2020/12/10, Thu.

 ポール・ド・マンやシンシア・チェイスによるなら、ひとつの言語表現(たとえば「椅子の脚」や「山の顔」)が、まさにナチュラルな現実として受け入れられるのは、そのメタファーが「濫喩[キャタクレシス]」「死んだ隠喩[デッド・メタファー]」に基づきながらもまんまと偽装しおおせている――あるいはその真相を周囲に忘却されている――効果にすぎない。メタファーはあらかじめ殺されている。にも関わらず、隠喩を字義と見誤り、言葉の綾を現実そのものと見て疑わない誤読の類は、枚挙にいとまがない。書物と世界の照応という神話は、その最も基本的な範例だった。そう、わたしたちはこれまでいかに、単なる白人的概念操作の物語学的効果でしかないものを「人種一般」として、単なる父権制支配政略の言説的産物でしかないものを「性差一般」として、単なる支配階級側戦略の修辞学的結実でしかないものを「階級一般」として読み誤ってきたことか。わたしたちが文字どおりの現実と信じるもの自体が、すでに言語の修辞法の成果なのである。
 かくして、脱構築批評を経由した新歴史主義批評は、それまでほとんど知的能力を期待されることのなかった労働者がたまたま圧倒的な知的能力を備えていたという些細な条件が、当時の現実を構成していたキリスト教的修辞学の網の目を突き崩し、やがては異端審問という巨大な歴史の曲がり角へ大きく作用していくという、あまりにもドラマティックな構図をあぶり出す。書物の書き手と読み手との間の素朴なフィードバックは、すなわち前述した「ミイラ捕りがミイラになる」という論理は、すでにここでは通用しない。微細なる書物がめぐりめぐって、しかもまったく予期せぬ知性を媒介することで壮大なる宇宙へ革命的影響を及ぼすというこの道筋にふさわしいのは、日本の古いことわざでは「風が吹けば桶屋が儲かる」と表現される事態であり――メノッキオの場合、さしずめ「風が吹けば粉屋が殺される」とでもいった図式になるだろうか――昨今のカオス理論に拠るなら「北京で今日蝶がはばたけば、来月ニューヨークで生じる嵐に影響する」と表現される論理である。
 このように、テクストに秘められた盲点やコンテクスト内部の予期せぬ因果関係を探究する批評は、一見したところ精密なる自然科学的メカニズムに立脚しているように映るかもしれないが、しかし、まったく同時に、遠いもの同士の連結をしきりに企まずにはいられぬ精神病理学パラノイアにも起因しよう。そして、一定のパラノイアを欠落させたら、いかなる文学も文学批評も成り立たない。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、21~23)



  • なぜかまたしても午後一時まで寝過ごしてしまった。よろしくない。まただんだんと消灯をはやめていこう。天気は晴れである。ベッドを抜け出すとコンピューターを点けておき、上階へ。両親は買い物に行っているらしく、家内は無人でしずかだ。顔を洗い髪を梳かしうがいをしたあと、昨晩のスンドゥブらしき鍋に米を混ぜてつくったおじやを温めた。ほか、ブロッコリーとシュウマイの一皿に、蕪の漬け物。新聞からはベルリンのミッテ区にいわゆる慰安婦像が設置された経緯を記した記事を読む。同様のものは世界中で一三箇所とか、あるいはもっとだったか、そのくらい設置されているらしい。場所を示した地図が載っていたのだけれど、アメリカには西海岸・東海岸、それに五大湖周辺ふくめて七箇所くらいあったのではないか? ほかの国では中国と韓国、そして欧州ではドイツのみが設置している。ドイツ内でもベルリン以外にあと二箇所くらいあったような気がするが、これは記憶違いかもしれない。ボンとかフライブルクとかでの設置の動きが頓挫したという情報と混同しているかもしれない。一覧表を見ると、私有地との表示もいくつかあったが、だいたい自治体所有の土地とか施設内とかだったと思う。
  • 国際面からは周庭の保釈請求が却下されたとの報。地域面で東京都内の地区別感染状況を確認すると、我が(……)は前日からプラス一名となっている。だいたい一名から三名くらいの微妙なペースだが、しかしここのところは基本的に毎日、すこしずつ増え続けていると思う。
  • 食後は風呂を洗い、緑茶を用意して部屋に帰還。Notionで昨日今日の記事を調え、FISHMANS『Oh! Mountain』とともにウェブを閲覧したのち、今日のことをここまで書けば三時前である。
