2020/11/12, Thu.

 (……)マラルメ詩学で革命的なのは、「対象」を排除していることより、むしろ、己を空虚化する非直観的な意味の装置を、まさにこうして体系的に構築していることである。マラルメのよく知られた晦渋さは、明白なものをくねらせ曖昧にすることにあるのではなく、同じ言語作品に関して、互いに排他的と見える読みを間断なく生成することで、明白さそのものを徹底的に変形することにある。マラルメの対象指向性との断絶はまさにこれ[﹅2]から生じるのであり、単なる対象の廃棄――それは完全に対象指向的な仕草であり続けるだろう――から生じるのではない。ここで、指向作用は否定されていない。宙吊りにされているのだ。このソネットが同時に行う意味の引き受けと放棄は、ソネットと現前する婦人の接触を自家撞着的に引き延ばすばかりである。「沈黙させられた詩(原注22)」、関係[﹅2]の〈書物〉とは、単なる意味の不在のことではない。それは、それ自体との根源的な不適合性を通して初めて「真」となるものを、体系的に、ダイナミックに自己 - 転覆する形で並置――「脚韻[﹅2]〔rime〕(原注23)」――することなのだ。

 (原注22): Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes (Paris: Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》), p. 367〔「詩の危機」松室三郎訳、『マラルメ全集』第Ⅱ巻、二三八頁〕. 「すべては、交代や対面をともない、全体的な律動=韻律に協力する宙吊り、断片的な配置となるが、全体的な律動=韻律とは沈黙させられた詩ということになるだろう」。
 (原注23): これはむろん、マラルメが例えば次のような一節で提示している脚韻概念のラディカルな読み直しである。「詩的行為とは、一つの思想が価値において等しい多くのモティーフに分割されることをただちに理解し、それらを分類することにある。それらは韻を踏む。すなわち、最後の一撃によって縁組させられるモティーフ群共通の韻律が、外的な印璽として存在するのだ」(Ibid., p. 365〔「詩の危機」松室三郎訳、『マラルメ全集』第Ⅱ巻、二三四頁〕)。これまでの読者は「等しい……モティーフ〔motifs égaux〕」という表現に暗示される類似性の概念を強調してきたが、ここでは「分割される」という表現に暗示される分裂=断片化の概念を強調することで、マラルメの脚韻理念を構成するものが、こうした二つの強調の結合的不適合性であることを立証したいと思う。

 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、111~112; 「4 詩と行為遂行的言語 マラルメとオースティン」)



