2021/1/2, Sat.

 『煽情的な構図』第一章はナサニエル・ホーソーンの文学的名声がいかに確立したか、その背後のネットワークを語るところから幕開けし、終章第七章は再びホーソーンに戻って、彼の同一の短編でもアメリカ文学傑作選収録の際の編集自体でいかに印象が変わってしまうか、いかに制度が文学的価値を産出するか、その時代別の規範変動について語りつつ幕を降ろす。間を満たす各章には、チャールズ・ブロックデン・ブラウンやジェイムズ・フェニモア・クーパー、ハリエット・ビーチャー・ストウ、スーザン・ウォーナーといった、従来の文学史で軽視されてきた面々に関する再考察が並ぶ。性別・ジャンルを問わず多岐に渡る顔ぶれが選ばれてはいるものの、しかし著者の目論見はただひとつだ。「天才」の手になる「内在的美質」を備えた「傑作」が「超歴史的」に「不滅の輝き」を帯びるという評価が従来の因習的文学史観であったが、何を措いてもこうした誤謬を根本から転覆すること、これに尽きる。端的にいうなら、テクストを読むとき我々が潜在的特徴と思い込むものは、むしろ時代的・地域的コンテクストによってあらかじめ決定された読者の立場に過ぎない――これがトムキンズの前提である。仮に彼女の見解をさらに図式化してしまうなら、こうもいえようか――作者のテクストなど存在しない、読者のコンテクストだけが存在する、と。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、156~157; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第六章「闘争するエレミヤ ジェイン・トムキンズ『煽情的な構図』を読む」)



  • 一〇時半に定かな形の目覚め。カーテンを開けて陽を顔の肌に受け取りつつ、こめかみの周りをよく揉みほぐす。一〇時四五分で起体。トイレで濃い黄色に染まった尿を体内から捨てて、もどると瞑想。窓外からは大人の男性と、その子どもの声が聞こえていた。(……)ちゃんと息子だろうか。子どもはまだまだ幼く、きらきらと甲高いような声音で、行っても小学校低学年くらいではないか。胡座で静止しながら、もっとつつましくしずかな人間になりたいなと思った。いてもいなくても変わらないような、意味がないわけではないが、あるわけでもない、そういう存在でいたい。有害ではないけれど、かといって有益でもない。必要とされたくない。自分の気配を周囲に向けて放散したくない。その点、テクストというのは楽だ。どこまで行ってもたかだか文字言語でしかないので。
  • 一〇時五一分から一一時一二分まで座って、上階へ。着替えてハムエッグを焼く。黄身が液状に保たれたままのそれを米に載せ、ほか、即席の味噌汁や昨日のサラダの残り。新聞は休みだと思うので、昨日の朝刊から天皇のメッセージなどを読んだ。食べ終えて皿を片づけると風呂も洗い、帰室。Notionを準備し、昨日の記事を三分で完成させ、今日のこともここまで一〇分かからず記せば一二時一一分。天気がとても良いので、散歩に行こうかなと思っている。やはり人間には歩くことが必要なのだ。歩行とはこの世でもっとも単純かつ複雑なこと、太古以来の、原初以来の美しきことである。
  • LINEを覗くと投稿があったので返信。今日は夜から(……)・(……)くん・(……)と通話する予定。(……)は大阪から帰京して、今日(……)家に遊びに行き泊まると言う。こちらも行っても良いのだが、感染拡大も止まっていないし、万が一もらってきて医療機関をなおさら逼迫させるのも忍びないし、こちらだけなら苦しもうが死のうが問題ないが両親にうつると良くないので、年末年始は籠もることにした。それで一〇時からではどうかと時間を提案しておく。
  • それから、小沢健二 "天使たちのシーン"を聞きながら昨日の記事を投稿しようとしたところ、一二月三一日の記事がブログに投稿されていなかった。あれ、忘れていたか、と思ったのだが、作業を進めるに、たしかに投稿したおぼえがある。うまく投稿できていなかったのか? あるいは削除されたのか。わからないが、とりあえずもう一度、昨日の記事と一緒に投稿しておいた。
