2020/6/29, Mon.

 さまざまな神話の対象物のあいだに内容的な区別を立てようとしても、まったくの見当違いらしいことがわかる。なぜなら神話は言葉であり、言説に属するものは、すべてが神話になりうるからである。神話を定義するのは神話のメッセージの対象物ではなく、神話がメッセージを発するやりかたである。神話には形式の限界はあるが内容の限界はない。では、すべてが神話になれるのか。なれる、とわたしは思う。それは宇宙が無限に暗示的だからである。世界のどんな対象物でも、閉ざされた、沈黙した存在から、社会への適合にむけて開かれた、口をきく状態に移行することができる。というのは、自然の法則であれ社会の法則であれ、どんな法則も事物について語ることを禁じていないからだ。木は木である。おそらくそうだ。だが、ミヌウ・ドゥルエによって語られた木は、すでにもうまったく木ではない。その木は飾りつけられ、或る種の消費に適応させられ、文学的な自己満足、反乱、比喩を授けられている。つまり、純然たる物質に付け加わる社会的用途[﹅2]を授けられているのだ。
 もちろん、すべてのことが同時に言われるわけではない。いくつかの対象物は、一時期のあいだ、神話的な言葉の餌食となり、それから消えてゆく。代わって他の対象物が現れて、神話に到達する。ボードレールが〈女〉について言っていたように、決められたさだめとして[﹅11]暗示的な事物はあるだろうか。きっとそんなものはない。きわめて古い神話というものを考えることはできるが、永遠の神話などというものはないのだ。なぜなら現実的なものを言葉の状態に移行させるのは人間の歴史であり、それこそが、ひとえにそれこそが神話的な言語活動の生死を支配しているからだ。遠い過去であろうとなかろうと、歴史的な基盤しか神話体系は持ちえない。なぜなら、神話は歴史によって選ばれた言葉だからである。神話が事物の「本性」から生じたりすることはありえないだろう。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、319~320; 「今日における神話」; 一九五六年九月)



  • 一二時三一分まで寝過ごしたので、一一時間弱の睡眠になる。なぜこんなにも滞在してしまったのか? 天気は今日も曇り気味だが青さもうっすら覗かないでもなく、二時半現在では雲はより薄れ、あるいは去って陽の感触も生じ、近所の家壁に光が掛かって影帯と陽帯の別があらわれていた。
  • 母親は仕事。台所にミョウガシソの葉があったのは家の周りから採ったらしいが、どこに生えているのかこちらは知らない。昨日の残りの餃子と米で、新聞を読みながら食事を取り、そのあと帰室すると歯を磨きながらコンピューターの起動を待って、口を濯いでくるとフィナンシェを食いつつ日記にかかった。(……)
  • チェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)を読み、五時過ぎで起き上がって食事へ。冷凍されてあった食パンを一枚焼き、バターとハムを乗せて食う。その後歯磨きと着替えを済ませて上へ。外出前に洗面所で手を洗った(……)。
  • 玄関の扉脇に回覧板があったので郵便とともになかに入れておき、道に出た。道端の草の成長ぶりは旺盛で、茎が太くて野草というよりもほとんど畑に生えている芋か何かのように見えかねない。途中でケアサービスの車とすれ違ったが、あれはたぶん(……)さんを送り届けに来たものでないか。梅の樹の下からは葉っぱがなくなって道の端に寄っていたので、誰かが掃除して掃き寄せたのか、あるいは陽に乾いたために風に運ばれたものらしい。
  • そのほかに道中のことやまた帰路のことは記憶に残っていない。やはりその日か、遅くとも翌日のうちにすぐメモしておかなければどうしたって忘れてしまうものだ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)さんのブログ、二〇二〇年四月三日。柄谷行人『探究Ⅱ』。以下で述べられていることはわかりやすい。わかりやすいというのは、こちらにあって実感的な世界観としてだいたい共有し納得できるということだ。

 われわれは、この世界=自然そのものの原因を問うことはできない。たとえば、そのような問いそのものがこの世界に原因をもつのであるから。われわれがもし(デカルトのように)疑うとしたら、そのこともこの世界に原因がある。一方、この世界に属するすべての個物は他の個物に作用され、その原因と結果の連鎖が無限につづく。あらゆるものが(意志もふくめて)原因によって必然的に決定される。《自然のなかには何一つ偶然的なものは存在しない。あらゆるものは、神の本性の必然性から、一定の仕方で存在や作用へと決定されている》(『エチカ』第一部定理二九)。偶然とは、原因が複雑であるためにそれを知りえないということにすぎない。だが、この決定論は、個物と個物の間の機械論的因果性ではない。個物がすでに諸関係の連鎖である以上、個物を単位とみなすことができないのである。アルチュセールスピノザの因果性を「構造論的因果性」とよび、その決定論を「多元的決定論」とよんでいる。
 たとえば、スピノザは、自然はこのように決定論的であるがゆえに目的がないといっている。《自然が目的のために活動しないことを、すでにわれわれは明らかにした。つまり、われわれが神あるいは自然と呼んでいるこの永遠にして、無限なる存在者は、それが存在するのと同じ必然性によって活動している。ところでそのような存在者が存在するのは、その本性の必然性によることがすでに証明された。したがって、神あるいは自然が活動する理由ないし原因とそれが存在する理由ないし原因とは同一のものである。それゆえ、神はなんらかの目的のために存在するのでないと同じように、なんらかの目的のために活動しているのでもない。神には存在の原理や目的がないのと同じように、またいかなる活動の原理も目的もないのである》(『エチカ』第四部序文)。
柄谷行人『探求Ⅱ』p.170-171)

