2020/12/5, Sat.

 ボナパルト[「マリー・ボナパルトによるエドガー・アラン・ポーの生涯と作品に関する精神 - 伝記的な研究」]の場合には、まさにマントルピースと女性の身体の類似性が、手紙のファルス的機能を導き出していた。ファルスは比喩的表象のモデルとなる、現実的、解剖学的な指示対象だとみなされていた。つまり、ボナパルトの参照の枠組みは、参照[﹅2]=対象指示[﹅4]〔*reference*〕そのものだったということだ。
 一方、デリダにとってのファルスの参照の枠組みは、ファルスの参照的=対象指示的なステイタスを否定する行為においてそれを温存するという、「精神分析理論」の方法である。論考「ファルスの意味作用」におけるラカンの議論を注釈しながら、デリダは次のように記している。
 ファルス・ロゴス中心主義は一つのものである。そして、男と呼ばれるものも、女と呼ばれるものも、それに支配されていると言えよう。われわれが想起させられるように、ファルスは一つの幻想(「想像的効果」)でも、一つの対象(「部分対象、内的対象、良い対象、悪い対象、等々」)でもなく、「それが象徴している器官、つまり、ペニスやクリトリスではなおさらない」[Jacques Lacan, Écrits (Paris: Seuil, 1966), p. 690/『エクリ』第Ⅲ巻、佐々木孝次・海老原英彦・蘆原眷訳、弘文堂、一九八一年、一五三頁]だけに、ますますそう言えるだろう。したがって、男性中心主義は、それとは別のものでなければならないだろう。
 では、いったいどうなっているのか。ファルス・ロゴス中心主義は、そのすべてが一つの限定された状況[﹅2](この語にはそのあらゆる射程範囲を与えよう)――すなわち、ファルスがファルスをもたないものとしての母親の欲望である[﹅2]ような状況――を出発点に分節化=明言化されている。(個人的、知覚的、局所的、文化的、歴史的、等々の)状況から出発して、「性理論」と呼ばれるものが練り上げられるのだ。そこでのファルスは、それが象徴している器官、つまりペニスでもクリトリスでもないが、よりいっそう、そして何よりもまず、ペニスを象徴している。……盗まれた手紙の意味を「それ固有の[﹅5]〔本来の[﹅3]〕経路」内に認めるためには、こうした帰結を強調しておかなければならなかったのである。(Jacques Derrida, "The Purveyor of Truth", translated by Willis Domingo, James Hulbert, Moshe Ron and M.-R. L., *Yale French Studies*, 52 (*Graphesis*, 1975), p. 98-99〔Jacques Derrida, "Le Facteur de la Vérité", La Carte Postale: de Socrate à Freud et au-delà (Paris: Flammarion, 1980), p. 508-510/ジャック・デリダ「真実の配達人」清水正豊崎光一訳、『現代思想』(デリダ読本――手紙・家族・署名)、第一〇巻第三号(臨時増刊)、青土社、一九八二年二月、九七頁〕)
 このように、ファルスの非 - 参照性〔非 - 対象指示性〕は、結局のところ、ペニスがその指示対象であることを保証している、とデリダは述べている。
 こうした要約が――「セミネール」は言うに及ばず――「ファルスの意味作用」におけるラカンの実際的な言明に適用可能かどうかを見定める前に、その帰結を、デリダの批判内にさらに追求してみることにしよう。「真実の配達人」のまさに冒頭から、精神分析は、どこを見ても、それ自体しか見出すことができない、と暗に批判されている。「精神分析は、仮定することで、みずからを見出す=見出される」(PT, p. 31〔CP, p. 441/一八頁〕)。どこに注意を向けようと、精神分析はみずからの(オイディプス的な)図式しか認識しないように見える。デュパンが手紙を見つけるのは、「結局は手紙が見出される[﹅5]ことを、手紙がその固有の〔本来の〕場に循環的かつ適切に立ち戻るにはどこに見出され[﹅4]ねばならないかを、彼が熟知しているからである。デュパンによって、また、……不安定な仕方でみずからの位置を占める精神分析家によって知られているこの固有の〔本来の〕場とは、去勢の場にほかならない」(PT, p. 60〔CP, p. 467/五二頁〕)。