2020/10/22, Thu.

 したがって、差異の問題は分離可能性〔separability〕に関わる不確かさ、および同一性〔identity〕内部の漂いとして捉えることができる。そして、結局のところ、何かが与えているものが記述〔description〕なのか不同意〔disagreement〕なのか、情報〔information〕なのか批判〔censure〕なのかを知ることができないということこそが、おそらくあらゆるものの中で最も問題含み〔problematic〕で難儀な〔critical〕差異なのだ。(……)
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、ⅺ; 「緒言」)



  • 一時半前に頭が晴れた。枕をどかして後頭部をベッドに直接乗せ、左右にごろごろ傾けて首周りの筋を伸ばす。首を完全に横に向けたときよりも、そこに至るまでの途中にこそ意外と大きな引っかかりがあって、あれはたぶん鎖骨あたりの筋が問題のような気がする。首から肩や肩甲骨にかけての骨の付近の柔軟性というのはなかなか厄介な事柄である。
  • カーテンの向こうは白い空。しばらくすると起き上がり、急須および湯呑みを持って上階へ。母親は友人と会うため(……)の「(……)」にあるマクドナルドに行ってくると言う。その友人というのは、話を聞いたのははじめてだと思うが、息子が女性として性自認しているという事情を抱えており、今日も「訪問看護」のあとに母親との会合に来るらしい(「看護」というか、おそらくカウンセリングみたいなことだと思うが)。LGBTなのかな、とか、のちにはトランスジェンダーなのかな、とも母親はつぶやいており、そういうことになるだろうけれど、「LGBT」というワードを母親が認知しているという事実にこちらはちょっと驚くような感じがあった(さすがに母親のことを侮りすぎだろうが)。
  • 食事はハムエッグを焼いて米に乗せたものや豚汁。新聞から国際面を読む。バチカンと中国が二〇一八年だかに交わされた秘密合意を二年延長することでまとまったと。中国では政府公認の天主なんとかみたいなキリスト教派しか認められておらず、バチカンは以前はそれを承認せずに地下教会の信徒から司教を任命していたところが、秘密合意以後は中国が独自に任命した司教を公認したり、天主なんとか派から司教を任命するようになったということだ。それが延長されたという話だが、香港教区の元カトリック司教だった八八歳の人がコメントを寄せており、これはバチカンがほとんど中国に屈服したようなものだと言っていた。中国がカトリックを認めないというのは、江戸幕府が禁教政策を取ったのとわりと似たような動機なのだろうと思う。あとは内モンゴル自治区のほうでも、標準中国語教育に反対して子供を学校に通わせない保護者に対して思想教育を施すとかいう穏やかでない事態が発生しつつあるようだ。
  • 洗面所で髪を整えたあと、風呂を洗って茶とともに帰室。コンピューターを準備しTwitterを覗くとトレンドにKeith Jarrettの名前が出ていて、亡くなったのかと思ってクリックしてみると、死んではいないが脳卒中で復帰はほぼ絶望的との報だった。さすがに、ああ……という気持ちになる。こちらはKeith Jarrettの大ファンというわけではなく、その演奏もきちんと聞いたとはとても言えないが、しかしよりにもよってKeith Jarrettが、ピアノを満足に弾けなくなった状態で生かされてしまったのか……という、なんとも言いがたい嘆きの情を覚える。良くも悪くも誇り高い人なので、おそらく当人は、そのような状態で生きるのだったらむしろ死にたかった、というようなことを、やはりどうしたって考える瞬間があるのではないだろうか。

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いまあらためて情報を調べてみたところ、脳卒中が起こったのは最近ではなく、二〇一八年のことで、二月と五月に二度襲われたと言う(Nate Chinen, "Keith Jarrett Confronts a Future Without the Piano"(https://www.nytimes.com/2020/10/21/arts/music/keith-jarrett-piano.html))。〈“I was paralyzed,” he told The New York Times, speaking by phone from his home in northwest New Jersey. “My left side is still partially paralyzed. I’m able to try to walk with a cane, but it took a long time for that, took a year or more. And I’m not getting around this house at all, really.”〉 しかしこの記事を読んだ感じでは、めちゃくちゃに悲嘆して絶望に陥っているというわけではなさそうで、比較的穏やかにみずからの境遇を受け入れているのかもしれない。Christian Scienceの出自だというのははじめて知った。

During his time there, from July 2018 until this past May, he made sporadic use of its piano room, playing some right-handed counterpoint. “I was trying to pretend that I was Bach with one hand,” he said. “But that was just toying with something.” When he tried to play some familiar bebop tunes in his home studio recently, he discovered he had forgotten them.

