私たちが探しているその統辞法のコペルニクスとは、言うまでもなく、みずからを「深く綿密な統辞法の実践者[原注5: Letter to Maurice Guillemot, quoted by Jacques Scherer, L'Expression littéraire dans l'œuvre de Mallarmé (Paris: Droz, 1947), p. 79.]」と説明するマラルメにほかならない。「我思う、ゆえに我あり」ではなく、「私は書く、ゆえに私はいなくなる」が彼のコギト[﹅3]なのだ。歴史的にはチョムスキーに先立つものの、マラルメはまさに、チョムスキー的文法の動詞 - 中心的な構造を押しのけ、かつては「フランス的明晰さ」として知られていたもの〔フランス語〕の統辞法に決定的な痙攣を引き起こす。マラルメの統辞法では、中心的な動詞がないとか、一つも動詞がないといったことが頻発する。あるいは、補助的な動詞らしきものが、主要と思えるものを欠いたまま、連ねられることもある。「言葉の精髄」に従う文章は意味論的に曖昧であるか、相容れない中断に覆われた骸骨=概要〔のようなもの〕である。マラルメの統辞法は決して混乱してはいない。それは、彼が言うように、深く綿密であり、相容れない文法的可能性の重力から解放されないまま、最大限、脱中心化されている。
したがって、マラルメとチョムスキーは、コペルニクスとプトレマイオス、フロイトとデカルトのような関係と言えるだろう。いずれの場合も、前者が後者によって提示された構造を厳密な戦略方法で脱中心化する。だが、こうした脱中心化は、後者が提示した構造の廃棄ではなく、当の構造がその一部をなすような領野で作動する、諸力の増大化によって遂行されるのだ。フロイトの発見をコペルニクス的革命として重要視するラカンが、文体上、マラルメの統辞法の最も重要な後継者の一人であることもまた偶然ではない。事実、二〇世紀のフランス文学者たちの中でさえ、ラカン以上に「深く綿密な統辞法の実践者」を見出すのは不可能である。
(バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、123~124; 「5 詩と統辞法 ジプシー娘の知ったこと」)
- 一二時起床の仕儀となる。うーん、という感じ。もうすこしがんばりたい。天気はまたも暖かな晴れ。玄関に買ってきたものを置いてあるから冷蔵庫に入れてくれと母親から連絡が入っていたので、上階に行くと買い物袋を持って品々を整理した。その母親はまたどこかへ出かけたらしい。冷凍のカレードリアがあったのでそれを温め、鍋的なスープも加熱する。待つあいだは色々なところを指圧していた。結局、脹脛をほぐすこととあとは各所のマッサージとストレッチを習慣化するのが最善だ。つまりは筋肉を柔らかくするということに尽きる。休日などはマッサージ用の時間も取ったほうが良いかもしれない。音楽を流して聞きながらやれば退屈でないだろう。
- 新聞の国際面を読みつつ食事。米国がジョー・バイデン政権に移行する前に、とイスラエルが西岸の入植を拡大させているとのこと。オリーブ畑が放火されたり村民が投石にあったりしているらしいが、これはおそらく入植者がパレスチナの人々を追い出すための嫌がらせだろうと言う。糞だ。一方中国では、「台湾独立分子」のリスト化がすすめられる方針とのことで、台湾外の外国人も対象とされると言う。中国内ではすでに台湾のビジネスマンを「スパイ」として摘発する動きが強まっているとのこと。これも糞だが、正直に言って、リスト化なんてもうとうの昔にされているのではないか? と思った。あと旧ソ連構成国のモルドバ(新聞に載っていた地図を見るとウクライナの西南に位置する小さな国だった)で親欧米派の前首相が大統領に選ばれたとのこと。四五歳か四八歳の女性で、名前は忘れた。親露派である相手方の男性がイーゴリ・ドドンという名前だったことは覚えている。