したがって、精神分析家の行為とは、予想されているものの単なる再認識[﹅3]、デリダが、次の「セミネール」からの引用の、強調を施した部分でラカンが明瞭に語っていると考える再認識にほかならない。「そのように、盗まれた手紙は、大きな女性の身体のように、デュパンが大臣の事務室に入った時、その空間に身を横たえています。しかし、彼はすでに、そのようにして、そこに手紙を見出すことを予期しています[﹅19]から[強調はJ・D]、あとは、緑の色眼鏡で覆われた目で、その大きな身体を裸にするだけでよいのです」(PT, pp. 61-62〔CP, p. 468/五四頁〕)。
 しかし、再認識が盲目の一形態、対象の他者性に対する暴力の一形態だとすれば、ファルス的図式の予想可能な複雑性を示唆するラカンの言を排除し、この精神分析家がマントルピースの脚柱のあいだで、自身の計略に着手する瞬間を押さえようと、身を潜めて待っているデリダもまた、読みというより、むしろ、「再認識」を行っていると言えるだろう。自身が言うように、彼は精神分析のある古典的な概念を再認識(end240)している。「最初から、われわれは[﹅5]応用精神分析(学)の古典的な風景を再認識している[﹅7]」(PT, p. 45〔CP, p. 453/三三頁〕、強調はジョンソン)。(再)認識を支配する理論的参照の枠組みは、あらゆる解釈的洞察に、その盲目さを生じさせる要素のように思われる。分析家は、この参照の枠組みによって、自身が読んでいるテクストの作者を、何らかの実践〔策略〕を行ったとして枠づけする〔陥れる〕。だが、そうした実践〔策略〕の場は、テクストの文字〔テクストという手紙〕の彼方と同時に、読者のヴィジョンの背後に位置している。読者もみずからの枠組みによって枠づけられるが、まだ自身の罪に所有されてはいない。というのも、その罪は自身のヴィジョンがそれ自体〔自身のヴィジョン〕と一致するのを妨げるからだ。罪の捏造〔frame〕を行う者が、他者の残した十分に消し去られていない痕跡もしくは指示対象として読まれるのを期待する記号[﹅2]=手がかり[﹅4]を残すことで、罪を自身から別の者に転嫁するように、いかなる批判であれ、批判を行う者は、他者――その他者が、いかに有罪あるいは無罪であろうと――に対する自身の枠組みによって枠づけられる〔陥れられる〕ことになる。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、238~241; 「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 現在一二月一二日の夜半前で、あと三〇分で日付も替わろうというところなのだが、なんとこの日の日記には何の記述もメモもされていなかった。朝からの労働で起床後は書く暇がなかったし、帰ってきてからもなんだかんだでなまけてしまったのだろう。三時頃に眠って六時過ぎに離床しているので睡眠は三時間、それだとさすがに足りなかったようであとで三時半から七時半まで眠っている。
  • 勤務にはたしか徒歩で行ったのだったと思う。道中のことは特におぼえていない。(……)
  • 勤務後は(……)に行ってちゃんぽんでも食おうかなとちょっと思っていたのだが、いざ労働が終わってみると面倒臭くなったので普通に帰った。その後食事を取って、疲労と眠気に耐えられず仮眠。(……)らと通話したのがこの日だと思っていたのだが、LINEを確認してみるとそうではなくて翌六日だった。この日は大したことはやっていない。


・読み書き
 7:34 - 8:10 = 36分(徳永: 350 - 366)
 15:15 - 15:26 = 11分(英語)
 20:32 - 21:45 = 1時間13分(2020/12/1, Tue.; 完成)
 27:17 - 27:49 = 32分(熊野)
 27:52 - 28:18 = 26分(徳永: 366 - 379)
 計: 2時間58分


・BGM

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Ella Fitzgerald『Mack The Knife - Ella In Berlin』
  • Larry Grenadier『The Gleaners』