2020/9/17, Thu.

 恥ずかしさにそっくり相当するものが、まさしく、近代哲学において自己触発と呼ばれ、カント以降、時間と同一視されるのが習いとなっている主体性の原初的構造に認められるとしても意外ではない。時間が内的感覚の形式、すなわち「わたしたち自身とわたしたちの内的状態とについてのわたしたちの直観」(Kant, I., Critica della ragion pura, Laterza, Roma-Bari 1981., p.77〔『純粋理性批判』〕B49)の形式である以上、時間を定義するものは、カントによれば、時間において、「悟性は、自分がそれの能力であるところの受動的主観〔主体〕にたいして、内的感覚がそれによって触発されると言ってしかるべきであるような行為をはたらく」(p.146〔B153〕)ということ、それゆえにまた、時間において、「わたしたちは、わたしたち自身によって内的に触発されるようにのみ、わたしたち自身を直観する」(p.148〔B156〕)ということである。わたしたちの自分自身についての直観にともなうこの自己様態化の明白な証拠となるのは、カントによれば、わたしたちは想像のうちで直線を引かないことには時間について考えることができないという事実である。その直線は、いわば、自己触発のふるまいの直接的な痕跡なのである。この意味で、時間は自己触発である。しかし、まさにこのために、カントはここで正真正銘の「パラドックス」について語ることができるのである。それは「わたしたちはわたしたち自身にたいして受動的なものとしてふるまわなければならない(wir uns gegen uns selbst als leidend verhalten mussten)」(p.146〔B153〕)という事実のうちに潜んでいる。
 このパラドックスをどう理解すべきなのだろうか。自分自身にたいして受動的であるとは、なにを意味するのだろうか。受動性が、単なる受容性、すなわちただ単に外部の能動的な原因によって触発されることを意味するのでないことは明らかである。ここでは、すべてが主体の内部で起きるのだから、能動性と受動性は一致しなければならず、受動的な主体は自分自身の受動性にたいして能動的でなければならず、「自分自身にたいして(gegen uns selbst)」受動的なものとしてふるまう(verhalten)のでなければならない。光によって刻印される写真のフィルム、あるいは封印の像を刻印される柔らかい蠟を、ただ単に受容的なものと定義するなら、みずからが受動的であることをいわば能動的に感じるもの、自分自身の受容性によって触発される[﹅17]ものだけを受動的と呼ぶことにしよう。すなわち、受動性とは――自己触発であるかぎりで――受容性の二乗なのであって、それは、受容性が自分自身を受苦し、みずからの受動性に情熱的になっているのである。
 ハイデガーは〔『カントと形而上学の問題』のなかで〕カントのこのくだりを注釈して、時間を「自己の純粋な触発」と定義している。それは「自己から~へと動く」ことであると同時に「振り返り見る」ことでもあるという奇妙な形式をもっている。このような複雑なふるまいにおいてのみ、このように自己から遠ざかりながら自己を見ることにおいてのみ、「自己自身」なるものが構成されることができるのである。

時間は、すでに眼前に利用できるものとなって存在している自己を打つ能動的触発ではない。純粋な自己触発として、それは自己自身にかかわる〔sich-selbst-angehen〕と一般に呼ぶことのできるものの本質そのものをなしている。〔……〕しかし、なにものかがそのようなものとしてかかわることのできる自己自身とは、本質的に、有限な主体である。時間は、純粋な自己触発として、主体性の本質的構造をなしている。このような自己性にもとづいてのみ、有限な存在は、それがあらねばならないもの、すなわち受容へと引き渡されたものとなることができるのである。(Heidegger, M., Kant e il problema della metafisica, Silva, Milano 1962.(木場深定訳『カントと形而上学の問題』ハイデッガー選集第19巻、理想社、1967年), p.249)