  • 便所に行って腹を軽くしてきたあと、脚がこごっていたのではやくベッドに避難して脹脛をぐりぐりやらねばと思いながらしかし音読もしたかったので、三〇分程度だけ声を出すかと「英語」記事を読みはじめた。そうして三時半から寝床で書見。ハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 上』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)である。ニューベドフォードの「潮噴き荘」という宿屋に入り、部屋が空いていないので銛打ちと同衾してくれと言われながらもその銛打ちがいつまで経っても帰ってこず、先にベッドにもぐりこんで眠りかけたところにようやくやってきたその男が邪教崇拝の野蛮人らしき風体だったので布団の下で恐れをなしている、というあたりまで。この小説は、その冒頭から明らかだが、キリスト教への言及や聖書への参照などが多い。聖なるキリスト教邪教・野蛮人・偶像崇拝という典型的な二元性が観察されるものの、いまのところその図式は実に静的な典型におさまっていて、たぶん何のノイズも歪みも見られていないと思う。これがこの先どのように動揺するのかもしくはしないのかという点がひとつのプロットにはなるだろう。仰向けで脚を膝頭でぐりぐりやりながらの書見中、父親が戸口に来て、ビデオにつなぐような赤白黄のあのケーブルはないかと言ったがそんなものをこちらが持っているはずもない。
  • 五時前で切りとして食事の支度をしにいく頃合いだが、その前にやはり音読をしたかったので、今度は「記憶」記事を三〇分ほど読んだ。そうして階を上がると、テレビには何やら古そうな映像が映っており、訊かないうちに母親が結婚式の映像だと説明してきた。父親が階段下のスペースを掃除していて発掘されたのだろう。画面には良い調子でからだを揺らしながら喋ったり歌ったりしている礼服の男性が見えていたが、これは両親が「(……)」(アクセントは、(……)までがおなじ高さで、(……)で下がる)と言っていたところからすると、昔隣家に住んでいた(……)さんだったのだろう。全然見覚えがないと言うか、こちらの知っている(……)さんとは相当風貌が違っていたが、それだけ若い時代の映像だということだろう。
  • 台所に入り、煮込みうどんをこしらえて食うことに。母親はおでんをつくっていた。こちらは勝手に椎茸やタマネギを切って鍋に汁を用意し、うどんを一束持ってきて茹ではじめる。仏間に平うどん・丸うどん・蕎麦と三種類入った箱があって、麺の束は島手と表示されたシールで綴じられていたが、これは引出物か何かなのかそれともメルカリで買ったのか知らない。それをあまり底のないフライパンで茹で、鍋に合流させて溶き卵も流しこむと完成、丼にそそぎこんで食事をはじめた。煮込みうどんは美味かった。時々によってやはりうまく行くときそうでないときがあるけれど、今回のものはかなりうまく行ったほうだと言って良いだろう。かたわら朝刊一面から脱炭素化への政府方針について読む。洋上風力発電を二〇四〇年までに四五〇〇万キロワットへとかいったか、かなり増やす計画らしい。また、いまだ世界のどこでも実用化されていない「浮体型」という洋上発電方式の実現にも取り組むとか。
  • うどんを平らげると皿を片づける。そのすこし前に電話があって、母親が出て話しているのを聞いた限り(……)さんだったようだが、話は(……)ちゃん(本名を知らないのだが、おそらくこちらの祖母とおなじ「(……)」だろうか?)の葬儀の件である。昨日だか一昨日だかに死んだという連絡があったのだ。コロナウイルスが蔓延している情勢なので母親は不安らしく、式だけやってさっと帰ってくれば良いじゃんと向けたところ、そういうわけにも行かなくて、やはり焼いているあいだに時間がかかるからそこで食事をやるとかいう話になっているらしい。しかしその後上階にちょっと行った際に両親の会話を垣間聞いたところでは、これもどうなるかわからなさそうだし、仮にあちらが食事会をひらいても両親は出席せずに帰ってくるという選択を取るかもしれない。
  • 食後は茶を持って帰室し、急須から継ぎ足してそれを飲むあいだ、バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)の書抜きを読み返して、目ぼしい記述を「記憶」記事に追加していった。溜まっている読了本の書抜きもすこしずつ進めなければならない。三月末に読んだ分あたりからずっと溜まっているので、よくわからんが二〇冊か三〇冊くらいはあるのではないか。音読用記事としてはあと、「詩」というカテゴリを新たにつくろうかなと思っている。いまは「英語」と「記憶」の二カテゴリがあって、前者は基本的に英語の語彙を身につけるためのもの、後者はなるべくきちんと記憶しあるいは身体化したい知識や知見、表現などを読み返すためのものである。