2020/11/2, Mon.

 (……)フォンタニエが述べている[ところによれば](……)、隠喩が[は]「一つの概念を、それよりもさらに強烈でよく知られている別の概念のもとに提示すること(原注7: Pierre Fontanier, Les Figures du discours (Paris: Flammarion, 1968), p. 99.)」である(……)
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、42; 「3 詩とその分身 二つの「旅への誘い」」)

  • 夢から覚醒して積んだ本の上に置かれてある時計に目をやると一一時二〇分だった。まあ上々と言って良いだろう。二度寝に落ちることもなくカーテンを開けて、白い空にそれでも含まれている明るさを目に取りこむ。夢というのは何かしら学校を舞台にしたものだったような気がするが、その内実はもう忘れた。しばらく臥位のままで手のひらや手首を指圧したのは、左手にすこし痺れるような感覚があったからだ。手首のストレッチをしすぎて傷めたのか、それとも昨日ギターをたくさん弾いたためか。
  • 正午に至る前に起き上がり、ゴミ箱や水のペットボトル、ティッシュの空箱や湯呑みに急須を持って上階へ。両親が焼きそばを食っているところだった。ゴミを始末し、ジャージに着替えて洗顔やうがい。北川修幹 "弱い心で"が脳内に流れて仕方がない。髪は整髪ウォーターで膨らみを抑えたあと、前髪にすこしワックスをつけて流すだけにした。だんだん伸びてきたし、もうあまり上げなくても良いのではないか。
  • 焼きそばを温めて食事。母親は仕事に出かけた。新聞は、あそこは文化面で良いのか一一面に、「リベラリズム」という語に関してのあれこれなど。ヘレナ・ローゼンプラット(という名前だったと思うが)が書いたリベラリズムの歴史みたいな本が紹介されており、それは書店だったかどこかほかでも見かけた覚えがある。記事中の要約によれば、もともとリベラリズムという言葉は公共善の実現という観念などに結びついていたが、二次大戦後のアメリカで公共的な意味合いが失われ、個人主義の方面に傾斜していったとか。北海道大教授の吉田徹によるリベラリズムの五層分析(分類)も紹介されてあった。講談社現代新書(だったと思うが)の著書でそのあたりを考察しているらしい。記事の最後でたしか彼の言葉として、自己反省性がリベラリズムの本質というか最重要点であるみたいなことが言われていたけれど、ひとまずはやはりそういうことになるのではないか。自己批判と言おうが懐疑と言おうが反省と言おうが何でも良いが、思索の対象のなかに世界や他者と同時に自己を等しく取り入れて、懐疑的な問いを差し向けていくことによって主体を冶金・鍛造・彫琢していけるというのがいわゆるリベラルな思考の賭け金ではないのか。かなり古典的な発想なのだとは思うが、とりあえずはその段階に立って基礎的な技術として(もしくは根源的な姿勢として?)それを身につけないとどうにもならないのではないか。そういう観点からして、とりわけ現代の状況下ではもしかするとフランスのいわゆる「反省哲学」の系譜の再検討とかが重要な仕事になってくるのかもしれない。
  • ほか、大木毅の「1000字でわかる帝国軍人」とか、大久保健晴という人の翻訳語の成立を短くたどる小欄とか。一面にあった大阪都構想住民投票が僅差で否決された報とか、国際面とかも読んでから皿洗い。風呂も洗って緑茶を注ぐと自室へ。Evernoteを準備して、日記にメモしておいた英文記事とか音楽関連のページとかをしかるべきノートに移しておくと今日のことを書き出した。BGMはいつもどおりFISHMANS『Oh! Mountain』。ここまで記して一時半過ぎだ。