  • そうして、散歩の前に柔軟。"天使たちのシーン"をふたたび、今度はスピーカーから流しだす。歌詞はだいたい良い。「大きな音で降り出した夕立のなかで 子どもたちが約束を交わしてる」は良い。「枯れ落ちた樹のあいだに空がひらけ 遠く近く星がいくつでも見えるよ」も良い。「いくつでも」としたのが特に良い。「毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉を紡いでる僕は/生命の熱をまっすぐに放つように 雪を払い跳ね上がる枝を見る」は、前半、「本当の言葉を紡いでる」などと言ってしまう自負心にちょっと驚く(「本当」の意味に論議はありうるが)。あと、「太陽が次第に近づいてきてる」を、聞きながら最初夕暮れのことだと思って、落日を「近づいてきてる」と言うのはシンプルではあるけれど良いなと思ったのだが、前後の流れを考えるとこれは夜明けのことなのかもしれない。あと、いまインターネット上で歌詞を見たのだけれど、何度か繰りかえされる中心部分の終わりが、「君や僕をつないでるゆるやかな 止まらない法則」となっていて、いまのいままでここの最後は「ループ」と歌っているものだと思いこんでいた。そうではなくてどうも、「ルール」と歌っていたらしい。曲全体の主題としても、「サークル」との親和からしても、「ループ」のほうが良くない? と思うのだが、それだと単純でありきたりすぎるのかもしれない。しかし「法則 [ルール]」だと、上部から課される超越的な審級の感がちょっと出てくる気がして、それはこの曲にはそぐわない気がするのだが。
  • そのまま"ローラースケート・パーク"の流れるなかで着替え。ジャージにダウンジャケットのままで行っても良いのだが、なんとなく着替える気になった。上階に行き、うがいをしていると母親が上がってきたので、散歩に出ると伝える。父親も歩きに行っているらしい。いま葉書を書くから出してくれる? と言うので了承し、母親が年賀状を書いているあいだ、南の窓の前に立って黙って外をながめる。空は非常にあかるい青さで果てまでずっと妨げも闖入物もなくひらきつづけており、川の周りに立ち上がって対岸の集落を隠している木々はまるで動きを見せずただしずまっている。風はないようだ。しかし見ているうちに、かすかにひらいた窓の隙間から遠く響いてくるものがはじまり、(……)さんの家の屋根上に掲揚されている鮎の幟も、だらりと垂れ下がっていたのが横向きに起き上がり、だんだんと泳ぎだす。ビニールか何かでできたまがい物のくせに、けっこう美味そうな感じで腹のあたりを膨らませながら遊泳しているが、風はさほど大きくはなく、泳ぎ方は完全に横一線にはならず、それほど勢いはない。
  • 母親の葉書を受け取って出発。一応マスクをつけた。必要ないとは思うが。玄関を出て道に出ると、西空にかたよった太陽がさっそく眩しいが、もう高度は低く、林の一番高い梢にかかっているので路上には青さのほうが多いまだら模様が生まれており、そのなかに入ると顔が冷たくなる。とはいえまだまだ日向も多く、西に向かって歩くあいだはずっとまぶしい。前髪というか、こめかみあたりの毛のまとまりから一本だけ逸れて右目の近くにやってきた髪の毛が白く映っている。公営住宅前のガードレールの表面は何やら抹茶めいた緑色に粉っぽく汚れきっており、草の汁が付着したまま乾いたような感じなのだが、実際そうなのではないか。ここのフェンスの向こうもしくは前後に生えていた草がまったくなくなっていたが、それらが残していった汚れなのではないか。通りにはこまかな羽虫が湧きまくって、光の屑のように浮遊している。非常に短い橋の上から沢のほうを見やると、そこの空中は特に多く、こんがらがった毛玉のような形象をなしていた。坂を上っていく。青空を背景に竹の葉の房がさらさらとあかるい。そのそばにある家の、西向きの側面だけが真っ白く、そこだけ西洋都市の由緒ある教会を思わせるような白さに際立っていた。右手の鈍く薄い緑色がつらなる茂みのなかにはすこしだけ紅の葉も見られて、なんだかんだ言ってもやはり美しい。