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Raised in the Christian Science faith, which espouses an avoidance of medical treatment, Mr. Jarrett has returned to those spiritual moorings — up to a point. “I don’t do the ‘why me’ thing very often,” he said. “Because as a Christian Scientist, I would be expected to say, ‘Get thee behind me, Satan.’ And I was doing that somewhat when I was in the facility. I don’t know if I succeeded, though, because here I am.”

“I don’t know what my future is supposed to be,” he added. “I don’t feel right now like I’m a pianist. That’s all I can say about that.”

After a pause, he reconsidered. “But when I hear two-handed piano music, it’s very frustrating, in a physical way. If I even hear Schubert, or something played softly, that’s enough for me. Because I know that I couldn’t do that. And I’m not expected to recover that. The most I’m expected to recover in my left hand is possibly the ability to hold a cup in it. So it’s not a ‘shoot the piano player’ thing. It’s: I already got shot. Ah-ha-ha-ha.”

  • 五時過ぎまで日記。その後、調身。柔軟は基本的に、合蹠と座位前屈と左右開脚の三種類だけやっておけばかなり充分なのではないかと思った。それに加えて余裕があったら胎児のポーズ、コブラのポーズ、プランク(板のポーズ)という感じだろう。とにかく合蹠(ベッドの上に座って足裏を合わせ、その両足を両手で掴んで前傾しながら静止する)の効果はやばい。これをきちんとやれば、腰周りから股関節から太腿、脹脛から尻の筋肉まですべてがほぐれる。やはり太腿あたりをほぐすので血流が良くなるのか、全身的にも体感がなめらかになる気がする。
  • 運動後、Donny Hathawayの"Someday We'll All Be Free"(ライブ版)を流した。歌詞を見るとそんなに具体的なことは言っておらず、メッセージソングの類なのだが、歌がうますぎてメッセージの威力が爆発的に増大する。現在一〇月三〇日で、昨日二一日の記事を書くときにDonny Hathaway周りについて検索したのだけれど、Edward U. Howardという作詞者本人が、depressionに苦しんでいたHathawayのためにこの詞を書いた、自分にはあのとき歌詞を書くくらいしか彼のためにできることがなかった、と語っている文言をどこかのブログで読んだ(典拠はなかったので、ブログの筆者がいったいどこでそんな発言を拾ってきたのか不明だが)。それで、"hang on to the world as it spins around / just don't let the spin get you down"というわけだ。
  • 小さな豆腐ひとつだけを食ってもどってくると、"You've Got A Friend"や"What's Going On"も流して服を着替え、続く"Yesterday"を聞きながら歯磨きをした。その後、"Little Ghetto Boy"を途中まで流して出発へ。玄関を出ると、母親も豆苗の残骸を捨てるとかでついてきて、もう暗闇に支配された林のほうへ向かっていった。こちらが道を歩き出すと、その林のなかから珍妙な、素っ頓狂な、鳥とも小動物ともつかない謎の鳴き声が湧いて響くのが背後に聞こえる。たぶん母親は怖がっていたはずだ。
