2020/11/16, Mon.

 (……)詩句〔vers〕とは、その語源〔versus(……に対して、……に背を向けて)〕が示唆するように、リズムや脚韻において、旋回を実践することである。それはまさに、言語の倒錯的なあり方――すなわち、単純な代替の追求を裏切る〔失望させる〕こと――によって余儀なくされる、法則としての代替、そして、代替としての法則を演出制定することなのだ。明快さと曖昧さ〔難解さ〕の不断の代替が言語の法則と化すのは、言語が完璧な露出計として機能せず[﹅2]、「光り輝く単純な代替」にはいっさい応じないからである。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、121; 「5 詩と統辞法 ジプシー娘の知ったこと」)



  • 一一時二〇分に確定的な覚醒を得た。昨晩は油断して四時半の消灯に後退してしまったのだが、そのわりにはやく起床することができ、滞在はちょうど七時間ほどだ。明かりを消してからもすぐに布団をかぶらず、脹脛をほぐしまくっていたのが良かったのかもしれない。天気は今日も晴れやかで、陽射しが枕に乗った顔までまぶしく通ってくる。その助けを得て起き上がると、茶道具や水のペットボトルを持って階上へ。母親に挨拶。父親は今日、山梨に行って泊まってくるらしい。天気予報は、今日は全国的にとても暖かくなり、最高気温は二二度くらいで、一〇月の気候と言っていた。トイレで放尿しながら、「冬枯れの轍よすべて知るがいい踏みゆくひとのまことも嘘も」という一首を作成。
  • 赤飯などで食事を取っていると母親が、父親にはやく働きに出てほしいというお馴染みの愚痴を漏らし、しかもそれが、家で畑をやったりしていると「格好悪い」という内容のものだったから、さすがにそれは違うのではないか、自分の感じ方のほうを多少なりとも省みるべきなのではないか? と思って口を出してしまい、大人げなくいくらか問い詰めるようなことになった。母親が「格好悪い」というのは、引退して家にとどまっていると髭も剃らず身なりに気を遣わなくなるし、畑仕事をやって汚れた姿でいるのが「世間」(あるいは「周り」)から見て決まりが悪いという意味がひとつだろう。加えて、そもそも定年をむかえて労働に行かずに毎日家にいるということ自体もその「格好悪い」のなかに含まれているように思われる。またもやお定まりの「世間」基準、「周り」とか「近所」とかの目を気にせずにはいられないという性質の発露で、こちらとしてはそのこと自体にうんざりしてしまう。しかしさらにうんざりするのは、母親が、父親が労働に出るべきだという理由のひとつとして、「せっかく能力があるのにそれを活かさないのがもったいないから」という美辞麗句を吐くことで、それに関連して母親は自分の職場にいる七八歳の男性を具体例として挙げるのだけれど、こちらが見るところではこの理由はなかば以上は嘘である。完全に虚偽ではないとは思うが、すくなくとも主要な要素ではなくて傍系にあたる理由であり、こちらからすると、単に父親が長く家にいると鬱陶しくてストレスが溜まるのでどこかに行ってほしいという考えを取り繕うために召喚してきたようにしか思えない。こちらが気に入らないのは、そういう自分の感じ方を隠すためにまるで相手のことをおもんぱかったかのような言葉を、まさしく取ってつけたように持ち出してくることである。その恥ずかしげのない欺瞞の調子に苛立ちを禁じえないものだが、母親としては、たしかにストレスが溜まるということもあるけれど、もったいないと思うのも嘘ではない、それもあるということだ。母親は実際、そのように信じていて、みずからの言い分に欺瞞のにおいがあるということを感じていないのだけれど、こちらの考えでは問題の本質は明らかに父親が家にいると鬱陶しく、さまざまな面でストレスフルだというその一点に尽きている。だったら余計な虚飾を張らずに、あなたが家にずっといて顔を合わせていると邪魔臭くてストレスが溜まり病気になってしまいそうだからはやくまた働きに出てほしい、と言えという話である(もちろんこんなにあけすけな文言で言う必要はないが)。第一、能力があるのにもったいないとかなんとかいうのは、完全に他人の余計な世話であって、喫緊の必要性がない限りは働きに出るか否かなど本人の勝手にまかせれば良い、とそれだけの話だ。しかしそれで家にいられるとストレスが溜まるのだったら、邪魔だということを伝えるか、ストレスフルな場面を減らせるような働きかけや話し合いをすれば良い。こちらとしては父親が家にいようが働きに行こうが、両親が仲良くやっていようが離婚しようがどうでも良く、こちらの望みは不必要に不快な瞬間になるべく立ち会いたくないというその一点に尽きる。