  • 裏路地を行くと、男女のきょうだいらしき子どもが二人でバドミントンをしている。太陽のまぶしさに目を細めたこちらが通りかかると、それで自意識が働いたのか、女子の最初の繰り出しが短すぎてうまく行かず、男子もきちんと受けられず変な方向に飛ばしてしまい、バドミントンの、羽根と言えば良いのか球と言えば良いのかわからないが打たれるあの対象は、道脇の斜面のほうに落ちていき、子どもらはどちらがそれを取りに行くかの役目を押し付けあっていた。こちらは陽のなかをゆっくりと歩く。歩くときに大切なのは何よりもゆっくりと歩を進めることである。というか、急がないことである。殊更ゆっくりと歩こうとせずとも良いのだけれど、急ぐ心焦る心があるのは良くない。そして人間は、たいていの時間は急いでいる。自分で急いでいると思っていなくとも、実際には急いでいる。だからゆっくり歩こうとするくらいでむしろちょうど良いのかもしれない。西の果て、山の稜線に寄り添うようにして雲の小片がいくつか浮かんでいるが、空にある白さはそれだけである。歩きながら、小沢健二の『犬は吠えるがキャラバンは進む』の曲には、「神さま」というワードがよく出てくるなと思っていた。上に触れた"天使たちのシーン"には、転調後のクライマックスで「神さまを信じる強さをぼくに 生きることをあきらめてしまわぬように」とあるし、その次の"ローラースケート・パーク"には、「神さまがそばにいるような時間」がある。そして二曲目の"天気読み"もサビで、「雨のよく降るこの星では 神さまを待つこの場所では」と歌っている。ほかの曲はどうだったかおぼえていない。
  • 街道に出ると横断歩道を渡ってふたたび北側の裏路地へ。ゆるい坂になっている。そのなかを、陽につつまれてのろのろ上っていく。対向者が二人、いずれも老人だがこちらよりも歩みがはやい。また、斜面いっぱいに設けられた墓場にも何組か墓参の客があった。見上げれば、南に向けてひらいた斜面の大半はもう陽の当たらない領域で、上のほうにすこしだけあかるみの差しこまれている場所がある。過ぎると頭上でかさかさ鳴る音があって鳥かと目を振れば木枝に残った葉が風の流れにふるえた響きだったが、その樹が蠟梅のもので、炭酸飲料めいた、というのはつまりCCレモンオロナミンCみたいな黄色の蕾がいくつも青空に散っていた。
  • 路上には、本当にどこでも、至るところで羽虫が無数に浮遊している。こちらの身の周りをつつむように、しかし我関せずで遊び、空間を装飾している。晴れて気温も比較的高いためにたくさん湧いたのだろう。最寄り駅まで裏道をゆるゆる行っているあいだ、古井由吉がよく山に行っていたのがわかるような気がするなと思った。修験者とか山にずっと入って修行しているわけだけれど、そういう人間の精神性とか感覚というのはどうなるのかな? と思った。多少、動物にちかくなってくるのだろうか。動物もしくは獣というのは、たしかドゥルーズもいくらか取り組んだテーマだったはずだし、デリダもそういう方面に興味を持って何か書いていたはずだ。
  • 最寄り駅の横の申し訳ばかりの広場にあるベンチには人が就いていた。道中、歩く人走る人とけっこう見たし、やはり天気が良いし正月休みなので出歩く人が多いようだ。ポストに葉書を投函しておいて東へ。フェンスの向こうの枯れ草の茂みに今日もスズメたちが集まっているようだったので、今日はその前でしばらく止まってみた。厚い草の防御幕があるからだろう、スズメたちは、多少飛び上がって移動しながらも逃げずにガサガサやってときおり顔を見せていたが、何をきっかけとしたのか突然一羽が力強く草を蹴って大きな羽音を立てながら飛び去っていき、それと同時にほかの仲間たちもあとを追って宙に漕ぎ出した。おそらく道路で車がすばやく通ったために、通りの向かいのシャッターが揺れていたのだが、その音が発端だったのだろうか?