  • 朝から何度も覚めているのだが、相変わらず起きられない。一一時五〇分に至ってようやく呪縛から解放された。昨晩は一応前夜よりもはやく消灯できたし(本当に微々たるものだが)、滞在時間を考えても七時間三〇分くらいなので悪くはない。このまま牛歩で進んでいけば良いだろう。頭を左右に転がして首周りを和らげてから離床。
  • ただ、久しぶりに身体がけっこう固くなっているような感じはあった。やはりWoolf会でモニターの前に長時間座っていたからだろうか。とはいえ以前に比べれば、固いと言っても相当にマシである。上階に行きもろもろ済ませて、天麩羅やおじやなどで食事。新聞には香港の民主派議員が四人、全人代の決定によって議員資格を取り消されたのを受け、民主派一五人が一斉に抗議の辞職を行ったとの記事。あとは又吉栄喜による大城立裕追悼。親しくしていたようだ。いわゆる琉球文学というか、沖縄出身の作家のものを読んだことはまだ全然ない(アイヌ文学も、在日本韓国・朝鮮人の文学も同様だ)。
  • テレビは『サラメシ』。千葉県八街市の落花生農家が紹介されていた。「おおまさり」という、ここ一〇年くらいにできた新しい品種の収穫風景(茹でて食べる用の品種らしい)。野菜とおなじように畑に生えているものを引き抜き、地中で育っていた実を手作業でひとつひとつ選り分けていく。いつも家族総出でやっているとのこと。この農家の初代である七〇代の男性によれば、維管束を示す表面の縞模様がくっきり出ているものは質が良いとのこと。一時期は中国産が入ってきたので価格が下がって大変だった、いまは持ち直したようだが、でもまああまり良い作物じゃあないよね、面倒臭いよね、という話だ。わりと気負いがなくて、自足めいた調子がある。
  • 父親の分もまとめて食器を洗い、風呂も洗うと緑茶を持って自室へ。またちゃんぽんを食いたい気もするのだが、せっかくの休日なので家に籠ってなるべく読み書きを進めたい気持ちもある。出かけるとやはりそれだけ時間はかかるし、何より書く情報が増えるので日記を書くときに在宅した場合よりもかなり労力がいるという事情はある。だから読み書きのことを考えるならとどまっていたほうが良いのだが、久しぶりに図書館のCDや新着図書を見ておきたい気もする。
  • とりあえずFISHMANS『Oh! Mountain』を流し、Evernoteを準備するとまずここまで記して一時半。
  • それから今日は日記に取り組まず、書見へ。ベッドに転がって脹脛を膝でひたすら刺激しながらドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)を読む。読了するとそのまま下巻にも入った。最初から六〇ページまで読んで四時二〇分。説話の語り方として、迂回というか余剰的な箇所がときどき見られる。そんなに効率的ではない印象。聖者に会いに行くエピソードとかなぜ報告されたのかよくわからないし(一応最後でリザヴェータとニコライ・スタヴローギンのあいだに何かしらの悶着があったらしいことが触れられ、それを記しておきたくてこの挿話を語ったのだ、みたいなことを「私」は言っていたと思うが、そこだけが必要な情報だったとするなら聖者のエピソード総体は余計な周辺事情で、かなりバランスが悪く、もっと手短な処理の仕方があったように思う)、その挿話中でもさらに途中で旅館に立ち寄って自殺者を見物する部分などは完全に迂回のようにしか思えない(事実、目的地に向かうあいだの寄り道=脱線なのだが)。べつに迂回をして悪いことはないのだけれど、この語り手がなぜわざわざそれを語りのなかに取り入れたのかという点はよくわからない。脱線がそれとして馴染むタイプの話者ではあまりないような気がするのだが。それで言えば語り手がこの「記録」を長々と報告している全般的な動機もいまのところ明らかではない。主目的としては町で起こった奇怪な事件を報告紹介する、というところなのだろうが、報告紹介することでどうなのかという点、たとえば読者を楽しませたいとか、何かの参考になると思うからとか、そのあたりについてはいままでまったく言及されていないと思う。加えて、この「奇怪なる事件」の中核がいったいどういうものなのか、それもあまりよくわかってこないのだ。もろもろの出来事やエピソードが、大雑把にはひとつの方向に向かって進んでいるらしいのだけれど、最終的にどういうことになるのかなというのがあまり見通せず、それらのあいだの有機的な関係も必ずしも明確でない。というよりおそらく、語られる事柄が緊密な関係を構築しながら(弁証法的、すなわちヘーゲル的に?)最終地点に集束していくというタイプの小説ではそもそもなく、なんか色々ごたごたとしたことが次々に起こって、解決もついたりつかなかったりしながらともかく進んでいってしまうというのが、ドストエフスキーの物語の特徴なのかもしれない。
  • 書見後、上階へ。ちゃんぽんがまた食いたかったのだけれど、ストーブの前で乾かされていた洗濯物をたたんでいるうちに、やはり出かけるのは面倒臭いなと心が決まり、今日は家に籠ることにした。それではやくも食事の支度をはじめる。まず米磨ぎ。手に触れる流水の感覚が、骨身に染みる、と言うべきものにもうかなり近くなってきている。べつにちゃんぽんの代わりというわけではないのだけれど煮込みうどんを食べることにして、麺はあとで茹でることにして汁だけもう用意しておけば良いやというわけで、数種の野菜を切って出汁やら麺つゆやら醤油やら昆布やら節操なしに色々混ぜた鍋のなかに入れておいた。それをごく弱い火にかけて煮込んでおき、そのほか餃子を焼いたり、母親が細切り昆布とニンジンなどを合わせた煮物をつくったり。そうこうしているうちに五時を過ぎたので、麺を茹でるのにも一〇分ほどかかるし、かなりはやいけれど腹が減ったときに食うのが一番だとひとり決めして、もう麺を茹でて食事を取ることにした。それでフライパンを使って一束分を湯搔く。待っているあいだは食器を片づけたり洗い物をしたりストレッチをしたり。茹で上がると鍋に投入して熱し、昼の天麩羅の余りや餃子なども用意して食事。夕刊からはまず一面の、菅義偉ジョー・バイデンが電話会談したところバイデンは尖閣諸島日米安保条約第五条の適用範囲に入ると明言したという記事を読み、そのあと音楽面。マカロニなんとかみたいな名前だったと思うが、メンバーの四人全員が音大出だというロックバンドの紹介とか、Bruce Springsteenの新作についてとか。あと高井息吹みたいな名前だったと思うのだけれどシンガーソングライターの作品も触れられていて、そこではKing Gnuの人とか君島青空とか石若駿がサポートしているらしかった。ちょっと興味は惹かれる。
  • あと池の水を抜くことの意義について書いたサイエンス記事など。「かいぼり」というらしい。八王子の長池公園とかいうところの池でも近年行われたという。外来種の駆除兼水質改善を目的としているようだ。淡路島ではため池をかいぼりして、底に溜まった腐葉土を海に流すことで養分を増やし、近年不調が続いているという海苔の生産性を向上させようと試みている由。
  • さっさと食事を終えると緑茶を伴って帰室。一服するあいだはLINEで(……)くんにメッセージを送ったりした。昨晩の話の最後のほうで、こちらが八月になんだかよくわからんがちょっと書いてしまった短文について触れたのだが、それを(日記を上げている場所ではない別名義の)ブログに投稿して、気が向いたら読んでくれとURLを知らせておいたのだ。ついでに最近つくった短歌も並べておいた。そのあと軽く運動。cerothe pillowsを歌いながら合蹠など。基本的・全般的な身体メンテナンスは脹脛(を中心とした脚全体の)マッサージが一番というかそれだけやっておけばだいたい間違いないのだが、それに加えてやはり柔軟もやらないと深いところの筋は伸びない。とりわけ、膝より下は寝転がりながらのマッサージでほとんどカバーできるのだけれど、膝より上の太腿などを楽にうまくほぐす方法は見出せていない。これに関してはやはり合蹠とか開脚とかが必要になるだろう。
  • (……)くんに知らせた小文を、ここにも載せておく。八月二二日に書いたものらしいのだが、当日の日記は溜まっているなかのひとつでまだ仕上げておらず、ブログにも載っていないので。