不快な瞬間というのは母親が生産性のない愚痴を吐くその瞬間であり、父親が高圧的な言動を取るその瞬間であり(最近はあまり見ないのでもしかしたら気をつけてくれているのかもしれないが)、両親がくだらないことで言い合いをしているその瞬間である。それらがこの世から消滅するか、せめてもうすこしすくなくなってくれればあとはどうでも良い。ただ、高圧的な言動はともかくとしても、母親に愚痴を吐くなというのはやはり無理で、要求しすぎなのだろうなとも思う。むしろ家事などの面で助けられている身でもあるし、聞き役になって受け止めてあげるべきなのではとも思うのだけれど、聞いているとどうしても苛々してしまうのがこちらの性分である。特に口を出さずに適当に聞き流すか黙殺すれば良いわけだし、実際だいたいの場合はそうしているのだが、ときどきどうしても、うるせえな黙れよという気持ちになって口を出してしまうのだ。しかし、それも正直無理からぬことではないか? とも思う。何しろ母親の愚痴というのはいつも必ず、ずっとおなじことの繰りかえしで、変化も進歩もまるでなく、状況の改善に向けた意志が完璧に欠如しているのだ。いまだったら父親が働きに出ないというのがそうだし、以前だったらまた仕事をしたいのに良い仕事が見つからないしうまくやっていけないというのがそうだし、もっと昔だったら親戚付き合いが面倒臭くてやめたいというのがそうだ。そのように時期によって内容は違うのだけれど、その期間のあいだはおなじ言葉がひたすら反復されるし、母親は日々おりおりに愚痴を漏らすばかりで特に何もせず、そのうちに外部状況がおのずから変わって問題が解消されたと思ったら、また新たな主題を見つけて今度はそれを際限もなく繰りかえす、という次第だ。
  • その母親はこちらが話しているあいだもぱたぱたと各所を動いて身支度を済ませ、勤務に行った。食後こちらは皿洗い、風呂洗い、アイロン掛けを済ませて自室へ。今日はたしかにとても暖かく、緑茶を飲んでいても汗が湧く。FISHMANS『Oh! Mountain』とともに今日のことを綴っていると一時半をむかえていたので、便所に立ったついでに洗濯物を取りこみに行った。例によってベランダの日向のなかにしゃがみこんで温もりに包まれながら衣服類をたたむ。空は昨日のように完全な無雲とは行かずほのかな筋が少量刷かれてはいるものの、陽射しは厚く、甘い飴のように濃くて相当に温かい。タオルやパジャマや肌着などをたたんで整理しておくと、天気も良いし落葉の掃き掃除でもするかと思って玄関を出た。おそらく午前中に母親がやったらしく散らばっているものは乏しかったが、それでも一応片づけておくかと箒と塵取りを持ち、葉に寄っては腰をちょっとかがめて短く持った箒で塵取りのなかへはじくことを繰りかえした。途中、あれはたぶん(……)さんだと思うのだが、夫婦で通ったマスク姿の人があり、婦人のほうが声をかけてきた。今日はお休み、と言うので、僕は塾でやっているんで、夕方からなんですよとこたえておく。掃除の合間に立ち止まって見上げれば、すぐそばの林は青空を背に、下部は褪せ枯れた臙脂の色や油分をなくした黄色にオレンジ、なかほどからは竹の葉の緑がたくさん盛り上がって壁なしているなかに、緑も各所で微妙な差異をはらみ、またところどころに紅やら黄やら飛び地になって混淆しているその全体が、ゆらゆらしずかに微動して色の泡を吐くようであり、さらに道のちょっと先には緋色に染まったカエデの樹も見えて、まさしくピクチャレスクという言葉を使うにふさわしいような風景だなと思った。印象派までは行かず、イギリスのコンスタブルみたいな印象だが、そうと言ってコンスタブルの絵を生で見たことなどないはずである(もしかしたらバルビゾン派関連の展示会とか、印象派の展覧会の前史部分で見たことがあるか?)。それからふたたび掃除にもどって、葉を集めるあいだ背後から抱いてくる光の熱がかなり気持ち良く、精神安定剤をきめてささやかなトリップしたいなと思っていると(と言っていまベンゾジアゼピン剤を飲んだところでこちらにはもう効かないのではないかと思うが)、うしろから挨拶がかかった。背を伸ばして振り返ると、名前を知らないのだけれど(以前母親から聞いたが忘れてしまった)何度か話したことがある婦人で、今日はとても天気が良くて暑いくらいだと言うので同意し、通り過ぎていくのに気持ち良いですねと返して見送った。葉を集めることに満足すると林のほうに捨てに行ったが、その際道の先のカエデのほうに視線を送ると、大方緋色にまとまってはいるけれどまだ緑も垣間見えるので、たぶんこれからもっと強く赤くなるのだろう。とはいえいまぐらいの色彩の混ざり方が一番粋で官能的ではないか? という気もする。