  • かなり遅い速度とはいえ、歩けばやはり多少脚や下半身が疲れる。とりわけ最近は全然歩いていなかったので。柔軟をよくやっているので脚は全体としてほぐれてはいるのだが、静態的な柔軟運動でほぐせる筋肉と、歩行に使う筋肉とではやはりすこし違っているようだ。街道をそのままゆっくり東へ進んだ。線路の向こうには、風景全体が苔むして古さびたように樹々が立ち並んでいる。裏との交差部まで来ると車の隙をついて渡り、間道にもどりながら、どうもやはりまだ日記にかんしては、書かねばという心があるなと考えた。内発的なものではあるにせよ、義務感というか、毎日書かなければいけない、とりわけ、書けることをなるべくすべて書かなければいけない、という観念がある。つまりは野心だ。死ぬその日まで毎日かならず、しかも相当に詳細な生の記録をつくるというこのコンセプトである。そして、こういう野心は余計なものだと思った。書かなければ、という気持ちをもうすこし薄くしていきたい。日記をもっと捨てるように、見捨てるようにしたい。見捨てながら、そして(しかし、でもなく、それでもなお、でもなく、そして)書きつづける、そういう風になりたいなと思った。つまりは、生きることを書くことで書くことを生きること、という馴染みのテーマだ。こちらはずっとそれをやっているだけ。べつに野心や我欲が悪いものだとは思わないし、全部捨てようとは思わないが、ことがこの日記という営みにかんする限り、それは余計で、不必要で、そぐわないものだと感じる。書くか、書かないか、という領分ではないところに行きたい。選択ではないところに行きたい。
  • 家の間近に続く下り坂では、ガードレールの外側の木叢に太陽がななめに差し掛かり、縦に流れる緑色の葉のつらなりが白光に触れられてながく輝き、しかし微風の重さではその白さを周囲に撒き散らすほどの勢いは持てず、やわらかな宝玉の房と化してかすかに揺れていた。下端にいたると視界がひらけて、近所の家並みが一望されるのだが、一面陽射しを浴びせられてあるものは光りあるものは穏やかになっている屋根屋根とその隙間に差し挟まれた青いような空気の織りなす風景が、やはりどうしたってこれは美しいと思ってしまうなと思った。冬の光のもとではだいたいのものが美しく整い、整然とした秩序を帯びてしまう。
  • 帰宅。手を洗う。何かちょっとだけ腹に入れたいなと思ったところ、(……)さんがチョコパイをくれたと言うのでそれをもらった。帰室して食い、ここまで書き足して三時半過ぎ。三〇分の散歩を記述するのに一時間かかっていやがる。やはり下半身が、とりわけ腰の周りが疲労した。
  • からだを和らげるためにベッドへ。コンピューターを持ちこんでちょっとウェブを見たあと、(……)さんのブログを読む。七月二八日から八月八日まで。七月三一日「アレルギー」。

男性の性的欲望がアダルトメディア産業によって統治され方向づけられていくように、今後は食欲も新たなメディアによってコントロールしてもらえるのではないか。と今思いついたことを書いているのだが、それでふと気づくのは、性的欲望もそれ以外の付加価値と元々は切り離せないもので、様々なオブジェクトの総合体として文化制度があって、その一環に性的な領域もあったはずなのに、今やそれはそれだけで独立したものとなった。だから食べるということも、今後ますますそれ以外の意味や文化概念から切り離されていって、単に食べることに近づく、しかしその味わいのレパートリーはとてつもないバリエーションで準備される、のかもしれないということだ。まあすでにそうなっているとも言えるし、この後ますます、あの店でなければ体験できない味というのは減少していき、時間と場とコンテンツを併せた複合的な体験の必然性がますます希薄化して。