  • 三日月は前方の高くに朧にかかり、左方の雲間にはひとつだけ星が点刻され、黄と橙の混ざった色合いで明るい。道を進むうちTさんかSさんの宅あたりまで来たところで先ほどの頓狂な声がより激しく渡ってきて、ずいぶん遠くまで聞こえるものだが、それを耳にして猿か? と思った。奥多摩のほうに行けば普通にいるだろうが、このあたりで見かけたことはいままでない。
  • 最寄り駅に着くと、じりじりとノイジーな虫の声が立っていて夏のようなサウンドスケープだった。なぜいまさらこの声が聞かれたのか? 気温が上がったのか? 日中の記憶や空気の質感からしてそうとも思われなかったが。通路を行きながら、もしかして虫ではなくて何かの電気器具の音なのではとあたりを見てみたが、やはり発生源は線路脇の草のようである。ホームではちょっと汗の感触があったし、勤務中もわずかに汗ばんでいたので最近のうちでは気温の高い日だったのかもしれない。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 一〇時一〇分直前に退勤し、最寄り駅からは遠回りして帰った。大気は無摩擦無刺激で、かすかな涼しさがバッグを提げた右手の指や顔に触れてくるのみであり、服に包まれた裏の皮膚には何も感じるものがなく、肌に馴染みやすい気候だ。坂に入ってちょっと行ったところで雨のはじまりを感知した。顔に一滴触れたものがあって気づいたのだが、それで耳を張れば下方から立ち昇ってくる川音のなかたしかにじわじわと、極小の泡が割れるようなJの響きが一粒一粒混ざりだしている。それは周囲の下草に雨滴が落ちて当たる音である。
  • 帰宅後の記憶はさほどない。食事中に母親から、もっとはやく寝るようにと苦言を呈されて、多少議論めいたことをしたくらいだ。こちら自身ももうすこしはやく床に就くようにしようとは思っており、以前からそう思っていながら一向に成功していないのだけれど、そう思うのは単純にやはり健康にはあまり良くないのかもしれないということと、出勤するまでの時間的猶予がすくないのでもっと余裕を持ちたいというのが理由である。ただ、それを他人から求められるのは気に入らない。というか、母親の場合、世間一般の「普通」からずれるのが良くないという固定観念があってそれをこちらにも適用してきているのが明白なので、その点が気に入らないのだ。それで、はやく寝なければならないと思う理由を提示せよと大人気なく問い詰めるような形になった。そうするとやはり、朝起きて夜眠るのが普通で、それからはずれるのは良くない、みたいな言い分が返るわけである。それでは夜勤の人間はどうなるのか? という疑問が当然即座に出来するだろう。さらには、「普通」からはずれることがなぜ良くないのかという点についても、その理由を示してほしいということになる。極々単純に考えて、こちらは夜更かしをしていることでなにかしら世間に迷惑をかけているわけではないと思うし、あまりにも大きな迷惑をかけない限りは生活習慣など個々人の自由だと思う。ただ、もっと早起きして家事をなにかしら手伝ってほしいと母親が言うのは、これは正当だと判断する。こちらもやはりそうすべきだと思うし、現状それが満足にできていないのはこちらの甘さと弱さでしかない。加えて上記のような理由もあるので、すこしずつ睡眠時間をはやめていくという方針自体に関しては同意する。ただそうするべきだという点の根拠として、世間一般からずれるのが良くないから、と言われるのだとしたら、こちらはその言い分を完全に拒絶する。
  • 母親はまた、世間体があるかも、みたいなことを言い、深夜になっても電気が点いているのを近所の人に見られるのが恥ずかしいかもしれない、というようなことを言ったのだが、それではその「近所の人」というのは具体的に誰なのかと問うてみても、その点ひとりも名前が挙がらないわけである。これがこちらにとって極めて不思議な点にほかならない。たとえば隣家のTさんとか、下のSさんとか、丑三つになってもこちらの部屋に明かりが灯っているのを彼らがたまさか目にしたとして、それで彼らが、あそこの息子はだらしない、恥ずかしいやつだと思うかと言うと、べつにそんなことはないと思う(仮にそう思われたとしても、こちらにとってはそんなことはどうでも良い)。母親にそういう具体的な名前を挙げて、彼らがこちらのことを恥ずかしいと思っているのか? と尋ねてみても、確言はしないし、反応はどちらかといえば否定の方向に傾いている。過去にそういったことを直接言われた経験もないようだ。それなのに母親には、「近所の人」が我が家を見て、あの家の息子は夜中まで起きていると知られるのが「恥ずかしい」というような心が多少あるらしい。この根拠薄弱で具体性をまるきり欠いた固定観念には困惑せざるを得ない。これがドクサだ。たぶんルース・ベネディクトの分析はこういうところに正確に当てはまるのではないか?