  • 葉を捨てると水路に寄ってちょっと眺め下ろした。沢には草が繁茂しており、また落葉も溜まって水の流れは大部分隠れていて、本当に流れているのか怪しいような様子だが、それでも通ってはいるらしい。水の動きはかろうじて、といった感じで音も聞こえず、水路の上をただよう薄陽のなかを微細な羽虫がたくさん湧いてかそけく飛び交っていた。
  • あまりにも気候が良いので日向ぼっこをしながらギターを弾きたいと思ったが、とりあえず自室に帰り、ここまで記すと二時半だからもうあまり日向もひろくないだろう。
  • それから一〇月二五日分をほんのすこしだけ書き足して完成。投稿するのだが、固有名詞をなるべく検閲する方針に変えたので、わざわざ文章を注意深く読み直し、該当の語があったらいちいち(……)に置き換えていかなければならないため、やたら時間がかかる。FISHMANSの"感謝(驚)"なんかを歌いながらすすめた(そのころには音楽が自動的に『ORANGE』に入っていたのだ)。そうしてやはりギターを弾きたかったので欲求を満たすことにしたのだが、その前に調身。ceroを歌いつつ合蹠などのストレッチをいくらかやった。そして隣室からアコギを持ってきてローポジションのA7をとりあえず鳴らし、一弦分上にずれてD7に移り、といった感じで例によってAのブルースである。最初のうちはけっこう良かった気がするのだが、だんだんだれてくるというか、長く続くとやはりまとまりがなく散漫になってくる。とはいえ遊びなのでべつにそれでも良い。四時を回るくらいまで弾いてしまった。
  • 外出前には脹脛をほぐしたほうが絶対に良いので、もう時間もないがいくらかでも和らげておこうと臥位で書見。 ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)を読み進める。舞踏会のぶち壊しおよび火災という大事件も終わり、ピョートルも拙速に焦りながら暗躍の度を強めており、だんだんと終幕が近づいてきた様子だが、スタヴローギンはここでいったんペテルブルグへ発ってしまい、表舞台から退場した。彼がもどってきたらまた一悶着あって終わり、というところだろうか。昨日読んだ部分だが、スタヴローギンは珍しく情念を露わにしてリザヴェータを搔き口説き、僕はあなたを愛していますと熱っぽく繰りかえしていたのだけれど、その直後には、自分はレビャートキン大尉およびその妹マリヤ(スタヴローギンの妻)が殺されるだろうことを知っていながら何もしなかったと明かし、リザヴェータに自分から離れるように告げる。スタヴローギンがそのように取り繕わずに真実を暴露したことに驚き怒ったピョートルは、実際撃つ気はなかったと思うけれどピストルを取り出すのだが、それを受けたスタヴローギンは、「仕方ない、殺したまえ」とかいう調子で淡々と口にしており、この冷めやすさとこだわりのなさはなんやねんと思ってちょっと笑った。すこし前であれほど熱情的に求愛していたのはなんだったのかと。
  • 四時半頃まで読み、階上へ。絹ごし豆腐を温め、またネギやらカニカマやらが入ったよくわからないスープも熱して食す。もどって歯磨きと着替えを済ませればもう五時だが、ほんのわずかでも音読をしておこうというわけで「英語」を読んだ。そうして出発へ。
  • 日が暮れても寒さはなく、マフラーも巻かずスーツのベストとジャケットで問題なかった。空には明晰な青さがまだまだ残っており、星も白く打ちこまれている。風はふわりと柔らかな感触で、歩いていると葉っぱが一枚、目の前に勢いよく、高所からの身投げのようにして飛びこんできた。十字路付近まで来ると風に触れられて林のなかで葉か実が落ちては葉叢と擦れ合っている音がしきりに立って、雨が降ってきたのかと一瞬錯覚するような響き方だ。坂を上っていくあいだも同様で、背後で立つのが葉音なのか人の足音なのか判別しづらかった。
  • (……)の先頭あたりから乗車。電車内はわりと混んでおり、濃い一色を基調としたデザインの大きなリュックサックを伴った中高年、すなわち山登りや行楽から帰る人の姿がやはり多い。(……)に着いて客が去っていくとそのあとに座ってちょっとだけメモを取った。そうして職場へ。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 労働後はコンビニで年金二か月分を納入。店員は中年の男性だったのだが、この人(ともうひとりいるやはり中年の男性)は愛想が際立って良く明るいわけではないものの、穏やかに丁重な感じで好感が持てる。あまり溌剌としているよりも、そのくらいの調子が一番良い。やりとりの終わりに顔を上げて礼を言ってもきちんと受け取ってくれる。
