2020/6/20, Sat.

 われわれに衝撃を与えるべく同展覧会[オルセー・ギャラリーの「ショッキングな写真」展]に集められた写真の大部分は、われわれになんの効果も与えない。なぜなら、まさしく写真家が作品の主題の形成において、あまりにも献身的に、われわれの代わりを務めてしまっているからである。写真家はわれわれに差し出そうとする恐怖を、ほとんどいつも過度に作り上げて[﹅8]しまっている。諸要素の対比や接近といった手法を用いて、恐怖の意図的な言語活動を事実に付け加えているのだ。例えば、墓場のかたわらに兵士の一群を並べて撮影した写真。また、じっと骸骨を見詰めている若い兵士を写した写真。最後に、受刑者か囚人たちの列が、羊の群れとすれ違う瞬間を捉えている写真もある。ところが、これらの写真はどれも、あまりに巧みすぎて、われわれを動揺させることがない。それは、こうした写真を前にすると、われわれがそのつど自分の判断を剝奪されてしまうからである。写真家がわれわれに代わって、身震いし、考え、判断を下したのだ。写真家はわれわれにどんなことも残さなかった――ただ一つ、たんなる知的同意の権利だけを除いては。われわれは技術上の関心を通じてしかこれらの映像と関係を持たない。芸術家自身による過剰な指示を満載された映像は、われわれにとって、いかなる歴史も有していない。もはやわれわれは、製造者によってすでに完全に消化されたこの合成食品に対して、自分なりの受け入れ方を考案すること[﹅6]ができないのだ。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、173~174; 「ショッキングな写真」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五五年七・八月合併号)



  • 一〇時半離床。わりと爽やかな感じがただよう晴れの日だ。スリープにしていたコンピューターを点け、LINEで(……)に連絡した。おはようとかけると、おはようの語に恥じないはやさだと評された。一一時過ぎから通話することに。
  • 新聞を読みつつ食事。野菜スープと生サラダがあったらしい。そのほか卵を焼いて丼にする。
  • 一一時半ごろから通話。(……)は最近、煮干しをよく食っているらしく、カメラで映し出してきた。自由時間は何をしているのかとLINEで問うたところ通話を誘われたわけだけれど、ここ一、二週間の休日は流石景ドメスティックな彼女』に読み耽ったらしい。少年マガジンの作品だったはずだ。海外の違法アップロードサイトで英語版を読んだらしいのだが、あれってファンと言うか、仕事人みたいなやつらが出たら即座に訳してるわけでしょ? よくやるわ、とこちらは受けた。そのおかげで英語の表現を色々学べたと言う。
  • 漫画だとほか、『やがて君になる』という作品がおすすめだと言う。とても「リリカル」な、と(……)は評していたと思うが、女性同士の恋愛を題材とした作品、つまりいわゆる「百合」漫画らしい。どうでも良いのだけれど、このタイトルからこちらは山崎まさよし"全部、君だった"と、森博嗣すべてがFになる』という二つのタイトルを連想してしまう。しかしこれら三つの作品にはたぶんなんの関連もないはずだ。作者は仲谷鳰[にお]という人で、鳰というのはカイツブリの別名らしい。カイツブリという鳥は、なんか名前自体は聞いたことがあるがどんな鳥なのかはまったく知らない。アニメ版の脚本は花田十輝Wikipediaでその情報を閲覧しつつ、これってたしか『けいおん!』の人だろと訊くと、ほかにもやたら色々なところで名前を見かけると言う。Wikipedia花田十輝のページに移ってみると、「祖父は作家・文芸評論家の花田清輝」という記述があって、そうだったのかとちょっと驚いた。音楽は大島ミチル。この名前にも覚えがあり、たしか大河ドラマの音楽をやっていなかったかと思ってまたWikipediaに頼ると、二〇〇九年に『天地人』を手掛けているのだけれど、そんなに前だったか? という疑念の感覚が強い。『天地人』というのは妻夫木聡が主演した直江兼続のやつで、この妻夫木が演じた主人公は「これはしたり!」という言葉が口癖でたびたび発していた覚えがある。直江兼続という武将は「愛の人」とか言われ、「愛」という文字を兜に掲げたことが有名で、当時のドラマの宣伝でもそれがやたらと売りこまれていた記憶があるのだが、それがもう一一年も前なの? という事実にはやはりちょっとビビるところがある。こちらはまだ一九歳である。