 ここはどこだ? どこかではあるはずだ……あるものは、どこかにあらねばならない。強制されているのだ……嵌めこまれ、置かれているのだ。牢獄に……割り当てられた間隙に……どこであっても、そうなのだ。ここでは何も聞こえない。声はない……音も。振動も。光はない……だからといって闇があるとも思えない。光がなければ見ることはできないが、闇がないならば見ないこともできないだろう……ここにあるのは、ことばだ。ことばしかない……さしあたりは何もない。ことばしかないところから、すべてがはじまる。ことばしかないところ……そこからしか、すべてははじまらないのだろう。はじまりの原子……だがそれは、声でもなく、文字でもなく、ものでもない……それが何なのか、知っているものはいないだろう。たとえば、緑の球体。透き通っており、濃密に満ちている。さざめき立ちさわぐ無数の葉っぱ、そのひとつひとつ違う緑の本質が一緒くたに注ぎこまれ、混ざりながらぶつかり合い、絶えずゆらいでは固まり、消えかかり、変化しつづける……複雑美妙な神奇のエメラルド。だが、まるですでにあったかのようではないか? たとえばエメラルドが……ここよりも先に、はるか以前から、存在していたかのようではないか? 開闢とともに。そうではないのだ。ここで生まれたのだ……常にここで、その都度、生まれる。いつだってそうだし、どこだってそうだ……そして、裁ち落とされる。吹き捨てられてはすぐに割れる、風にさらわれた泡玉のように。だから、点滅なのだろう。すべてが、何もかもが。そこで、ここで、はじめなければならない。だが、どうはじめようか? 問題は蛇だ……あの神々しい、悪辣なもの。空白の目と二股の舌を持った白痴の賢者……すべてを巻きこみ、引き寄せ、摩耗させる螺旋。あれをかいくぐらねばならない。あれはなんでも丸呑みにしてしまう……ことばさえも。空隙さえも。だから、ここを、存在させてはならないし、存在させないわけにもいかない。託さなければならないだろう……夢に。目を閉じ、まどろみ、夢見るものに危険はない。動けないのだから……だが、見られた夢そのものは危険きわまりないだろう。そして、夢を見ながらでも動けるものがあるならば……動きながら見る夢、そしてその夢もまた動き、うごめき、泡立ち、ふるえ、ふるわせる。それがことばだ。