  • 駅に入ってドストエフスキーを読みながら到着を待つ。最寄りで降りてのちの帰路にとりたてて印象はない。帰り着いて手を洗い、洗面所から出た際に、給湯器に「2 90」というエラー表示みたいなものが出ていることに気がついた。母親に尋ねてみたところ、すでに知っていて父親から説明書を探しておいてくれと言われたとのこと。インターネットで調べればわかるだろうとスマートフォンを借りてその場で検索してみたところが、よくわからなかった。メーカーのホームページの「よくある質問」が引っかかるのだが、そもそもそこの選択肢中に我が家の給湯器の型番がない。「2 90」でサーチしても、「290」はあるのだけれど、スペースが入っている場合とそれとで違うのかどうかよくわからない。「290」は、結露が原因で排水ができていないみたいな内容だった。またほかのページによれば中和器の故障とかあったが、中和器というのがなんなのかもよくわからない。いずれにせよ明日電話してみたほうが良いのではないかとまとまったのだが、その後スイッチを入れ直すと先ほどの表示は出なくなったので、一時的なものだったのかもしれない。また出ないかどうか様子見となる。
  • 食事は冷凍の唐揚げなど。二八日に立川の(……)家で飲み会をやることになっているのだが、それに際してカニ鍋セットを送るらしい。しかし一セットでは八人いるので量が足りないだろうということで、二セット買うべきなのだろうけれど、金がかかるから母親は迷っている様子で、やっぱり二セットじゃないと駄目だよねえと漏らす。一応父親の引退祝いという名目なので、それにしたがえば我々のほうがゲストなのだが、そんなことはどうでも良い、余ればあちらで食べられるのだから豪勢にやってやれば良いではないかとこちらは言う。注文に用いるのは郵便局の歳暮用ギフトカタログの類なのだが、それを見てみると帝国ホテルのカレーセットがなかにあり、レトルトのくせに一袋六〇〇円もして高級品ぶっているその品を食べてみたくなった。すると母親がメルカリで買えばと言って即座に調べだすのだが、こちらはメルカリにはなるべく金を落としたくないと断じた。なんにでも値段をつけて売ろうという連中の根性が気に入らない、メルカリは俺のなかではブックオフと似たような感じがある、ブックオフにはなるべく金を落としたくない、ブックオフなんてのはあれはぼったくり業者だよ、日本の古本屋の敵だとつらつら批判したのだが、二割くらいは冗談である。実際、ブックオフで本を買うのだったら新刊書店や古本屋で買ったほうがはるかに良いとは思っているのだけれど、しかし先日はこちらも誘惑に負けて、そのブックオフに金を落としてしまった。
  • 食事中にはまた、昼間会った名前のわからない婦人について母親に訊いてみたところ、(……)さんという人のようだ。(……)くんの実家のそばに住んでいるらしい。細くて、ちょっと猫背で、変な服着てる人でしょというのでたぶんそうだと思う(変な服というか、たしかにいつもいくらか洒落たような格好をしている印象がある)。五〇歳くらいかと訊くと、もっと行ってるよ、(……)ちゃんとおなじくらいでしょと言うので驚いた。そうだとすれば七〇歳を超えていることになるが、とてもそのようには思えない、行ってもせいぜい六〇歳くらいにしか見えなかった。(……)家のおばあちゃん(というのはこの婦人の母親のことだろう)とうちのおばあちゃんがけっこう仲が良かった、ということらしく、婦人は直接の娘で旦那が婿入りしたのだと言う。夫のほうはまだ何かしら働いているらしいが、奥さんは労働に出てはいないようだ。そのわりにいつも(……)ではなく(……)のほうに向かう道を帰ってくる姿に行き会わせるけれど、それは医者にでも行っているのだろうとのこと。(……)から歩いてくるわけではなく、バスを利用していてその停車場(おそらく(……)のゲートボール広場だろう)から帰ってくるのだろうとの推定である(こちらは普段バスにまったく乗らないので、そういう発想がすこしも浮かばない)。
  • 食後は緑茶を飲みつつ日記。一〇月二六日分も短く仕上げて投稿すると一一時。今日は労働がわずかだったし休まなくても大丈夫だろうと帰宅後休身しなかったのだが、どっこいからだは明確に疲れていて、日記を書くあいだ背や腰が張って疲労感が巻きついてきた。それなのでベッドに転がって書見しながら脹脛をひたすら柔らかくする。そうして一一時半頃に入浴へ。湯のなかでもこめかみから頭蓋骨から首やら肩やら背筋やら腰やら各所をひたすら指圧して、そのうちに一時間も経ってしまった。合間に以下の四首を作成。

