2020/6/27, Sat.

 あらゆる神話的存在と同様に、知識人も或る一般的テーマ、或る実質の性質を持っている。それは空気[﹅2]、言い換えれば(それはほとんど科学的とは言えない同一性なのだが)、空虚[﹅2]のことである。優越した立場から知識人は俯瞰する。彼は現実に「ぴったりはりつく」ことはない(現実とは、むろん大地のことである。これは同時に民族、農村らしさ、地方、良識、無数の名も無い人々を意味している曖昧な神話である)。いつも知識人の客を迎えているレストランの主人は、彼らのことを「ヘリコプター」と呼んでいるが、それは飛行機の雄々しい力強さを上空飛行から取り去る軽蔑的なイメージである。知識人は現実から遊離しているが、空中にとどまっており、その場でくるくる円を描いている。彼の上昇のしかたは臆病で、偉大なる宗教的天空からも、常識という堅固な大地からもひとしく離れている。彼に欠けているのは、国民の心に下ろすような「根」である。知識人は理想主義者でもなければ、現実主義者でもない。彼らは霧に包まれて、ぼんやりとして[﹅7]いる人たちだ。彼らのいる正確な高度は雲[﹅]の高度であるが、これはアリストファネス風の古い決まり文句だ(知識人とは当時ソクラテスのことだった)。上空の空虚に宙吊りにされているので、知識人はすっかりその空虚で満たされている。彼らは「風が吹くと音が鳴る太鼓」である。われわれは、ここに反知性主義の避けがたい基盤が現れているのに気づく。それは言語活動に対する疑いであり、いつものプチブル的論争の手続きに従って反対者の言葉を雑音と見なしてしまうことである。その手続きの核心は、自分のなかの見えない欠陥と補い合う欠陥が他人のなかにあるのをあばくこと、自分の間違いの結果を論争相手になすりつけること、自分の盲目ぶりを暗闇と呼び、自分の耳が聞こえないのを言葉の乱れと呼ぶことである。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、303~304; 「プジャードと知識人」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五六年四月号)



  • 正午過ぎまで寝過ごしてしまった。前夜は書見のうちにいつか意識を落としていて、たぶん二時半頃には既に現を去っていたと思うのだが、そうだとすれば滞在は一〇時間弱となる。今日も白曇りの梅雨っぽい日。
  • 素麺などで食事。テレビは『メレンゲの気持ち』。福地桃子と言ったか、母親によれば哀川翔の娘だとかいう人が出ている。日本人形的と言うとちょっと違う気がするが、何となく平安時代を思わせるような風貌の女性。
  • 父親が読んでいるものらしいがソファの上に藤沢周平の文庫本が二つあったので、『凶刃』というほうを手に取りちょっと覗いて読んでみたところ、意外にも文章の感触がそこそこしっかりしたものだった。特に面白味のある文ではないし、尋常の表現のうちに留まってはいるものの、その枠内できちんとリズムは整えられ、明晰な書きぶりになっていることが感じ取られる。それなりに密な手触りを与えながらも、物語を伝達するに当たっては読者にとってわかりやすい音調と運びになっているという印象。
  • 今日は(……)に出向くつもり。図書館がもう再開しているはずだし、明日(……)家に持っていく土産や漫画を買う用もある。図書館は今日が土曜日なので五時で閉まってしまうはずだから、三時半頃には家を発つ必要がある。
  • Brad Mehldau『Live In Tokyo』を流して五月二六日の日記。あとは新聞記事を写すだけだった。同時にLINEで明日の時間についてやりとり。どうせ昼頃にならないと起きられないので、午後から適当に行こうと思っていたところが、昼を一緒に食べないかと(……)が言うので九時起床を目指すことに。また、(……)に「(……)」なる古書店があると先日知って、(……)家訪問の前に立ち寄ろうと思っていたのだが、昼食を共に取るならそのあと一緒に行こうという話になった。
  • 五月二六日の記事を投稿したのち、歯磨きをしつつ過去の日記を見る。二〇一四年七月一二日土曜日は祖父の七回忌か何かで法事をしており、(……)さんと(……)さんという二人のおばさんが足が悪かったので多少世話をしているようだ。(……)さんはたしか去年に亡くなったが、この二〇一四年時点で既にかなり元気が薄く、消沈したような顔をしていた覚えがある。(……)さんはまだ生きているはずだ。