  • その後、昨晩書き終えていた一〇月二三日の日記をインターネット上に投稿し、二四日分も少々進める。すると二時半が近づいて、調身に入った。今日は筋肉を伸ばした状態で静止するのではなく、ゆっくりと往復させるようにからだを動かす方式を取った。これはこれで良い。本当はたぶん、一方向に筋を伸ばしたら必ずその反対へも伸ばしたほうが良いのだと思う。今日はごく軽いものだが腕立て伏せも行い、また腕を前後に伸ばしたままさらに左右にからだをひねったり首を上下させたりする柔軟もやった。首に関しては左右や前後に倒したり回したりするシンプルな方法も。肩を上げるとその付近の芯のほうが引っかかる感じがあり、これが前からの難敵で、いまだに殺せていないし、弱体化にもあまり成功していない。
  • 三時過ぎまで動いて、続いて音読。音読中にはだいたい手首や指を曲げてやはり筋を伸ばしているのだが、今日はこれも弱めに、短い時間で両手を交替させるようにした。「英語」「記憶」ともにいくらか読むともう四時。五時過ぎには出勤なので猶予はすくない。しかし最近全然書物に触れられていないので、わずかでも読書をしたかった。シラー『群盗』はもう明日が返却日だし中断することにして、一一月二一日に予定されている「(……)」の課題書であるドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)を読み出すことに。上下巻で量も多いし、あまり精読みたいなことをやっていると間に合わないので基本的には書き抜くべき箇所のみをメモしながら進んでいくつもり。ベッドに横たわって読みはじめると、さっそく書き出しがちょっと面白いのでいつか自分で小説をつくるときの参考としてここは書き抜くことにした。訳文はきちんとした日本語になっている印象。ひとつの語り口と言うべきものが確かに形作られており、リズムも整っていてうまく流れる。こちら自身の書き方と比べると読点がやや多くてこまかいものの、それに違和感を覚える瞬間もない。実に安定的でどっしりと地に足ついており、確固とした質を注入されたさすがの仕事という感じ。語り口としてはやや滑稽味を含んでいる感触がある。彼の作品を読むのはこれがはじめてなのだが、ドストエフスキーというのは人物の活写がやはりうまいのかな、と思う。いまのところ二〇ページあたりまで読んでいるけれどまだ物語の本筋がどういうものなのか見えず、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーという人物の経歴とか人間関係とか行状とかを語っているだけなのだが、ストーリー上の展開がなくともすでに普通に面白い。
  • 17: 「書斎の静寂にこもって、山のような大学の雑務にわずらわされることもなければ、いつでも学問の仕事に没頭し、深遠な研究によって祖国の文運に資することもできる道理であった」: 「文運」: 「文化・文明が発展しようとする気運。学問・芸術が盛んに行われるさま」。
  • やはり外出前にすこしでも脹脛や足裏をほぐす習慣を確立させたいところではある。四時四〇分ごろになって上へ。焼きそばの残りを温めて食す。新聞を読むに、フランス(リヨンだったか?)およびカナダ(ケベック)でそれぞれテロめいた事件があったとのこと。前者はギリシア正教の聖職者が教会を閉めようとしていたところを撃たれたらしい。後者は刃物による事件で、三人ほど亡くなったらしく、下手人は「中世風の」衣服を着ており(いったいどんなものなのかわからないのだが)、精神鑑定のために護送されたとかあった。ものを食べて腹を埋めるとフライパンや食器を洗い、それから米を磨いでおいた。そのころには父親も室内に入ってきており、すでに五時に達していた。
  • 下階にもどって歯を磨き、FISHMANS "忘れちゃうひととき"をバックにスーツに着替え、荷物を支度して出発へ。手帳を自室のデスク上に忘れて一度もどる羽目になった。玄関を出ると空気には濡れたような質感がややはらまれており、家の前の地面にも水の痕がある。しかし日中、雨を感知していなかったので父親が撒いたのだろうかと推測して道を行けば、近所の家の鉢植えの葉が暗がりで街灯を受けながら白く艶めいているので、どうもこちらの知らないうちに降ったらしいなと判断された。まだ眠っていた午前のことだろうか? 行く手の西空には青さがなごっているものの、振り向いて南東のほうに目を投げればそちらに夕べの色はもうなく、火葬後の骨を砕いて塗りつけたような灰色に空がくすんでいるだけだ。公営住宅付近のアスファルトにもやはり湿った染みがいくらか見られる。坂に入る直前、天からくだって頬に触れるものがはじまった。