 歩くことそれは太古のうつくしさ人類史上最初のリズム

 朗々と月は照り映え破壊せよ欺瞞だらけの太陽系を

 退屈と馴れ合いながら憂鬱をやり過ごすだけの半端な自殺

 三月の夢に産みつけられてのち緑の水を恐れるさだめ

  • 帰室すると日記。まあゆっくりやろうというわけで今日のことを綴ったが、ここまで追いつけるのに一時間強かかって二時を越えた。とはいえ今日は一〇月二五日と二六日を仕上げられたのでまあ良いかなという気はする。今日の記事も、あと二時間もすれば寝るからほぼ完成だし、明日は休みで邁進できるだろうからわりと進むだろう。一一月一日まで未完成で、それ以降は何日かを除けば仕上がっているので、とりあえずさっさと一一月一日までを記述することだ。とにかく基本的に前から順番に書いていって、当日にはその前日の記事を仕上げてブログに上げるという習慣を取り戻し、ふたたび確立したい。それが維持できるようになったら過去の穴をすこしずつ埋めていけば良いし、また日記以外のことにももうすこし時間を割けるだろう。


・読み書き
 12:46 - 13:34 = 48分(2020/11/16, Mon.)
 13:59 - 14:34 = 35分(2020/11/16, Mon.)
 14:37 - 14:43 = 6分(2020/10/25, Sun.; 完成)
 16:07 - 16:33 = 26分(ドストエフスキー: 385 - 403)
 16:59 - 17:09 = 10分(英語)
 20:10 - 20:22 = 12分(ドストエフスキー: 403 - 409)
 22:05 - 22:16 = 11分(2020/11/16, Mon.)
 22:16 - 22:47 = 31分(2020/10/26, Mon.; 完成)
 22:56 - 23:28 = 32分(ドストエフスキー: 409 - 432)
 24:47 - 26:08 = 1時間21分(2020/11/16, Mon.)
 26:59 - 27:33 = 34分(Bryant / Willsher)
 27:33 - 28:05 = 32分(ドストエフスキー: 432 - 451)
 計: 5時間58分

・音楽
 15:19 - 16:03 = 44分(ギター)

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • FISHMANS『ORANGE』
  • The Modern Jazz Quartet『Django
  • Mose Allison『I Don't Worry About A Thing / Mose Alive』