  • 二時台後半からベッドでチェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)。出てきた鳥の名をあとで調べてみようと思って色々メモする。チョウゲンボウコウライウグイスミヤマガラス、鷭[バン]、ヨシキリ、クイナなど。植物と同様に、鳥についても知り、判別できるようになりたい。バードウォッチングとか普通に面白いだろうと思うし、趣味としてハマる人がいるのはよく理解できる。動植物に対する自分のこういう知的欲求というのは、要するに博物学的な関心ということなのだろう。とりあえずアリストテレスプリニウスは読みたいし、あとはさしあたりファーブルやリンネあたりか。博物学者とかいう連中の情熱も普通に考えて頭おかしいでしょ。
  • 何度も言うようにこの短篇集は全然大した本ではないのだが、「二、三のこと」という篇の冒頭を読んで、まったく予想できなかった友人の自殺という事件を題材としてなんか書けないかなあとちょっと思った。
  • (……)に出るつもりだったので着替えをした。抽象画的模様の白いTシャツにガンクラブチェックのズボン。上階に向かう途中、下階の物置に母親の姿があったので、行ってくると伝える。それから階段にかかると母親も後ろからついてきて、暑い、死にそう、もう限界、ととても元気な声を立てる。草取りをしていたようだ。
  • 出発。家の前で父親がホースを使って水を撒いている。ポストを覗くと、都知事選で宇都宮健児への応援を呼びかける通知が入っていた。候補の名前を書かずに回りくどい言い方で宇都宮氏を指し示しているのだが、これは何なのだろう? 名前を直接出して支援すると公職選挙法に引っかかるのだろうか? そのへんの事情について何も知識がない。その通知を玄関に入った父親に渡しておき、歩き出した。
  • 鳥声は至るところから立って絶えることがなく、道の上に常にある。浅瀬の水をぴちゃぴちゃはじいて軽く泡立たせるみたいな声を基盤に、ヒヨドリが中域を差しこんで補強し、ウグイスが飛び道具的にトップノートを演じる、と、アンサンブルとしてはそんな感じだ。公営住宅横で前から八百屋のトラックが来て、見れば(……)さんなので会釈を交わしてすれ違う。空気には温みが含まれており、足もとから昇ってきて脚や腕に触れるような感じだが、それはやはりアスファルトに溜まったものが漏れ出しているのか?
  • 最寄りから電車。けっこう混んでいたので一応もうマスクをつけておく。空は白いなかに青灰色の浸食領域もあって、雨が降ってもおかしくはないような大気の色合い。(……)に着くと乗り換えて先頭車に移り、座って手帳にメモを取る。すると(……)までかかった。走行中は記録に傾注してあまり周囲を見なかったので、特に印象は残っていない。
  • (……)で下りて改札を抜ける。駅舎を南北に大きく貫くコンコース通路の真ん中に、やたら背が高くてひとつ頭抜けた、しかしかなり細い体格のマッチ棒みたいな外国人が突っ立っていた。北口広場で何やら演説とビラ配りをやっているのは宇都宮健児の支援団体らしい。
  • たしか空腹が極まっていたので、書店の前にラーメン屋に行ったはずだ。例によって「(……)」である。戸は開けっ放しになっており、入口前にアルコール液があったので手に塗布しておいた。入ると食券機で醤油チャーシュー麺を買い、餃子のサービス券とともに出し、入口から見てすぐ目の前の、カウンターの短いほうの辺についた。店内の音楽はブリッジミュートを施したギターの刻みがかなりガシガシした感じのメロコア的なやつ。品が届くと食べはじめるのだが、食事のあいだひらいた窓から駅前広場でやっているらしい演説の声が入ってくる。たぶん宇都宮健児の応援だったと思う。何を言っているのかは大部分聞き取れなかったのだが、まずもって喋りの速度や声の大きさからして通り一遍の演説に過ぎないことは明確に感じ取れる。街頭演説という形態の言語使用もしくはディスクールはどれもこれも大概は退屈極まりない。まず主題としても具体的な内容に突っこむことは大方なくて、皆だいたいは空疎かつ抽象的なお定まりの言葉しか吐かないし、声のニュアンスや言語の運用にしてもそれをきちんと整え統御しようなどとはほとんど考えていないことが明白である。こちらにとってとても不思議に思われるのは、政治家という職業を担っている人間たちが一般的に、言葉を考え、選び、吟味しながら、目の前にいる人間にそれをより明晰に伝達するように、語りかけるように喋っているようにはとても見えないということだ。