2020/12/6, Sun.

 だが、ラカンは、ファルスにそれよりもはるかに複雑な定義を与えている。というのも、女性の定義が「愛の関係において、自身がもたないものを与える〔もの〕」であるなら、女性がもたないものの定義はペニスだけに限定されないからである。ラカンはこの議論の別の箇所で、「愛」を「もたないものを与えること」(Jacques Lacan, Écrits (Paris: Seuil, 1966), p. 691/『エクリ』第Ⅲ巻、佐々木孝次・海老原英彦・蘆原眷訳、弘文堂、一九八一年、一五四頁)と表現している。ここで言う「愛」とは、ファルスの単なる同義語だろうか。おそらく。だが、そのためには、ファルスの定義をいくぶん修正しなければならない。ラカンの用語では、愛は「無条件的」な「愛の要求〔demande d'amour〕」、「現前ないしは不在の要求」(E, p. 691/Ⅲ、一五四頁)という文脈で問題にされるものである。とはいえ、この「要求」は「〈他者〉がもたないもの」だけに及ぶのではない。それは言語にも及ぶのだ。そして、言語とは、「主体のメッセージが、〈他者〉の場所から発せられる」(E, p. 690/三、一五三頁)という形で、人間の欲望を疎外するものである。「要求」とはつまり、ある器官の、ではなく、〈他者〉――主体が〈他者〉の場所から発する問いに応じる〈他者〉――の無条件的な現前ないしは不在の要求なのだ。しかしながら、この「要求」はまだ「欲望」の定義には至っていない。欲望とは、「要求」から可能性のあるあらゆる「現実的な」欲求が取り去られた時、そこに取り残されるものである。「欲望とは、満足への貪欲さでも、愛の要求でもなく、後者から前者を差し引くことで生じる差異、両者の分割[﹅2]〔Spaltung〕現象そのものなのです」(E, p. 691/Ⅲ、一五五頁)。ラカンが言うように、シニフィアンとしてのファルスが「欲望の比率[﹅2]〔ratio〕を与える」とすれば、このファルスの定義は、身体とも言語とも、もはや単純な関係をもてなくなる。こうした定義は、身体、言語の双方が単純であることを妨げるからだ。「ファルスは、この、ロゴスの部分が欲望の到来と結ばれるしるしの、特権的なシニフィアンなのです」(E, p. 692/Ⅲ、一五六頁)。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、247~248; 「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 正午近くになって覚醒。晴天である。陽射しを顔に受けながらまぶたを薄くひらき、すこしでも目に光を取りこもうとする。一一時五九分に離床して、洗面所に行って顔を洗った。三日前あたりから喉が痛いというか、声が嗄れるとか出ないということはないのだが、喉の奥に何かひっかかりが感じられて、唾を飲みこむときなどにちょっとだけ痛む。声帯というよりも咽喉か食道のどこかに炎症ができているのではないか。
  • 用を足してもどってくると瞑想をした。ダウンジャケットを着こみ、窓をすこしだけひらいて枕の上に胡座で座る。じっとしているうちに身体感覚はわりとなめらかにまとまった。それにしても頭というものは本当にせわしない。思念やらイメージやら記憶やら、つぎつぎととめどなくあらわれてはきえていって、点滅をつづけている。起きたばかりで腹が空だったので、たびたび内臓がうめきを立てた。
  • やはり起床直後の瞑想は習慣にしたほうが良い。意識をとりもどしてすぐ、からだの調律をすませておいたほうがたぶん一日のパフォーマンスや落ち着きが違うのではないか。一二時一四分から座りはじめて、そろそろいいかと目を開けると三一分になっていたから一七分間の静止だったが、体感的にはもうすこし行っていると思っていた。それから上階へ。燃えるゴミを台所のゴミ箱に合流させているときに、小さなゴキブリが姿をあらわしてさほど素早くもなく床を逃げていったが、面倒臭いのでほうっておいた。ずいぶんと茶の色が濃い、煮つけた栗みたいな光沢を帯びた虫だった。その後、うがいをしたり髪を梳かしたりしてから食事。プレートを出して似非たこ焼きみたいなものを焼いていたのでそれをいただく。新聞からは書評面をちょっとながめたあと(入り口ではマルグリット・デュラスの『愛人 ラマン』が紹介されており、なかでは苅部直が『民主主義の壊れ方』という外国の人の本と、宇野重規講談社現代新書から出した民主主義論をとりあげていた)、馬部なんとかという大阪の大学の史学者のインタビューを読んだ。「椿井文書」という偽史料を精査検討した本を出している人で、そのあたりについて語っていた。いわく、椿井政隆というのは江戸時代の国学者で、近畿周辺の村同士の土地争いなどに介入し、おそらく有力者からの依頼を受けて主張の正当性を根拠づけるような文書を偽造したとのこと。ただよく見てみるとけっこう杜撰なつくりになっているというか、ちょっとふざけてつくったような部分もあり、椿井本人は偽造が発覚しても戯れとして言い逃れができるようにしていたのではないかと言う。ところがそれがきちんとした史料批判を通過せず、さまざまな文章の論拠になってきたし、地域の市区町村でも公式な歴史として採用され承認されているという現状を慮って偽文書検討の本を出したとのことだった。嘘の歴史でも子供らが興味を持つきっかけになれば良いという声もあるが、偽の歴史記述は決して学びの対象にはなりえないと思うとか、地域行政が正式に認めている歴史をつついてその正当性を疑う仕事には当然反発もあるだろうが、行政側のお墨付きに対して誰も異論を差し挟めないという状況こそ憂慮するべきであるとか(正確な文言をおぼえていないのでだいぶ意訳になっていると思うが)、だいたい正論しか言っていないという感じだった。
  • 食後は皿を洗ったのち風呂洗い。栓を抜いて浴槽に残っている水が流れ出していくあいだ風呂桶の底を見つめていたのだが、水には戸外のあかるさをはらんだ窓と付近の壁が映りこんでおり、その鏡像が、水位を減らして薄い平面になった溜り水に宿っているものとはとても思えず、底を抜けたその先に向かって縦の奥行きを持っているようにしか見えないので、「鏡の向こうの別世界」という想像的モチーフが生まれたのも道理だなと思った。『ドラえもん』か何かの話で、水溜まりからもぐることで反転世界に行けるみたいなエピソードがあった気がするのだけれど、ああいう感じだ。
  • 緑茶をつくって帰室。FISHMANS『Oh! Mountain』を流し、ウェブをちょっと見てからNotionで今日の記事を用意すると日記を書きだした。ここまで記すともう二時半に至っている。
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  • (……)たしか一時頃になっていたのではないかと思う。通話のあとはいつもどおりの深夜生活だったと思うし、特におぼえていることもないのでこの日のことはここまで。


・読み書き
 13:47 - 14:30 = 43分(2020/12/6, Sun.)
 14:35 - 16:07 = 1時間32分(徳永: 379 - 426; 読了)
 16:17 - 17:06 = 49分(記憶)
 20:22 - 20:43 = 21分(英語)
 25:25 - 26:16 = 51分(2020/12/2, Wed.)
 26:26 - 27:55 = 1時間29分(メルヴィル: 1 - 60)
 計: 5時間45分


・BGM