  • 小説版の書き手は入間人間。なぜかわからないがこの名前は知っており、ずっと「いるまにんげん」だと思っていたところ、実は「いるまひとま」だったらしい。「にんげん」のほうが全然良いと思う。こちらもちょっとペンネームにしたいくらいだ。そこからライトノベルの話に流れた。つまり、先日日記にも記した読書歴について話し、中二くらいまでライトノベルをよく読んでいたが、表紙とかイラストがエロくなってきたので恥ずかしくなってやめたのだと語った。ライトノベルとかアニメ・漫画方面だと『Re:ゼロから始める異世界生活』の名も挙がり、(……)は最近だかいつだか後輩だか誰だかにすすめられて見たと言うので、俺も見たよと受け、けっこう面白かったねと口にした。こちらが見たのは二〇一五年くらいだったのではないか? と思ったのだけれど、放送情報を確認してみると二〇一六年の四月から九月までなのでそれはありえない。二〇一六年か二〇一七年に見たのだろうか。リアルタイムだったのかどうか、それすらもはや覚えていないが、長野でイラストやエロ漫画を描いて生計を立てていたジャズ仲間の(……)さんとそのころ話したときに、あれ面白かったっすねと語り合った覚えがある。彼もいったい、いまや何をやっているのだろう? 変わらずエロ漫画で金を稼いでいるのだろうか? 当時彼が作った漫画はわりと人々の性欲を刺激したようでけっこう売れていた覚えがあるのだが。と思っていま調べてみると、ちょうどつい先月(というのはこの文章を綴っている八月九日から見た先月なので、七月のことだ)に新作を出したところらしく、dmmのページを見るとトータル販売数が二四〇〇以上で、二四時間ランキングは七位、週間だと一〇位となっているからすごくない? めっちゃ売れてるやん。
  • (……)は『Re:ゼロから始める異世界生活』のアニメ版は面白く見たようなのだが、「小説家になろう」に連載されている原作を読んでいるうちに、あれ? となり、これに時間使う価値あるのかな? という疑問が湧いてきて読むのをやめてしまったと言うので笑った。べつに文章が整っていないとか読めないほどに悪いとか、そういうわけでもないのにと言い、彼自身にも理由は不明のようだ。しかし、たしかこののち二八日に(……)家でオンライン会合をした際には、あれは気のせいだった、その後読めるようになったと言っていたと思う。あの作者の人はたしか、たぶん主にはライトノベルとかいわゆる大衆小説の方面だと思うけど、かなりたくさん作品を読んで研究したらしいよと、以前どこかで見かけた曖昧な情報をこちらは伝える。色々な作品の面白いと思うところを学習・研究して自分の作品に反映させたと言うか、これはただパクったということではなくて物語の作法みたいなものを勉強してそこから得られた知見を応用して活かしたということだろうが、なんかそんなようなことを言っていたのをどこかで読んだことがあるのだ。たしかにアニメを見た限りではいわゆるエンターテインメント作品として普通に面白く、たとえばいわゆる山と引きの作り方とか、基本的な部分がしっかりと整えられて安定していた覚えがある。あと、例の「死に戻り」という、作品の根幹となる設定も、たぶんあれが最初なんでしょ? とこちらは言った。ゲームとかやってる人だったらけっこう思いつきそうだけど、と(……)は返すが、たしかにあの設定は要するにゲームオーバーになったらセーブポイントまで戻るというシステムとおなじことだし、発想としてはありふれているものだろうから過去にも用いた人はいるのかもしれず、そもそも(時間的な)ループもの自体は無数にあるわけだ。ただこちらの貧弱な管見の限りではおなじような感触を与えるタイトルを知らないので、あの設定を作品の根幹に据えてうまく使ったのは一応あれが最初なんじゃないの? と適当に言っておいた。