話す速度ひとつ取ってみても彼らがそういうことについてちっとも考えていないことは自明に思われる。こちらからすればそもそもみんな、言葉を発する速度が速すぎると思う。考えながら、あるいは目の前の人の顔や様子に目を向けながら、彼らに対してなるべく正確にみずからの思考を伝達しようとするならば、もっと言葉をこまかく区切り、ときに逡巡しながら慎重かつ丁寧に発するはずだと思うのだが。演説には割当の時間が決まっていて、あまりゆっくり喋っていると言いたいことをすべて言えないという事情もあるのかもしれない。そうだとしても、多くの場合、街頭演説で提示される言葉の種類というものは決まりきっていて、要するに相手方に対する非難か、味方もしくは自分に対する支援の呼びかけに大方終始するものなのだが、そのどちらも大抵は具体性をまるきり欠いた空虚で曖昧で大雑把な話にとどまっている。自分方を応援してほしいと訴えるならば、彼らが応援するに値するという具体的な根拠を何かしら提示しなければならないはずだと思うのだけれど、街頭演説を行っている主体の多くはがんばりますとか、皆さんの期待に応えますとか、現政権は駄目だとか野党は駄目だとか、そういう風にきわめて内容稀薄な言語しか提示してくれない。そのような言葉を威勢良く繰り返して口にするのではなくて、短くても良いからもっと重要かつ充実した事柄を、静かに、かつゆっくりと目の前の人々に語りかけるべきではないのだろうか。ところがそれができる演説者というものは、こちらが街で見かけたり国会の映像を目にしたりする限りでは、ほぼまったく存在しない。誰も彼もがとにかく大きな声で喋り、有り余った活力をアピールすれば良いと言わんばかりで、与党も野党もそれは変わらない。そんな言動を取ってもただうるさいばかりで、通行人に興味を持たせることなどできるはずもなく、むしろ不快感を招いていわゆる政治への反感を強めるのみに終わるのではないか。こちらの考えるところでは、政治領域における言語使用の凡庸きわまりない貧しさこそがこの国における真の問題(のひとつ)であり、日本国の政治家は、あるいは日本国に限らないのかもしれないが、大体において、端的に言語をないがしろにしている。政治に関わる人間が言葉に対してきちんとした敬意を払い、明晰で、具体的で、正確な言動と、それにふさわしくともなった振舞い方を身につけない限り、政権を取るのが自民党だろうがいわゆるリベラル方だろうが、保守だろうが共産党だろうが、大して変わることはないと思う。その点においてこの社会が一定の改良を得るまでには、特に確固たる根拠はないのだけれど、こちらの主観的感覚では最低でも三〇年はかかると思うし、一〇〇年くらいかかったとしても何も不思議なことはないだろう。
  • 飯を食い終えて退店すると、高架歩廊を通って(……)図書館へ。入館し、手にアルコールをかけて擦りつけておいてからリサイクル資料のカートを見分。辺見庸の『愛と痛み 死刑をめぐって』(毎日新聞社、二〇〇八年)を発見し、辺見庸は以前から読んでみたかったのでもらっておくことに。ほか、ヒューム/小松茂夫訳『市民の国について(上)』(岩波文庫、一九五二年/一九八二年改版)もあり、古い訳でしかも上巻だけだが、まあ一応もらっておくかとそれも確保した。そうしてゲートをくぐり(入るほうと出るほうがきちんと区分けされていた)、新着図書を見るとジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル――主権権力と剝き出しの生』があった。Amazonを見る限りでは二〇〇七年に以文社から発売しているようなのだが、なぜいまになって新たに所蔵されたのだろうか? 新装版が出たわけでもなさそうなのだが。
  • フランス文学の棚に行ったのはロラン・バルトを借りるつもりだったからである。見分し、石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)とロラン・バルト/鈴村和成訳『テクストの楽しみ』(みすず書房、二〇一七年)をひとまず保持した。この二冊は年末年始に一度読んでいるのだが書抜きできないうちに返却期限が来てしまい、のちのちもう一度借りて写せば良いやと思っていたところがコロナウイルスで図書館が閉まってしまったわけで、それでだいぶ間が空いたので再読することにしたのだった。あと一冊何か借りることにして、色々と興味を惹かれるものはありつつも決めきれないところに、ジェラール・マセ/桑田光平訳『記憶は闇の中での狩りを好む』(水声社/批評の小径、二〇一八年)を発見した。