 ここで、引き受けることのできない受動性に引き渡されることとしてわたしたちが定義した恥ずかしさとの類似性が明るみになる。それどころか、恥ずかしさは、主体性にもっとも固有の情態性である。というのも、意に反して性的暴力をこうむる人間には、たしかに恥ずべきものはなにもないからである。しかし、その者が、自分が暴力をこうむることで快楽を覚えるなら、自分の受動性に情熱的となるなら――すなわち自己触発が生まれるなら――、その場合にのみ、恥ずかしさについて語ることができる。このため、ギリシア人は、同性愛の関係において、能動的主体(愛する者[エラステース])を受動的主体(愛される者[エローメノス])から峻別し、この関係の倫理性を保つために、愛される者[エローメノス]が快楽を感じないよう求めた。いいかえれば、主体性の形式としての受動性は、構造的に、純粋に受容的な極(回教徒)と能動的に受動的な極(証人)に分裂しているのである。しかし、だからといって、この分裂は、けっして自己自身の外に出るものではなく、けっして二つの極を分離するものではない。その反対に、内密性[﹅3]の形式、自己を受動性に引き渡すという形式、受動的になる(far-si passivo〔自己を受動的にする〕)という形式をつねにもっている。そして、そこでは、二つの極は区別されるとともに混じり合っているのである。
 (ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年、146~149)



  • 一時半起床。涼しげな曇天である。からだを少々ほぐしたのち、上階に行って食事。味噌汁に、卵やキュウリやパプリカのサラダに、冷凍の中華丼。熱いものが食道にどうかなと思ったのだが、引っかかりがまったくないではないものの、ひりつくこともないし、もうほとんど問題ないくらいまで回復していた。となるとまた緑茶を飲みたくもなるが、ここで油断すると逆戻りしかねないので今日も茶は控えるつもり。新聞は菅義偉内閣の陣容を紹介し、また米ホワイトハウスイスラエルUAEおよびバーレーン間の国交正常化に関する調印式がおこなわれたと伝えている。九三年にいわゆるオスロ合意の調印がなされたのとおなじ、South Lawnが使用されたらしい。
  • 食後は食器と風呂を洗って帰室。携帯に高校の同級生であるO.Sからの連絡が来ていた。たぶん一〇年ぶりくらいだと思うが、最近TDと連絡を取って、こちらのアドレスが変わっていないと聞いたので送ってみたという話だ。腐れフリーターとしてだらだら生きていることを報告しておき、一方で職場にも来月の勤務希望のメールを送った。
  • 三〇分ほど日記を書いたあと、ベッドに行って三宅誰男『双生』(仮原稿)。「彼」とフランチスカの初夜のあたりなど読むに、普通にクソ面白いやんという感じ。こういうムージル路線の、底に流れている論理が見通せず隠されているように感じられる物語(論理がまるきりないのではなく、何かしらの理路が通っているように思われるのだがその実体が定かに掴めない物語)の可能性ってまだまだ汲み尽くされていないのでは? という気がするのだが。こういうあり方をきちんと吸収して取り入れた人って、すくなくとも日本にはそれこそ古井由吉くらいしかいないのではないかと思うし、海外文学でもムージルにめちゃくちゃ学んだという現代作家の情報など聞いたことがない。磯崎憲一郎も色々吸収しているとは思うが、彼の場合はそのままこの路線ではなくて、ちょっと毛色が違ってくるだろう。
  • メモ。「ほとんど間抜けですらあるその面構えをもって水面に映り込んだ彼自身のやはり同じように捉えがたい斜視を宿した面相であるとするお笑いぐさのような錯覚」
  • 「蟄居の日々のために儚くなった自らの裸の背中が、暗闇の中で鬼火のように青白くぼんやりと浮かび上がっているのを、寝床からの眼差しを借りる格好で彼自身はっきりと目にしたのだった」
  • 「幾つもの肖像が重ね書きされているその姿」