タイムリープものあるいはループものに関しては、『涼宮ハルヒの憂鬱』にもそういう話はあったはずだし(いわゆる「エンドレスエイト」だが、あれはループというよりは平行世界か? というかその二つの概念は必然的に連結するものか)、『Steins; Gate』はまさしくそのうちの本流だろうし、『魔法少女まどか☆マギカ』も、こちらはまだ見たことがないけれどそういう話だと聞きかじっているし、ほかにもたくさんあるのだろうから、それらの作品の設定や機構を比較して、タイムループ作品に現れている時間概念の特徴(共通性と差異)を考察し、さらにできれば通時的に遡って、いわゆるサブカルチャー作品に表現される「時間」概念の変遷史みたいなことをやったらそこそこ面白いかもしれない。というか、すでに誰かやっていると思うが。
  • そこから、俺もこのあいだ風呂入ってたときに、まあこのままじゃどうせいつまで経っても金も稼げずにうだつの上がらない生活だろうし、いま日本で一番売れてるほうのライトノベルとか読みまくって一発当たるような、売れる物語書こうかなとか思ったわ、と愚かな皮算用を話した。そうすると(……)はなんと返したのだったか、(……)がそういうのやったら意外だみたいなことを言ったのだったか忘れたが、それに対してこちらは、いや、そういういわゆる物語的な方面でも、面白いことはできるなとは思ってるよと答えた。我を捨てて、世間の趣味に可能な限り迎合したお手軽な消費物を作って金を稼ぐのも一興だろう。もしくはそういった方面でありつつも、どうしてもあまりに品がないと思われる要素は切り捨てるかうまく変えて(差異をはらませて)、こちらの考える「良質な」通俗作品を作るのも良いだろう。文体をライトノベル風にやるか、それともいわゆる大衆小説と言うのか、一般のエンタメ作品くらいの感じでやるかというポイントもある。まあそんなことを言いながらも実際やるのかどうか、またやる気になってもできるのかどうかわからないが、なんかそういうのもできたほうが面白いなとは思うよ、なんか全然わけのわからん詩みたいなのも一方では書いて、もう一方ではすごくわかりやすくて売れる物語も書けるみたいな、そういうほうが面白いでしょ、と口にした。要するに、可能かどうかはひとまず措いて、マラルメと『ONE PIECE』をどちらもできたほうが面白いに決まっているだろうということなのだが、それで思い出したけれど『ONE PIECE』の話もしたのだった。と言ってもこの日の通話で述べたのは過去の日記に書いた――正確に言えばこの日のメモを取った時点ではまだ書いていないので、これから書く予定の――ことなので省略する。
  • で、そういう話を受けて(……)はたしか音楽の方面に話題を持っていって、俺が好きな日本の作曲家もそうだわと話した。そのとき(……)は三人か四人、名前を挙げたはずだが、そのうち黛敏郎伊福部昭の二人しか覚えていない。二〇世紀以降もしくは戦後のクラシックや現代音楽の作曲家にとっていわゆる大衆向けの売れる仕事というのは映画音楽だったわけで、これはたとえばモダンジャズで取り上げられるスタンダードを考えてもよくわかる。いま(というのはこの部分を記述中の八月九日ではなく、この日のメモを取った時点)黛敏郎Wikipedia記事を見てみると、たとえば小津安二郎小早川家の秋』を担当している。また有名所では市川崑が作った東京オリンピックの映画なども。ちなみに六六年には今村昌平という人が『「エロ事師たち」より 人類学入門』なる映画を作っていて、『エロ事師たち』というのは野坂昭如の作品としてこちらも名前だけは聞いたことがあるけれど、こんな映画あるんかと思った。で、そういう日本の作曲家たちも、ポピュラー方面の映画音楽もやりながら他方でいわゆる前衛的な現代音楽も作っていたのだと(……)は言い、受けてこちらは、シェーンベルクハ長調の良い音楽を作ることはいつでもできるって言ってたらしいからなと紹介した。この言葉はロラン・バルトが引いていたので知ったものだが(*1)、バルト自身はもちろん批評に関して援用していたわけで、文脈としては、たとえば構造主義とか記号学とかを利用した新しい批評を一方では実践していかなければならないけれど、他方、いわゆる古典的な形で優れた批評を行うことももちろんできるし、それはそれでやっても良い、というような話だったと説明する。で、聞けばシェーンベルクもいわゆる一二音技法をやりだす前にもともとは後期ロマン派的な音楽を作っていたらしく、まあそりゃ最初から無調性やろうなんていう人間はまずいないだろうから当然だが、そのなかでは「浄夜」という作品が有名で、(……)はけっこう好きだと言う。ロマン派的な路線でありながら、独特の雰囲気があるとか。