この作家は去年くらいから書店で 『つれづれ草』(桑田光平訳)、『帝国の地図: つれづれ草Ⅱ』(千葉文夫訳)の二冊を見かけはじめたもので、断章形式の著作でなかなか面白そうだと思っていた。訳者も桑田光平というのはロラン・バルトを研究しており一部翻訳もしている人だし、千葉文夫も大御所でミシェル・レリスを訳しているし、これはたぶん信用できるだろうと興味を惹かれていたのだが、その二冊以外にも翻訳が出ていたことをここではじめて知るに至り、この本を借りることにした。閉館の五時までもう間がなかったが哲学の棚も見ておくことにして書架のあいだの通路を歩くと、途中、歴史の区画の一番はじめのほうにみすず書房の『ホロコーストの音楽』を認め、通り過ぎかけた足を止め、引き戻して手に取った。シルリ・ギルバートという人の本だ。言うまでもなく読みたい。同じ並びにやはりみすず書房のダン・ストーン『野蛮のハーモニー』があるのも確認しておいた。これもショアー関連の論集。
  • それで哲学の棚へ行き、時間の都合上西洋のものだけ確認。順番に視線を動かしていくあいだ、とりわけて興味を惹かれるものが何かあったような気がするのだが、なんだったのか忘れてしまった。その後カウンターに行って貸し出し手続きを済ませて退館。空気がすごく蒸し暑かった。館を出た途端に淀んだぬくもりがゼラチンのように身を包んでくる。歩廊を行けば(……)横に至る手前のあたりで街路樹が下の道から立ち上がり、通路のすぐ左外の高さまで梢を伸ばして充実した緑葉を浮かべていた。梢の枝のなかには切断されて断面を晒しているものも。
  • (……)に入ってエスカレーターで(……)書店へ。今日ここに来たのは翌日の(……)家訪問で(……)と(……)くんにあげる漫画を買うためである。彼らに漫画をプレゼントするという行為に特に意味と理由はないし、そもそも贈与に意味も理由も必要ない。そういうわけですぐに漫画の区画に行ったはずだがその前に多少文庫を見たのかもしれず、ちくま学芸文庫のアーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』が面白そうだったのを覚えている。この本はタイトルからして何か生物学的な、遺伝子学的な方面の著作なのかなと思っていたところが、紹介文を読んでみたところ「観念史」の試みだと言い、プラトン以来「充満」と「連続」という二つの観念が脈々と受け継がれて西欧の思想体系を形作ってきたその軌跡を辿るみたいな内容らしくて、これはこちらの興味ど真ん中でクソ面白そうである。そのうち読む。著者がどういう人なのかまったく知らず、普通に現役の気鋭の学者のものが紹介されはじめたのだと思っていたのだが、そうではなくて一八七三年生まれ一九六二年死去のアメリカの人物で、この本は一九三六年のものらしい。ジョンズ・ホプキンス大学で一九一〇年から三八年まで哲学教授。
  • それで漫画。と言っても(……)夫妻にあげるものはもう決まっており、(……)には泉光『圕の大魔術師』、(……)くんには雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。』。どちらも四巻まで出ているのだが、かさばるし、『圕の大魔術師』のほうは三巻までで第一部が終わるし、とりあえず三巻ずつで良かろうと判断。それで六冊を保持すると、ほかに面白そうなものは何かないかなと少々見分した。ルネッサンス吉田があるのは前回来たときにも発見しており、この作家は(……)さんがたびたび絶賛していたので読んでみようと以前から思っていた。それでとりあえず『あんたさぁ、』(小学館、二〇一八年)というやつを買うことに。姉弟間の近親相姦的な「愛」をテーマにした作品のようだ。そのほか、『中年卍』(講談社、二〇一九年)という作品の一巻もあったのでこれも取った。それ以外には『サウダージ』という本を発見。帯文に「ラフカディオ・ハーンフランツ・カフカ陶淵明…/世界文学史上に屹立する作品群に拮抗するように、現代の語り部漫画原作者・カリブsong(=狩撫麻礼オールド・ボーイ』『リバースエッジ 大川端探偵社』)が紡いだ物語に、破格の絵師・田辺剛(『アウトサイダー』『魔犬 ラヴクラフト傑作集』)が挑む」とあって、一行目に作家の名前を並べた最後を三点リーダーで(しかも二つ並べずにひとつで済ませながら)締めている点など浅はかで、「宣伝文の放つある種の不快さ」(細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、289)は否めないものの、そこに提示された文学者たちの名前にまんまと釣られてしまい、そんなに悪くなさそうな雰囲気でもあったしこれも買ってみるかと手もとに加えた。
