付近の屋根の柱の上にツバメが二羽とまり、くちばしで羽根を擦ったりなんだりしていた。コンビニでは豆腐や海老グラタンやチキンカツサンドやおにぎりなどを買う。今日は母親も六時半まで勤務で、帰ってから飯を作るのが面倒だったので自分の分は買ってしまうことにしたのだった。退店して駅に入ると発車間近の電車に乗り、最寄りへ移動して坂道へ。左の小さな斜面上にアジサイが種々咲いている。ピンク、紫、青、そしてそれらの混合。その混成の度合いに秩序や配置的法則はない。
  • 帰宅して食事。その後、夜はロラン・バルト/沢崎浩平訳『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(みすず書房、一九七三年)読んだりなんだり。しかしベッドで読んでいるうちに力尽き、二時まで死んでしまった。そのあとはいつもどおりの夜更かしだ。二〇一九年五月二八日火曜日を読んだところ短歌を色々つくっていたが、そのなかでは「殺人が大衆化したこの世では天使も悪魔も欠伸ばかりさ」がほんのすこしだけ良いくらい。
  • Sさんのブログの二〇二〇年三月一四日にハワード・ホークス『ヒズ・ガールズ・フライデー』の評。なんかすごそう。わからないが、蓮實重彦が好きそう。

(……)異常な騒々しさと忙しなさが、異常に緻密な計算をもってつくられている感じ。最初から最後まで、ほとんどのシーンで二つ以上の出来事が同時に起こっている感じだ。登場人物の動きや言葉に応じて、画面に映ってるありとあらゆるものが連動するような。動いているのが人物なのか背景なのかほとんど判然としない、ただひたすらユサユサ、ワラワラと全体的に動き続けている。複数の電話が鳴って、ロザリンド・ラッセルが右の受話器に話すときと、左の受話器に話すときとで、対応も言葉も分裂して、混ざり合って、それと並行してケーリー・グラントがそれとはまったく別の話を、しかしロザリンド・ラッセルの話に聞き耳を立てて概要をある程度把握しつつ、受話器の向こうの相手にああじゃねえこうじゃねえとがなり立てる。(……)


・作文
 23:09 - 23:51 = 42分(5月12日)
 26:33 - 28:00 = 1時間27分(6月15日)
 計: 2時間9分

・読書
 12:05 - 12:27 = 22分(英語 / 記憶)
 12:33 - 12:39 = 6分(Eldridge)
 13:05 - 13:19 = 14分(バルト: 208 - 214)
 21:50 - 22:20 = 30分(バルト: 214 - 219)
 23:51 - 24:30 = 39分(バルト: 219 - 226
 26:09 - 26:30 = 21分(日記 / ブログ)
 28:08 - 28:42 = 34分(バルト: 72 - 81)

・音楽