  • その後、Room Eleven『Six White Russians & A Pink Pussycat』をバックに音読。この音源はなんだかんだ言って地元の図書館で借りて以来長く、おりにふれて流している。洒落た味の良質なポップスだと思う。この一枚目はどの曲を取ってもわりと悪くない。どれか弾き語りできるようにしたいような気もする。
  • 20:36。歯ブラシを取ってきて口内に突っこみながら、「蒼穹に奪われ死んだ憎しみを取りもどしたい戦争までに」という一首を作成。
  • なんか文章を書くのって、結局のところ、リズムというか音律性が導きになるような気がしてきた。流れが一時停まって迷ったときに語を選ぶにあたっても、意味よりも頭のなかに浮上してくる言葉の響きに頼っているような気がしないでもない。もちろん意味も探っているし(それから逃れることなどできはしないし)、また意味連鎖としてのリズム/リズムとしての意味(意味領域における律動性)もあるはずだけれど。
  • 歯を磨くと九時前だったので風呂へ。湯のなかでは、超然性と無関心が誤って同一視(というか混同)されているのではないか? というようなことを考え、クソみたいな時空のなかで自己を(自己が最終的にフィクションだとしてもひとまず)定かに(もしくは流体的に)保って渡り合い、なおかつその時空に対してなんらかの意味を生んでいくために、やはり瞑想で精神的泰然性を涵養したほうが良いのではないか? と思って、ひとまず入浴しながら瞑想めいて静止してみたのだが、途中までは良いものの風呂に浸かって目を閉じているとどうしてもそのうち眠くなってしまう。自己を保って身体感覚を受け止め続けるどころか、意識がまさしく液状に融解してしまう。
  • 部屋にもどってくると一〇時前、何をしようか迷うのだけれど、とりあえず日記を書いておくことにした。だがその前にAmazon Musicから音源をメモしておくかというわけで、Mal Waldronの作品を探る。かたわらMicrosoft EdgeとかいうよくわからんブラウザでAki Takase & Alexander von Schlippenbach『So Long, Eric! Homage to Eric Dolphy』(https://music.amazon.co.jp/albums/B00NJQPWNC)を聞こうと思ったものの、動作が遅くてこのコンピューターやはりもう駄目だなと苛々し、Amazon Musicを再生するためだけに使えるようなべつの軽いブラウザは何かないのかと検索した過程で、Google Chromeが最新版なのにAmazon Musicを再生できない原因が判明した。拡張設定のブロッカーによって、こまかな理屈はわからんが旧バージョンと判断されてしまうことがあると言う。それなのでさっそくAmazon Musicを除外設定したところ無事Chromeで再生できるようになったので一安心、Mal Waldronのアルバムをいくらかメモしてからこの日のことを綴った。ここまで書いて一一時半。Aki Takase & Alexander von Schlippenbach『So Long, Eric! Homage to Eric Dolphy』のなかでは、#6の"Miss Ann"がけっこうすごかったような気がする。たぶん、ちゃんと聞いてみて良い演奏なのではないか。
  • 今日は四時一〇分に消灯するとして、あとやっておきたいのは書抜き二種と、最近英語をまったく読めていないのでできればいくらか英文記事を読みたい。日記は前日分と一一月五日分が未完成で、それらを片づけなければ一〇月二五日からの軌道にもどれない。しかしWoolf会の記述は大変なので昨日の記事は会合以外のことだけ書ければとりあえず良いと思う。一一月五日をできるだけ進めたいし、可能なら仕上げてしまいたいのだが。あとは音楽鑑賞をいくらかでもと、瞑想もできればという感じか。
  • あと、想起するのを忘れていたが、運動の前だったかに、岡崎乾二郎がnoteに上げている「絵画への抵抗-vol.1 ジャクソン・ポロック」という有料マガジンの記事を全部Evernoteに写しておいた。noteのアカウントを削除していなかったのはこの有料記事をまだ読んでいなかったからなのだが、これでもうあのサイトに用はないというわけで退会処理。美術方面のものなので当然画像がたくさん差し挟まれており、それらをそのままEvernoteにコピーできれば楽だったのだができなかったので(たぶん本当は可能なのだと思うが、それを調べることに興味がない)、わざわざひとつずつ名前を付けて保存してフォルダにまとめておいた。ポロックのほかモンドリアンとか、日本人では長谷川三郎とか恩地孝四郎とかにも触れている。長谷川三郎は、留学していたのか忘れたが訪米中にジョン・ケージと交流があったらしく、ケージは彼から影響を受けたようで明らかに類似のスタイル(方法論)の絵を描いている、というような話がなされていたと思う(画像を保存する過程で瞥見しただけなので、きちんと読んでいないが)。ところで先日知った谷譲次、すなわち「丹下左膳」を生み出した作家も本名は長谷川で、この人は四人兄弟で末の四郎はシベリアに抑留されていた作家であり、ほかの二人もおのおのの分野で活躍していたという記憶があったので、長谷川三郎ってもしかしてこの兄弟のひとりだったのかなと思って検索したところ、そうではなかった。谷譲次すなわち長谷川海太郎の兄弟は、次男潾二郎が画家・小説家(ペンネームは地味井平造[じみい・へいぞう])、三男は濬[しゅん]という人でロシア文学者だったらしい(Wikipediaにあるが、「終戦時に満州映画協会理事長の甘粕正彦の自殺場面を目撃した」という話もちょっと気になる)。
  • 日記を書いたあとはまた休身としてベッドに身投げし、(……)さんのブログと(……)さんのブログを読んだ。前者は六月三日分から六日分。後者は七月一七日付から二四日付まで。面白かったところをそれぞれ記録しておく。