- 読みながらものを食っていると母親が帰ってきた。郵便局でカニを頼もうとしたところが、一二月なかばくらいにならないと届かないらしい、とのこと。それでは二八日には使えないので、スーパーでカニを買っていくなりべつのものを用意するなりが必要となる。食事を終えると片づけをして風呂も洗う。そうしてポットに水を足して沸かしておき、いったん室にもどってコンピューターを用意したあと、緑茶を支度。帰って飲みながら今日のことをまず書いた。BGMはいつものようにFISHMANS『Oh! Mountain』である。今日の目標としては、前日分を仕上げることがひとつ(これはすぐに終わる)、そして一〇月二七日以降をできるだけすすめることがひとつ、またそちらが多少進捗すればおとといの一一月一五日分を先に書いても良いような気もする。ほかにはドストエフスキーを二時間か三時間くらいは読みたいし、明日Woolf会なので『イギリス名詞選』と合わせて確認もしておきたい。英文記事も読みたい。フランスの教師殺害事件の報道などこまかく追いたいと思っていたのに、結局いくらも読めないまま一か月くらい過ぎてしまい、昨日ようやく一記事覗けたところだ。現在は二時前、天気が良いのでまた陽を浴びながら玄関外の掃き掃除をしても良い。
- そういうわけで掃き掃除へ。昨日よりも風が流れて、林の木々が鳴りを立てながら光のなかに黄色い葉を吐き、掃いたそばからまた路上に落ちてくる。だがそれは放っておくのが粋というものだろう。風のせいか昨日よりも暖気は濃くないような、やや軽いような気がした。途中でワゴン車が一台通り、こちらの横を過ぎていったそれがやや減速して通行人をおもんぱかるような動きを背後で見せたので、誰か歩いてきたなと思っていると果たしてゆるい足音が続き、前傾姿勢で葉を集めているこちらの足もとに影がゆっくり伸びてくる。そこでからだを持ち上げて振り返ってみると、(……)のおじいさんが杖を突きながら立っていた。久しぶりに顔を合わせたものだ。挨拶を交わすと、元気そうだ、顔色が良いと言われる。あちらはもう九〇歳を越えていたはずで、リウマチにかかってからだが動かなくなり一度死にかけたらしいのだがなんとか復活して現世にとどまっている。整体にリハビリをしに行っているが、そこの人にはあまり運動しちゃいけない、歩いちゃいけないと言われたらしい。しかし医者にはちょっとくらいならいいでしょうと許されたので、わりと毎日散歩をしているようだ。歩いたほうがやっぱり気持ちも良いでしょう、いいと思いますよと言っておいた。別れたあと、ゆるゆると道を歩いていき、向こうのカエデの樹の下に停まって緋色の梢を見上げている姿をちょっと眺めながら、人間九〇を越えるくらいになるとああやって、飯を食い、風を浴び、歩いて人と話すだけの単純な存在になっていくものかなあなどと思った。
- 室内にもどると二時頃だったので洗濯物を入れ、ベランダの日向のなかでタオルやパジャマをたたむ。(……)のおじいさんのことを思い出しつつ、歳を取れば取るほど時間の過ぎ方がはやくなっていくというのが世の通念だし、実際歳を取った当人たちもしばしばそう口にするけれど、彼らがそこで感じている時間のはやさというものは、もっと年若の我々が感じている時間のはやさとは、たぶん全然質が違うものなのだろうなと思った。意味と情報の奔流する充実体に追いまくられるような時のあり方とは、根本的に異なっているのではないか。そんなことを考えていると微風が生まれ、もう水気をまったく失って淡い黄に褪せた梅の梢から、葉っぱがはらはらと、まるで抵抗なく簡単に、塩の粒のように力なく次々と落ちていく。
- この日は休日だったはず。ごくわずかに残っているメモを見ても、書いておきたいほどの記憶はほぼ蘇ってこない。夕刊の「日本書紀を訪ねて」みたいなシリーズ記事(そういう名前だったような気がするのだが)で、乙巳の変や難波宮について読んだ。いわゆる大化の改新の劈頭というか、専横を振るっていた蘇我親子をぶち殺したのが乙巳の変だが、これは天皇の前に参集しているときだったか否か忘れたけれど、ともかく宮中で儀式か何かやっていたときに襲いかかって斬り捨てたわけで、完璧なクーデターである。そのあと中大兄皇子がその叔父を、孝謙天皇だったか名前を忘れたけれどともかく帝に据え、自分と中臣鎌足が中心になって中央集権的な改革をすすめていくのだけれど、公地公民制とか天皇を中心に置いた中央集権とか、当時の豪族とか守旧派とか既得権層からすれば、相当に強引なやり口に映ったことだろう。何しろ人殺しからはじまっているわけだし、蘇我氏の専制に不満が高まっていたと言われているとはいえ、それは王朝側から見た正史に過ぎず、実際には新しい体制を良く思っていなかった勢力がいなかったわけがないし、蘇我に近かった連中などは不満たらたらで憎悪していたのではないか。だから、いま学校などで教えられているところでは、大化の改新というのは日本史上かなり際立った大事業であり、天皇を定かな統治者として確立し、そのあと律令にもとづいた中央集権国家を築いていくための端緒となった偉大な改革である、という話になっていると思うけれど、実際にはそれはたぶんめちゃくちゃ暴力的かつ強権的な革命だったんだろうなと思ったのだった。