と、ここまで書いてまた気づくのは、なぜ性的欲望の処理過程におけるアレルギーが存在しないのか、ということだ。ある対象に欲望を向かわせている最中、突如として神経系がアラートを発して、脈拍と血圧を乱降下させる、、みたいな症例はないのか、その悦楽だけを単体で切り離して味わっているがゆえの、罰としての神経バグ…。あったら怖い。じつは、俺は○○アレルギーだったことがやっとわかった、今までずっと大好きだったのにもう楽しめないことになった、寝耳に水だよ、信じられない。もうこれからは○○のことを思い浮かべるだけで、最悪生命の危険もありうるんだ、…みたいなことは、現代のこの世界においてとりあえずはない、と思っているのだが、実際はどうなのか。

  • あと、八月三日「風呂」で書かれていることはめちゃくちゃよくわかる。まるでおなじことをこちらも何度も体験してきた。物思いもしくは考え事をしていたために風呂を出てから髪を洗ったのかどうかがわからない、ということが昔はよくあった。最近はもうあまり思念に没入するということがなくて、もっと並行的な感じになってきているのでなくなったが。

頭を洗いながら、ぼけーっと考えごとをしていて、ふとわれに返ったとき、自分が今シャンプーをしてるのか、リンスしてるのかが、わからなくなることが、わりと多い。自分の髪をさわって見ればわかりそうなものだが、それが意外と、わかりづらい。しかし、わかりづらいな…と思っているときは大抵、おそらくリンスまで終わっていることが多いのだ。それでも、確信がもてないまま、まあいいかと思って、再びリンスすることになる。再びリンスすると、ああこれ、絶対に二回目だな、とわかる。考えごとも度が過ぎると、そんなのもしょっちゅうだし、酷いときには、今日いつ風呂に入ったのか、それがわからない、その記憶がないことに、ふと気付くこともある。で、そのことに気付く場所が、風呂のなかだったりもする。つまり今、風呂に入っているのだけど、いつどうやってここまで来たのか、おぼえてないし、現状で、身体をどこまで洗浄したのかもわからない。ましてや今、頭髪をシャンプーで洗っているのかリンスで洗っているのかなんて、わかるわけがない。

  • あと、途中どこかで「Prego!Prego!」が関連記事に出てきたのでそれも読み返した。二〇一九年二月五日、(……)さんが東京に来た際に、こちらと(……)さんと(……)さんと(……)さんで会食した日の記事である。なつかしい。それからそろそろ二年が経とうとしているが、その時間的距離に対してはしかし、「もう」の感覚も「まだ」の感覚も特におぼえない。記事のなかで、こちらが(……)さんと再開したときの様子がこちらの日記から引かれているが、この頃はもっと楽に書いていたなと思った。鬱症状で死にかけた二〇一八年を通過して、その一二月から日記を再開してまだまもなかったので、とにかく書けるだけで良いやという感じですらすら適当に、気楽に書いていた。そういう風にまたしていきたいし、最近は実際にそうなっている。
  • 「対象を「細部まで一つ残らずおぼえてしまいたい」という思い、その欲望はとてもよくわかる」以下の話は、たぶんこちらが当時Bill Evans Trioの"All Of You"を何度も何度も繰りかえし聞いていたことを受けてのことだと思うのだが、たしかにこちらは当時、あの音楽をすべて記憶したいという欲望を強く持っていた。思えばガルシア=マルケス『族長の秋』をはじめて読んだ頃も、衝撃を受けて、ホメロスみたいな古代ギリシア叙事詩人が口誦でめちゃくちゃ長い物語を伝えていたように、この作品をすべて暗記したいと思って実際暗唱を試み、三ページ目くらいまでは成功していた。だからこちらの性分にはもともとそういう風に、すべて記憶したいという性質がある。それはこの日記の営みそのものを見てもあきらかではないだろうか? すべてを記憶することはできないので、かわりにせめて、できる限りすべてを言語として記録しておきたいということだ。しかしそれは余計な欲望だというのは上に記したとおりである。