  • 「その先に控えているのはしかし、近親を犯し、同性を犯し、自らをもまた犯す、幾つもの禁忌のその結び目に重ね合わせられた、初夜の静まりとは無縁の魔道であった」
  • 「からからに渇いた咽喉から絞り出したつもりが、思ったよりも野太い輪郭をもって響いたのを、彼は他人の声として聞いた。いや、そうではなかった。他人のものとして聞いたその声こそが、自身初めて耳にする彼自身の声であったのだった」
  • 「理解の全く及ばぬ他者を前にしての幾らか訝しげな戸惑い——それ以上でもなければそれ以下でもないものを互いに浮かべ合っている二人がそこにいた」
  • 「彫りの深い顔立ちに宿る異国風の機微の、見れば見るほどおよそ彼には形作ることのできそうにもないその隔たり」
  • 「紛れもない彼の声による、紛れもない赤の他人に向けられた、紛れもない呼びかけとしての、紛れもない問いかけ」
  • 「つぶさに見てまわればそのひとつひとつが確かに悲劇的な調子を帯びているはずの、それでいて重なり合いひとつの全体と化せばどういうわけかほとんど祝祭じみた活気を呈しているようですらある無分別な賑わい」
  • 「山間の流れと大海の潮とはまるで別物であった。木造の小舟と鉄製の汽船とはまるで別物であった。死者を流れに委ねて彼岸に送り出すものと、生者を潮に逆らい別の此岸に送り届けるものとの、そう対置してみれば明らかな隔たりを無視するには、彼はあまりに繊細にできすぎていた」
  • 「そして次にそのことを意識した時、彼は既に寝床の中の人であった」: →『亜人』、17: 「敵船上陸の報せが夜目の利く伝書鳩によって館内にもたらされたとき、大佐は太刀を片手にだれよりもはやく馬上のひととなった」 → ムージルポルトガルの女」: 「二日後には彼はふたたび馬上の人となっていた」(川村二郎訳『三人の女・黒つぐみ』(岩波文庫、一九九一年)、63)
  • 「丸くなったその背に注がれているに違いないものを感じながら、火鉢によって温められてあったものの名残りも既にほとんどないひんやりとした空気に肌を晒すと」: 「その背に注がれているに違いないもの」: 「~する(される)もの」という言い方で名詞を表現することはこちらもおりおりやる書き方だが(こちらの日記では風を「流れるもの」とか言うことが多い)、「~するに違いないもの」と、「違いない」という確信的推量の表現を足した形で使われるのははじめて見たような気がする。 / 「火鉢によって温められてあったものの名残り」もちょっと面白い。この「もの」は「空気」を指していると思うのだけれど、ここでわざわざ「もの」の語を使う必要は意味的観点からするとほぼなく、「火鉢によって温められてあった名残り」と名詞を省いても良いだろうし、「火鉢によって温められてあったその名残り」と「その」でつないでも良いだろう。そこをあえて「もの」と言って、最大限に一般性を帯びていながらも紛れもない名詞である語を導入している。
  • 「彼は胡座を掻いたまま、しかし上体だけを捻るようにして、掛け布団を首元にまで引っ張り上げて横になっているフランチスカの、生首のようにそこだけ晒されてある顔に目を遣った。暗闇の中ではその色を窺うことはかなわなかった。手を伸ばし、掛け布団の縁を掴んだ。フランチスカは逃げようとしなかった。瘡蓋を剥ぎとるようにして捲り上げるべきものを捲り上げると、霜の降りた石のように白い肉体が現れた。夜を千度塗り重ねた向こうでも仄かな燐光を湛えて見えるに違いない、既に一糸纏わぬ姿であった」: 「かなわなかった」 / 「霜の降りた石のように白い肉体」 / 「夜を千度塗り重ねた向こうでも仄かな燐光を湛えて見えるに違いない」
  • 「出発の朝は白々しいほどに晴れ渡った。清潔な冷気に辺り一面澄み渡り、氷柱のように白い日射しが凍った地面のあちこちを突き刺して眩しい中、夜の間に僅かに降り積もったらしい雪は早くも溶け落ち、軒を伝う頻繁な滴りとなって線路に面した歩廊の上を黒々と染めていた」
  • 「一枚の皮膜となってどこまでも伸び広がろうとする青い水とその際限なさを縁取り区切ろうとする白い飛沫とが、眼下に向かい合った海面で形作られたそばから砕け散る富士の色合いに忙しなく生成明滅していた」: 「皮膜」 / 「富士の色合い」
