2020/11/19, Thu.

 ビリーの読みの方法が、すべてを額面どおりに受け取ることにあるとすれば、クラガートのそれは、あらゆるヒナギクの下に人捕り罠を見ることにある。これは明白だと思われる。ところが、その実践においては、いずれの方法も厳密に支持されてはいない。純朴な読み手〔ビリー〕も、厄介すぎて報告できないような情報を削除し忘れるほど純朴ではない。通常は純朴な読み手が否定する、記号と指示対象のあいだにある空間の不安定性も、その同じ不安定性が意味内容そのものを混乱させる恐れのある時には、必ず一つの手段として要請される。ビリーは、彼の読むものが明白な平和・秩序・権威と矛盾しないかぎり、すべての記号を明白に読めるものと考える。そうでなければ、彼の読みもそれに応じて搔き曇る。また、クラガートにはすべての記号がその反対に読めるが、自身の疑念を裏づけるような記号ならば、その明白さを疑うことはない。「先任衛兵長は」〈チュー助〉の報告の「真実性を決して疑わなかった[﹅13]」(Herman Melville, Billy Budd, in Billy Budd, Sailor, and Other Stories, edited by Harold Beaver (New York: Penguin Books, 1967), p. 357〔メルヴィル『ビリー・バッド』飯野友幸訳、光文社古典新訳文庫、二〇一二年、七六頁〕.)。つまり、純朴に信じる者は、自身の信念の明白さを突き崩すような証拠を何一つ信じない。一方、皮肉に疑う者は、自身の疑念を裏づけるものの信憑性を少しも疑わない。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、169; 「6 メルヴィルの拳 『ビリー・バッド』の処刑」)