 後にラカンは、七五年の『サントーム』の初回講義のなかで、普遍 - 個別の軸をもちいるアリストテレスの論理学から排除されていた特異的=単独的なもの le singulier を重要視するようになる。そこでは、精神分析家が扱うものは普遍には還元不可能な特異的なものであることが強調される。(……)精神分析は、分析主体の症状を変化させることはできるが、どれだけ作業を行なっても症状を完全に消しさることはできない。それは症状が満足(享楽)の側面を含むがゆえに、つねに残余を残すからである。しかし、だからといって精神分析は「終わりなき」ものではなく、むしろ分析作業の最後に残った享楽の屑(特異性)としての症状=サントームに同一化すること、あるいはそれと「うまくやっていく savoir y faire」ことが最終的なラカンの分析の終結の公式となった。この意味で、サントームは私がこの私であることを示す、主体の真の固有名なのである(…)。
 ならば、私たちは次のように結論できる。ドゥルーズ=ガタリにおいて、そしてラカンにおいて、特異性 singularité はともに享楽=エスの轟きの水準、すなわち現実界にある。しかし、前者がその非人称性を重視したのに対して、ラカン派ではそれは根源的に主体の固有名に結びついたものであり、さらに最終的に主体自身が同一化しなければならないものとして捉えられている。つまり、ラカン派では、知らないうちに自分を突き動かしていた特異性(享楽=エスの轟き)を取り出しながらも、それを多数の方向へと解放するのではなく、むしろ「これがまさに私である」という単独性=単数性へと変化させることが目指されているのである。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』p.401-402)

  • 書見はチェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)を読了。「傑作短編集」などと銘打たれているが、こちらが思うに大方は内容としても大した篇ではなかったし、日本語訳もとりたてて優れているとは感じられず、むしろ違和感を覚える部分も散見された。したがっていまのところは「Ⅱ」のほうを読む気は起こらない。328から329には「わたしの「彼女」」というごく短い篇が収録されており、この作品は始まってから何行かのあいだはそこまで悪くなく、小品らしい感じがある。つまりカフカやヴァルザーがやるような小品をちょっと連想させる質感があったということだ。ただ、七行目から具体的な記述に入ると途端につまらなくなるし、最後に「彼女」の名前が「レーニ」(ものぐさ)だと明かされ、「彼女」と呼ばれていたのは語り手である「わたし」当人の怠惰さだったことがわかるという落ちも、普通に弱くて退屈極まりないと思う。
  • 「訳者解題」に記されたチェーホフの経歴によれば、彼は「故郷タガンローグの中高等学校時代に、文学修業をひととおり終え」、「まともに上演すれば九時間はかかろうという戯曲「父[てて]なし子」をもう書きあげていた」と言う。それはちょっと気にならないでもない。
  • Wikipediaの「ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク」から、「ピエールフォン城」について。
  • 「ヴァロワ地方のほぼ中央に位置するピエールフォンは古くから軍事拠点として重要視され、オルレアン公ルイによって本格的な防備城塞が建てられた。1411年にはブルゴーニュ人の攻撃を守り抜いたという記録が残っているが、その後焼き討ちなどの破壊が続き、ルイ13世は反乱貴族の拠点となるのを恐れ、ついに城の破壊を命じた」。解体は中断されたものの城は廃墟となり、「18世紀には廃墟と化したその姿がロマン主義者らの間で人気となり、離宮として使うことを表明したナポレオン3世により1857年にヴィオレ・ル・デュクに修復が命じられた」と言う。「ナポレオン三世の当初の理想は、廃墟を眺めながらの別荘暮らしができるという程度の修復だった」のだが、「修復工事が始まると、その内容はエスカレートしてい」き、「1860年には外観を全て復元することになり、1862年には外観だけでなく内装も含めて完全な離宮として装飾を施すこととなった」。普仏戦争及び第二帝政の終焉により修復は一時中断したものの、最終的に一八八五年に完成。「皇帝夫妻の住宅建築」にするために歴史的遺産としての「慎重な復元」がなされなかったため、「ヴィオレ・ル・デュクによる修復は長年批判を浴び、考古学者らの最大の攻撃対象となった」と言う。
  • 「サン・ドゥニ・ド・レストレ教会堂」について。これは修復ではなくヴィオレ・ル・デュクが新しく考案した建築物で、「サン・ドゥニ修道院付属教会堂の修復を行っていた彼は、1860年に同地小教区の教会堂であるサン・ドゥニ・ド・レストレ教会堂の設計を頼まれた」と言う。「様式としては、ネオ・ゴシック様式に分類される」が、「ゴシック建築の特徴である交差リブを用いておらず、身廊を扁平な交差ヴォールト天井で仕上げるなど、ヴィオレ・ル・デュクが最初に修復したヴェズレーのラ・マドレーヌ教会堂のようなロマネスクの様式が見られ」、「また、内部装飾は植物などをモチーフにした近代的なもので、ロマネスクともゴシックとも異なる」とのこと。
  • ヴィオレ・ル・デュクは、ゴシック建築をすべて力学的に説明することを試み」、「ピナクルや控壁に至るまですべての部位の存在に理論的整合性が与えられ」る「構造合理主義理論」なるものを「確立した」と評価されているらしい。そして、「このことにより、ゴシック建築は、それまで重要視されていた古典建築と同等の地位を獲得したと言えよう」などと日本語版Wikipediaは述べているのだが、果たしてそれが確かなのか否か、何の典拠も付されていないし、本当かよという疑念は感じる。また、「19世紀当時新しい建築材料として使われ始めていた鉄の利用を認めている点もヴィオレ・ル・デュクの建築論の特徴の一つである」らしい。