  • 四時四五分まで。上階へ行き、おにぎりをひとつ拵えて夕刊を見ながら食事。父親は南の窓際に腰掛けて藤沢周平か何かの文庫本を読んでいる。米を平らげると下階にもどって身支度し、出発である。道を歩きながら心身の輪郭を探ってみるに、乱れてはいないけれど特別整いまとまっているというわけでもなく、明鏡的な静かな落ち着きには遠い。Sさんの宅前にかかりながら首を曲げれば、頭上に咲いたサルスベリはピンク色をいっぱいに集めて騒がしく、いかにも盛りといった調子で誇りかに満開だった。Kさんがちょうど車を車庫に入れているところだったので、前を通るときに軽く会釈を送る。Nさんが外に出ているのにも久しぶりに行き逢ったのでこんにちはと挨拶を送り、過ぎようとしたところでお父さんは、と声がかかったので振り向いていくらか近づいた。もう仕事は引退されたのかと訊くので、このあいだ終わりまして、ありがとうございますと答え、来年は祭りがどうなるかねえなどということをちょっと交わしたのち、また色々とお世話になると思いますので、よろしくお願いしますと向けると、いや、こちらこそいつもお世話になっていて、ありがとうございますなどと答えながらNさんは両手を脚の左右に合わせて、丁寧な礼をしてみせた。自分のような若輩にもきちんと礼を尽くすあたりまことに律儀な人柄と言って良いだろうが、その律儀さになんとなく戦前生まれという感を得たのは、しかし勝手なイメージだろう。軍隊生活を通過した者としての礼儀感覚をもしかしたら思ったのかもしれないが、Nさんの正確な歳がわからないし、仮に九〇ぴったりだとしても終戦の年には一五歳ということになるから、たぶん徴兵されていないのではないか。そう考えると、元軍人というのは日本国にはもはやほとんど存在していないのだろう。
  • 坂道の蟬は昨日よりもいくぶん力を取り戻しているような気がしたが、それでももう去り際に至ったものの最後の叫びの苦しさは否めない。空気は前日よりも蒸しているらしく、汗の滲み方がやや違う。駅に着いてホームに入り、ベンチにバッグを置いた瞬間に電車入線のアナウンスがかかったので、メモは取らずそのままマスクをつけて来た電車に乗りこんだ。横向きで扉際に立ったまま目を閉じ、心身の輪郭をなぞるようにしながら到着を待った。青梅に着くと駅を抜けて職場へ。
  • 今日の相手は(……)さん(中三・英語)、(……)くん(中一・英語)、(……)くん(中三・英語)。そんなに特筆することはない。(……)くんがよくできたので、もうすこし突っこんだ内容に触れたり、なんかもっと発展的なことができたら良かったな、というくらいだ。授業前の準備のときに(……)先生が突然泣き出した時間があって、(……)さんが即座に教室の奥に連れて行ってなだめていたのだが、どうして泣いてしまったのかまったく事情は知れない。塾に関する問題なのか、それともべつの場所で何かあったのかも不明である。何かしらできることをしてあげたい気はしたが、話を聞いてあげるほど親しい関係でもないし、仮に女性としての問題だとしたら男性には話しにくいこともあるだろう。そういうわけで(……)さんに任せ、せめて号令役を替わってあげようかなと、感情が乱れたあとで多人数(と言ってもそこまでの数ではないが)の前に立って声を出すのは大変ではないかと推してそう思ったのだが、結局躊躇して声をかけられなかった。これがこちらの弱さである。
  • 授業後は(……)さんに報告をしたり、シフトの調整を頼んだり、教室会議の計画を話したりしていてまた遅くなった。アンケートを実施するのはどうかという話が出ていたのだが、そのあたりについて相談し、明後日土曜日に共に作成することになった。それまでに気が向いたらどういうことを訊くかという案を簡単な文書にまとめてくる、という次第にもなっている。一応明日やろうと思ってはいるものの、なんか面倒臭い仕事ではあるし、もしかしたら雛型を用意せずに土曜日に直接作る方法を取るかもしれない。それにしても俺もずいぶん運営側にコミットするようになってしまったというか、単純に最近、仕事がかなり増えている。