そして同様に、Bill Evans Trio "All Of You"を隅から隅まですべておぼえてしまいたいという欲望も、余計なものである。こちらはそれを捨てる。音楽を聞くとき、本を読むとき、道を歩くとき、どんなときであれ、こちらはいままでそれらの時間からなるべく多くの印象を得て、なるべく多くのことを感じ、なるべく多くのことを書き記したいと思ってきた。そのような欲望はもはや必要ない。だいたい、何かを感じたくて読む、何かを感じたくて聞くなど、不遜で傲慢な態度だ。ただ触れるだけで良いのだ。何も感じず、何も残らなくたって一向に問題はない。それに実際、書くことというのはだいたいの場合、こちらからもとめようとせずとも向こうから勝手にやってくる。やってきてしまうものだ。向こうからやってくるものをただ受け入れ、受け止め、拾うだけで良いのだ。とはいえ、それを受け入れ、受け止め、拾うためには、それはそれでやはり心身が整い、意識が明晰になっていないといけないのだけれど。ともあれ、こちらはこれからもBill Evans Trio "All Of You"を何度でも聞き続けるが、それについて何かを言いたい、何かを書きたいという高慢な欲は捨てたいと思っている。ただ触れ、通過するだけで良いのだ。ただし、何度も何度も、繰りかえし、終わりなく通過したいとは思う。そのなかに永遠にとどまりたい、そこで時間を停めたい、それと同化したい、ということではない。繰りかえし繰りかえし通過したいだけだ。
  • そういうわけで"All Of You"が聴きたくなっていたので、五時前でベッドから起き上がり、テイク一を聞いた。今回はなんとなく主にPaul Motianに耳がいった。彼もやはり妙というか野暮ったいようなところがあって、ブラシでやっているあいだも、スネアの連打をせーのみたいな感じでパタンと終わらせて一瞬を間をあけてからシズルつきシンバルを鳴らす、というやり口がおりおりあって、そのスネアの末尾の行儀の良さみたいなものはなんだそれは? というか、ちょっとした子供っぽさを感じないでもないし、スティックに持ち替えてからの刻みも、ときどき妙にビートをずらしてくる。装飾なのだが、その装飾の仕方があまり聞かない感じというか、具体的にはたとえば一拍を三連符に分けたときの一音目と二音目だけを鳴らして突っこむところがあるのだけれど、それがたぶんリズム的にもきっちりはまりきっていないのだろうか、全然必然性を感じられず、妙にファニーだ。基本的に、必然性でやっているドラマーではおそらくないと思う。適当にやってんのか? というところが何度かある。ソロの途中のキックの踏み方がその最たるもので、あれは本当に、フレーズの兼ね合いはまるで考えず、手の動きとは関係なく気の向いたときに踏んでいるだけではないのか? 入り方が普通に変だし、キックだけ聞いていると拍子を失いかねないような感じで、たぶんきちんとした譜割りに合っていない気がする。
  • ついでに、小沢健二 "天使たちのシーン"も聞いた。ピアノの響きが思ったよりも強く、ひろがりがあって良かった。ソプラノサックスのソロは二回とも良い。二度目の高音部で音がゴムのように伸びて張っていくときなど、本当に、ヒヨドリとか、鳥が喉を張って叫んでいるときとおなじ質感だなと思った。ギターソロも、チョーキングダウンを主体としてうまく活かしたフレージングも粋だし、音色も、パキパキとした質感もふくみながら、しかしやはりゴムじみたゆるさもあって絶妙ではないか。