  • (*1): 「ここで言いたいことは、批評の「役割」と「活動」を区別することです。批評の役割を想像することはいつでも可能です。つまり批評の役割の継続を想像することはいつでも可能なのです、たとえ伝統的な役割であっても、それらは必ずしも質のよくないものではないでしょう。わたしはシェーンベルクの言葉に思いを馳せています、前衛の音楽があり、まさにその音楽のために闘わねばならないとしても、ハ長調の美しい音楽を創ることはいつでも可能であると、彼は言ったのです。ハ長調でいい批評をすることはいつでも可能なのです」(ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)、206; 「インタビュー(ロラン・バルトとの談話)」; 『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』誌、一九七一年; 聞き手はスティーヴン・ヒース)
  • そこからさらに、現代音楽の連中がやろうとしたことって、気持ちとして、と言って良いのかわからんがわりとわかるような気がする、という話をした。と言って現代音楽界隈のことなど全然知らんのだけれど、これは要するにこのあいだの日記に書いた(書く予定の)テーマ、ミスなどのさまざまな偶然性が物事の形態を革新していくために必要だという話で、詳しい内容は2020/6/7, Sun.(https://diary20161111.hatenablog.com/entry/2020/06/07/000000)に記してある。現代音楽の試みがわりとわかる気がするというのはいわゆるフィールド・レコーディングとか、例のジョン・ケージの「4分33秒」とかで、ものの本を読んだことがないし「4分33秒」を実際にやった音源を聞いたこともないから理解が誤っているかもしれないのだけれど、あれは要するにこの世の音はすべて音楽として聞くことができるよね、という話だとこちらは思っており、それは普通に外を歩いていればそういう感覚にはわりとなる。というかべつに「音楽」になっていなくても「音」の時点でもうわりと面白いと思っていて、ケージの意図が正確にどういうところにあったのかは知らないけれど、「4分33秒」が「演奏」されているあいだにその時空(空間的には大概はコンサートホールの類のはずだ)に発生する物音、息遣い、さらには気配とか自分の身体感覚、もしかしたら行き合わせた他人の肉体や表情などをも「聞き」ましょう、というのが基本的な趣向だというのはたぶん合っているのではないか。だから、この世界そのものに〈耳を傾ける〉ことへと聴衆をいざない、そのための時間を生み出すための「音楽」だという点はだいたい確かだと思うのだけれど、ただそのときにケージ自身が、「この世界」そのものが「音楽」だと思っていたのか、それともそれは「音楽」ではなく「音」なのだけれど「聞く」行為の対象を「音楽」にとどめずそちらまで拡張しようという意図があったのか、そこは知らない。あるいはもはや「音楽」とか「音」とかいう水準では考えておらず、いまここに発生しているこの一回性の時空そのもの(〈テクスト〉)を「聞き」ましょう、ということなのかもしれないけれど、そうだとしたら「聞く」行為の意味すらそこでは解体されると言うか、おおかた〈内破〉されることになるはずで、こちらはわりとそういう段階に共感すると言うか、上に「気配とか自分の身体感覚、もしかしたら行き合わせた他人の肉体や表情などをも」と書いたのはそういうことだ。もしそうだとすればそれはつまり、こちらの経験的な理解では、お前らいまから四分三三秒間みんなで瞑想してみろよ、と言っているのとだいたいおなじことだと思う。