  • ほか、大判の棚や、なんか大御所というかレジェンド的な人たちが集まった区画なども眺めていると、谷口ジローの場所にインタビュー本を見つけたのだが、その背にブノワ・ペータースという名前があり、なんか覚えがあるなと思って記憶を探ってみたところ、これはあの八〇〇ページだか一〇〇〇ページだかあるやたら分厚い『デリダ伝』の著者じゃないかと思い出した。漫画方面の仕事もしているなどとはまったく予想しなかったが、Wikipediaを見ると、「ソルボンヌ大学で哲学の学位を取ったのち、社会科学高等研究院にてロラン・バルトの指導のもと『タンタンの冒険』を主題とした博士論文を執筆。それに平行して小説執筆を進め、『Omnibus』(1976年)、『La Bibliothèque de Villers』(1980年)という二冊のヌーヴォー・ロマン風の作品を発表している」と言う。また、「彼の代表作として知られているのは、幼馴染であるベルギーの漫画家フランソワ・スクイテンの作画によるバンド・デシネ『闇の国々』シリーズである」ともあったが、この作品はAmazonでちょっと見てみた限り普通に面白そうで興味を惹かれる。ブノワ・ペータースのほかにもうひとつ並んでいたコリーヌ・カンタンという名前にもなんだか覚えがあるような気がしたのだが、この名前を検索してみるとアンドレコント=スポンヴィルの著作群が出てくる。翻訳協力しているらしいが、コント=スポンヴィルの『精神の自由ということ――神なき時代の哲学』を以前読んだことがあるので、それで目にしていたのだ。
  • 会計を済ませて退店するとエスカレーターを下った。二階について出口に向かう途中で「(……)」の横を通るのだが、ちょっと目が行き、足を停めてしまったので入って見分した。服もだいぶ長いこと買っていないし、そろそろ新しい品が欲しいのだ。落ち着いた雰囲気の男性相手にやりとりし、気になったシャツを試着させてもらう。綿七割、麻が三割の軽やかなストライプシャツで、色は黄の匂いもほのかにはらんで柔らかく温かみのある薄褐色という感じ。襟がスナップボタンでパチっと留める方式になっており、先端が短く首の前まで回る手前で横にひらいているので珍しい形と思ったのだが、これは「カッタウェイ」という種類の襟で普通にあるものらしい。二割引きになっており、そうすると四三〇〇円くらいでべらぼうに高いというわけでもないのでこれを買うことにした。店員が品を包んでくれるのを待っているあいだ、不要になったシャツを回収するボックスをそばに見つけて訊いてみると、開襟シャツなら素材やブランドはなんでも良いらしく、いまは結構色々な店に設置されていると言う。この店員の人は極端に愛想が良いわけでないが物腰穏やかでわざとらしさがまったくなく、慇懃に落ち着いているという感じだった。レジで会計した際に胸の名札を見やったのだが、コロナウイルス対策のビニール製仕切りが邪魔でよく見えなかった。通路まで送ってくれたところで品を受け取り、礼を言って退店。
  • 駅へ。広場での演説および応援活動は終わっていたと思う。あとは(……)の地階へ行く必要があった。これも明日(……)家にあげる土産を買うためで、例によって「Butter Butler」のフィナンシェで良かろうと思っていたので迷わず当該店舗に行き、八個くらい入ったやつを二箱購入。ひとつは我が家の分である。
  • それで改札内に入り、たしか二番線から電車に乗って手帳にメモを取りながら移動を待った。途中で寝たような気もする。そのあとの帰路のことは忘れた。
  • 爪を切るあいだにGideon Van Gelder『Lighthouse』を流し、なんとなく耳を傾ける。わりと知性的にアンサンブルが作られている印象というか、サックスのLucas PinoにしてもVan Gelderのピアノにしても熱情的になるということがなかったと思うし、誰も明確なソロを取らずこまかなメロディラインのない展開をループさせるような場面もあった記憶がある。そういうところはアンサンブル重視で総体的なテクスチャーとしての手触りとか雰囲気とかを感じてもらうという趣向なのだと思うが、その点、なんとなくSam Harrisの『Interlude』を思い起こす感じもあった。二〇一〇年代以降のジャズとしては、ひとつにはああいう風に音数の多いメロディを聞かせるのではなく、カラフルな和声構築を旨とした印象派絵画風の路線があるのかもしれない。