  • 空気は冷ややかではあるがまだ寒いというほどではない。虫の音は乏しいものの、坂を上るあいだ林中から常についてくる。頭上の梢のなかで枝が割れるような木の実が弾けるような音がたびたび立つのは、弱いとはいえやはり雨粒に触れられて離れるものがあるのだろうか。あるいは何かの動物が、雨に感応して動いているのか? 猶予がさほど豊富でなかったのでやや早足に上っていったが、すると脚は柔軟のおかげでするする働くものの、肺はそれなりに疲れるようで呼吸はいくらか苦しくなった。本当はもうすこしだらだらゆっくり歩けるほどの余裕を持ちたい。
  • 駅の階段を踏みながら左を見やると、通路の隣にあるなんだかわからない建物の上面が濡れたなかにちょっと先の街灯の白さがまっすぐふっと伸びている。森との境が崩れるほどでないけれど空や大気はよほど暗くて、黒々と浸った感じのする空間一帯に白灯の歪んだ円が、そしてとりわけ門灯のようにして線路の両側にひとつずつ光る赤の信号灯が目に立ってくる。ホームに入るとマスクをつけ、立ったままでメモを取り出し乗車して座ってからも続けた。着いてからもちょっと記録してから降車。ホームを行くうちに一番線に電車が滑りこんできて、階段を下りて通路を進めば背後から、一斉に降りてきた人々の足音がくぐもりながらも波打つ響きとなって寄せてきて、どうも忙しなくて落ち着かないものだ。実際、先頭の選手が何人か小走りになってこちらの横を抜かしていったのだが、いったい何をそんなに生き急いでいるのかまるでわからない。
  • 職場。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 一〇時一〇分の直前に職場をあとにした。駅に入って乗車。一番端の扉前に立ち、両手をポケットに突っこんで後ろにややもたれかかりながら到着を待つのだが、平静ぶっていながらも便意がかなり高まっていて腹が苦しかった。ことによると家に着くまでに間に合わないかもしれず、駅のトイレで済ませるべきかとも思われたのだが、そろそろだいぶ冷たくなってきた空気のなかで下半身を露出したくないので、やはり自宅でできるほうが望ましい。ともかく最寄りで降りると、意外と大丈夫そうだったのでトイレには寄らず心持ち大股気味に帰ることに。坂道を下りるあいだ、前方を行く中年男性が点けた煙草のにおいがマスクを越えて鼻に入ってくる。肌や服に触れてくるものは感じられず、雨は降っていなかったように思うのだが、自宅が近づいて林のそばに来ると雨音めいた響きがあったし、林中でやはり何かが落ちて竹の幹だかにぶつかる高い音が立った。
  • 家に入ってマスクを捨て、手を洗うと便所に行って排泄。自室に帰って着替えたあと、ゴルフボールを踏みながらいくらか休んで食事へ。父親はすでに寝室に下がっており、寝間着で頭にタオルを巻いた母親がソファにもたれてテレビを見ている。番組は録画しておいたものらしいが、『ほんとうにあった怖い話』。昔放送したなかから好評だったものを選んでもう一度流すような趣向らしい。長澤まさみが女子高生役で出たりしていたのでかなり昔のものだろう。兄の背に幽霊がおんぶのようにしてのしかかっているさまが現れてVTRが終わり、スタジオにもどるとお決まりで子どもたちが大げさな反応と表情を見せるのだが、そのなかに丸刈りの、顔が膨らんだ餅のようにまるまるとしているやつがいて、いわば「おにぎりボーイ」みたいなあだ名で呼びたくなる感じの少年であり、こいつ絶対おにぎり大好きだろと笑った。『名探偵コナン』の元太が実写化されたような感じの風貌だ。