2020/10/27, Tue.

 (……)差異は同一性間の空間に生み出されるのではない。それは自己同一性の総体化やテクストの意味の総体化をすべて不可能にするのだ。
 脱構築批評のプロセスを特徴づけるのはこうした形のテクスト的差異である。だが、脱構築[﹅3]〔deconstruction〕は破壊[﹅2]〔destruction〕と同義ではない。実は、語源的には「外す・解く〔undo〕」――「脱 - 構築〔de-construct〕」の実質的同義語――を意味する分析[﹅2]〔analysis〕という語の原義にはるかに近い。テクストの脱 - 構築はむやみな疑いや恣意的な転覆によってではなく、テクスト自体の内で競合する意味作用の力を注意深く丹念に引き出すことによって遂行されるのだ。脱構築的な読みにおいてもし何かが破壊されるとしたら、それはテクストではなく、一つの意味表明のあり方を別の意味表明のあり方に有無を言わさず優先させようとする主張である。脱構築的な読みとは、テクスト自体の内に生じる批評的差異の特異性を分析する読みなのだ。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、6; 「1 批評的差異 バルト/バルザック」)



  • この日のメモは手帳に取ったものがすべてで、Evernoteの記事には買った本三冊のほか何も記されていなかった。働いたあと立川に出て書店をうろついただけの日で、帰宅後はだいぶ怠けたらしく日課記録を見ても作文を三〇分やっているだけなので、手帳に沿って目立った印象が蘇ってくることだけ手短に書いておこう。
  • 新聞には菅義偉の所信表明が載っていたようだが、興味が湧かなくて読まなかったらしい。雲は多めだけれど好天の日で、大気の質感は暑くなく冷たくもなく、清涼かつ安穏な日和に、もうすこし脳内物質が出れば恍惚を覚えただろうと言っている。その入口程度にとどまったようだ。
  • 坂にはドングリが多数、道の真ん中に転がっており、踏みながらすすむその左右には落葉が帯をなしているなかに緑を残したものが点々と混ざって、印象派の趣を得た(印象派というか、ありがちだがセザンヌの風景画を思い出したのだろう)。頭上からは枝を渡っているのかこまかな羽ばたきの震えが落ちてくる。
  • 電車内ではドアの前で窓外を眺めていた。森の入口を埋める草は勢力を減じて風景には枯色が増えており、緑色もまだまだ残っているとはいえ、褪せ、老いたようになっていて隙間も多い。そのなかで柿の実が明るいオレンジに充実しきって照っていた。
  • (……)
  • 勤務中のことは特にメモもないし覚えてもいない。五時半ごろの電車に乗った。ひとつには(……)でちゃんぽんを食いたいという目論見があり、もうひとつには立川の書店に行き「(……)」の課題書であるドストエフスキー『悪霊』を買う必要があって、どちらに先に向かうか迷ったが、電車に揺られてメモを取っているうちに(……)を過ぎてしまった。それで立川へ。
  • しかし着くころには腹が完全に空でエネルギーがなく、身体が重かったのでのろのろとした歩みでオリオン書房に向かった。絶対的空腹を感じながら書店に入り、とりあえず文庫の棚を見た。講談社文芸文庫蓮實重彦江藤淳の『オールド・ファッション』を覗き、するとどこかの駅でなされた会話の段の最初に妙な場面描写があって、こまかい文言は忘れたのだけれど、双方黙って駅の喧噪が周囲を通り過ぎていくなか、蓮實重彦が思案気にチョコレートの粒を手に取り見つめる、みたいな感じのもので、くさみとしか言いようがない奇妙な雰囲気を醸し出していたのでなんやねんこれと笑った。こういう感じが受ける時代だったということだろうか。とはいえやはり買っておくか? と思って見れば一七〇〇円もする。馬鹿げているが、それでも一応保持して見分を続けると、中村光夫の『二葉亭四迷伝』も目にとまり、こちらは一五〇〇円だった。どういうことなのか? 労力としては明らかに『二葉亭四迷伝』のほうが多く費やされているのではないのか? 買うとしたら後者かなと思って『オールド・ファッション』は棚にもどし、そのほか徳田球一(だったか?)と志賀なんとかいう、日本共産党初期の幹部が戦時中に監獄にぶちこまれていた時期のことを回想したらしき本もあって気になった。あと手帳にメモしたのは岡部伊都子[いつこ]と田岡嶺雲。前者は文芸文庫の何かの作を読んだとき、後ろの広告に『鳴滝日記』という書名を見つけてちょっと気になっていた人である。それで当該書を覗いてみたのだけれど、いかにも日本的というか平安的というか、そういうイメージもどれだけ確かなのか本当のところわからないけれど、要するに繊細美妙な四季との交感を旨とした人のようで、想像通りではある。たぶん白洲正子あたりに近いのではないか(白洲正子も読んだことはないが)。ほんのすこししか見なかったが、普通に読んでみても良さそうな文章の感触だった。なんだかんだ言って季節だの自然だのをこまかく描写した文は好きだというか、日記を見ても明らかだろうけれど、結局こちらの本源ってそれではないのか? という気もする。最終的にはこちらにはそれしか残らないような気がする。
  • 田岡嶺雲という人はまったく知らなかったが、このとき見つけたのは『数奇伝』というやつだ。講談社のページの内容紹介によれば、「著作のほとんどが発禁となったことで知られる叛骨の思想家。思わぬ病で歩行の自由を失い、余命の長からぬことを悟った彼が「生きながらの屍の上に自ら撰せる一種の墓誌」として語る生い立ちは、まさに「数奇」というほかない。幼少期に見た土佐の民権運動、大阪や東京での勉学の日々、作州津山での灼熱の恋と別れ、ジャーナリズムの夜明けと大陸への渡航、従軍、筆禍での下獄……。近代日本人の自叙伝中の白眉」とのこと。著者紹介は、「明治時代の評論家。漢学者。本名佐代治、別に栩々生と号す。土佐国高知県生まれ)。若くして自由民権運動の影響を受け、文学に親しむ。水産伝習所を経て、帝大漢文学科選科卒業。投書雑誌『青年文』を主宰し、樋口一葉泉鏡花を早くから評価。教員を経て『万朝報』『中国民報』などの記者や主筆をつとめ、幸徳秋水らとまじわる。北清事変に記者として従軍、反戦的記事に健筆をふるう。また、雑誌『天鼓』などで反資本主義、女性解放をとなえた。社会主的義評論の先駆者であり、ほとんどの著作のほとんどが発禁となったことで知られる。著作に『嶺雲揺曳』『壺中観』『明治叛臣伝』などがある」(この紹介文は、この短さで二箇所も誤記がある!)。