  • (……)さんのブログ、二〇二〇年四月二日。柄谷行人『探究Ⅱ』(151~154)より。

 (……)物はその存在に関してのみ一とか唯一とか呼ばれるのであって、その本質に関してそう呼ばれることが出来ません。というのは、我々が物を共通の類に還元した後でのみその物を数の概念の下に考えることが出来るのです。例えば一つの銅貨と一つの銀貨を手に持つ人は、この銅貨と銀貨を貨幣という同一名称で呼び得る限りにおいてでなくては二つという数について考えることが出来ません。こうした場合にあってのみ初めて自分が二つの貨幣を持つと言い得るのです。彼はその銅貨も銀貨も共に貨幣の名を以って表示しているのですから、これから明白なのは、我々が物を一とか唯一とか呼ぶことは、前にいったようにその物と同じ類の他の物を考えた後においてのみ可能であるということです。ところで、神の存在は神の本質であり、また我々が神の本質について何ら一般的観念を形成することが出来ないのですから、神を一とか唯一とか名づける者は神について真の観念を有せず、或いは神について不適当な語り方をしているのであることが確かです。(『スピノザ往復書簡』)

 スピノザは神は一つだというのではない。なぜなら、一は多に対応するものだからだ。たとえば、個々の机に対して、机という一つの概念があり、多くの神々に対して、一つの神性が考えられる。つまり、一つの神というのは、神の概念である。それなら、スピノザは何をいいたいのだろうか。それは、いわばこの神(世界)が在るということである。ウィトゲンシュタインは、「世界に神秘はない、世界が在ることが神秘だ」といったが、神秘的なのは、この世界が在るということなのだ。「この」は、一般性ではないが、個物でもない。いいかえれば、「この」は、個体性―一般性という円環の外部において、すなわち単独性―普遍性という円環にかかわるのである。ハイデッカーは、デカルト以後、世界は主観にもとづく表象となったという。しかし、デカルトスピノザによって出現したのは、この世界であり、この私である。そして、それのみが表象としての世界を批判しうるのだ。

 (……)ガタリの立場からは、言表行為の主体は存在しない。存在するのはただ言表を生産するアジャンスマン(さまざまな次元の構成要素からなる異種混交的な編成)だけである。つまり、言表は個人としての主体に帰属させるべき行為ではなく、むしろその言表の生産される現場を社会の集団や権力関係のなかで捉えることが必要だというのである。この立場からは、主体ではなく、むしろ集団的主体性が問われることとなる。そして、その実践のなかでは「共通規範を逸脱する主体の欲望的特異性にそれ相応の場所」が付与される。つまり、集団的アジャンスマンは「特異性の〈素材〉として現出するあらゆるものと連結することのできる開かれたシステム」なのである(Guattari, 1977, p.39/104頁)。人間は、つねに何らかの集団のなかにあるが、それでも集団の規範を逸脱する特異性がつねに轟き、生じている。スキゾ分析の任務は、その特異性を抑圧から解放し、「前人称的な複数の特異性を開放すること」にほかならない(Deleuze & Guattari, 1972, p.434/下272頁)。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』p.398-399)

  • この「共通規範を逸脱する主体の欲望的特異性にそれ相応の場所」を与えるような「集団的主体性」の実践について、おそらく具体的な事例も挙げながら現場での体験に即して語っているのが例の『カオスモーズ』だという理解を持っているのだが、実際に読んでいないのでそのイメージが正しいのかどうかわからない。
  • ほか、中国の学生から送られてきた微博のリンクを「踏んで飛ぶと、日本政府が一世帯につき布マスクを二枚配布することに決めたというニュースについての特集で、この死ぬほど馬鹿げているとしかいいようのない決定を受けた日本のネットユーザーたちが作成したクソコラ(安倍晋三がマスクを顔面にふたつ装着しているもの、サザエさん一家が二列にならんでどうにかマスク二枚を全員でシェアしているもの、『耳をすませば』で両親はマスクを装着しているのに雫だけ装着していないもの)などがとりあげられていた」とあり、最後の『耳をすませば』ネタにはさすがに笑う。現物の画像を見ていないのに文字だけで笑ってしまった。