 現代の無神論者は、自分は神が死んだことを知っていると思っている。彼が知らないのは、自分が無意識のうちに今なお神を信じているということだ。現代人の典型的なイメージはもはや、自分の信仰に対する疑念をひそかに抱いていて、戒律に背く幻想に耽る信者ではない。今日では、主体は寛容な快楽主義者を自称し、幸福の追求に没頭しているが、その無意識には禁止がたくさん詰まっている。抑圧されているのは禁断の欲望や快感ではなく、禁止そのものである。「もし神が存在しなければ、そのときはすべてが禁じられる」ということは、自分を無神論者と見なせば見なすほど、その人の無意識はますます禁止によって支配され、その禁止が快楽を妨害するということである(この命題を反対の命題、すなわち「もし神が存在すれば、そのときはすべてが許される」という命題で補うことを忘れてはならない。これは宗教の原理主義者の立場の最も簡潔な定義ではなかろうか。原理主義者にとって神はじゅうぶんに存在している。原理主義者は自分を神の道具と見なしている。だから彼は自分のしたいことが何でもできる。彼の行為はあらかじめ免責されている。彼は神の意志を体現しているのだから)。
 このように、抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明したらいいのか。誰もが子どもの頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子どもに与えるメッセージは、こうだろう。「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。この場合、この子が置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力を取っておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろ? でも無理に行けとはいわないよ。本当に行きたいのでなければ、行かなくてもいいぞ」。馬鹿でない子ならば(つまりほとんどの子どもは)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥褻な超自我の命令である。それは子どもから内的な自由をも奪い、何をすべきかだけでなく、何を欲するべきかをも指示する。
スラヴォイ・ジジェク鈴木晶訳『ラカンはこう読め!』より「「神は死んだが、死んだことを知らない」――ボボークと遊ぶラカン」p.159-161)

     *

 アメリカの成人の半数は「原理主義」と呼びうるような信仰をもっているそうだが、この最近の宗教的原理主義の潮流は、ひねくれたリビドー経済の優勢に支えられている。原理主義者は信じるのではなく、じかに知っているのだ。リベラルで懐疑的な冷笑者(シニック)と、原理主義者は、その根底にある基本的特徴を共有している。どちらも、本来の意味において、信じる能力を失っている。彼らにとって想像もつかないのは、本物の信仰の礎となる根拠なき決断、すなわち一連の推論やポジティヴな知識にもとづかない決断である。アンネ・フランクのことを考えてみよう。彼女はナチスの堕落を目の当たりにして、「不合理ゆえに我信ず(credo quia absurdum)」を地でいくように、どんなに堕落していようとも、すべての人間の中には善性の神々しい火花があるという確信を書き綴っている。彼女の言葉は事実とは関係がない。それは純粋に倫理的公理として断定されているのだ。同じように、普遍的人権というのも本質的には純粋な信仰である。それを人間の本質に関するわれわれの知識によって根拠づけることはできない。これはわれわれの決断によって断定された公理なのである(普遍的人権を、人間性に関するわれわれの知識によって根拠づけようとすると、人間はすべて根本的に異なり、威厳と智恵の多い者と少ない者に分かれるという結論が出ることは避けられない)。その最も根本的なところで、本物の信仰は事実とは無関係であり、無条件の倫理的関与を表現したものである。
 リベラルな冷笑者にとっても、宗教的原理主義者にとっても、宗教的声明は、直接的な知をほぼ経験主義的に述べたものである。原理主義者はそれをそっくり受け入れ、懐疑的な冷笑者はそれをからかう。最も情熱的なハッカーたちの中に宗教的原理主義者がいることは不思議ではない。彼らには、自分の宗教と科学の最新の発見を合体させようとする傾向が見られる。彼らにとって宗教的声明と科学的声明とは、ポジティヴな知の同じ側面に属している。いくつかの原理主義的な宗派の名前そのものに「科学」という語が見出される(クリスチャン・サイエンスサイエントロジー)のはたんなる猥褻なジョークではなく、信仰をポジティヴな知に還元しようという方向性を示しているのだ。その点で<トリノの聖骸布>(キリストの遺骸を包んでいたとされ、血痕がついているとされる布)はいろいろなことを教えてくれる。それが本物だと判明することは、真の信者にとっては恐怖であろう(最初になすべきことは結婚のDNA分析により、イエスの父親が誰であったかという問題を科学的に解決することであろう)。いっぽう真の原理主義者たちは驚喜するだろう。今日のイスラム教にもこれと同じような、信仰を知へと縮小しようとする傾向が見られる。いかに最近の科学の進歩がコーランの洞察と命令を確証しているかを「証明した」科学者の書いた本が何百と出版されている。たとえば、神による近親相姦の禁止の正当性は、近親相姦から生まれた障害児に関する近年の遺伝学の知識によって確証された、とか。同じことが仏教にもあてはまる。そこでは多くの科学者が、「現代物理学の道(タオ)」のモチーフを振り回し、現実を揺れ動く出来事の非物質的な流動と見なす現代の科学は、古代の仏教の存在論を確証したとされる。以上のことから、逆説的な結論を引き出さざるをえない。すなわち、伝統的な世俗的人間主義と宗教的原理主義との対立においては、人間主義者が信仰を、原理主義者が知を標榜している、と。宗教的原理主義の隆盛に関して、ラカンから何が学べるかといえば、それは、真の危険は、世俗的な科学的知が脅かされていることではなく、本物の信仰が脅かされていることだ、ということである。
スラヴォイ・ジジェク鈴木晶訳『ラカンはこう読め!』より「政治のひねくれた主体――モハンマド・ボウイェリを読むラカン」p.197-199)