  • それで五時一〇分くらいになったので上階へ。今日も母親の仕事がはやく、すでにおでんができていたのでアイロンをかける。父親もはやくも風呂に入っていた。長く歩いてきて汗をかいたからだろう。アイロン掛けのあいだ、テレビは『彩の国だより』だったかなんだったか忘れたが、「彩の国」というワードが入った番組を映しており、つまり埼玉県を紹介する番組ということだろうが、作業をはじめたときには秩父の夜祭の様子が放送されている後ろにGreen Dayの"21 Guns"がかかっていた。Green Dayとかなつかしすぎる。といってこの曲は知らないし、おぼえているものと言って"American Idiot"と"Basket Case"くらいだが。"Basket Case"は高校のときにちょっとやった記憶がある。続いて各地の色々な様子とともに、Sam Cooke "A Change Is Gonna Come"や、Jason Mraz "I'm Yours"や、Carpenters "I Won't Last A Day Without You"が流れた。Carpentersってやっぱりすげえなというか、もう冒頭、A部がはじまったところからしてひどく綺麗で、これは違うなという感じだし、その後のメロディや展開にしてもポップソングの模範で、B部の五・六小節目で持ち上がるところも、終わり方、すなわち最後の一音の選択も良い。
  • 米が炊けるまでまだ間があったのでねぐらに帰り、ふたたび音楽を聞いた。一九六一年のBill Evans Trioの、"Gloria's Step (take 1; interrupted)"と、そのまま続けて"Alice In Wonderland (take 1)"。"Gloria's Step"は、四分の四の拍子で、五小節+五小節+一〇小節(八+二?)の区分に一応なっていると思うのだけれど、演奏している当人たちがどういう風にとらえてやっているのかが全然わからない。ソロを聞く限り、LaFaroのほうはまだなんとなくわかるような気がしないでもないが、Bill Evansのほうは空白の挟み方など聞くと、どういう区分けを考えてどういう感覚でつくっているのかがちっともわからない。
  • "Alice In Wonderland"のほうを聞いているときに思ったのだけれど、やはりこのトリオはあきらかにBill Evansが音楽空間を支えるひとつの芯になっていると思う。ものすごく安定的で、絶対に揺るがない確固とした芯である。彼が生み出す音のつらなりは、これ以上ないほどの自律性、内在的独立性を常に完璧に保っている。つまり、ひとつの恒星となっている。Bill Evansがそういう風に弾いて最初から最後までずっと軸を通しているから、Scott LaFaroはあれだけ闊達にやることができるし、Paul Motianも気まぐれに拡散することができるのだと思う。ピアノがBill Evansでないにもかかわらずベースとドラムがああいうことをやっていたら、たぶん音楽はほぼ解体していた。つまり、そうなった場合には、フリー方向に踏み入るか否か、ということが問題になってくるということだ。したがって、Bill Evansがああいう演奏者だったからこそ、Scott LaFaroはあのようなScott LaFaroであることができたわけで、Bill EvansBill Evansでなかったら、Scott LaFaroはこのScott LaFaroにはなれていなかったのではないかと思う。一九六一年のBill Evans Trioとおなじ感覚を与えるピアノトリオがそれ以後存在していないように思われるのは(もしかしたらあるのかもしれないが)、Scott LaFaroがいないからではなくて、たぶん、Bill Evansと同等の明晰さと堅固さで弾けるピアノがいないからなのではないか。