それに加えてしかし、昨日Woolf会でTo The Lighthouseを読んだり、あるいはこのところ音読をやったりしているなかで、やはり詩というものを毎日声に出して読む、これはすばらしいことではないか、やるべきことではないかという思いを強くしたのだ。実のところ以前から「表現」というカテゴリをつくり、文学作品から吸収したい比喩や言葉の使い方などをそちらにまとめようかなとも思っていたのだが(現在はそれも「記憶」カテゴリのなかにふくまれている)、そのあたり文学として小説の描写などもひとまとめにするか、それとも詩だけで独立させるか迷うところだ。しかしさしあたりはやはり詩だけを集めた記事を設けようかなという気持ちに傾いている。ただそうすると、Evernoteに記録保存してあったいままで読んだ詩集からの書抜きをNotionにさっさと移さねばならないことになる。まあEvernoteのほうで読み返してそこからコピーペーストしていっても良いが。
  • 茶を飲み終えるとまたしても音読。なぜかわからないが音読をしたいという欲がとても高まっている。言語を声に出してゆっくり丁寧に読むというおこないは楽しく面白い。歌を歌うのとたぶんだいたいおなじようなものだ。それで「英語」記事を読み続ける。BGMはJohn Legend『Once Again』。John Legendのファーストとセカンドと『Live From Philadelphia』は大学生のときによく聞いていたが、いま流しても普通に良い。#5 "Each Day Gets Better"とか、歌詞を見ると全然大したことは言っていないけれど、めちゃくちゃ天気の良い晴れの日みたいなこの多幸的なサウンドには誘われるもので、思わず音読を止めて歌ってしまった。あまりにメジャーと言えばそうだろうが、とりあえずこのJohn Legendの周辺からヒップホップを掘っていこうかなと思っている。あとはThe Roots
  • 七時半過ぎまで「英語」を音読。それからすでに仕上げてあった一二月二日の日記をブログに投稿。NotionがMarkdown記法にしたがっているのではてなブログの記法もMarkdownにして投稿したほうが手間がないのではないかと思って試してみたのだが、改行の反映とかが意外と面倒臭い。それで時間がかかってしまい、今日の記事を書き足しはじめたのは八時前だった。Christian McBride『Live At Tonic』を共連れながらここまで記述すると、ちょうど一時間ほどが経って九時が近づいている。
  • 歌を歌いながらストレッチ。合蹠・座位前屈・コブラのポーズの三つは最低でも毎日やったほうが良いだろう。というかこの三種をやってあとは脹脛をほぐせば下半身はだいたいどうにかなる。(……)
  • 入浴。今日も温冷浴をおこなう。温冷浴をおこなうと肉はマジで柔らかくなる。たぶん冷やされて収縮する動きと温まって拡張する動きが繰りかえされるからだろう。しかも水および湯という液体によってそれが引き起こされるので、マッサージやストレッチではとどかないような隙間にまで作用が浸透する。本当は全身やりたいのだが(特に背中や首の固さをどうにかしたい)、いまの時期に冷水を頭からかぶるのはきついし、心臓や血圧への影響も怖い。パニック障害の時代にも温冷浴はやっていたが、当時よりいまのほうが肉体に対する効果を感じている気がする。それはマッサージにせよストレッチにせよそうだ。身体の感覚が昔よりも鋭敏になっているのだと思う。
  • 出ると帰室して、LINEに数日後に返信すると投稿しておいた。ついでに(……)くんからのメッセージにも返答。先日の通話で、休みをたくさん取ったのでその期間中に会おうと誘われていたのだ。今日から九連休に入ったが都合の良い日はあるかとのことなので、一二日は(……)と通話することになっているがそのあとならいつでも良いと言いつつ、一八日から労働なのでその前日一七日は家にいたいと伝えておいた。
  • うどんを食ったのがまだ六時前だったと思うので当然だが、クソ腹が減っていた。背もややこごってきていて、ベッドで休みたい。しかし我慢をして、もうすこし活動に取り組むかというわけで書抜きをすることに。熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)である。