ベスト盤みたいな構成のなかにひとつ新作らしきものが含まれていて、上白石なんとかみたいな名前の若い女性が主人公で(名前は聞いたことがあるが、女優なのかアイドルなのかちっとも知らない)、建設現場の主任として旅館に「開かずの間」を造らされるという話。覗いてはいけないと言われていたその開かずの間から子供の声がするので襖を開けたところ、雛人形と豪華な宴席めいた設えが用意されており、建築家の先生に訊くと「神降ろし」をやって福の神を招いたとかいうことで、しかし仕事はきちんと完了せずに半端なところで終わる。一年後に旅館が台風に襲われたのを機に再訪して見てみると、開かずの間には無数の日本人形があたかも繁殖したかのように満載されていたという落ちで、落ちは普通に弱いし、声に誘われて催眠にかかったかのような様子で襖を開けた主任がはじめ呆けたような妙な笑みを浮かべているという演出も(そのあとはっとして恐怖に襲われて叫ぶのだが)、意味合いがよくわからなかったけれど、話の趣向としてはけっこう面白いというか、要素を色々加えたり改変したりしてきちんと描写すれば小説になりそうな気もした。ホラーというジャンルも、約束事をしっかり学びながら換骨奪胎すれば単なるオカルト的な物語に終わらず、もっと得体の知れないような感覚を与えるものになりうるのだろう。ひとつには神秘主義方面との結びつきがそこで出てくるかもしれないし、それとは別物だけれどホフマンスタールなんかはホラー的な要素を取り入れながら妙な感じをもたらす篇を書いていた。泉鏡花がそのあたりをどんな風にやっているのかも気になる。
  • 入浴。湯のなかで少々まどろんでしまったが、すると温かい液に浸かっているにもかかわらず普通に寒くて驚く。出るともう一時頃。「デメル」のチョコレートケーキと、今日母親が職場でもらってきたというカステラを茶菓子として茶を用意し、自室に帰る。カステラは福砂屋というメーカーのもので、どうも有名で高いものらしく、箱を見ると寛永元年創業とか書かれてあった。寛永はたしか三代将軍徳川家光のときの元号だったはずで、たぶん一六二〇年か一六三〇年あたりからはじまったものだと思うから、もう四〇〇年くらい続いているわけだ。四〇〇年ものあいだ、ただカステラ一本で生き残っているのだからすごい。住所を見ると長崎市の船大工町とか書かれてあったが、カステラを売っていたということはもともと出島にあったというわけではないのだろうか? そもそも出島だったところはいま現在どうなっているのか、という疑問も湧く。
  • 一服したのち一時半過ぎから書抜き。あと、帰宅直後に(……)にメールの返信もしておいた。聖書を送ってくれるらしい。

 パンフレットには、初めに読んだ時に見逃がしてしまったある事項が書いてあった。亜鉛は非常に敏感で、繊細で、酸には簡単に屈し、あっという間に解かされてしまうのだが、純度の高い時は大きく違った反応を示すのだった。亜鉛は純粋なら、酸の攻撃にも執拗に抵抗した。このことから、相反する哲学的考察が引き出せた。一つは鎖帷子[かたびら]のように悪から身を守ってくれる純粋性の賛美、もう一つは変化への、つまり生命へのきっかけとなる不純性の賛美だった。私はうんざりするほど教訓的な第一の賛美を拒絶し、はるかにふさわしいと思えた第二の賛美をあれこれと考えてみた。車輪が回り、生命が増殖するためには、不純物が、不純なものの中の不純物が必要である。周知のように、それは耕地にも、もし肥沃であってほしいのなら、必要なのだ。不一致が、相違が、塩やからしの粒が必要なのだ。ファシズムはそれを必要とせずに、禁じている。だからおまえはファシストではないのだ。ファシズムはみなが同じであるように望んでいるが、おまえは同じではない。だが汚点のない美徳など存在しないし、もし存在するなら、忌むべきなのだ。だから試薬びんの中の硫酸銅の溶液を手に取り、硫酸に一滴加え、反応が起こるか見守ってみる。亜鉛は目を覚まし、水素の泡が作る白い膜に身を包まれ始める。そら、始まった。魔法がかかった。もうそのままにしておいて、実験室を歩き回り、他のものたちが何をしているのか、何か目新しいことがあるか、見ることができる。