  • 母親が恥を感じようがなんだろうがこちらには知ったこっちゃないというか、こちら自身としては、べつにそんなに、世間に顔向けできないほどに恥の多い生活を送っているつもりはない。近所の人との関係を言えば、行き逢えば挨拶はするし、たまには立ち話もするし、礼儀を欠いた振舞いをしているつもりもない。だいたい、夜更かしをしているという一点のみでこちらの生活が世間的に「恥ずかしい」ものだと判断されるのだとしたら、そのように判断する「世間」のほうがあまりに狭量で矮小なものではないかと思う。こちらはこの生で自分がやるべきだということを明確に持っており、もちろんときに怠けることはあるにしても、その道を日々邁進しているつもりである。同時に職場ではきちんと丁寧で質の高い仕事をするように心がけているし、関わる人間たちに多少は良い影響を与えられるようにとも思って動いている。特に立派な生き方をしているつもりはないが、とりたてて恥とみなされるような生を送っているとも思わない。世間的に恥ずかしいうんぬんで言ったら、そもそも三〇にもなって正職に就かずに親元に留まって経済的に独立していないその事実こそが恥ずかしいものだろう。だから世間体がどうのこうのということを口にするのだったら、あなたはこちらに、きちんとした職を持って家を出て、結婚相手を見つけて家庭を築け、と言わなければならないはずだ、とわざわざこちらから明言しておいた。
  • ともあれ、もうすこしはやく寝てはやく起きられるようにしていくという点そのものに関しては上にも書いたとおり異存はない。ただもうひとつ、本を減らせみたいなことを母親が言ってきたのには断固として反対する。一応この家庭でこちらの領域として割り当てられ認められている自室にこちらが書籍を増やすということは、完全にこちらの自由によるはずだろう。すくなくとも自室の範囲内に留めている限り、本が多いからといって母親の害になることはないはずである。母親にはなぜか、物がすくないほど良いというような価値観があるらしい。いわゆる「断捨離」だの「ミニマリスト」だの、そういった生存様式は何年か前から世間的にも多少勢力を持ってきているような印象があるが、不必要なものをきちんと明確化して処分し、すっきりしようという言い分はこちらも理解できるし、わりと同意もできる。そして、書籍はこちらにとって不必要なものではない。というかなかには不必要なものもあるかもしれないが、それを判断するためには当然、その本を読んでみなければならない。そして、読んでみてこれは持っておく必要がないなと判断されたものに関しては、普通に売りに行ったりしている。とはいえ母親からすると、あまりにも数が多すぎるということになるのだろう。あんなにあってどうするの? と母親はおりおり言うが、どうするも何も、読むに決まっているわけである。そのほかに本を集める理由などない。ただ手もとに本を所有しているだけで満足するコレクターででもなければ、本を買う理由など、それを読んでみたいという欲望と興味を覚えたからという以外に存在するはずがないだろう。こちらの部屋にある本はすべて、それを読んでみたいと思ったからいまこちらの部屋にあるのだ。母親はまずもって、読むという行為がこちらの生において死ぬまで続くのだという点をおそらくよく理解していない。とはいえ、あんなに読みきれないでしょ、と彼女が言うのはひとまず正しい。人間の一生程度の時間で読みたい本を読みきることなどできないというのは確かなことだ。しかしだからと言って、どうせ読みきれないのだから本を集めても仕方ない、捨てよう、ということにはならない。全部読むことができないのは確実だし、いつどこでその本を読むことになるかはわからないが、いつか読むというつもりで、すくなくともそのいつかが来たときに読める可能性を確保しておかなければならないのだ。


・読み書き
 15:14 - 17:07 = 1時間53分(2020/10/22, Thu. / 2020/10/19, Mon.)
 26:22 - 27:11 = 49分(2020/10/20, Tue.)
 27:40 - 28:02 = 22分(巽 / 新聞)
 28:52 - 29:19 = 28分(シラー: 71 - 76)
 計: 3時間32分

  • 2020/10/22, Thu. / 2020/10/19, Mon. / 2020/10/20, Tue.
  • 巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年): 書抜き: 147 - 148
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月4日(土曜日)朝刊: 4面
  • シラー/久保栄訳『群盗』(岩波文庫、一九五八年): 71 - 76

・音楽