  • 書抜きをしながらChristian McBride『Live At Tonic』のディスク二を流していた。この二枚目ではだいたいジャムセッションをやっていて、"See Jam, Hear Jam, Feel Jam"と名づけられているトラック一はほぼ三〇分に及んでいるのだけれど、そこで知らないヴァイオリニストが弾いていた。パーソネルを調べると、Jenny Scheinmanという女性である。Wikipediaを見るかぎりLou ReedとかAretha Franklinとかとも仕事をしているらしく、業界ではたぶん高く評価されているのではないか。ディスコグラフィーを見たところでは二〇〇〇年に出ているYoshi'sでのライブ盤がまず気になる。あとはBill Frisellとやたらたくさん組んでいるのだけれど、Frisell周辺にこのようなヴァイオリニストがいるとは全然知らなかった。そもそもジャズヴァイオリンの人なんてStephane Grappelliしかほぼ知らない。あともうひとり、わりと最近の人で、Paul Motianのライブ盤でChris Potterとか菊地雅章とかと一緒にやっていた人がいたと思うが名前を忘れてしまった。Jenny Scheinmanの参加作にある初見の名前としては、Ani DiFranco、Allison Millerというふたりが気になる。前者はシンガーソングライターらしい。後者はドラマー。二〇〇八年にDr. Lonnie Smithのアルバムに参加しているよう。
  • 一一時半まで書抜きしたあと、上の新しく知った名前をメモしておこうと思って一段落書いたのだが、そうするとついでにほかのことも書き足しておくかという気になり、ここまで記して日付が変わるところとなった。
  • 背中が固くなっていたのでコンピューターを持って臥位に。ウェブを閲覧しながら脹脛を揉んだり背を指圧したりした。肩甲骨のあいだ、背骨の際のあたりの肉がけっこう凝るもので、しかも普通に寝たりストレッチしたりしてもなかなか刺激がとどかずほぐれないところで、ここを簡単に柔らかくするやり方は何かないものかと思う。やはり普通に手指で揉むしかないのか。あるいはゴルフボールを背とベッドのあいだに挟んで圧迫しても良いかもしれないが、刺激が強くなりすぎて傷めやしないかという懸念もちょっとある。
  • 一時半で起き上がり、腹がクソ減っていたので夜食を確保しにいった。炊いたばかりで米が多く残っていたので卵を焼いて乗せることに。ハムがなかったので冷凍の手頃なこま切れ肉を代わりに使い、黄身を固めないまま米の上に取り出して醤油を掛け、そのほかおでんも温めて持ち帰った。食いながらまたインターネットに遊び、食器を片づけたり茶を用意したりしてきてからもだらだら過ごした。合間に前日の記事をちょっと書き足したくらいだ。四時八分に消灯して暗いなかで瞑想。今日はわりと意識がはっきり保たれていた。頭のなかもしずかというか、独り言が激しくないというか、音量が小さいもしくは距離が遠いような感じで、このあいだ久しぶりにロラゼパムをキメたときと似ていなくもない。ただ、精神安定剤による心地良い肉体の重みみたいなダウナーな感覚はない。頭のなかや意識が比較的明晰だというのは、わからないが音読をたくさんしたからではないかという気がする。そのまま一時間くらい余裕で座っていられそうだったが、まあでももう寝るかと切ってみると二六分が経っていた。横になって布団の下に入ると脚がちょっと痺れはじめて、瞑想で一番困難なのは脚が痺れたり痛くなったりするということではないだろうか。禅宗の人たちとかはこの問題にどう対応しているのか気になる。結跏趺坐をきちんと習得すれば痛くならないのだろうか。南直哉の『日常生活としての禅』みたいな本を昔読んだ記憶では、やはり血行が悪くなったりして肉体的に影響があるので、禅宗の修行でも座禅は一時間までで、一時間経つと立ち上がって堂のなかを歩き回ってからまた座る、というようなことが書いてあった気がする。


・読み書き
 14:36 - 14:50 = 14分(2020/12/10, Thu.)
 14:56 - 15:27 = 31分(英語)
 15:31 - 16:46 = 1時間15分(メルヴィル: 81 - 101)
 16:49 - 17:18 = 29分(記憶)
 18:39 - 19:12 = 33分(英語)
 19:17 - 19:33 = 16分(英語)
 19:55 - 20:49 = 54分(2020/12/10, Thu.)
 23:08 - 23:32 = 24分(熊野)
 23:32 - 23:59 = 27分(2020/12/10, Thu.)
 26:41 - 27:01 = 20分(2020/12/9, Wed.)
 計: 5時間23分


・BGM