  • 六月六日のタイトルになっている「万物は万物以上の比喩となりひとは余剰を褥とするのだ」という短歌も良かった。
  • Sさんのほうはまず2020-07-19「身振り」。「勘でも賭けでも、完全な無根拠によってではなくかならず過去が参照されるものだ。あやふやであるがゆえに信じることが可能な疑いようのなさ」。

ある作品がすばらしいと思うなら、その形式と様式においてあらわされる意味内容に対してそう思っているのと同時に、その形式と様式によって得体の知れぬ賭けを試しているらしき得体の知れぬ存在感、その気配が感じさせる身振りを、良いと思っている。(……)大事なのはあくまでもその身振りの描く運動線を延長した先にあるもので、似ているものとそれは静的には似ているかもしれないが、動的過程とした場合必ずしも同じ軌跡を描くわけではない。意味内容もまた静的な情報でしかないが、身振りは過去から未知への線的動線としてあらわれる。受け手は、形式と様式が実現するそのムーブマンに反応している。作品の質が向上するとは、その身振りがさらに洗練されるということでもあるが、その身振りの先に具現化されるはずのある場所、それを適切に受け止めることのできる何かの到来が期待されるということでもある。その期待を強く喚起させるような身振りというものがある。では何を根拠にして、その期待が喚起されるのか、それは勘であり賭けだが、勘でも賭けでも、完全な無根拠によってではなくかならず過去が参照されるものだ。あやふやであるがゆえに信じることが可能な疑いようのなさがある。その可能性を証明するのが目のまえのこの身振りだ。(……)

  • 2020-07-24「真面目」の以下の段落も面白かった。特にはじめの、学校教師のくだり。「子供の眼から見ても、人間ああなっては終わりだと実感させるに充分だった」というところに笑ってしまった。

その後、中学生になって、当時通っていた学習塾の講師たちのふりまいていた雰囲気の印象にも忘れ難いものがあった。ちなみに、中学生の自分にとってクラスや学年を担当する中学校教師たちというのは、多かれ少なかれ、良くも悪くも「終わってる」感じがしたものだ。とくに男性教師は壊滅的だった。いや、なかにはちょっと面白い感じのする人もいなくはなかった、かもしれないし、女性教師にもまだその場と空気に染まり切ってない、少し暗い目と表情の裏側に、現状を決して肯定してはいなくてもっと全然別の世界を思い浮かべているかのような、ひそかな意志めいたものを感じさせるような人も、いなくはなかったけれども、ほとんど総じて壊滅的に地味で覇気がないか、または怒声一発で恫喝的にすべてを従わせようとする憲兵みたいな性根の持ち主か、おおむねその二パターンだった気がする。子供の眼から見ても、人間ああなっては終わりだと実感させるに充分だった。それと較べると小さな学習塾の講師たちは、少なくとも人生をどうにかやりくりしている大人の態度として、よほど子供に共感される要素の多い人々だったように思う。彼らは良くも悪くも公私混同があって、それを当然と思うだけののっぴきならなさとアイロニーの両方をたたえていて、決められた要領に沿って学習を進めつつ、ときには授業中にそれとは無関係に余計なことをだらだらと喋るわけだ。中学生にとって大人の雑談は、ことにある種の距離感をもって放たれる言葉には独特なリアリティを嗅ぎ取ることができてそれが面白いものだし、たとえば古典や漢文の授業であれば、まだまだ短歌や俳句をたしなむ老人はこの世にたくさん生き残っているのだから、君たちも現状これらの素養を多少齧る必要があるのは避けられないのだと、そんなニヒリスティックなものの言い方も、少なくとも中学生にはリアルに響くのだ。かつそのような斜に構えた態度であっても、そこで知ることになる新しい規範、新しい形式は、けしてネガティブで古臭いものとしてだけ取り入れられるわけではなく、それを面白くい何かとして取り入れるのかどうかはその人次第で、そこに時間や世代は大して関係ないのだと…そこまで語られるわけではないにしても教える側の言葉にそのニュアンスまで含んでいうことが感じられるというかこちらで勝手に補ってしまうというか、いずれにせよそこで教えられる物事が、今思えばこれみよがしなペシミスティックとかアイロニーとか凡庸なシラケのムードに乗せて語られたのだとしても、それが「仕方なくその役割をやってる」講師と「仕方なく塾に通ってる」生徒のあいだでやり取りされるかぎりにおいては、少なくとも物事を知る場としてそれなりにフラットでフェアなやり取りの交わし合いが行われたことにまつわる面白さだったように思う。