  • 音楽を聞いたのち、今日の日記を少々書き足し、食事へ。母親が昼間に食べたレトルトカレーの余りやおでんなど。新聞がないのでテレビの『笑ってコラえて!』を見る。年末に収録したにもかかわらず、もう年が明けた態で通行人にインタビューをするという企画。まだ体験していない二〇二一年正月のことを、結構みんな適当にうまく語っていて面白い。そのあと『ダーツの旅』。鹿児島県の根占町というところ。大隅半島にあり、いまは合併して南大隅町となっているらしい。道の横に農地がずっとひろがっているような、見るからに田舎という感じの風景だ。なんとかの滝というのが名所としてあるらしく(たしか「雄」の字がついた気がする)、映された紹介映像を見る限り、紹介映像だから余計にそう見えるようにうまく撮っているのだろうが、たしかに水がめちゃくちゃ青く、ほとんど化学塗料でも用いたかのような青さに透きとおっていた。
  • 食事を終えると洗い物をしてもどり、ここまで加筆。七時半過ぎ。通話は一〇時からなので、九時頃風呂に入れば良い。
  • それからメルヴィルを読んだらしいがおぼえていない。入浴ののち、兄の部屋で通話。兄の部屋にはいま暖房がエアコンしかないのだが、それを点けても全然空気が暖まらない。顔のあたりはまだマシだが、足もとなど普通にかなり寒くて冷える。通話は主には(……)が仮作した曲の披露。Google Driveに音源を上げてもらってみんなで聞く。"(……)"、"(……)"、"(……)"の三曲。"(……)"と"(……)"はわかりやすい。前者は比較的アップテンポ。サビでピアノがベースとコードを交互に鳴らしてエイトビートを刻むような印象。たしか(……)くんが、オープンハイハットを裏に差しこんでいく感じと言っていたのもこちらのイメージとたぶん同種のものだろう。先日の紅白歌合戦刄田綴色がやっていたようなことを言っているのだと思う。"(……)"のほうはもっと落ち着いていて、おだやかで盛り上がりもあまりないが、その素朴な感じは悪くない。問題は"(……)"であり、この曲はけっこう前からあったらしいが、つくった当時の(……)はコード理論を勉強しているところで、他人の曲を参考にしつつ色々工夫を凝らしてみたという。たしかに工夫の試みは端々に見えたものの、なかなか突飛なやり口が多い。くわえてメロディも早口な部分がわりとあるのだけれど、(……)自身、自分でイメージしておきながらリズムをきちんとつかめないと言い、このときの音源の歌もあまり整ったものになっていなかった。これは難曲だなとみんなで笑ったが、最終的には次にこの曲をすすめるということに決まった。と言って、こちらの仕事は特になく、聞いて感じたことを言うだけの楽な役目である。アレンジは(……)にまかせることになったので、コードワークにかんしては彼がたぶん良い感じに再調整してくれるだろう。あとはメロディの譜割りを正式に確定させなければならない。(……)も、とりあえずピアノできちんとしたメロディラインを打ちこむと言っていた。
  • 今日はあちらもカメラをオンにしていたが、(……)家に泊まりに行っている(……)は白いランニングシャツで腕を露出しながら寝転がっていた。室内はだいぶ暖かいらしい。雑談は今回はあまりしなかった。最後にちょっと(……)の近況を聞いたり、最近こちらはからだをほぐしまくっているということや、今日久しぶりに散歩に行ったということを話したりしたくらい。色々と面倒で、不快事も多い浮世の圧迫のなかで自律性を持ちながら生を乗り切っていくためには、肉体を調えるのが最重要だと主張し、合蹠をすすめておいた。ほか、(……)の知り合いに占星術を学んでいる人がいるらしく、占ってもらった結果を見せてもらったりもした。一二星座にもとづいて円を分割したなかに星などのマークが配置されており、その場所やカテゴリ分けによって運勢などを見るようだ。信じるかどうかは措いても、その意味を理解するのは面白そうではある。何しろ古代の国家などは占星術で政治の大事を決めたりもしていたわけだし。
  • 通話が終わったのはもう一時近くだったような気がする。別れて自室にもどり、七月一一日の記録を検閲してブログに上げたあとはだらだらしたようだ。二時四五分に消灯して、二〇分間、念入りに柔軟したあと寝ている。