 (54~55; 「3 亜鉛」)

  • 新聞記事もひとつだけ写す。七月六日の国際面にあった【中国 ウイグル抑圧続く/大規模暴動11年/「強制労働」海外から指摘】(7面/上海=南部さやか)というものだが、なかに「一方、米調査研究機関は6月末、中国政府が女性に不妊手術を強制しているとの報告を公表した。自治区不妊手術施術率が急増していることを指摘し、ウイグル族ら女性への聞き取り調査も報告の根拠にした」という記述。やばすぎる。子孫を残すことを禁じることで将来的に民族を絶滅させようという目論見なわけだろう? これはジェノサイドの試みではないか。
  • BGMはLauren Desberg『Out For Delivery』。なかなかポップな色合いもありつつも曲によっては熟したような味もないではないし、演奏やアレンジの面も悪くない。ただごく短い曲がいくつか入っていたりもするし、全体にボリュームとして物足りないような感も受ける。Lauren DesbergはGretchen Parlato周りのジャズボーカルとしてデビューして、五曲入りくらいだった最初のEPではスタンダード("You Go To My Head"とか)を現代風味でやっていた覚えがあるが、今作はシンガーソングライター的というかキャッチーな彩りのほうが強く、この先どういうことをやっていくのだろうか。#4 "Something Wrong With Me"のメロディの一部に聞き覚えがあって、記憶を探ってみるにスガシカオの"午後のパレード"の一部と似ているのだなと判明して、それでひどく久々にスガシカオ『PARADE』などもAmazon Musicで流した。スガシカオは三作くらいを昔はそこそこ聞いていた。そんなに悪くないし、メジャーシーンで(毒々しさと洗練をうまく配合しつつ)ファンク寄りのことをやっている貴重な人材だと思う。"アシンメトリー"はけっこう好きだ。
  • スガシカオのあとはMary Coughlan『Mary Coughlan Sings Billie Holiday』。書抜きののち二時半から今日のことを記述して、大半を記し終えた。なかなか勤勉ですみやかな仕事ぶりではあるものの、しかし四時半まで二時間を費やしても終わらないというのはどういうことなのか? 書くことは常に多く、こちらのキャパシティを超過してくる。四時五〇分に消灯することができたので、微々たる進行ではあるものの、一応前日よりもはやく就床することに成功している。


・読み書き
 13:14 - 13:36 = 22分(2020/11/2, Mon.)
 13:49 - 14:20 = 31分(2020/10/24, Sat.)
 15:14 - 15:37 = 23分(英語)
 15:37 - 15:54 = 17分(記憶)
 15:58 - 16:36 = 38分(ドストエフスキー: 最初 - 20)
 25:39 - 26:02 = 23分(レーヴィ)
 26:15 - 26:28 = 13分(新聞)
 26:28 - 28:30 = 2時間2分(2020/11/2, Mon.)
 計: 4時間49分

  • 2020/11/2, Mon. / 2020/10/24, Sat.
  • 「英語」: 277 - 290
  • 「記憶」: 181 - 182
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 最初 - 22
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年): 書抜き: 41 - 43, 49, 54 - 55
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月6日(月曜日)朝刊: 書抜き: 7面

・音楽