まずいなあというか、こんなに深入りするつもりはなかったというか、そんなちゃんとした立場を担いたくなどないのだけれど、たぶんもう実質サブリーダー的なポジションになってしまっているだろう。なんかそういう取りまとめるほうのポジションに就きたくないと自分では思っているはずなのだけれど、勤務年数がもう長い以上ある程度は仕方のないことだし、それを措いても頼まれると断りにくいというか、せっかくだから自分にできることはやろうかなという気になってしまうというか、本当にやりたくなければ嫌ですとにべもなく拒否すれば良いだけの話なのだけれど、どうもそうする気にはなれない。今回の教室会議の件だって仕事を増やしたくなければただ黙っていれば良かったのだけれど、むしろ自分からわりと積極的に提案をしたり働きかけたりしているわけで、まあなんだかんだ言ってもこちらはそういう点でけっこう人の良い、善良な人間なのだろう。
  • 九時前に退勤し、駅に入って電車に乗り、瞑目して到着を待つ。帰路に関しては大した印象は残っていない。帰り着くと服を脱いで部屋のベッドで『双生』を読みながら休み(上にはこのとき読んだ分までメモしてある)、一〇時過ぎに食事へ。キムチ鍋など。辛いスープを飲んでも一応大丈夫なあたり、食道はだいたい問題ないだろう。父親は髭を剃らずに放置しているので、口の周りや顎に白いものがのさばっている。テレビは櫻井翔有吉弘行の『夜会』というやつで、神木隆之介が出て高額なイヤフォンを買ったりアニメが好きだと話したりしていた。ものを食うと風呂を浴び、出て帰室するとウェブを閲覧。そういえば帰宅後、二八日を休みにできたとLINEに報告するついでに、二六日の夜に泊めてくれないかとTTに訊いていたのだが、すまんが余裕がなさそうで厳しいとのことだった。九月二七日はK夫妻のフォトウェディングなるものに呼ばれていて朝の一〇時台には品川にいなければならないのだが、ご存知のとおり普段のこちらは一〇時にはまだ寝ている。それでTTの家に泊めてもらえれば移動も楽だし、遅刻の恐れもあるまいと思ったのだったが、断られては仕方がない。二六日は労働から帰ってきたら早々に床に就くほかはあるまい。
  • 零時過ぎから今日の日記を記述。途中歯を磨きたくなったので中断し、先週のWoolf会で紹介されたものだが、ミラクルひかるが落合陽一のモノマネをしている動画とか、まだ売れる前のtofubeatsが小さなハコでライブをしている動画とかを眺めながら口内を掃除した。後者には最前列の観客として若かりし頃のUくんが映っているという話で、見ればたしかにめちゃくちゃたくさん映っていたのだが、その姿が思ったよりも若かったので笑った。一八歳くらいの頃だと言っていたと思う。
  • 二時直前まで今日のことを書き、それからさらに一五日のことをメモに取って、ちょっと休んだのち、過去の日記もいい加減進めなければというわけで六月二九日分を三〇分だけ記述。三時を回ると新聞記事をすこしだけ書き抜きした。本当は書物のほうも写したかったのだが、思ったよりも疲労感があって転がりたかったので今日は新聞のみでベッドに帰還。一時間ほどウェブを回っているうちに眠くなったので四時二〇分過ぎに就床した。


・読み書き
 15:06 - 15:38 = 32分(2020/9/17, Thu. / 2020/9/15, Tue.)
 15:44 - 16:45 = 1時間1分(『双生』)
 21:33 - 22:02 = 29分(『双生』)
 24:14 - 25:03 = 49分(2020/9/17, Thu.)
 25:15 - 25:55 = 40分(2020/9/17, Thu.)
 25:57 - 26:08 = 11分(2020/9/15, Tue.)
 26:32 - 27:05 = 33分(2020/6/29, Mon.)
 27:06 - 27:16 = 10分(新聞)
 計: 4時間25分

  • 作文: 2020/9/17, Thu. / 2020/9/15, Tue.
  • 三宅誰男『双生』(仮原稿): 「吐き出してみればあったのかなかったのか」の前まで。
  • 読売新聞2020年(令和2年)6月30日(火曜日)朝刊: 書抜き

・音楽