  • あと、二一日に紹介されていた「ぎんぴら」という料理はそのうちつくってみたい。「ぎんぴらという料理が、うちではよく食卓にあがるのだが、これが、おお…と唸るほど、美味しいのだ。つくり方はとても簡単、いんげんとアスパラとピーマンを切って、ごま油で炒めて塩胡椒をふるだけ。それだけなのに、もはやほとんど完璧な野菜料理ではないかと言いたくなるほどに美味しい」。乗代雄介の本も読まなくてはと思う。
  • 一時間強休んで一時前。五時半に食事を取ったので当然の道理だが、腹が減ったので上階へ。あまり音を立てないように(換気扇も点けなかった)フライパンの置き方動かし方など注意しつつ、ハムエッグを焼いて丼の米の上へ。醤油をかけると、使ったフライパンはすぐに洗剤を垂らして水を注いで泡立てておき、自室に帰還。腹を満たす。ハムエッグに醤油を混ぜてぐちゃぐちゃにした米と、あと煮込みうどんがあれば、食事面に関してはこちらはなんら問題なく生きていけるのではないか。毎日それで普通に満足してしまいそうな気配がある。食うとまた上がって静かに食器やフライパンを片づけ、食後の茶を用意してもどり、ここまで加筆。
  • その後、書抜き。プリーモ・レーヴィの『周期律』を終えたので、熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)に入った。打鍵して文章を写しながら、この語り口(以前だったら「文体」と言っていたのだろうが、いつからか「語り口」という言葉のほうが実感に即すようになった)はちょっとうらやましいような気がした。読点がかなり多く、ゆったり区切られているのだが、それで間延びや弛緩の感じはないし、ひらがなも多用されて、ときに意外な語もひらいており、おそらく言語のニュアンスに対する特有の感覚を持っていることを窺わせ、何か不思議にきれいで静かな文章だという感じを受ける。読点のほうは新書という形式上、読みやすいようにと配慮して多めに打ち、リズムをゆるやかにしたということもあるかもしれないが、ひらがなの感覚に関しては、『レヴィナス』の文章もたしかおなじような書き方だった気がする。8ページの一部を引いておくと以下のような調子。

 ミレトスの港町は地中海に開けていた。来る日も来る日も、昼も夜も、海は波をつくり、波をよせる。ひとがつくり上げたものなど、まだほんのささやかであった時代にも、海は無限に[﹅3]波浪をあげて、際限もなく[﹅5]波頭をつくりつづける。一瞬一瞬の波のかたちは、海が生みだす、刹那の様相であると同時に、それが海そのものでもある。青い海はまた、白い雲をつくり上げ、雨となって陸地をうるおす。海は、ときにまた風とともに荒れくるい、高い波がひとのつくり出したものを呑みつくす。街並みをつくる白壁が崩れおち、街そのものが廃墟となったとしても、海は月から引かれ、陸に惹かれる。反復は、ちいさな反復を無限にうちにふくんで、それ自身として循環し、おわることがない。世の移ろいと、自然の生成変化は、すべて海のなかに写しだされているのである。「水」という一語のなかには、なにかそうした悠久の存在感覚がある。滅びてゆくものを超えて、滅びてはゆかないもの、死すべき者のかなたに在りつづけるものへの感覚がある。そこには、果てのないもの、無限なものへの視線がつらぬかれ、世界のとらえがたさに、思わず息を呑む感覚が脈うっている。