  • (……)との通話ではいま書いたケージの話はせず、六月七日の日記に書いたことを語ったのだが、上記のURLに記述してあることなのでここにそれを繰り返すつもりはない。ただ(……)の反応を記しておくと、彼ももともとセレンディピティという語を知っており、なんとかかんとかセンターみたいな学際的研究をする組織の展示会みたいなものに以前行ったとき、なかのひとつがテーマとしてセレンディピティの創出とかいうことを掲げていたと言う。だからすくなくともそこではセレンディピティという偶然性は(ある程度)「創出」可能なものだと考えられているわけだし、偶然を待つとは言ってもその待ち方があり、それを招き寄せるための環境とか仕掛けみたいなものもありうるし、そもそもまずそれまでに「人事」を積み重ね、「尽くして」いないと「天命」を「天命」として気づくことができない、そのように意味づけすることができないだろう、なおかつそれに気づけたとしても、その「天命」をうまく活かすためにはまた「人事を尽くす」ことが必要だろう、みたいなことを互いに話し合った。この日の時点ではそのように考えていたし、現時点でも一応納得の行く話ではあるのだけれど、ただ今記述をしながら本当にそうかな? という疑念の感覚も生じてきて、この世界の現実とはそんなものではないのではないか? という気もしてきた。「人事」を「尽くして」いようがいまいが、「天命」はときに来てしまうし、気づいてしまう、それこそが「現実的」な事態なのではないか? みたいな。これはしかしプロテスタンティズム的倫理、すなわちカルヴァンの予定説か、あるいは単なる天邪鬼か?
  • で、そういう話をした時点で一時二〇分くらいに至っており、そろそろ支度をしなければさすがにまずいと思われたので、そういうわけで話もまとまったし、俺は労働に行くと言って通話を終了した。歯磨きしながら上に行ってもう時間がないと漏らすと、送っていってあげようかと母親が言う。正直、それを頼みとしていたところはあったのだ。歩いていっても良かったけれどやはり暑いし頼むことにして、おかげでもうすこし時間が生まれたので市川春子『25時のバカンス 市川春子作品集Ⅱ』(講談社、二〇一一年)をほんのわずかに読んだ。それで二時ごろ出発。天気は曇りで陽はなかったが、空気はかなり停滞気味で温みが肌に触れてきて、隣の敷地に立てられた旗がいくらか揺らいでいるものの身には流れは寄ってこず、林の枝葉も死にかけた昆虫の脚くらいしか動かない。
  • 乗車して出発。(……)さんが物干しスペースで洗濯物を干していた。街道途中の一角の頭上に黄色いカバーで覆われた電線がいくつも張り渡されていたが、いままでこんなものを見かけた覚えはない。その電線はどれも道沿いの宅に繋がっていたようだけれど、新しく設けられたものなのか、もともとあった電線にカバーを被せたものなのかそれは不明だし、どういう用途なのかもわからない。単純に強度を高めて保護力を確保するためのものなのだろうか。
  • 駅前で礼を言って降りる。頼まれた郵便物をポストに入れてから職場へ。(……)
  • (……)今日も教科書を読み、ピーター・ラビットの話を一緒に訳していくのだが、ストーリーはやはり役に立つ。そういう枠組みがあったほうがおそらく圧倒的に言葉を覚えやすいし、(……)くん自身も途中で、これどうなったの? と結末が気になってみずから読もうと試みていた。物語の力というものだ。人間はある物事の先がどうなるのかということが気になって仕方のない生き物なのだろう。だが同時に、多くの人はおそらくある物事が永遠に続くことは望んでおらず、それが適切な形で終わらなければ満足ができない。〈完結主義〉とでも呼ぶべきイデオロギーがこの世には蔓延しており、やれ作品を作るならとにかくまずは最後まで書いて終わらせろだの、やれ結末を明かすなだの、やれ未完作品は読む気にならないだの、そういう種類の思考が世界を圧倒的に席巻しているのだけれど、「完結」という事態は本源的には存在しない捏造物に過ぎないとこちらは思うし、それを仮に受け入れなければならないとしてもいつどこで「完結」させるかという判断(いつどこで「完結」するかという物事の展開)に確実な根拠などないだろうし、何ごとかを「完結」させることよりもそれをできる限り永続的に続けることのほうが面白いと思っている。
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