  • 久しぶりに一時前まで寝過ごしてしまった。油断――油断というか、目を覚ましてもそこからからだを持ち上げる力がどうしてもすぐに湧いてこないのだ。それを待っているあいだにまたまどろんでしまい、せっかく訪れた覚醒をいつも活かせずに終わる始末だ。今度からはとりあえず、枕元に水を置いておき、目を覚ましたらなんとかそれを飲むことを目指そうと思う。水を取り入れればからだも起きるだろう。
  • 今日もまた過ごしやすい快晴の日和。携帯を見るとメールがふたつ。(……)と、(……)さんである。(……)からは聖書の説明が少々と、月に二度ほど資料を使いながら聖書をともに読まないかとの誘い。しかしあいにくだがこれ以上読書会の類を増やすつもりはない。いま毎週Woolf会をやっており、「(……)」も月一であり、さらに(……)くんと(……)さんとの会もいずれ再開するはずだ。日々自分でやりたいことはいくらでもあるわけで、このくらいがキャパシティとしては限界だろう。(……)
  • 両親は不在。どこに行ったのかは知れないが、父親の車だけがなくて母親のものは駐車場に残っていた。たしか母親は今日、職場で会議があるとか言っていた気がするが、それが終わって帰ってきたあと二人で買い物か娯楽にでも出かけたというところではないか。洗面所で髪を梳かし、白菜やハムなどを炒めた料理をレンジで加熱。米はもう残り乏しかったのですべて払い、釜に水を注いで漬けておいた。そうして新聞を読みつつ食事。Netflixのトップに話を聞いた記事(たしかリードなんとかみたいな名前だった気がする)と、タイの状況を、デモに繰り出している若い世代や、それを取りしまる警官や、王室支持派の人間や、反王室派大学生の親や、クレープ屋台の店主など、諸派の人々の声を集めて伝えた記事を読んだ。
  • それから片づけをすればもう一時半なので洗濯物を入れる。例によってベランダの日向に座りこんでタオルなどをたたんだが、今日の陽射しはここ最近のなかでも強く、ちょっとぞくぞくするような厚みと濃さがあり、ほとんど夏への回帰的接近を思わせるというか、すくなくとも感覚としては晩夏あたりのそれに近いような気がされた。風もわりと流れる。洗濯物を片づけて風呂を洗い、緑茶を持って室に帰っても、茶を飲む前から密閉された室内の空気が暑いようで、窓を開けたいほどだった。しかしFISHMANS『Oh! Mountain』を流すためそれは我慢し、ジャージの上を脱いで下も膝をさらすくらいにまくって対処する。ここまで記述すると二時半前。今日は休日である。休日はすばらしい。死ぬまで永遠に休日で良い。今日やりたいこととしては日記をできるだけすすめることと、ドストエフスキー『悪霊』をできれば読み終えてしまうことと、Guardianなどの英文記事でフランスやアメリカの状況を多少なりとも追うことがメインだろうか。あとは書抜きやTo The Lighthouseの翻訳もやりたい。この二つは本来ならやはり毎日の習慣に組みこむべきなのだ。
  • とりあえず脚をほぐしてからだのコンディションを整えようというわけで、ベッドに転がって書見へ。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)。読書中は窓を開けていたが、五時に至るまでずっと、すこしも寒くなかった。『悪霊』はもう本篇は読み終えて、「スタヴローギンの告白」と題された、ドストエフスキーの生前は未発表だった章をあとすこし残すのみ。後半もしくは終盤に至って、一気に思想的香りが強くなったような印象。キリーロフは懊悩しながらも最終的に自殺を遂げるし(そこに至るまでのホラー的な意匠はなかなか見事だった)、ステパン氏もほとんど愚劣と言うほかない醜態をさらしたあと、しかし人間を越えて限りなく偉大なものに対する愛を宣言し、「信仰告白」を済ませて清らかに死んでいく。スタヴローギンもダーリヤへの手紙のなかで、みずからが何かに絶望することすらできないほどのニヒリスト、否定性を貫徹することすらできないような「底浅い」否定者であることを明言している。彼の考えではしたがって、自分は自殺など到底できないということになるのだけれど、それにもかかわらず物語はスタヴローギンの首吊り自殺が発覚したところで幕を閉じる。舞踏会あたりまでは諸人物が猥雑に入り乱れてがちゃがちゃやっている感が強かったが、最後に至って思想的人物それぞれの生きざま(というよりむしろ死にざまか)のようなものが示され、しかも皆なかなか真に迫ったような、すぐれた言葉を吐いているので面白かった。この点やはりピョートルは中途半端というか、軽薄なだけの政治的詐欺師としての像が強いように思われ、シャートフ殺害後に町を去っていったのが彼が表舞台にあらわれる最後の場面だったはずで、その後の消息について一言でも語られることはなかったと思うし、たぶんうまく逃げおおせて逮捕もされなかったようだ。
  • 五時を越えるまで読み続けた。なぜかわからないがからだは全体として重く、頭痛もちょっとあったので読みながら頭蓋を揉んだりもした。二時間半で読書に切りをつけると上階へ。母親はスンドゥブをつくると言う。こちらはまた例によってうどんを煮込むことに。それでタマネギとか春菊とかダイコンとか椎茸とかを入れた汁をこしらえ、生麺をさっと湯搔いて鍋に合わせた。溶き卵も加えて完成、まだ六時にもなっていなかったがはやばやと食事を済ませる。夕刊からは柳美里の『JR上野駅公園口』みたいな小説が全米図書協会賞(だったか?)の翻訳部門を受賞したとの報。二年くらい前に多和田葉子が『献灯使』で受賞していたのとおなじ賞だろう。そのほか一二日に九四歳で亡くなった小柴昌俊の功績を概観した記事など。物理学やら数学やら生物学やら化学やら、いわゆる「理系」とか自然科学とか呼ばれる分野も面白そうで、いずれ手を出したい。食事を終えるとアイロン掛け。コロナウイルスの感染者は増えており、今日だか昨日だかは全国で二五〇〇人、東京都では五三〇人くらいの感染者が計上されたとか。それで小池百合子が会見して注意を喚起したようだが、その際、「五つの小」とか言って、会食はなるべく小人数で、できれば小一時間で済まし、料理は小皿に分けて、とかなんとか心がけるべき方針を提示していた。小池百合子本人がそういう性向なのか、それとも参謀役がそれをすすめているのか知らないが、このように何でもスローガンに仕立てて打ち出さずにはいられないという東京都行政の性質はいったいなんなのか。わかりやすさとか、メディア戦略(すなわち流通)の観点からすればたしかに有効で、感染拡大の防止に寄与するところはあるのかもしれないが、物語的感性にはばかりなくおもねり全面的に乗っかったその軽薄さには少々げんなりするところもある。
  • アイロン掛けを終えると緑茶とともに帰室し、一服したのちここまで加筆した。手の爪を切りたいというのがひとつ。音読をしたいというのがひとつ。あと、瞑想をやはりやりたいとも思うのだけれど、さしあたり音楽を流したなかで座れば良いのではないかと思った。以前はBGMを流さずにやっていたのだが、再開しようとしてもなかなかやる気にならないので、音楽を聞くのと瞑想をするのとどっちつかずに合わせたような、そういうやり方でひとまずやる気を起こして習慣をつくり、だんだんBGMを排した純粋に瞑想的な時間に変えていけば良いのでは、というわけだ。とにかく何もせず、瞑目してまったく動かない時間をたまにはつくりたい。人間にはときに不動性が必要なのだ。何しろそうでもしなければ人という生き物は本当に常に動き続けている。まったくもってせわしなく、せせこましいような存在だ。
  • この日のことはほかにメモもないし記憶もない。「詩を書けばあの欲情が踊りだす母音と子音の交差点から」という一首をつくったくらい。


・読み書き
 14:05 - 14:34 = 29分(2020/11/19, Thu.)
 14:41 - 17:10 = 2時間29分(ドストエフスキー: 600 - 678, 714 - 722)
 18:59 - 19:41 = 42分(2020/11/19, Thu.)
 20:17 - 20:35 = 18分(英語)
 20:35 - 20:44 = 9分(記憶)
 22:51 - 23:32 = 41分(2020/11/18, Wed.)
 23:33 - 25:12 = 1時間39分(2020/10/28, Wed.; 完成)
 25:24 - 26:18 = 54分(ドストエフスキー: 678 - 703, 722 - 725)
 27:54 - 28:47 = 53分(ドストエフスキー: 703 - 713, 725 - 748)
 計: 8時間14分

  • 2020/11/19, Thu. / 2020/11/18, Wed. / 2020/10/28, Wed.(完成)
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 600 - 748
  • 「英語」: 375 - 381, 51 - 63
  • 「記憶」: 205 - 207

・音楽
 21:56 - 22:26 = 30分(ギター)