Wikipediaいわく、「小学校時代、自由民権運動の結社「嶽洋社」に入り、最年少の弁士となる」というから筋金入りである。「明治23年(1890年)、上京して水産伝習所(現・東京海洋大学水産学部)に入学、内村鑑三に魚類解剖の実習を受ける」、「明治29年(1896年)5月、文筆だけでは生活ができず、岡山県津山尋常中学校(現・津山高等学校)の教師となるが、土地の芸妓との恋愛がもつれて帰京し、『万朝報』の論説記者となる。その芸妓との間に生まれたのが、のちの国際法学者・田岡良一である。その紙上、日中韓の同盟による欧米帝国主義からのアジア・アフリカ・中南米の解放を主張するとともに、維新に次ぐ反藩閥・反富閥の「第二の革命」をめざす市民運動を唱えるが、挫折」、「上海での一年は嶺雲に思想上の変革(天皇信仰からの解放)をもたらすとともに、その生徒だった王国維の眼を近代哲学(カントやショーペンハウアー)に開かせた。王は、その後、ショーペンハウアー哲学に学んで「紅楼夢評論」を書き、中国近代文学の先駆となった」、「日露戦争に対しては民族解放戦争の性格があるとして開戦論の立場に立つが、他方では幸徳秋水堺利彦らの『週刊平民新聞』に戦争批判のエッセーを連載した」、「評論集『壺中観』は、人種的・社会的・性的格差のない、国家を超えた世界共同体を構想したことによって発売禁止となった。以後、嶺雲の主要な評論集は悉く発売禁止となる」、「明治37年(1904年)秋、中国民報社を辞め、上京。翌年秋、雑誌『天鼓』を創刊、文芸評論家としては夏目漱石と木下尚江の才能に注目、与謝野晶子の「君死に給ふこと勿かれ」を批判的に擁護した」、「明治43年(1910年)6月1日、湯河原で同宿していた幸徳秋水大逆事件容疑で拘引されるのに立ち会っている」、等々。
  • そこから壁際の新潮文庫の区画に移ると、すぐ目の前に『悪霊』上下巻が見つかったので保持。ずれて中公文庫も見分。なかなか良い文庫で、ちょっと珍しいような本が揃っている。歴史系が充実している印象。「ハル・ノート」のハルの自伝だかなんだかがあったはず。それから岩波現代、ちくま学芸と移行。ちくま学芸でやはり欲しいのはニーチェ全集だろうか。河出を見ているとドゥルーズマゾッホ紹介があって、これはたぶん蓮實重彦が七〇年代に訳して当時高校生くらいだった浅田彰が誤訳の箇所を数え上げた手紙を送りつけたというやつだと思う。新訳が出ていたとは知らなかった。あまり見かけたことがないような気がしたので(実際そんなことはなく、こちらが見落としていただけで、後日訪れた淳久堂にも普通にならんでいたが)、買っておくことに。
  • それから文学方面へ。オリオン書房は文芸の区画の入口に(主に海外文学の)ピックアップ的な棚を設けているのだけれど、そこに精神科医サリヴァンの手記があって気になった。フィリップ・フォレストもいつの間にか新作を出していたらしい(『洪水』)。あとは随分前から置かれている気がするが、コーマック・マッカーシーと、皆川博子や韓国の小説など。そこから書架のあいだに入って詩を見ようと思ったのだが、先に反対側の日本の文芸の棚を瞥見していると、古井由吉の最後の本が出ているのを発見した。われもまた天になんとか、みたいな題だった気がするが、四篇くらい入っているなかの最後のものはまさしく「遺稿」と名づけられていた(古井本人がみずからそのような題をつけていたのか否か?)。あとはその周辺の辺見庸日和聡子がやや気になった(日和聡子という人は詩人だという認識しかなかったが、小説も書いているらしい。漢字をならべた題の、なんか妙な調子のものだった)。
  • 詩の区画を見て手帳にメモされたのは秋元潔、山下洪文、岩成達也という三者の名前。全然覚えていないのでインターネットの助けを借りるが、秋元潔は『秋元潔詩集成』に目をとめたのだと思う。山下洪文はこちらと同年代くらいの若い人で、『夢と戦争――「ゼロ年代詩」批判序説』という本をちょっと覗いたのだった。岩成達也は名前はもともと知っていたが、このとき気になったのがなんだったかわからない。『誤読の飛沫』か? たぶん書肆山田の「りぶるどるしおる」の本だったとは思うのだが。
  • 哲学ではアルフレッド・シュッツという名にたぶんはじめて目をとめた。日常経験に根ざした哲学みたいな謳い文句の書があって、コスモロジーと「エゴロジー」(初見の語)の融合とか書かれていたと思う。宇宙的規模の観想と一個の自己としての実存経験を接続統合したというような話だろう、おそらくは。すぐれた学者や芸術家は誰でも皆そういう思考を持っていると思うし、わりと伝統的な本道ではないかという気もするが、やはりそうした正統的試みに興味はある。ほか、例のごとくフーコードゥルーズ周りを見たり、ニコラス・ローズの『魂を統治する』が欲しいなと覗いたり(もう随分昔から入手したいと思っている)。また、オリオン書房には淳久堂にもないピエール・ルジャンドルの『真理の帝国』が残っているので、これはたぶんそのうち買う。あとヤスパースのやたら巨大なニーチェ論があって気になった。平積みされているなかには哲学者や宗教家がどういう瞑想をやっていたかというのを簡易に紹介するみたいな本もあって、これはどうも『超訳ニーチェ』の人の本だったようだ。俗っぽい仕事をするものだが、しかしわりと興味は惹かれる。それで取ってめくってみるとニーチェについての記述があり、彼にとっては森を散歩するのが瞑想だったとか書かれていたと思う。そのほか、瞑想というのは要するに「何もしないこと」だという簡潔明快な定義の言葉もあったはずだが、これはこちらの経験からしても同意できる。こちらの感覚では、「何もしないをする」というのが瞑想というもので(能動的受動性というか受動的能動性というか、ジョルジョ・アガンベン(『アウシュヴィッツの残りのもの』)の言葉を借りるなら、「みずからが受動的であることをいわば能動的に感じるもの、自分自身の受容性によって触発される[﹅17]もの」とか、「受容性が自分自身を受苦し、みずからの受動性に情熱的になっている」状態とか言っても遠くはないと思う)、それができればこまかなやり方などはどうでも良い。ニーチェのほかにはエーリッヒ・フロムや鈴木大拙が紹介されていた。
  • 会計前に文具コーナーを覗いてみると、先日見たときとはちょっと様変わりしており、「伊東屋」と表示された区画のなかにZEQUENZのノートがあって、俺が欲しかったのはこれだと安堵した。細長いタイプのもので、いくつか色があるなかからシルバーを選ぶ。それで元気の良い女性店員相手に会計。以下の三冊を購入。