- あとはGuardianで一〇月にフランスで起こったSamuel Patyの事件周辺についてけっこう読んだ。この事件が起こって以来Guardianに発表されている関連記事は、一応過去から順番に全部読んでいくつもりでいる。
・読み書き
13:25 - 13:48 = 23分(2020/11/17, Tue.)
15:27 - 17:01 = 1時間34分(ドストエフスキー: 451 - 508)
18:14 - 20:04 = 1時間50分(Willsher / Malik / Donohue)
20:13 - 20:31 = 18分(英語)
20:31 - 20:39 = 8分(記憶)
22:07 - 23:24 = 1時間17分(ドストエフスキー: 508 - 554)
23:27 - 23:37 = 10分(2020/11/16, Mon.)
23:37 - 24:48 = 1時間11分(2020/10/27, Tue.)
26:38 - 27:15 = 37分(2020/10/27, Tue.; 完成)
計: 7時間28分
- 2020/11/17, Tue. / 2020/11/16, Mon.(完成) / 2020/10/27, Tue.(完成)
- ドストエフスキー/江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 451 - 554
- Kim Willsher, "Teacher decapitated in Paris named as Samuel Paty, 47"(2020/10/17)(https://www.theguardian.com/world/2020/oct/17/teacher-decapitated-in-paris-named-as-samuel-paty-47)
- Kim Willsher, "Suspect in new Charlie Hebdo attack angered by republished cartoons, say Paris police"(2020/9/26)(https://www.theguardian.com/media/2020/sep/26/suspect-in-new-charlie-hebdo-attack-angered-by-republished-cartoons-say-paris-police)
- Kim Willsher, "French teachers vow to ‘teach difficult subjects’ after colleague’s murder"(2020/10/18)(https://www.theguardian.com/world/2020/oct/17/we-will-still-teach-difficult-subjects-french-teachers-defiant-after-of-colleague)
- Kenan Malik, "The freedom to offend is a priceless commodity"(2020/10/18)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2020/oct/18/the-freedom-to-offend-is-a-priceless-commodity)
- Bill Donohue(Catholic League), "MUSLIMS ARE RIGHT TO BE ANGRY"(2015/1/7)(https://www.catholicleague.org/muslims-right-angry/)
- 「英語」: 360 - 378
- 「記憶」: 203 - 204
・音楽
14:15 - 15:27 = 1時間12分(ギター)
- FISHMANS『Oh! Mountain』
- Jackson Browne『Solo Acoustic Vol. 1』
- High Five『Live For Fun』
- Howard "Buzz" Feiten『Buzz Feiten & The New Full Moon』