  • 書抜き中はThe Police『Live!』(https://music.amazon.co.jp/albums/B00BK8DAXU)を流していた。The Policeで持っていたのは『Synchronicity』と『Outlandos d'Amour』だけで、"Message In A Bottle"はきちんと聞いたことがなかったと思うのだが、やたら格好良いなと思った。リフのコードワークがクールで、そこを中心として曲も全体的に、これがまさしくThe Policeではないか、という感じを強く受ける(The Policeをそんなに聞きこんだことがないので、正当な印象か自信がないが)。
  • 書抜き後、歯磨きしながら去年の日記。2019/9/4, Wed.の冒頭の引用。

 宮本 それに対してオープンな、絶えず自分を新しくしていくナラティブもいろいろと考えられます。たとえば、死生学の渡辺哲夫さんのような、ナラトロジーのメソッドを用いる精神分析家に聞くと、日本の精神医療では、普通の精神分析医というのは患者さんに容体を聞くとき既に基準があって、この容体はこの基準に合っているからこの薬を出そうというのが多いみたいなんです。
 それに対して、ナラトロジーを使っている精神分析の場合は、ただひたすら相手の話を聞くわけです。渡辺哲夫さんに言わせると、ほとんどの統合失調症のナラトロジーの共通点は、自分は誰かに迫害されている、誰かに殺されるというのが基本的な筋だそうです。何度聞いても、手を変え、いろんな話の筋を変えて、同じような筋の話をするのです。ところがクライアントは、ある日突如として道を歩いていたら、誰か自分にほほ笑んだというような話をたまにするんだそうです。その言葉を、分析家はアンテナを鋭くして、逃さないようにして、相手に、「今日はあなた、ちょっと今までと違った話をしたね」と言うんだそうです。
 相手がほほ笑んだということを種にして、「新しい物語を作ってごらん」ということは絶対言わない。とにかく本人が新しい筋を自覚しなければならない。だからすごく時間がかかるわけですけれども、それをクライアントに言って、新しい自分の言葉とか、ナラティブを作っていくことで、新しい自分というものが成立してくる。そういうメソッドが精神分析学にも取り入れられているというわけです。
 (東大EMP/中島隆博編『東大エグゼクティブ・マネジメント 世界の語り方2 言語と倫理』東京大学出版会、二〇一八年、92~93; 酒井邦嘉宇野重規・宮本久雄・小野塚知二・横山禎徳・中島隆博「言語の語り方」)

  • そのあとウェブを見て、三時四〇分を越えてからベッドに移動して書見。ドストエフスキーをいくらか読み進めて四時一〇分にきちんと消灯した。


・読み書き
 13:10 - 13:29 = 19分(2020/11/12, Thu.)
 13:35 - 15:03 = 1時間28分(ドストエフスキー: 604 - 650)
 15:06 - 16:20 = 1時間14分(ドストエフスキー: 5 - 60)
 19:51 - 20:17 = 26分(英語)
 20:18 - 20:34 = 16分(記憶)
 22:29 - 23:35 = 1時間6分(2020/11/12, Thu.)
 23:38 - 24:48 = 1時間10分(ブログ)
 25:33 - 26:06 = 33分(2020/11/12, Thu.)
 26:27 - 26:54 = 27分(熊野)
 26:59 - 27:09 = 10分(過去の日記)
 27:43 - 28:10 = 27分(ドストエフスキー: 60 - 77)
 計: 7時間36分

  • 2020/11/12, Thu.
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 604 - 650(読了)
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 5 - 77
  • 「英語」: 334 - 352
  • 「記憶」: 188 - 191
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-06-03「好きだとか嫌いだとかで線を引くことしかできない強みと弱み」 / 2020-06-04「動物の教育をする積み上げた塔の上から自分の背を見る」 / 2020-06-05「忘れられないことばかり書き寄せた色紙を飾る表札として」 / 2020-06-06「万物は万物以上の比喩となりひとは余剰を褥とするのだ」
  • 「at-oyr」: 2020-07-17「ブイヤベース、ヴィレッジ・バンガード」 / 2020-07-18「Outdoors」 / 2020-07-19「身振り」 / 2020-07-20「名前」 / 2020-07-21「ぎんぴら、サメ」 / 2020-07-22「ワインディング・ノート」 / 2020-07-23「創作」 / 2020-07-24「真面目」
  • 熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年): 書抜き: 5, 7 - 8
  • 2019/9/3, Tue. / 2019/9/4, Wed.

・音楽