ジル・ドゥルーズ/堀千晶訳『ザッヘル=マゾッホ紹介 冷酷なものと残酷なもの』(河出文庫、二〇一八年)
ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)
ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)

  • 出ると疲労感。空腹も変わりないのでまたのろのろ歩く。空は澄んでおり、駅前まで来ると濁りのない月がLUMINEのビルの上端にあらわれていたが、まもなく隠れた。駅舎に入って人混みのなかを行くと、女子高生の一団からまさしく箸が転げてもの年頃にふさわしく賑やかな笑い声が上がるのだが、それが回転性の秋虫の鳴き声に似ていた。瞬時に立ち上がる感じや、音調の明るさで連想したのだと思う。
  • 電車で(……)へ。ちゃんぽんを食おうと思っていたのだが、なんと(……)のリンガーハットは火曜定休だった。馬鹿な? それで仕方なくスーパーに上り、寿司でも買って行くかと思ったのだが、腹はもう随分減っていて、いますぐものを食いたい。それで飲食スペースがあることをはじめて意識し、利用することに決めて、ナスや椎茸などもろもろと合わせて握り寿司を購入。そうして食事。しかしいまから考えれば、フードコートの豚カツ屋を使ったほうが良かった。寿司がやたら冷たくてなんだかわびしいような感じだったし、豚カツのほうが温かくて心身が充実しただろう。
  • そのほかに記せることはない。


・読み書き
 28:40 - 29:09 = 29分(2020/10/21, Wed.)

  • 2020/10/21, Wed.

・音楽
 なし。